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上階の客
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大都会は酔客にあふれる週末の夜を迎えていた。あちこちの店舗の外壁から、景気良く放たれる色とりどりのネオンサインのどれもが眩しかった。
午後九時をまわった頃、高層ビル群の一角、高級飲食店が建ち並ぶ、この街一番の大道路の傍らに、一台の真っ赤な高級車が停車した。歩道を行き交う、仲睦まじいカップルや、仕事帰りの勤め人たちの多くはその歩みをやや緩めて、その高級車の輝きに見惚れた。
羽振りの良い人々が多く行き過ぎるこの辺りにおいても、ひときわ輝いて見える、そのスポーツカーの車内には、これを運転してきた、堂々たる風采の若き男性が座り、助手席には全身を高級ブランド品で包んだ、妙齢の魅惑的な女性が収まっていた。いかにも富裕層を思わせる雰囲気を漂わせる、三十代前半と見られる紳士の方は、隣の車線を猛スピードで行き過ぎる車の影や、こちらに注目しながら歩道を歩んでいく一般人たちの様子を確認しながら、この車から降りるタイミングを見計らっていた。連れ添っている茶色い髪の容姿端麗の女性は、ずいぶんとほっそりとした、魅惑的な身体つきの持ち主だった。特に人の目を引くのは、高級ブランド物の真っ赤なドレスからはみ出す、そのか細い脚であり、こちらから眺めてみても、今にも折れそうなほどに見えるのだった。二人をここまで運んできた美しい外車の眩ゆいライトを、その視界に確認すると、お目当ての高層ビルの中から、黒いスーツ姿の男が一人歩み出てきて、大通りの方へと静かに寄ってきた。そして、厳かな態度で車のドアをなるべく余計な音を立てぬように開いた。それを確認にしてから、主賓である男性は、周囲の人間の目を多少は気にしながらも、見事な身のこなしで、ゆっくりと地面に降り立ったのだった。
会員制のフランス料理店で味わった、先ほどの晩餐は素晴らしかった。おそらく、政財界においても飛び抜けた存在といえる、この自分を喜ばすために、特別にしつらえたディナーであったのだろう。欧州でも三本の指に入るといわれるほどのシェフが、明らかにこの自分の存在を意識していたわけだ。その対応については、褒めてやっても良い。もう一度、あの店を訪問する機会を作ってやってもいいだろう。
今夜のために、一週間も前から頭に描いてあったデートコースは、ほぼ予定通りにこなしてきた。これまでのところ、何もかもが上手くいっている夜だ。どこへ連れまわしても、若い女が機嫌を損ねないのなら、これは、運周りも良いと表現してもいいだろう。男はそう思って、今一度、お目当ての女性の横顔に目を向けて、内心ほくそ笑んでいた。
「お待ちしておりました。皆様のご来店、まことに嬉しく思います。これから、ご予約されたフロアへとご案内いたします」
出迎えのスタッフは深々と頭を下げながら、にこやかにそう告げたが、男性はそれには一目もくれずに、助手席で待ち受けていた連れの女性の手を引いてドアの外へと連れ出した。
「ずいぶん、乗り心地のいい車ね。かなりの速度で走っていたのに、全然揺れなかった……。一度のブレーキですっと止まったし……、これって、私は初めて乗るのよね? ねえ、いつ買ったの? わたし、知らされなかったから……」
「実は、この車が届いたのは、つい昨日のことなのさ。だから、その助手席に座ったのは、君が最初の一人というわけ。これは欧州でニ週間前に発表されたばかりの最新のベンツなんだ。だから、この国での発売日や価格はまだ決定していない。その辺の情報通が販売店に問い合わせたとしても、決して、いい答えは返ってこないだろう。名うてのカーマニアでも、この車の性能に関する情報については、まったく掴めていないと、そういうことになる。まあ、今回は僕の方で早めに動いてね。知人のディーラーに大金を掴ませて、どうしてもやってくれと、無理に頼み込んで、発売日よりずっと早くに輸入してもらったんだ。人より先んじるという、こういう愉悦に浸るためにはね、お金の力だけではダメなんだよ。知恵、人脈、そして権威、その全てが揃っていないとね……」
男は何でもないことをやってのけたかのように、控えめな声と手ぶりで、そう説明してみせた。その憎たらしいほどの落ち着きぶりは、いかにも、こういった資産家風な台詞を日常的に口にしているのだろうと、思わせたいように感じられた。女は街灯の光を反射して銀色に輝く、高級外車のエンブレムをまじまじと覗き込みながら、もう一度ため息をついた。この最高の車の乗り心地を味わってしまった今、この次に、他のフレンドの安いドライブに誘われたとしても、安請け合いはできなくなったと痛切に感じた。
「もしかして、私を驚かすために、わざわざこれを買ったの? きっと、そうなんでしょう?」
いくらかの期待を込めた、この茶化した問いかけは、遊び半分のモノであった。男は当たり前だとでも言わんばかりに、少し苦笑してみせて、あとはいっさいを答えずに、ビルの入り口へと歩み寄っていった。男は出来る限りの金を積み、女はその装備や振る舞いから、したたかに相手を値踏みする。どちらが獲物なのかはまだ分からなかった。ただ、お互いに勝負の時を感じていた。女は手鏡を一度取り出して何度も点検してきたはずの身だしなみを、金色の背景に浮かび上がる鏡の中で、もう一度だけチェックして、これから連れていかれるであろう高級店に恥ずかしくない外観であることを、今一度、自分の視覚で確認してから、男の後を小走りに追いかけていった。
「ここには、知り合いの企業幹部たちとも、たまに来るんだよ。互いに誘い合ってね。言うまでもなく、低賃金でどんな仕事でも引き受けて、社会の底をネズミのように駆けずり回る、一般の会社員たちが立ち寄るような店ではない。数百万のカネしか動かせないような連中には無縁の世界でね、とにかく、資産家向けの興味深い店なんだよ。君もフランスワインの支払いがただ高いだけの店じゃなくて、そろそろ、こういう店にも通うようにしないとね……」
男はこの場でその秘密のすべてを語ることはなく、出来る限りもったいぶってそのように語った。二人はスタッフに勧められるまま、自動ドアの外観からして金箔に染まる、豪奢なエレベーターに乗り込んだ。内部もなかなか豪勢な造りで、十人が入れる程度に広かった。店のスタッフは二人が内部に収まったことを確認してから、三十五階まで一気に駆け上るボタンをさりげなく押した。壁にはこのビルに居を構える、高級店の案内がずらりと掲載されていた。女はずいぶん値段の張る店に行くのだなと思い、さらに身を強張らせて、極度に緊張した様子を見せるのだった。
「いらっしゃいませ、さあどうぞ、お足元にお気をつけてお降り下さい」
目的のフロアにたどり着いたことを確認すると、スタッフは高らかにそう告げて、この賓客を自らの店の入り口へと案内していった。彼の表情や態度には、どんな無礼や失敗も許されぬ緊張感がみなぎっていた。黒い地の看板には、太い金の欧文で店の名前が綴られていた。辺りはなぜか異様なほど静かだった。これまでに通ってきた、いくつかの名うての高級店でも見たこともないような白金の豪華なシャンデリアが、橙色の光を放っていた。フロアの隅に置かれた、優雅なオーク材のテーブルには、上品そうな西洋の壺が飾ってあった。格式と伝統と隠された知性。まるで、妖女たちが笑いながら誘う、ギリシャ神話の内部へと飲み込まれたような感覚すらした。不思議なことだが、その清楚で落ち着きのあるフロアには、この二人の他には、客は存在していないかのように感じられたのだ。どういうことだろう? このフロアの面積自体は、とても広く感じられるというのに。
「このビルの下の階にも、多くの飲食店が並んでいて、もちろん、かなりお値段高めの飲食店が並んでいるわけなんだけど、あくまで一般人向けのお店だから、予約さえ取れれば、誰だって入れるわけなんだ。例え、貧乏リーマンだって、その財布のほとんどを叩けば、入れる人もいる。でもさ、今さら、そんな大衆的な店で飲んだって、つまらないだろ? このフロアだけは、そういう大衆店とは違って、特別な会員制になっているんだよ。つまり、この国の経済界において、よほど、突出した人間じゃないと、そもそも、予約すら取れないわけさ。大物政治家や大企業の幹部クラスでも、相当名前が通っている人でないと、ここに通うのは無理なんだよ。ありがたいことに、僕は親父が財閥系企業の幹部をやっているおかげで会員になれたんだけど……。ただ、このところ忙しくて、時間が許してくれないから、週に一度くらいしか利用できていないけどね」
男は次第につのる焦りをなるべく抑えつつ、外見上は余裕たっぷりの態度により、愛想よくそう説明した。男女間の恋愛における、いわゆる、引き込みの場面においては、第三者が耳にすれば、一聴してくだらない、不必要とさえ思える解説でも、後で功を奏することがままある。『財閥系企業』という強力無比な名詞には、こういった状況において、かなりの効力があるのかもしれない。この女は自分に向けられた、安っぽい自慢話ともとれる、そのセリフを聞いたところ、ここまで行動を共にしてきた、この男の素性がやはり素晴らしいものなのだと再認識したのだった。しかしながら、その硬い防御はまだ崩せたわけではない。資産というものは、必ずしも普遍的なものではない。『OKにはまだ早い』男性の内面の全てを見通すまでは、なるべく、その控え目な態度を保持することにした。男女間の緊迫する諸場面において、その対応を前にして慎重になるのは、何も釣り師の方だけではない。池の中で泳ぎ回る、一見無防備な魚の方も同様である。
「こんな高級な店には入ったことがないから、足を踏み入れるのが怖いわ」
「従業員への礼儀や特別なふるまいなど、何もしなくていい。それは僕の方でやる。君は一番のゲストなんだから、お酒を楽しむことだけに集中して、無駄に緊張する必要は何もないんだ。後はただ目的のものを見学して、素直な感想をくれればいい」
男は女の肩を優しく支えて、ごく自然な態度で店の中へと連れ込んだ。スタッフに案内されて通された部屋は、一目では視界に入りきらぬ、二十五畳ほどもある広大な貴賓室であった。壁紙も床も真っ黒に染められ、ソファーやテーブルの表面の色すら黒に統一されていた。高級感に溢れ、スタッフの態度も含めて、上品で落ち着いた空気に包まれていた。壁際の黒檀の棚には、いかにも値打ちのありそうな、世界各国の酒がずらりと並べられて、この場の上質な雰囲気を、さらにいや増していた。ドアの対面側の方向には、すべて窓ガラスになっていて、大都会の荘厳な夜景をひと飲みにしていた。女はこれまでの堅い態度を打ち崩し、思わず窓に駆け寄って、「すごい光景ね。こんな美しい夜景を見たこともないわ」と、思わず驚きの声をあげることになった。男はその称賛の声を聞いて、さもありなんと満足そうにうなずき、「まあ、この辺りのビル群からの光景と比較しても、値段や高さを比較しても、このフロアは完全に頭ひとつ抜けているからね。夜景の名所が多い、都心のこの一画においても、有数の眺めだと思うよ。ただね、これは君へのプレゼントとしては、ほんの一片に過ぎないんだよ。僕の愛を表現するには、余りにも安っぽいね」と意味深な相槌を打った。
「つまり、君をここへ連れてきたのは、何も美しい夜景を披露するためだけじゃないんだ。実は本当に見せたいものは他にある」
「他にも、何か仕掛けがあるの? まさか、私を楽しませるためだけに?」
「そうそう、ぜひ、君だけに見せたいものがあるんだ」
「この広い部屋の中には、まだ他に秘密があるの?」
彼女がけなげに戸惑う様子を眺めて、男は少し安堵して微笑み、その清純で素直な問いかけに対して、小さくうなずいて見せた。
「何だろう? 窓の外の夜景がすごくきれいだけど、それは関係あるの?」
「まったく関係ない! とは言い切れないな。少しは関係ある」
女は何とかその謎を解いてやろうと、しばらく考え込んでいた。貴重な夜の時間の中で、すっかり余分な空気となって消えた数分が流れ切った後で、やはり、自分には、これから何が起こるのかわからないと無難な答えをだした。しかし、その含みのある表情には、これから繰り出されるであろう、その神秘的な答えに対する、大きな期待がありありと浮かんでいた。だが、男は今宵の勝負の決定打となりうるその解答について、簡単に教える気は無いようである。まずは、軽い混乱と動揺を見せている、彼女の白い手を優しく取って、窓際のソファーに座らせた。
「まず、お酒でも飲んで落ち着こうか? それから本題に入ろう」
男が中央のテーブルの横についている、スイッチを押すと、それは部屋の外で待機している、この店のスタッフへと響く呼び鈴になっていた。ほとんど時を置かずに、黒い壁の一部が音もなく開いて、店の専従スタッフが姿を現した。
「俺がこの間開けたムートン・ロートシルトは、まだキープしてあるんでしょ? ここにいる彼女の発来店、その記念すべき夜に、あの高級ワインを飲もうじゃないか。ワインセラーから持ってきて、この子についであげてよ」
スタッフは慇懃に一礼した上で、かしこまりましたと丁重に答えて、引き下がっていった。
「そんなに高いお酒じゃなくていいわよ。わたしは別に水でもいいの。さっきの店でも、出てくるのは高級な料理ばかり……。もうずいぶん、ご馳走になっちゃったし……」
「いいから、もっと、この特別な夜を楽しもうよ。これから輝く未来に向けて、強い関係を築いていこうとする、男女の酒宴において、シャトーのワインほど気分をほどよく盛り上げるものはないからね。他にも食べたいものがあったら、遠慮なく好きなものを注文してね」
疑問と興奮を残したまま、飾り時計の針は進んでいき、さらに半刻ほどが経過した。女は十分に酒を飲み、高価な料理の皿を、いくつかたいらげた後で、再び元の疑念を持ち出して、男の肩にしがみつきながら、こう尋ねた。
「ねえねえ、あなたのことだから、この店のどこかには、他では考えられないような、大きな秘密がまだ隠されているんでしょ? いったい、何があるの?」
「そろそろ、本当のことを知りたいかい?」
古来から、目的の女性を陥落させるためには、多くの金と時間が必要といわれているが、そもそも、現代人にとっては、時間という概念は、決して無限とはいえない。そろそろ良いタイミングかなと思い、男は再びスイッチを押して、店のスタッフの一人を部屋に呼び込んだ。
「いつものあれを見たいんだが。すぐに準備できるかい?」
「かしこまりました。少々お待ち下さい。準備を整えて参ります」
その不明瞭な指令を受けたスタッフは、この不思議な部屋に未だに見えてこない、いくつかの疑惑を残したまま、奥の控え室へと足早に消えていった。少しの沈黙。緊張と期待に心を揺らされた。しばらくすると、部屋の内部にカチッという小さな音が鳴り響いた。さして、注意を引くような音には聴こえなかったため、それが何を意味するのかは、まだ分からない。しかし、次の瞬間、状況が激変したことによって、女は驚愕のあまり、ソファーから滑り落ち、思わず絶句してしまった。これまでは確かに何も見透せなかったはずの足元の黒い床が、一瞬にして、すべてガラス張りのように透けてしまい、階下に広がる、他の多くの店舗の様子が、すべて丸写しになってしまったのだ。そこでは大勢の来客が、勧められた酒によって、すっかり酔っぱらって、与太話を語り合い、愚にもつかないエピソードで笑い合い、また、昔話に泣き合い、肩を組んで歌い合い、周囲にはばからず、ひとり残らず愚かな姿をさらけ出し、互いに実直な日常も、その身分も全てを忘れ去って、肩を抱き合い叩き合い、美男も愚者もその脳髄に至るまですっかり酔いが回って、様々な特色を持ったグループの間で、似たような馬鹿馬鹿しい行為が行われ、一連の愚行をひたすら繰り返すことにより、さらに盛り上がり、はしゃぎまわっていたのだ。
「ちょっと、これは何?」
男は努めて平静を装い、正気を失っている女の質問にはいっさい答えず、その狼狽ぶりを見て、しばらく楽しそうに笑っていた。下の階のフロアは壁とカーテンと分厚い衝立によって、いくつかの個室に区切られてはいたが、上から展望すれば、そのすべての部屋の詳細を、万遍なく一望することができるのだった。そのきわめて愚かしく、しかも華やいだ祭り騒ぎを目の当たりにして、しばらくの間、女は自意識を見いだせず、その状況を言い表すための声を出すこともできなかった。自分の目のすぐ下において、五十人以上もの人間が、各々グラスにつがれた酒を飲みながらも、昼間の自分にはとても表現しきれない、壊れ切った世界を堪能しているのだ。巨大な経済社会の一兵卒として、脳なしの上司に命じられるまま、半ばロボットのように、ただ、ひたすらに流れてくる仕事をこなしている昼間の自分を、アルコールの力によって、少しでも忘れたいがために、ここへやってくるのだ。
これまでも、この男に連れられて、グレーゾーンに位置するような、いくつかの風変わりな店を体験してきたわけだが、この店の斬新極まるギミックには、さすがに肝をつぶされる思いだった。
「これって、下の人達は……、こうやって上で見ている、私たちのことが見えていないの? 自分たちの醜態が覗かれていることに、まったく、気づいていないわけ? 当然、そうなのよね?」
女は階下の人間喜劇から、怖さのあまり目が離せなかった。相手方のプライバシーを一方的に侵害しているわけで、思わず見てしまう、という行為自体にも罪悪感を感じずにはいられない。時間がさらに経過して、階下の盛り上がりがいや増すに連れて、さらに恐怖が増して、消え去りそうなほど小さな声で、隣に佇む男にそう尋ねた。
「もちろん、そうだ。お互いに見えていたら、ちっとも面白くないだろ? そこは安心してよ。この世界においては、公平という概念にいっさいの意味はないんだ。下にいるバカな客たちは、上の階の店舗の床が、つまり、自分たちのフロアの天井が、このような仕組みになっているとは、まったく知らないでここに来ているんだ。その決定的な真実を何も知らないで、堂々とここまで酒を呑んで騒ぎまくって、いやはや、今宵は愉快だと、宴席を楽しんでいるわけさ」
「そんなこと、とても信じられない……」
「声も聞いてみるかい?」
男がスタッフに次の合図を下すと、今度は階下において、集音マイクのスイッチが入れられたようで、床の下の愚かしい酔客たちは、いっせいに喋りだした。これにより、何の意味も持たない、多くの恥と無能劇が上階側へと勢いを増してさらけ出されることとなった。
ここに到着するまでは、この店の本質を何も知らされずに、のこのこと付いてきてしまった女としては、この恐ろしい情報公開の仕組みが、下から上への完全な一方通行であることを悟り、心に突然湧いてきたその不安は、少しずつではあるが、解消に向かっていた。『他人の恥部を覗き見るという悪行に加担しているのでは』という、一時の衝撃から覚めてくると、今度は逆に未知の世界への興味が湧いてきた。それから、十分も経つ頃には、先程までの狼狽ぶりが嘘のように、夢中になって各部屋の様子を見入るようになっていた。そのうち、男は女の注意を引き、下の左側の部屋の数人の男性を指差した。
「あれは、俗にいうインサイダー取引というやつだよ」
そこでは、政治家らしき風格を持った紳士と、その対面に座っている証券業界スタッフとおぼしき数人の男性が、ずいぶん前から密議をこらしていた。二ヶ月後に、ある製薬会社の画期的な新薬が、厚生省により認可される見込みである、という機密情報を得たため、それに関連している、いくつかの企業の株価が大幅に値上がりすることを、事前に予告しているのだ。業界人たちは株価が大きく動くと思われる企業のパンフレットを一部ずつ差し出して、政治家に対して、どの程度の値動きが見込めるかを示してやり、その見返りとして、茶封筒に詰められた多額の紙幣を受けとっていた。男は次に右端の部屋を指差した。
「見てごらん。あそこはきっとスポーツの八百長会議だね」
女がそう言われるままに、端の方にある別の店の一角に視線を向けると、ノーネクタイに黒スーツ姿の数人の男たちが集まって寄り添い、次はどこどこの競馬場で、BとDという騎手が、スタート直後にわざと出遅れをやらかすとか、プロ野球においては、今現在、快調に首位を走っている球団のYという投手が、次の日曜日のナイターで思いもかけず、めちゃくちゃに打たれてしまい、負け試合を演出するとか、そういった裏情報の取引をしていた。
もちろん、ギャンブルやスポーツの試合の結果には、裏社会が管理している、あらゆる賭博場において、大昔から、ほぼ日常的に多額の金銭が賭けられているわけだ。そういう状況において、裏情報を知り尽くしている、ここにいる僅かな人間だけが、そのギャンブルに大勝ちして、ほぼノーリスクで大金を得られる仕組みである。『人間が自分の足を用いて走るわけではない』という至極真っ当な理屈から、他のスポーツなどと比較すると、手加減の強弱は難しいという理由から、競馬での八百長というものは、やや信憑性に欠けると思われがちだが、それでも、本来逃げる予定のない馬が、場内に長年居座る予想屋たちの想像も裏切る形で、大きな逃げをうったり、出遅れ癖のないはずの馬が、大きく出遅れたりすれば、それを事前に知らない他のギャンブラーたちと比較して、的中率の上で、大きく有利になるのは自明である。野球やサッカーはもちろん、この上階から見た限りでは、陸上競技や相撲などの裏情報も取引の対象になっているようだった。男たちは情報元の話を注意深く聴きつつ、予想に使えそうなネタを一つ得るたびに、いくらかの謝礼を支払いつつも、忙しそうにメモをとっていた。
この賑やかな階層には、そういう裏社会の腹黒い人間たちばかりでなく、もちろん、一般の飲み客も多く含まれていた。すでに大金をつぎ込んだ男性側が、高級日本料理やボルドー産のワインを注文して、その上、ご自慢のトークで、ここまで連れ込んできた、獲物となる美女たちを、なんとか口説き落とそうとしている。そのような、十年一日のようなカップルたちの駆け引きから、テレビでよく見かけるお笑い芸人などのゲストも招待されて、華やかに進行している、一流企業の合コンの様子まで、鬼も蛇も含んで、その様子は多様である。下の客たちとしては、絶対にばれようもない秘密と決め込んだ自分たちの痴話が、すぐ上の客たちに筒抜けになっていようとは、露ほどにも思っていないわけで、どんな気恥ずかしいやり取りも、後ろめたい過去の暴露も、周囲の目などは、まるで気にしない形で言いたい放題である。その単純な行動のすべてが、油断と慢心に塗れている。階下の店も、二時間で十数万程度の使用料が要求される、相当な高級店であるから、彼らにも相応のプライドがある。誰もが、自分たちを覗き見る人間が存在しようなどとは、そもそも、思ってもいないのだ。
企業社会全体には、さしたる意味をもたらさない、馬鹿馬鹿しい宴会は当事者たちの意識が途切れるまで続くようで、さらに時間は経過していった。その頃には、自分を他人を嘲笑う立場へと引き上げてくれた、頼りになる勝利者の肩に上半身を預けながら、女はときに真剣な表情で、ときに大笑いしながらも、下の階の人間たちの会話や多種多様なるバカバカしい振る舞いを、十二分に堪能していた。特別な待遇として与えられた、この貴重な時間において、愚純な人々を上から見下ろすという優越感を体感することに、すっかり虜になった。再び笑われる側に戻っていくことに畏怖さえ感じていた。その様子を見て、男はとどめを刺すようにこう言った。
「つまりさ、この店の仕組みは、今の経済社会の形態と、まったく同じなんだよね。下にいる人達にも、それぞれの責任や立場があるだろうし、仕事の上では、勉強を重ねて経験を積んで、自分の勤める会社の内外の、あらゆる勝負事に否応なく挑んで、厳しい競争に晒されながら、それに勝ったり負けたり、何とか生き残るということに力を尽くして、がんばっているわけなんだ。でもね、残念ながら、もっと上に立つ人間たちの位置から見ると、一見蟻のようなそのせわしない行動の全ては、常に覗き見られているわけで、その労働の価値もたかが知れているのさ。例え、そのカーストに嫌気がさして、上の階層に向けて反抗しようにも、自分たちの位置からでは、上階にいる人間たちの姿や行状を覗き見ることも、その命令に逆らうことも出来ないわけだね。この資本主義社会における厳しい生存競争の中で、それぞれの階層に明確な境が生まれるのは、ある意味では仕方ないことだ。社会のトップに立つ人々が楽をしているとは言わない。上の人間には上の人間だけの世界がある。孤独で静かで、ある種の悟りの中にある……、つまり、あらゆるものから隔絶された世界がね……。まあ、その台詞を言ってしまうと、僕としても、少し寂しくなるけどね」
男のその口ぶりには、この先においても、自分の側にいれば、ずっと上の世界が楽しめるぞ、とでも言いたげだった。この頃になると女は、この国のカースト制度の完全なる勝利者に見えるこの男に、この上は身も心も捧げてしまい、何が何でも後をついていこうと思うようになった。目の前にたゆとっていた釣り針に、今夜の目当てであった獲物が、今度こそ喰いついたようだった。
二人は外の美しい夜景と、長きにわたって、階下で飲み客たちによって演じられる、波乱万丈の世界を心ゆくまで楽しんでいた。やがて、スタッフの一人がゆっくりと男の傍に近づいてきて、「懇意にされている、舞台俳優のA様が下の階におられますが、挨拶に行かれますか? よろしければ、ご案内いたしますが」と丁重な態度で尋ねてきた。
「そんなこと、どうでもいいよ、今夜は彼女がいるわけだし、大した用もなしに、ここを離れられないから」
「いいの? 映画とかテレビドラマでよく見かける、あの方よね? こちらから行って、顔を見せておかないと、後でまずいんじゃないの?」
女は少し心配そうな顔をして、わざとそう尋ねた。
「いいんだ。そんなこと、別にたいしたことじゃない」
この決め台詞がこの男の品格を、また一段高めたことは疑う余地もない。二人はそれから、さらに一時間以上にわたり、社会の裏側の様子をのぞき見て、楽しんだ。
「今夜は、ほんと、面白かった! これぞ、人間社会の縮図って感じね。こんなに凄いものが見られるとは思ってもみなかったわ」
女は酒の勢いも消えぬまま、少し興奮気味にそうはしゃいだ。
「まだ、時間に余裕はあるんだろ? なんなら、もう少し他の店で遊んでいくかい?」
男としては、これまで懸命に隠していた自分の焦りが、その表情には決して表れないように、慎重に言葉を選んで、そう尋ねた。言葉は冷静に発せられたわけだが、心臓は高鳴っていた。高級ホテルの予約とて、何時までも取れるわけではない。この自分にだって、明日の予定はあるのだ。さりげない素振りで腕時計の針を見れば、最後の誘いをかけるには、もうすでに、ぎりぎりの時刻だと感じていたわけだ。
「もう、お腹いっぱいよ。どうせホテルにしても、私が驚くような、豪華なところを予約してあるんでしょ? 早く連れて行ってよ」
女は花と蝶の自然なやり取りのように、何かを伝えようと、密かに目配せをしてから、大胆にもそう答えた。その軽い性格に不釣合いなほど、恋愛における判断は慎重であり、総合デパートや夜の歓楽街をほんの数時間連れ歩くだけで、やたらと金がかかる女であった。ここ数日間、自宅に届けられてくる請求書に脅えるほどの高い貢ぎ物が続いたわけだが、ようやく、待ち望んでいた台詞が出てきたので、男は取りあえず胸をなでおろした。もちろん、そんな大勝利の到来にあっても、自慢の冷静で知的な表情を崩すことは全くなかった。
「そういうことで良いなら、そろそろ、ここを出ようか」
二人は慇懃な態度で佇んでいた、大勢のスタッフに見送られながら、エレベーターで一階まで降り立ち、そのまま、自慢の車が保管されている駐車場の一角に案内された。しかし、ちょうどその頃、彼らより若干早いタイミングで、同じビルの他店から出てきたと思われる、別のカップルが似たように仲睦まじく連れ添いながら、二人のやや前方において、煌めく高級車に乗り込むところだった。三人ものスタッフが警護のために彼らの後に付いていた。遠目からも納得できるほど、上品に整えられた身なりや、付き添いのスタッフの態度からして、向こうも相当な上客のように感じられた。そのきらびやかな恰好をした、カップルの会話は、吹きすぎる夜風に漂いながら、やがて、二人のところにも届いてきた。
「どう? こういう粋な遊び場も、けっこう楽しかっただろ?」
「うん、最高だった。まさか、下の飲み客の話しているところまで、見えるなんて……」
「下のカップルの間抜けな会話、面白かったな? 自分たちがもっとも羨まれる存在だと、すっかり思い込んでいて……。ああいうのが、本当のおバカさんなのさ。他人の勘違いがはっきりと見られるのが、上級社会の一番の娯楽なんだよ」
「ええ、あのダサい服着た、茶髪の女、頭の軽そうな男の話にすっかり騙されているのに、あんなにも、はしゃいじゃって……、なんだか、上から見ていて可愛そうだったわ」
そんな衝撃的な会話が、二人の目の前で展開されていた。前の二人は後ろで立ちすくむ、階下のカップルの存在には、まったく気づかずに、そのまま、見たこともないような豪奢な外車に颯爽と乗り込み、その見事な加速で、数秒後には、夜の街の彼方へと走り去っていった。
女は前の客のスポーツカーが轟音とともに消え去っていった方向を、脳内に張り巡らされていた、無数の糸を少しずつ解きほぐしつつ、何か深い考え事をしながら、しばらく見やっていた。僅かな時間をおいて、やがてそれらは、怒りへと変わってきたらしく、自分の中で一つの残酷な結論を導き出すことになった。彼女は振り返ると、これまで慕ってきたはずの男のスネの辺りを、尖った靴の先でガツンと豪快に蹴っ飛ばした。
男が悲鳴を上げて、その足をおさえて苦痛に顔を歪めている間に、女は大通りを走るタクシーを呼び止めると、素早くそれに乗り込み、何も気を止めることもなく、男をその場に置き去りにしたまま、さっさと走り去ってしまった。
後に取り残された可哀そうな男は、勝利寸前で逃した獲物を名残惜しそうにその目で追いながらも、力なく一言つぶやいた。
「しまった……、もっと上の階があったんだ……」
午後九時をまわった頃、高層ビル群の一角、高級飲食店が建ち並ぶ、この街一番の大道路の傍らに、一台の真っ赤な高級車が停車した。歩道を行き交う、仲睦まじいカップルや、仕事帰りの勤め人たちの多くはその歩みをやや緩めて、その高級車の輝きに見惚れた。
羽振りの良い人々が多く行き過ぎるこの辺りにおいても、ひときわ輝いて見える、そのスポーツカーの車内には、これを運転してきた、堂々たる風采の若き男性が座り、助手席には全身を高級ブランド品で包んだ、妙齢の魅惑的な女性が収まっていた。いかにも富裕層を思わせる雰囲気を漂わせる、三十代前半と見られる紳士の方は、隣の車線を猛スピードで行き過ぎる車の影や、こちらに注目しながら歩道を歩んでいく一般人たちの様子を確認しながら、この車から降りるタイミングを見計らっていた。連れ添っている茶色い髪の容姿端麗の女性は、ずいぶんとほっそりとした、魅惑的な身体つきの持ち主だった。特に人の目を引くのは、高級ブランド物の真っ赤なドレスからはみ出す、そのか細い脚であり、こちらから眺めてみても、今にも折れそうなほどに見えるのだった。二人をここまで運んできた美しい外車の眩ゆいライトを、その視界に確認すると、お目当ての高層ビルの中から、黒いスーツ姿の男が一人歩み出てきて、大通りの方へと静かに寄ってきた。そして、厳かな態度で車のドアをなるべく余計な音を立てぬように開いた。それを確認にしてから、主賓である男性は、周囲の人間の目を多少は気にしながらも、見事な身のこなしで、ゆっくりと地面に降り立ったのだった。
会員制のフランス料理店で味わった、先ほどの晩餐は素晴らしかった。おそらく、政財界においても飛び抜けた存在といえる、この自分を喜ばすために、特別にしつらえたディナーであったのだろう。欧州でも三本の指に入るといわれるほどのシェフが、明らかにこの自分の存在を意識していたわけだ。その対応については、褒めてやっても良い。もう一度、あの店を訪問する機会を作ってやってもいいだろう。
今夜のために、一週間も前から頭に描いてあったデートコースは、ほぼ予定通りにこなしてきた。これまでのところ、何もかもが上手くいっている夜だ。どこへ連れまわしても、若い女が機嫌を損ねないのなら、これは、運周りも良いと表現してもいいだろう。男はそう思って、今一度、お目当ての女性の横顔に目を向けて、内心ほくそ笑んでいた。
「お待ちしておりました。皆様のご来店、まことに嬉しく思います。これから、ご予約されたフロアへとご案内いたします」
出迎えのスタッフは深々と頭を下げながら、にこやかにそう告げたが、男性はそれには一目もくれずに、助手席で待ち受けていた連れの女性の手を引いてドアの外へと連れ出した。
「ずいぶん、乗り心地のいい車ね。かなりの速度で走っていたのに、全然揺れなかった……。一度のブレーキですっと止まったし……、これって、私は初めて乗るのよね? ねえ、いつ買ったの? わたし、知らされなかったから……」
「実は、この車が届いたのは、つい昨日のことなのさ。だから、その助手席に座ったのは、君が最初の一人というわけ。これは欧州でニ週間前に発表されたばかりの最新のベンツなんだ。だから、この国での発売日や価格はまだ決定していない。その辺の情報通が販売店に問い合わせたとしても、決して、いい答えは返ってこないだろう。名うてのカーマニアでも、この車の性能に関する情報については、まったく掴めていないと、そういうことになる。まあ、今回は僕の方で早めに動いてね。知人のディーラーに大金を掴ませて、どうしてもやってくれと、無理に頼み込んで、発売日よりずっと早くに輸入してもらったんだ。人より先んじるという、こういう愉悦に浸るためにはね、お金の力だけではダメなんだよ。知恵、人脈、そして権威、その全てが揃っていないとね……」
男は何でもないことをやってのけたかのように、控えめな声と手ぶりで、そう説明してみせた。その憎たらしいほどの落ち着きぶりは、いかにも、こういった資産家風な台詞を日常的に口にしているのだろうと、思わせたいように感じられた。女は街灯の光を反射して銀色に輝く、高級外車のエンブレムをまじまじと覗き込みながら、もう一度ため息をついた。この最高の車の乗り心地を味わってしまった今、この次に、他のフレンドの安いドライブに誘われたとしても、安請け合いはできなくなったと痛切に感じた。
「もしかして、私を驚かすために、わざわざこれを買ったの? きっと、そうなんでしょう?」
いくらかの期待を込めた、この茶化した問いかけは、遊び半分のモノであった。男は当たり前だとでも言わんばかりに、少し苦笑してみせて、あとはいっさいを答えずに、ビルの入り口へと歩み寄っていった。男は出来る限りの金を積み、女はその装備や振る舞いから、したたかに相手を値踏みする。どちらが獲物なのかはまだ分からなかった。ただ、お互いに勝負の時を感じていた。女は手鏡を一度取り出して何度も点検してきたはずの身だしなみを、金色の背景に浮かび上がる鏡の中で、もう一度だけチェックして、これから連れていかれるであろう高級店に恥ずかしくない外観であることを、今一度、自分の視覚で確認してから、男の後を小走りに追いかけていった。
「ここには、知り合いの企業幹部たちとも、たまに来るんだよ。互いに誘い合ってね。言うまでもなく、低賃金でどんな仕事でも引き受けて、社会の底をネズミのように駆けずり回る、一般の会社員たちが立ち寄るような店ではない。数百万のカネしか動かせないような連中には無縁の世界でね、とにかく、資産家向けの興味深い店なんだよ。君もフランスワインの支払いがただ高いだけの店じゃなくて、そろそろ、こういう店にも通うようにしないとね……」
男はこの場でその秘密のすべてを語ることはなく、出来る限りもったいぶってそのように語った。二人はスタッフに勧められるまま、自動ドアの外観からして金箔に染まる、豪奢なエレベーターに乗り込んだ。内部もなかなか豪勢な造りで、十人が入れる程度に広かった。店のスタッフは二人が内部に収まったことを確認してから、三十五階まで一気に駆け上るボタンをさりげなく押した。壁にはこのビルに居を構える、高級店の案内がずらりと掲載されていた。女はずいぶん値段の張る店に行くのだなと思い、さらに身を強張らせて、極度に緊張した様子を見せるのだった。
「いらっしゃいませ、さあどうぞ、お足元にお気をつけてお降り下さい」
目的のフロアにたどり着いたことを確認すると、スタッフは高らかにそう告げて、この賓客を自らの店の入り口へと案内していった。彼の表情や態度には、どんな無礼や失敗も許されぬ緊張感がみなぎっていた。黒い地の看板には、太い金の欧文で店の名前が綴られていた。辺りはなぜか異様なほど静かだった。これまでに通ってきた、いくつかの名うての高級店でも見たこともないような白金の豪華なシャンデリアが、橙色の光を放っていた。フロアの隅に置かれた、優雅なオーク材のテーブルには、上品そうな西洋の壺が飾ってあった。格式と伝統と隠された知性。まるで、妖女たちが笑いながら誘う、ギリシャ神話の内部へと飲み込まれたような感覚すらした。不思議なことだが、その清楚で落ち着きのあるフロアには、この二人の他には、客は存在していないかのように感じられたのだ。どういうことだろう? このフロアの面積自体は、とても広く感じられるというのに。
「このビルの下の階にも、多くの飲食店が並んでいて、もちろん、かなりお値段高めの飲食店が並んでいるわけなんだけど、あくまで一般人向けのお店だから、予約さえ取れれば、誰だって入れるわけなんだ。例え、貧乏リーマンだって、その財布のほとんどを叩けば、入れる人もいる。でもさ、今さら、そんな大衆的な店で飲んだって、つまらないだろ? このフロアだけは、そういう大衆店とは違って、特別な会員制になっているんだよ。つまり、この国の経済界において、よほど、突出した人間じゃないと、そもそも、予約すら取れないわけさ。大物政治家や大企業の幹部クラスでも、相当名前が通っている人でないと、ここに通うのは無理なんだよ。ありがたいことに、僕は親父が財閥系企業の幹部をやっているおかげで会員になれたんだけど……。ただ、このところ忙しくて、時間が許してくれないから、週に一度くらいしか利用できていないけどね」
男は次第につのる焦りをなるべく抑えつつ、外見上は余裕たっぷりの態度により、愛想よくそう説明した。男女間の恋愛における、いわゆる、引き込みの場面においては、第三者が耳にすれば、一聴してくだらない、不必要とさえ思える解説でも、後で功を奏することがままある。『財閥系企業』という強力無比な名詞には、こういった状況において、かなりの効力があるのかもしれない。この女は自分に向けられた、安っぽい自慢話ともとれる、そのセリフを聞いたところ、ここまで行動を共にしてきた、この男の素性がやはり素晴らしいものなのだと再認識したのだった。しかしながら、その硬い防御はまだ崩せたわけではない。資産というものは、必ずしも普遍的なものではない。『OKにはまだ早い』男性の内面の全てを見通すまでは、なるべく、その控え目な態度を保持することにした。男女間の緊迫する諸場面において、その対応を前にして慎重になるのは、何も釣り師の方だけではない。池の中で泳ぎ回る、一見無防備な魚の方も同様である。
「こんな高級な店には入ったことがないから、足を踏み入れるのが怖いわ」
「従業員への礼儀や特別なふるまいなど、何もしなくていい。それは僕の方でやる。君は一番のゲストなんだから、お酒を楽しむことだけに集中して、無駄に緊張する必要は何もないんだ。後はただ目的のものを見学して、素直な感想をくれればいい」
男は女の肩を優しく支えて、ごく自然な態度で店の中へと連れ込んだ。スタッフに案内されて通された部屋は、一目では視界に入りきらぬ、二十五畳ほどもある広大な貴賓室であった。壁紙も床も真っ黒に染められ、ソファーやテーブルの表面の色すら黒に統一されていた。高級感に溢れ、スタッフの態度も含めて、上品で落ち着いた空気に包まれていた。壁際の黒檀の棚には、いかにも値打ちのありそうな、世界各国の酒がずらりと並べられて、この場の上質な雰囲気を、さらにいや増していた。ドアの対面側の方向には、すべて窓ガラスになっていて、大都会の荘厳な夜景をひと飲みにしていた。女はこれまでの堅い態度を打ち崩し、思わず窓に駆け寄って、「すごい光景ね。こんな美しい夜景を見たこともないわ」と、思わず驚きの声をあげることになった。男はその称賛の声を聞いて、さもありなんと満足そうにうなずき、「まあ、この辺りのビル群からの光景と比較しても、値段や高さを比較しても、このフロアは完全に頭ひとつ抜けているからね。夜景の名所が多い、都心のこの一画においても、有数の眺めだと思うよ。ただね、これは君へのプレゼントとしては、ほんの一片に過ぎないんだよ。僕の愛を表現するには、余りにも安っぽいね」と意味深な相槌を打った。
「つまり、君をここへ連れてきたのは、何も美しい夜景を披露するためだけじゃないんだ。実は本当に見せたいものは他にある」
「他にも、何か仕掛けがあるの? まさか、私を楽しませるためだけに?」
「そうそう、ぜひ、君だけに見せたいものがあるんだ」
「この広い部屋の中には、まだ他に秘密があるの?」
彼女がけなげに戸惑う様子を眺めて、男は少し安堵して微笑み、その清純で素直な問いかけに対して、小さくうなずいて見せた。
「何だろう? 窓の外の夜景がすごくきれいだけど、それは関係あるの?」
「まったく関係ない! とは言い切れないな。少しは関係ある」
女は何とかその謎を解いてやろうと、しばらく考え込んでいた。貴重な夜の時間の中で、すっかり余分な空気となって消えた数分が流れ切った後で、やはり、自分には、これから何が起こるのかわからないと無難な答えをだした。しかし、その含みのある表情には、これから繰り出されるであろう、その神秘的な答えに対する、大きな期待がありありと浮かんでいた。だが、男は今宵の勝負の決定打となりうるその解答について、簡単に教える気は無いようである。まずは、軽い混乱と動揺を見せている、彼女の白い手を優しく取って、窓際のソファーに座らせた。
「まず、お酒でも飲んで落ち着こうか? それから本題に入ろう」
男が中央のテーブルの横についている、スイッチを押すと、それは部屋の外で待機している、この店のスタッフへと響く呼び鈴になっていた。ほとんど時を置かずに、黒い壁の一部が音もなく開いて、店の専従スタッフが姿を現した。
「俺がこの間開けたムートン・ロートシルトは、まだキープしてあるんでしょ? ここにいる彼女の発来店、その記念すべき夜に、あの高級ワインを飲もうじゃないか。ワインセラーから持ってきて、この子についであげてよ」
スタッフは慇懃に一礼した上で、かしこまりましたと丁重に答えて、引き下がっていった。
「そんなに高いお酒じゃなくていいわよ。わたしは別に水でもいいの。さっきの店でも、出てくるのは高級な料理ばかり……。もうずいぶん、ご馳走になっちゃったし……」
「いいから、もっと、この特別な夜を楽しもうよ。これから輝く未来に向けて、強い関係を築いていこうとする、男女の酒宴において、シャトーのワインほど気分をほどよく盛り上げるものはないからね。他にも食べたいものがあったら、遠慮なく好きなものを注文してね」
疑問と興奮を残したまま、飾り時計の針は進んでいき、さらに半刻ほどが経過した。女は十分に酒を飲み、高価な料理の皿を、いくつかたいらげた後で、再び元の疑念を持ち出して、男の肩にしがみつきながら、こう尋ねた。
「ねえねえ、あなたのことだから、この店のどこかには、他では考えられないような、大きな秘密がまだ隠されているんでしょ? いったい、何があるの?」
「そろそろ、本当のことを知りたいかい?」
古来から、目的の女性を陥落させるためには、多くの金と時間が必要といわれているが、そもそも、現代人にとっては、時間という概念は、決して無限とはいえない。そろそろ良いタイミングかなと思い、男は再びスイッチを押して、店のスタッフの一人を部屋に呼び込んだ。
「いつものあれを見たいんだが。すぐに準備できるかい?」
「かしこまりました。少々お待ち下さい。準備を整えて参ります」
その不明瞭な指令を受けたスタッフは、この不思議な部屋に未だに見えてこない、いくつかの疑惑を残したまま、奥の控え室へと足早に消えていった。少しの沈黙。緊張と期待に心を揺らされた。しばらくすると、部屋の内部にカチッという小さな音が鳴り響いた。さして、注意を引くような音には聴こえなかったため、それが何を意味するのかは、まだ分からない。しかし、次の瞬間、状況が激変したことによって、女は驚愕のあまり、ソファーから滑り落ち、思わず絶句してしまった。これまでは確かに何も見透せなかったはずの足元の黒い床が、一瞬にして、すべてガラス張りのように透けてしまい、階下に広がる、他の多くの店舗の様子が、すべて丸写しになってしまったのだ。そこでは大勢の来客が、勧められた酒によって、すっかり酔っぱらって、与太話を語り合い、愚にもつかないエピソードで笑い合い、また、昔話に泣き合い、肩を組んで歌い合い、周囲にはばからず、ひとり残らず愚かな姿をさらけ出し、互いに実直な日常も、その身分も全てを忘れ去って、肩を抱き合い叩き合い、美男も愚者もその脳髄に至るまですっかり酔いが回って、様々な特色を持ったグループの間で、似たような馬鹿馬鹿しい行為が行われ、一連の愚行をひたすら繰り返すことにより、さらに盛り上がり、はしゃぎまわっていたのだ。
「ちょっと、これは何?」
男は努めて平静を装い、正気を失っている女の質問にはいっさい答えず、その狼狽ぶりを見て、しばらく楽しそうに笑っていた。下の階のフロアは壁とカーテンと分厚い衝立によって、いくつかの個室に区切られてはいたが、上から展望すれば、そのすべての部屋の詳細を、万遍なく一望することができるのだった。そのきわめて愚かしく、しかも華やいだ祭り騒ぎを目の当たりにして、しばらくの間、女は自意識を見いだせず、その状況を言い表すための声を出すこともできなかった。自分の目のすぐ下において、五十人以上もの人間が、各々グラスにつがれた酒を飲みながらも、昼間の自分にはとても表現しきれない、壊れ切った世界を堪能しているのだ。巨大な経済社会の一兵卒として、脳なしの上司に命じられるまま、半ばロボットのように、ただ、ひたすらに流れてくる仕事をこなしている昼間の自分を、アルコールの力によって、少しでも忘れたいがために、ここへやってくるのだ。
これまでも、この男に連れられて、グレーゾーンに位置するような、いくつかの風変わりな店を体験してきたわけだが、この店の斬新極まるギミックには、さすがに肝をつぶされる思いだった。
「これって、下の人達は……、こうやって上で見ている、私たちのことが見えていないの? 自分たちの醜態が覗かれていることに、まったく、気づいていないわけ? 当然、そうなのよね?」
女は階下の人間喜劇から、怖さのあまり目が離せなかった。相手方のプライバシーを一方的に侵害しているわけで、思わず見てしまう、という行為自体にも罪悪感を感じずにはいられない。時間がさらに経過して、階下の盛り上がりがいや増すに連れて、さらに恐怖が増して、消え去りそうなほど小さな声で、隣に佇む男にそう尋ねた。
「もちろん、そうだ。お互いに見えていたら、ちっとも面白くないだろ? そこは安心してよ。この世界においては、公平という概念にいっさいの意味はないんだ。下にいるバカな客たちは、上の階の店舗の床が、つまり、自分たちのフロアの天井が、このような仕組みになっているとは、まったく知らないでここに来ているんだ。その決定的な真実を何も知らないで、堂々とここまで酒を呑んで騒ぎまくって、いやはや、今宵は愉快だと、宴席を楽しんでいるわけさ」
「そんなこと、とても信じられない……」
「声も聞いてみるかい?」
男がスタッフに次の合図を下すと、今度は階下において、集音マイクのスイッチが入れられたようで、床の下の愚かしい酔客たちは、いっせいに喋りだした。これにより、何の意味も持たない、多くの恥と無能劇が上階側へと勢いを増してさらけ出されることとなった。
ここに到着するまでは、この店の本質を何も知らされずに、のこのこと付いてきてしまった女としては、この恐ろしい情報公開の仕組みが、下から上への完全な一方通行であることを悟り、心に突然湧いてきたその不安は、少しずつではあるが、解消に向かっていた。『他人の恥部を覗き見るという悪行に加担しているのでは』という、一時の衝撃から覚めてくると、今度は逆に未知の世界への興味が湧いてきた。それから、十分も経つ頃には、先程までの狼狽ぶりが嘘のように、夢中になって各部屋の様子を見入るようになっていた。そのうち、男は女の注意を引き、下の左側の部屋の数人の男性を指差した。
「あれは、俗にいうインサイダー取引というやつだよ」
そこでは、政治家らしき風格を持った紳士と、その対面に座っている証券業界スタッフとおぼしき数人の男性が、ずいぶん前から密議をこらしていた。二ヶ月後に、ある製薬会社の画期的な新薬が、厚生省により認可される見込みである、という機密情報を得たため、それに関連している、いくつかの企業の株価が大幅に値上がりすることを、事前に予告しているのだ。業界人たちは株価が大きく動くと思われる企業のパンフレットを一部ずつ差し出して、政治家に対して、どの程度の値動きが見込めるかを示してやり、その見返りとして、茶封筒に詰められた多額の紙幣を受けとっていた。男は次に右端の部屋を指差した。
「見てごらん。あそこはきっとスポーツの八百長会議だね」
女がそう言われるままに、端の方にある別の店の一角に視線を向けると、ノーネクタイに黒スーツ姿の数人の男たちが集まって寄り添い、次はどこどこの競馬場で、BとDという騎手が、スタート直後にわざと出遅れをやらかすとか、プロ野球においては、今現在、快調に首位を走っている球団のYという投手が、次の日曜日のナイターで思いもかけず、めちゃくちゃに打たれてしまい、負け試合を演出するとか、そういった裏情報の取引をしていた。
もちろん、ギャンブルやスポーツの試合の結果には、裏社会が管理している、あらゆる賭博場において、大昔から、ほぼ日常的に多額の金銭が賭けられているわけだ。そういう状況において、裏情報を知り尽くしている、ここにいる僅かな人間だけが、そのギャンブルに大勝ちして、ほぼノーリスクで大金を得られる仕組みである。『人間が自分の足を用いて走るわけではない』という至極真っ当な理屈から、他のスポーツなどと比較すると、手加減の強弱は難しいという理由から、競馬での八百長というものは、やや信憑性に欠けると思われがちだが、それでも、本来逃げる予定のない馬が、場内に長年居座る予想屋たちの想像も裏切る形で、大きな逃げをうったり、出遅れ癖のないはずの馬が、大きく出遅れたりすれば、それを事前に知らない他のギャンブラーたちと比較して、的中率の上で、大きく有利になるのは自明である。野球やサッカーはもちろん、この上階から見た限りでは、陸上競技や相撲などの裏情報も取引の対象になっているようだった。男たちは情報元の話を注意深く聴きつつ、予想に使えそうなネタを一つ得るたびに、いくらかの謝礼を支払いつつも、忙しそうにメモをとっていた。
この賑やかな階層には、そういう裏社会の腹黒い人間たちばかりでなく、もちろん、一般の飲み客も多く含まれていた。すでに大金をつぎ込んだ男性側が、高級日本料理やボルドー産のワインを注文して、その上、ご自慢のトークで、ここまで連れ込んできた、獲物となる美女たちを、なんとか口説き落とそうとしている。そのような、十年一日のようなカップルたちの駆け引きから、テレビでよく見かけるお笑い芸人などのゲストも招待されて、華やかに進行している、一流企業の合コンの様子まで、鬼も蛇も含んで、その様子は多様である。下の客たちとしては、絶対にばれようもない秘密と決め込んだ自分たちの痴話が、すぐ上の客たちに筒抜けになっていようとは、露ほどにも思っていないわけで、どんな気恥ずかしいやり取りも、後ろめたい過去の暴露も、周囲の目などは、まるで気にしない形で言いたい放題である。その単純な行動のすべてが、油断と慢心に塗れている。階下の店も、二時間で十数万程度の使用料が要求される、相当な高級店であるから、彼らにも相応のプライドがある。誰もが、自分たちを覗き見る人間が存在しようなどとは、そもそも、思ってもいないのだ。
企業社会全体には、さしたる意味をもたらさない、馬鹿馬鹿しい宴会は当事者たちの意識が途切れるまで続くようで、さらに時間は経過していった。その頃には、自分を他人を嘲笑う立場へと引き上げてくれた、頼りになる勝利者の肩に上半身を預けながら、女はときに真剣な表情で、ときに大笑いしながらも、下の階の人間たちの会話や多種多様なるバカバカしい振る舞いを、十二分に堪能していた。特別な待遇として与えられた、この貴重な時間において、愚純な人々を上から見下ろすという優越感を体感することに、すっかり虜になった。再び笑われる側に戻っていくことに畏怖さえ感じていた。その様子を見て、男はとどめを刺すようにこう言った。
「つまりさ、この店の仕組みは、今の経済社会の形態と、まったく同じなんだよね。下にいる人達にも、それぞれの責任や立場があるだろうし、仕事の上では、勉強を重ねて経験を積んで、自分の勤める会社の内外の、あらゆる勝負事に否応なく挑んで、厳しい競争に晒されながら、それに勝ったり負けたり、何とか生き残るということに力を尽くして、がんばっているわけなんだ。でもね、残念ながら、もっと上に立つ人間たちの位置から見ると、一見蟻のようなそのせわしない行動の全ては、常に覗き見られているわけで、その労働の価値もたかが知れているのさ。例え、そのカーストに嫌気がさして、上の階層に向けて反抗しようにも、自分たちの位置からでは、上階にいる人間たちの姿や行状を覗き見ることも、その命令に逆らうことも出来ないわけだね。この資本主義社会における厳しい生存競争の中で、それぞれの階層に明確な境が生まれるのは、ある意味では仕方ないことだ。社会のトップに立つ人々が楽をしているとは言わない。上の人間には上の人間だけの世界がある。孤独で静かで、ある種の悟りの中にある……、つまり、あらゆるものから隔絶された世界がね……。まあ、その台詞を言ってしまうと、僕としても、少し寂しくなるけどね」
男のその口ぶりには、この先においても、自分の側にいれば、ずっと上の世界が楽しめるぞ、とでも言いたげだった。この頃になると女は、この国のカースト制度の完全なる勝利者に見えるこの男に、この上は身も心も捧げてしまい、何が何でも後をついていこうと思うようになった。目の前にたゆとっていた釣り針に、今夜の目当てであった獲物が、今度こそ喰いついたようだった。
二人は外の美しい夜景と、長きにわたって、階下で飲み客たちによって演じられる、波乱万丈の世界を心ゆくまで楽しんでいた。やがて、スタッフの一人がゆっくりと男の傍に近づいてきて、「懇意にされている、舞台俳優のA様が下の階におられますが、挨拶に行かれますか? よろしければ、ご案内いたしますが」と丁重な態度で尋ねてきた。
「そんなこと、どうでもいいよ、今夜は彼女がいるわけだし、大した用もなしに、ここを離れられないから」
「いいの? 映画とかテレビドラマでよく見かける、あの方よね? こちらから行って、顔を見せておかないと、後でまずいんじゃないの?」
女は少し心配そうな顔をして、わざとそう尋ねた。
「いいんだ。そんなこと、別にたいしたことじゃない」
この決め台詞がこの男の品格を、また一段高めたことは疑う余地もない。二人はそれから、さらに一時間以上にわたり、社会の裏側の様子をのぞき見て、楽しんだ。
「今夜は、ほんと、面白かった! これぞ、人間社会の縮図って感じね。こんなに凄いものが見られるとは思ってもみなかったわ」
女は酒の勢いも消えぬまま、少し興奮気味にそうはしゃいだ。
「まだ、時間に余裕はあるんだろ? なんなら、もう少し他の店で遊んでいくかい?」
男としては、これまで懸命に隠していた自分の焦りが、その表情には決して表れないように、慎重に言葉を選んで、そう尋ねた。言葉は冷静に発せられたわけだが、心臓は高鳴っていた。高級ホテルの予約とて、何時までも取れるわけではない。この自分にだって、明日の予定はあるのだ。さりげない素振りで腕時計の針を見れば、最後の誘いをかけるには、もうすでに、ぎりぎりの時刻だと感じていたわけだ。
「もう、お腹いっぱいよ。どうせホテルにしても、私が驚くような、豪華なところを予約してあるんでしょ? 早く連れて行ってよ」
女は花と蝶の自然なやり取りのように、何かを伝えようと、密かに目配せをしてから、大胆にもそう答えた。その軽い性格に不釣合いなほど、恋愛における判断は慎重であり、総合デパートや夜の歓楽街をほんの数時間連れ歩くだけで、やたらと金がかかる女であった。ここ数日間、自宅に届けられてくる請求書に脅えるほどの高い貢ぎ物が続いたわけだが、ようやく、待ち望んでいた台詞が出てきたので、男は取りあえず胸をなでおろした。もちろん、そんな大勝利の到来にあっても、自慢の冷静で知的な表情を崩すことは全くなかった。
「そういうことで良いなら、そろそろ、ここを出ようか」
二人は慇懃な態度で佇んでいた、大勢のスタッフに見送られながら、エレベーターで一階まで降り立ち、そのまま、自慢の車が保管されている駐車場の一角に案内された。しかし、ちょうどその頃、彼らより若干早いタイミングで、同じビルの他店から出てきたと思われる、別のカップルが似たように仲睦まじく連れ添いながら、二人のやや前方において、煌めく高級車に乗り込むところだった。三人ものスタッフが警護のために彼らの後に付いていた。遠目からも納得できるほど、上品に整えられた身なりや、付き添いのスタッフの態度からして、向こうも相当な上客のように感じられた。そのきらびやかな恰好をした、カップルの会話は、吹きすぎる夜風に漂いながら、やがて、二人のところにも届いてきた。
「どう? こういう粋な遊び場も、けっこう楽しかっただろ?」
「うん、最高だった。まさか、下の飲み客の話しているところまで、見えるなんて……」
「下のカップルの間抜けな会話、面白かったな? 自分たちがもっとも羨まれる存在だと、すっかり思い込んでいて……。ああいうのが、本当のおバカさんなのさ。他人の勘違いがはっきりと見られるのが、上級社会の一番の娯楽なんだよ」
「ええ、あのダサい服着た、茶髪の女、頭の軽そうな男の話にすっかり騙されているのに、あんなにも、はしゃいじゃって……、なんだか、上から見ていて可愛そうだったわ」
そんな衝撃的な会話が、二人の目の前で展開されていた。前の二人は後ろで立ちすくむ、階下のカップルの存在には、まったく気づかずに、そのまま、見たこともないような豪奢な外車に颯爽と乗り込み、その見事な加速で、数秒後には、夜の街の彼方へと走り去っていった。
女は前の客のスポーツカーが轟音とともに消え去っていった方向を、脳内に張り巡らされていた、無数の糸を少しずつ解きほぐしつつ、何か深い考え事をしながら、しばらく見やっていた。僅かな時間をおいて、やがてそれらは、怒りへと変わってきたらしく、自分の中で一つの残酷な結論を導き出すことになった。彼女は振り返ると、これまで慕ってきたはずの男のスネの辺りを、尖った靴の先でガツンと豪快に蹴っ飛ばした。
男が悲鳴を上げて、その足をおさえて苦痛に顔を歪めている間に、女は大通りを走るタクシーを呼び止めると、素早くそれに乗り込み、何も気を止めることもなく、男をその場に置き去りにしたまま、さっさと走り去ってしまった。
後に取り残された可哀そうな男は、勝利寸前で逃した獲物を名残惜しそうにその目で追いながらも、力なく一言つぶやいた。
「しまった……、もっと上の階があったんだ……」
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