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巨象に刃向かう者たち 第七話
しおりを挟むスラムはこのアパートのすぐ近くにある。というか、このアパートもスラムの一部だと言い張る口の悪い連中もいる。とりあえず、現場に向かうことにしよう。珍しく、叔母が入信している神に祈ってから家のドアを出た。これで命が助かるんだったら、ギャングの子分たちは明日からみんな新興宗教に入信間違いなしだ。小銭の計算もできない奴らが命の計算をしている。目的地までは直線距離で200メートルもなかった。自転車よりも徒歩の方が早いほどの距離だが、嫌な予感がしたので、ちょうど通りがかったタクシーを拾うことにした。泣けなしの金を運転手に支払った後で目的地を告げた。
「第三アパートだって? あそこへ今夜行くなら、徒歩の方が絶対早いだろうが!」
「いいから、黙って出発しな。乗車拒否だって立派な犯罪なんだぜ」
「いや、無理だって、今夜はあの辺りでコンサートをやるってんで、もう、すでに野郎どもが集まってるんだ。こんなボロの車じゃスクラップにされちまうよ!」
「いいから、早く走りな。それより、この後部座席はスモークにできないのか?」
運転手はそんな軽い冗談(ジョーク)にはいっさい答えずに、渋々に車を動かした。彼の言った通りだったことがすぐに分かった。スラムの入り口は若い男ばかりの集団がすでに取り囲んでいた。今夜はゲリラライブなので、事前のチケット購入ができず、みんなそのことに苛立っているのだ。いや、殺気立っていると表現した方がいいだろう。タクシーが近づくと窓ガラスにモヒカンやピンクの頭髪を擦り付けてきた。自分達よりもこちらを先に通すつもりはないらしい。そんなひどい状況下でも、タクシーは無理無理発進され、我々の乱暴に驚く群衆をかき分けながら、ぐいぐいと進んだ。広場の北側に大きなステージが用意されているのが見えてきた。どうやら、アーティストの主催による花火大会は本気で行うつもりらしい。ステージのすぐ前方の辺りは、まだ荒い紐で囲いがしてあって、その中には入れないようにしてあった。にも関わらず、ひもが解けたなら、すぐにでも席を取ってやろうとする男たちの群れが、その周囲を取り囲んでいた。
「あれが第三アパートだよ。これ以上は近づけねえよ。お客さん、ここで降りてくれ。払いたくないなら、半額でもいいよ」
もう少し、建物に寄って欲しかったが、さらに駄々をこねても、これ以上の好条件は見いだせないだろうから、大人しく25ドルを支払って、車から降りてやることにした。
「おい、あんたはこのアパートの関係者か?」
車から地面に降り立った途端にギャングのような青年たちに取り囲まれることになってしまった。群衆の中から太い腕が飛び出てきて、私の服をがっちりと掴んでいた。彼らはすっかり殺気立っていた。もし、「はい、そうです。このアパートの住民です」などと答えたら、この不良たちからどのような乱暴な扱いを受けるか知れなかった。人類の歴史を眺めても、集団心理ほど恐ろしいものはない。おそらく、誰も助けてはくれないだろう。作者が有能なら、十分後にパトカーの一台くらいは来るのかもしれないが、その頃にはすでにあの世いきだろう。冒頭からのどうしようもないセンスからして、スーパーマンやスパイダーマンは絶対にやって来ないと言い切れる。
「おい、もし、アパートに籠ってる奴を、必要以上に弁護するつもりなら、ここから先へは通せねえぜ」
「実はその住民を説得してここから追い出すのが私の仕事なんだ。期限は午後八時まで。その時間がきた途端に大爆発を起こすダイナマイトを腹に巻き付けられていると知っていたら、諸君も私の扱いにもう少し配慮すると思うよ」
何人かがそれを聞いて笑い出した。別に脅すつもりで言ったわけではないので、彼らがビビらなかったとしても、私としては一向に構わなかった。私が言いたいのは、例え、この任務に失敗して帰っても、あるいは、成功して帰ったとしても、自分の未来にそれほどの変化があるとは思えないということ。そういう意味で、このくらいのレベルのチンピラに脅えている余裕など、逆にない。向こうがやる気なら、遠慮なく暴れさせてもらう。腹はすでに座っていた。
「じゃあ、その八時までにきっちり奴を追い払ってきな。いいか、もし、八時過ぎに花火大会が始められなかったら、そのどてっぱらに風穴を空けてやるからな」
ギャングはその右手にオートマグを構えていた。女性アイドルのコンサートに夢中になる不良なんて、落ちこぼれに毛が生えたようなものだと思っていたが、どうやら、奴らの中には大物もいるらしい。その真っ黒に輝く拳銃を見て、私としてはほんの少しビビった。
玄関の前にはこれまた大勢のヤングたちが取り巻いていて、このアパートの一室のドアを縦に揺すり横に揺すり、何とかこじ開けようとしていた。しかし、親玉からの命令がようやく届いたのか、私が中に入ろうとすると、大人しく道を開けてくれた。いつまで味方でいてくれるか知らないが、この瞬間はかなり嬉しかった。私は満を持して呼び鈴を鳴らした。「いったい、何の用ですか、例え、殴り殺されても、この家は立ち退きませんよ」中からはそんな悲鳴のような声が響いてきた。私はまず、自治体に雇われた弁護士を名乗ることにした。「これこれこういうわけで、君を助けに来たわけだ」そのように説明することにした。テレビの刑事ドラマではこう言ってドアを開けさせるのだ。これで騙されるのなら、相手は相当にバカだが、本当にバカが住んでいるのかもしれない。中からはしばらくの間、何の物音もしなかった。数分の躊躇のあと、ドアは静かに開かれた。
玄関に飛び出して来たのは、さもありなんというような、オタクボーイだった。胸には『ニューヨーク・ファイターズ』のロゴの入った真っ白なTシャツ。ボロボロのジーパンを履きこなし、床についたその足にはなんと真っ赤な靴下を履いていた。Urbancityの隅々まで歩き通しても、こんなダサいファッションには出会えそうもない。日がな一日、引きこもっていることが、何も話してくれなくても見て取れた。男は37歳で、マークと名乗った。僕らはとりあえずの握手をして、椅子もろくにない汚い部屋の、古いクッションの上に座らされた。私は今夜八時過ぎからこのアパートの真下の広場で花火大会が開かれることを話し、大急ぎでここを解体したいので、すぐに出て行ってもらいたいことを彼に話した。驚いたことに、彼はさほど怒りもせず、自由人がよく喋る権利とやらを主張することもなかった。どうやら、彼は説得者である私に会えたことに対して、一定の感謝をしているようなのだ。
「貴方が私を追いだすためにここに来られたのは、これはもう最良の選択でした。そろそろ、意固地になるのをやめて、お互いが歩み寄るときかなと思っていました」
「すると、私が来ることをある程度は予期していたと仰る?」
その言葉を発したときに気づいたのだが、アパートの内部にいるはずの、我々の足元がぐらぐらとゆっくりと揺れていた。どうやら、外にいる不良たちが私の説得を待ちきれなくなり、外部からこの木造のアパートを崩壊させてやろうと、押したり、蹴っ飛ばしたり、この薄い壁に向かって暴行を加えているようなのだ。
「実は、ほぼ毎日、こんな具合なんですよ。ここを取り壊したい人の数は相当に多いようですね」
マークは少しため息をついてそう言うと、スポーツドリンクのペットボトルをひとくち口に含んだ。あんなに糖分の入ったものばかり飲むから、まだ若いのに腹が出てしまうんだ。私はなるべくバレないように苦笑いをした。
「彼らだって、花火の主催者の企業に勤める社員の方ではないでしょう? 別に他人から羨まれる職業に就いているわけでもない。身分の上では私とちっとも変わらない。でも、いつしか洗脳されて、あのような暴力を働くようになってしまったのです」
「気持ちはよく分かりますよ。私だって来たくてここまで来たわけではないです。高々、人気アイドルの花火大会のためにアパートをぶち壊してくれだなんて、例え、漫画の世界であっても無茶な話です。とても納得いきませんよね? 私はあなたを無理やり追い出すつもりはないんです。あくまで交渉によってです」
「そんなことを仰りつつ、貴方は私をこのアパートから追い出すために、背後にいる悪者から受け取った小銭を握りしめて、わざわざ、ここまでいらっしゃったわけです」
「この家の外を取り巻いているような、人気歌手の取り巻きたちが無茶なことを口走っているのはよく分かりますよ。その点では、私はあなたを擁護したい。ここを出て行く際に、保証金もかなり出るはずです。あなたには自由と権利があります。出て行った後でなら、駅前や人通りの多い交差点で署名活動をして下さっても結構です」
「そうやって歩み寄っているような態度を見せておきながら、最終的にはどんな手段を用いても、この伝統ある建物を権力によってぶち壊すつもりなんでしょう?」
「そりゃあ、権力は強いものです」私は両手を大きく広げて、そうアピールをした。「ですが、今回の場合は、企業の都合と金の力ですね」
「貴方は何もご存じないんです」
「何のことです?」
「奴らの本当の狙いですよ」
「ほう、花火の興行の他にも何か狙いがあるというんですか? それは、興味がありますね。よろしかったら、ぜひ、教えて頂けませんか?」
「私の命ですよ」
「これはしたり、なぜ、そのように思われるのですか?」
私は少し前のめりになってそう尋ねた。
「ほら、やっぱり、貴方は何もご存じない」
「アパッチとかいう、人気若手歌手や彼女のファンたちにそこまで恨まれているんですか?」
「いえ、実は……、今夜の花火大会は直接関係はないんです。問題は私のプライバシーの方なんです」
「でも、あなたが命を狙われる原因が私には思い浮かびませんね。その首謀者はいったい誰なんです?」
「その辺りは、ちょっと言いにくいです……。いえ、別にこちら側に非があるわけではないのですが、事情をまったく知らない人からすれば、ずいぶんと非現実的な話に聞こえるかもしれません」
「例え、そうであっても、あなたのリアリティを話して下されば、それでよろしい。さあ、どうぞ。命を狙われていると聴かされては、私としても黙ってはいられません」
「現実を話せって、本当にそれだけで済むんですか? 私とこのアパートをこのままにして、今夜のところは、引き上げて頂けますか?」
「それはできません。できれば、すぐにでも出て頂きたい。こちらもクビに縄がかかっているもので……」
「でも、私の話が真に迫るものでしたら、少しの同情くらいはしてくださるでしょう?」
「私が同情ですって? あり得ない話ではないですが、牧場でどんなに可愛がられている豚や鶏であっても、いずれはバラされる運命ですからね」
「助けて欲しいというのは、何もこの命や財産のことではないんです。こちらの意思を向こうに伝えて頂きたいんです。私がなぜここまで意固地になっているかを相手方に正確に理解して頂きたいのです」
「では、相手方にきちんと伝えると約束しますよ。それが本当に正直で正しい話ならですが……」
マークはようやく打ち解けてきたようで、心のバリアーが薄れてきたように感じられた。今のところ、今回の交渉はスムーズに進んでいるようだ。
「私の悩みをここまで真摯に話そうとするのは生まれて初めてです。ですから、かなり緊張しますね。単刀直入に言いますと、私の想像したものを彼らに根こそぎ持っていかれてしまったんです。そう……、根こそぎ盗まれてしまったのです」
「いったい、あなたが何を創造されたというのですか。それは、他人が狙う価値のあるものなんですか?」
「実は太古の深海にまつわる神の国と今もこの世界のどこかに生きている、神獣の物語なんです」
「物語と仰いましたが、ドキュメンタリーではないんですね。それをあなたが考えて創作したということに捉えて構いませんか?」
「そう、それが私が制作した唯一のものなんです」
「なるほど、その物語が、あなたの創作した唯一のものなんですね」
「そうです、それが私の長年の研究のすべて、それが一切、それが一切なんです」
私は目の前の狂人を前にして、しばし説得の進行を止めて、頭を別なことに巡らせた。この怪人物をどう説得するかということを導き出すよりも先に考えねばならぬことが、山のようにありそうだった。一度でも、話を堂々巡りにさせてしまうと、解決に時間がかかり過ぎると思うようになった。私はまず自分の実情のことから話すことにした。
「実は、とある善良な老人から、今回の説得のお仕事、これはあなたにこのアパートから引き払っていただくという仕事のことですが、これを引き受けることになったのです」
「あなたに私をここから追い出すというこの残酷な仕事を、押し付けたのが誰でも構いません。今となっては、こちらにはまったく打つ手はないからです。ただ、そういった人間たちの背後にいるのは、きっと、ビージャングルカンパニーです」
彼のそのセリフは不意に私の呼吸を止めることになった。ずいぶん、意外な企業名が飛び出してきたものだ。
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