ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)

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第三部

37、医官さんにも分からない事だらけ

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 初めての診察は休暇を取得した八雲と一緒だった。自衛隊病院までは八雲の運転で行ったが、公共機関を使うと一時間弱かかる。総合病院なので紹介状がいるのだろうが、自衛隊関係者やその家族であれば外来受診も問題ないらしい。
 もっとも問題ないように手筈したのは夫であり、医官である八雲だった。

「いいかい、ひより。僕がいない時の検診ははタクシーを使うんだ。重たいものはよくないから買い物は僕がする。決して無理はしないこと」
「あの、タクシーはよっぽどの時にします。会社だって電車で行っているし、それに先生はつわりがひどくない限りはいつも通り過ごしていいって言ってましたけど」
「そうか! 通勤があったか……僕がひよりを会社まで送ってじゃ、間に合わんか。ひより、仕事は」
「可能な限り続けますよ」
「そうだよな。ひよりならそう言うよな。ううむ、どうしたものか」
「あの、八雲さん」

 まだまだ妊娠初期。見た目は妊娠だと分からない。多少のつわりはあるものの、今のところひよりは元気だ。
 産科の先生は気にしすぎるのも良くないから、普段通りにしていいと言う。ただ、塩分糖分の摂りすぎには気をつけることと、激しい運動や飲酒は控えるようにとアドバイスをもらった。

「アイツは信用ならんなぁ。ひよりに何かあったらどうするんだ。妊娠は病人じゃないからこそ、気をつけなければならないというのに」

 八雲の言うアイツはひよりの主治医であり、八雲の同期である。その同期を指名したのは何を隠そう八雲だ。

「早川先生は産科専門なんでしょう? その先生を信用しなくて誰を信じるんですか。だったら家から近いクリニックに変えますか?」
「それは絶対にダメだ。僕の目が届かない病院にひよりは預けられない」
「八雲さんてば……」

 これはちょっと色んな意味で大変かもしれない。そうひよりは思った。いくら医師免許を持っていようが、妻の妊娠であれこれ心配するのはやめられないらしい。

「とりあえず、お母さんに連絡したらすごく喜んでくれたよ」
「それはよかった。会社にはいつ言うつもりだい」
「安定期に入ってからってよく聞くんですけど、安定期までがしんどそうだから、早めに言った方がいいかなって」
「そうだね。ひよりが一人で我慢しなくていいように、何かあったら協力してもらう体制を作ってもらうのは大事なことだよ。早めに伝えることは賛成だ」
「じゃあ、折を見て上司に報告します。あと、若菜さんにも! すごく心配してくれたから」
「そうだね。安達さんたちにも伝えた方がいいだろう。僕が居ない時は彼らに助けてもらうことになるからね」

 病院からの帰りの車の中はこれからのことを話しながらだった。日々、変化していくひよりの体はさすがの八雲にも想像がつかないのだ。

「なんだか八雲さんの方が忙しそうね」
「うん? そんなことはないよ。ひよりがいちばん大変なんだ。僕はサポートしかできないからね」
「ふふふっ」
「何かおかしいこと、言ったかい?」
「ううん。八雲さんが旦那様でよかったなって、思ったの」
「それは光栄だね」

 ひよりはまだぺちゃんこのお腹をそっと撫でた。この中に二人の子どもがいるなんて、とても不思議だった。小さな命が二人の間に降りてきてくれたことが、まるで奇跡のようだ。

(元気に大きくなってね。絶対にパパとママが守ってあげるからね)


 ◇


 それから1週間がすぎた頃、

「あーん、ぎもぢわるい」

 全然平気とはいかなかった。週数が進むにつれて、つわりというものが色んな角度から襲ってくる。

 食べたいものが、見つからない。
 想像しただけで胃がムカムカする。
 口に入れてみないと食べられるか分からない。
 お水すら臭いを感じるしムカムカして飲み込めない。
 ずっと、船酔いをしているようだ。
 起きていても横になっていても、とにかく気持ち悪いのだ。

「ひより……」

 八雲はソファーに突っ伏すようにもたれ掛かかるひよひの背中をたださする。さすってもらって良くなるわけではないが、なんとなく気が紛れる気がする。

「何か口に入れた方がよくないか? 僕がなにか作るよ。何が食べられそうかな」
「うーん……わかんない」
「分からないか……」

 正直、考えるのも億劫なのだが、心配する八雲にそんなことは言えない。お手上げ状態で落ち込む八雲に申し訳ないと思ってはいるけれど、どうにもできない。

「八雲さん」
「うん?」
「ごめんなさい。本当に、分からなくて」
「大丈夫だ。気にしなくていい。とりあえず、水分補給は必要だからスポーツドリンクでも買ってこようか」
「ありがとう」
「何かあったら電話するんだよ。ひよりのスマホ、ここに置いておくから」
「うん」

 八雲はひよりに膝掛けをかけてやり、スマートフォンと鍵を持って部屋を出た。
 玄関の扉を閉めて、エレベーターに乗った。一階のエントランスについて、ため息をひとつ。

「はぁ……」
「東隊長、なんとも大きなため息ですな」

 ゴミ出しで外に出ていた安達が八雲の前に現れた。

「安達さん。いやいや、みっともないところを」
「ひよりさん、どうですか」
「気分がすぐれないみたいでして。まあ、なんといいますか……医者なのに何もできなくて申し訳ないという気持ちです」
「よかったらうちに寄りませんか。うちの経験者に聞いてみるのも案かと」
「ああ、なるほど。よろしいですか」
「もちろんです」

 途方に暮れた八雲に助け舟を出したのは、頼りになる部下の安達陸曹長だった。3人の子どもを立派に育て上げた彼らなら、きっといいアイデアを持っているに違いない。
 安達家にやってきた八雲は、さっそく若菜にひよりのことを相談した。気分が悪そうにしているのに、会社には行こうとすること。食べたいものが分からないということ。とにかく辛そうにしていることを伝えた。

「あらあら、隊長さん。ずいぶんとお疲れのようですね。ひよりさん、本格的につわりが始まったんですね。本人も辛いけれど、何もできない家族も辛いですね」
「しかも自分は医者なんで、よけいに」
「あはは。うちの人もそんなこと言ってたわ」

 からっと笑う安達夫人に、不思議と八雲の気持ちが軽くなっていった。よくよく考えれば自分たちだけが試練に立ち向かっているかのように落ち込んでいた。ひよりだけが苦しいだけではない。八雲だけが何もできないと焦っているのではない。
 親になった者は皆、通ってきた道なのだ。

「とにかく、できるだけ東さんも普通にするの。心配そうな顔して、大丈夫? て聞かれるとね、正直鬱陶しいのよ」
「え、鬱陶しかったんですか!」
「これがね、加減が難しくて。構ってくれないのもイヤなの。構われすぎるのもイヤなの。あとね、情緒不安定になりやすいから、突然泣いちゃったりするのよ」
「それはなかなか手強いな……」

 八雲も頭を抱えてしまう。どちらかというと、構いたくて仕方がないのに構いすぎるなと言われたらちょっとキツイかもしれない。

「難しく考えなくていいのよ。そのままのひよりさんを受け止めてあげて。そのうち心配するくらい食べるようになるから。あ、そうだ。ちょっとメモしてくるから、お試しでひよりさんに作ってあげて。一口でも食べられたら褒めてあげてね」

 若菜さんから渡されたメモには、食欲のないひより向けのレシピだった。何ひとつ手の込んだものはなく、素材の味が活かされたシンプルなものばかりだった。

 キュウリの梅肉和え
 そうめん
 じゃこの焼きおにぎり
 ところてん

「わたしはね、炊きたてのご飯がダメだったの。モワッとした湯気のあの感じがね。だから冷ましたご飯に水分を飛ばしたじゃこを混ぜるの。ポイントは魚の臭みはとばすこと。妊娠は鉄分とカルシウムが不足しがちなのよね」
「あの、水分補給はどうしたら。最近はスポーツドリンクも甘すぎでダメみたいでして」
「それなら、これ試してみて」

 ハチミツレモンサワー
 無糖炭酸、フレッシュレモン、ハチミツ。

「炭酸は強くないものにして。レモンはできれば生を絞って、ハチミツも甘すぎない程度にね。わたしはこれにずいぶん助けられたの」
「これなら家にあります。ありがとうございます。試してみます」
「なんでも聞いてくださいね。これでもわたし先輩だから」
「はい」

 経験者に聞くのがいちばんいい。
 医学の知識はあっても、つわりの辛さは分からない。医師としての処置はできても、妊婦というデリケートな心のケアは難しいものだ。

「安達さん助かりました。ありがとうございます」
「何もできない辛さは自分も経験しました。隊長だけができないわけじゃないんですよ。もとより男は何もできない」
「そうですね。これからそんな事ばかりなんでしょうね」
「でも、ひよりさんなら大丈夫ですよ。隊長のこと、鬱陶しいなんて思いませんよ」
「まいったな。それをいちばん気にしていたんですよ」
「そうでしょうな」
「「あはは」」

 安達夫妻が近くにいて本当によかった。八雲はこれまで幾度もそう思ったが、今回はこれまで以上にそう思ったかもしれない。



 翌日、部隊を超えて水面下に迅速に以下の情報が広まった。

『東夫人、絶賛つわり中』

 むろん、八雲は知らない。
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