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第二章 絆 編

望むほどに狂おしく

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 無事、大阪に上陸したデレクと紫蘭は藤田から持たされた覚え書を頼りに、とある場所を訪れた。

「山崎診療所、ここか」
「そのようですね」

 大通りの雑踏から隠れるように落ち着いた趣で建つそれは、どことなく温かい。門をくぐると小さな庭があり、子供が遊んだのか地面には何が描いたあとがある。庭の端には一本ぴんと立ちそびえる梅の木が、風にそよいで揺れていた。

「梅だわ」
「そろそろ季節か」
「はい」

 なんとなく懐かしいような、あるべき場所に帰ってきたような不思議な気持ちになった。

「あの、もしかして三沢様ですか」

 診療所から襷を絞め前掛けをした小柄な女性が顔を出した。紫蘭はデレクに絡ませていた腕を解いて姿勢を正すと「はい」と答えた。紫蘭が返事をするとその女性は花が咲いたように顔を綻ばせる。

「烝さーんっ。いらっしゃいましたよ。烝さーん」

 思った以上に張りのある威勢のいい声に、デレクと紫蘭は顔を見合わせて微笑んだ。その直後、小さな男の子が顔だけ控えめに出してジッと二人を見る。子供から見たらデレクと紫蘭はまるで異国の者。物珍しそうに見たあと、ニコッと笑って引っ込んだ。

「尊治さま、笑いましたね」
「笑ったな」

 大人はまだしも異国の者に慣れない子供は、デレクのように背が高く目の色が違う者を見ると、表情を硬直させるか泣きながら逃げるのだ。しかし、あの子は笑った。

「三沢様。藤田様から伺っております。どうぞお入り下さい」
「ありがとうございます」

 次に現れたのは主人だろうか。日本人らしい小柄な体躯で器用で真面目そうに見えた。デレクと紫蘭は屋敷の中に足を踏み入れた。診療所というだけあり、入ってすぐに薬のにおいがした。客間に通されるとそれは消え、一変して温かな空気に包まれていた。

「ご挨拶が遅れました。三沢尊治と申します。隣が妻の紫蘭です。大阪は何も知りません。お手数をお掛けします」
「いえ、お気になさらず。私は山崎烝と言います。それから」
「妻の椿です! このチビが息子のたけるです。お会い出来て嬉しい。斎藤さんのっ……あ、藤田さんのお知り合いなら大歓迎です。ふふっ」
「すみません。妻は医者をしておりまして、人と接することがとても好きなのです。私がこんな風貌なので」

 あまり表情を崩さない夫の烝と、ころころと表情を変える妻の椿を見て紫蘭は微笑んだ。二人の間に生まれた息子の健は母に似て豊かな表情を持っている。なのに父の静を持ち合わせて非常に均等が取れている。子供は親の一番良い所を持って生まれるのかと、紫蘭は思った。

「お二人はとてもお似合いですね」
「ありがとうございます。紫蘭さんのご主人もとても素敵ですね」
「ありがとうございます」

 椿がふふと笑うと紫蘭もつられて笑った。デレクと二人でいて笑わないわけではない。けれど底抜けに明るい笑みはあまり見せなかったかもしれない。紫蘭は自分と真逆の椿に心惹かれて行くのが分かった。

(不思議な方……)

 そんな紫蘭を見てデレクもまた同じことを思った。藤田といい、この山崎夫妻といい、一言では表わせない何かがある。
 暫く二組の家族は世間話やこの街の話、そして互いの仕事の話をした。幾つか勧められる家があると山崎が言う。すっかり心を許したデレクと紫蘭はその中から家を決めようと考えていた。

「何でも聞いてくださいね。もちろん医者としての相談も」
「はい。ありがとうございます」




     □ □ □



 あれからデレクと紫蘭は小さいながらも家を構えた。少し歩けば河が流れ、振り向けば山々が連なっている。それでいて活気ある人々の生活もすぐ近くにあった。確かに言葉は違うけれど、人懐こい大阪の人たちはよそから来た二人を前から居たように扱ってくる。東京は大きな街だが大阪も負けていない。物の行き来はむしろ東京より早いかもしれない。商売上手なこの街の人たちはいつも笑っていた。
 二人は時々、山崎夫妻の家を訪ねることがあった。紫蘭は椿とよく話し、同じ女性の気のしれた友人といった仲になった。デレクは警察官として諜報に優れた烝に助言を貰う事もあったようだ。山崎夫妻の唯一の息子はデレクにとても良く懐いて、異国の言葉や剣術にとても興味を示していた。

「健ったら、また尊治おじさんの邪魔をして。駄目じゃない」
「大丈夫ですよ。俺も楽しんでいますから。男の子はいいな、元気があって」
「かあ様、尊治おじさんはいいと言っています。毎日ではないのですから目を瞑ってください」
「まぁ……」

 こんな他愛のない風景をどこか他人事のように眺める紫蘭がいた。デレクに教えを請う健と表情は控えめだが、嬉しそうに教えるその姿はまるで親子のようだと。それを見守る母親の優しい目。これが家族というものかと。しかしその中に自分は、いない。

「どうされました」
「あ、いえ」

 椿の夫、烝が憂い帯びた背中の紫蘭に声をかけた。この男も喜怒哀楽を簡単には見せないようで、たまに向けられる笑顔にドキリとさせられる。もちろん自分にではなく、妻である椿にだ。

「健がいつもすみません」
「いえ。夫に億することなく近寄ったのは健ちゃんが初めてです。どう見ても異国人ですし、瞳の色も違いますし」
アレは妻によく似ているのです。外見ではなく内面を見ているのですよ。それは我が子ながら誇れる部分です」
「奥様に似ている?」
「はい」

 初めて烝が紫蘭に向けて微笑んだ。椿は若かりし日を男ばかりの、世間からは人斬り集団と恐れられた新選組で生活を共にしたのだという。紫蘭も名前は聴いたことがある。浪士組として江戸から京に上がった侍の一部がそれになったと。まさかその中に椿が居たとは思いもしなかった。

「なんてお強いのでしょう。だからあのように分け隔てなく」
「ですから、心配事は椿に相談してください。少しは気が和らぐと思うのです」
「ぁ……」

 自分の心に、見つからないように隠していた小さな闇を烝に見破られていたのだ。烝は何もなかったように紫蘭から離れて行った。紫蘭はデレクと健が親子のように見えて胸を痛めていたのだ。あれから何度も抱かれたのに、いっこうに子を宿す気配がなかったからだ。デレクは子供が欲しい産んでくれとは口にしない。けれど、健と一緒にいる姿を見れば分かる。

(どうして、子ができないのだろう。ずっと時が止まっていた私の躰では子を育てる事はできないというの? 月のものもあるというのに……)

 デレクと結ばれた。それだけでいいと思っていたのに、それが満たされると今度はデレクの子を産みたいと思うようになった。けれども、それを神は許してはくれないのだろうか。

「そろそろ帰るか」
「はっ、はい」

 紫蘭はデレクの何かで満たされた顔を見ると胸が苦しくて仕方がなかった。



 その帰り道。とうを過ぎたくらいと思われる子供が道端で、辛うじて肌を隠している程度の着物を纏って地べたに座っていた。顔も手も汚れ草履も履かず道行く人を睨みつけている。性別も分からない。

ー チャリ……

 無表情でデレクが銭を投げた。飛びつく勢いでそれを拾うと懐に隠し走り去った。紫蘭はそれを黙って見ていた。

「戦争孤児だ」
「戦争、孤児」
「ああ。この地域で起きた鳥羽伏見の戦いで親を亡くした者の生き残りだ」

 デレクは淡々とした口調でそう言った。その言葉に哀れみの意は感じとれない。むしろ静かな怒りが垣間見えた気がした。大人が勝手に繰り広げた戦いに、なんの意見も言えない弱き者たちが巻き込まれた。世のためと正義を振りかざして生まれた新たな時代と、そこに取り残されたまま生きる者たち。

「彼らに生きたいという力がある限り、俺は何かしてやりたい。だがその何かが見つからないのが現状だ。警察官という正義の味方づらしているが、このありさまだ。銭を投げた所で何かが変わるわけではい。ないが、他に手段がない」

 経緯は違えど、デレクも紫蘭も孤児のようなものだ。デレクは混血児だったがために肩身の狭い思いをし、どんな人間も拒まない軍隊に身を置いたのだ。紫蘭に至っては、言葉では説明の付かない生い立ちがある。色素の薄い瞳で産まれたがために親から捨てられたのだ。

「いつか自分が親になれたなら、そういう人生は歩ませたくは、ない」
「デレク……」

 紫蘭には尊治ではなくデレクという人間が見えた。デレクは親になりたいと思っている。親になったら自分のような、戦争孤児彼らのような人生を送らせないと。

「親になったら……そうね。私も、そう思います」

(親になれたなら……私は産めるの? それを望んでもいいの? 私の躰は子をなせるのかしら。もし、産めない躰だとしたら……っ)

 デレクの子が産めなかったら。そう考えただけで膝が震えた。

(こんなにたくさん、愛して貰っているのに)

 デレクは家までの道のりを、紫蘭の手を握りしめたまま離さなかった。



     □



 自宅に着くと紫蘭は胸の奥の支えを誤魔化すように炊事場に入った。竈に火を入れて湯を沸かす。その火が消えないようにしゃがみこんでぼんやりそれを見ていた。パチパチと薪が爆ぜる音がなぜか遠くに聞こえる。

「紫蘭」
「……」
「紫蘭!」
「きゃっ! 尊治さまっ」

 デレクが後ろに居たのも気づかないくらい、紫蘭は意識を遠くにやっていたようだ。見上げたデレクは眉間に皺を寄せ、少し怒ったような表情で紫蘭を見下ろしていた。慌てて立ち上がろうとした紫蘭がよろけると、デレクがすぐにその躰を支えた。

「すみません」
「どうした。顔色が悪い」
「え、そんな事は」
「俺には言えないのか。なぜ山崎先生には言えて俺には言えない」
「尊治さま?」

 烝と二人で話をしている所をデレクは見ていたのだ。あまり表情を出さない烝が紫蘭に微笑んだのを見てしまった。

「俺はお前の夫ではないのか。なぜ俺に言わない、紫蘭っ」
「あっ! お待ちくださっ」

 デレクは問答無用で紫蘭を抱えたげた。そのまま乱暴に部屋に上がると、床の間に続く襖をパーンッと壊れるほど強く開けた。どんなに紫蘭が足掻いても聞く耳を持たない。

 デレクの心は焦りと怒りと嫉妬で入り乱れていた。

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