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第一章

第一話 父の遺志(一)

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 私はしばらく引きこもっていた。
 父が死に自分のことだけすれば良いようになると、途端に家事は手抜きになっていった。洗濯は溜まってからまとめてやり食事は外食かコンビニだ。調理器具どころか皿の一つも出していない。大学にも行かなければいけないが、行かなくても怒る人はいない。卒業できるだけの単位を取ればそれでいいのだ。
 心配してくれた友達は絶えず遊びに誘ってくれた。新しいサークルに入れば気がまぎれるかもと気遣ってくれたが、やはりやる気が出ず時が流れていくのを待っていた。
 だが今日は違う。私は一冊の手帳を持って駅に向かって歩いていた。
 これは父の部屋から見つけた手帳だ。装丁は真っ赤で表紙には『金魚帖』と金の箔押しがされている。一体どういう目的の手帳かは分からないが、派手なうえ異様な名称のため持ち歩くには抵抗があった。
 しかしどうしてもこれを持っていかなければいけない場所があった。金魚帖には気になる単語が書かれていたのだ。

 金魚屋玄関口
 御縁神社内黒猫喫茶
 CafeChatNoir

 毛筆で字が汚いので読みにくいが、この『金魚屋』という名称が引っかかった。
 父の遺した品の中に『鯉屋納品』という張り紙がされているものが幾つかあった。店名は異なるが姉妹店のような雰囲気がある。もしかすれば連絡先くらい分かるかもしれないと思い、一先ずこの金魚屋とやらに連絡してみようと思ったのだ。
 しかし金魚帖には住所も電話番号も書いていなかった。調べてもCafeChatNoirというのは特定できなかったが、御縁みえにし神社というのは何故か私の通う北条大学のすぐ側にあった。
 ちゃんと生活しろってことかな……
 もう新たな生活を始めなくてはならない。これからは自分で働いて収入を得る必要もあるのだ。なら父の最後の商品を届けるというのは一歩目としては相応しいように思えた。
 そうして、確認して貰うために納品予定の商品の写真を撮り、金魚帖を鞄に入れて久しぶりに外へ出たのだった。

*

 私はきょろきょろと辺りを見回して、できるだけ物陰に隠れながら進んだ。
 実は、引きこもっていたのは無気力だけが理由ではない。もう一つ大きな要因があるのだ。
 でた!
 私は電柱に身を隠し、そっとそれ・・を遠巻きに見つめた。
 そこには特別な場所ではない。細い路地で自転車と人が衝突することが多いという話はよく聞くが、取り立てて特殊な場所ではない。けれど私の目には特殊な物が見えていた
 一体何なの、あの黒いもやは。
 それは父の死後突如として見えるようになったものだった。
 街の至るところにふよふよと浮いている。地面をうろついていたり人にくっついていたりすることもある。出現条件があるかどうかは分からないが、とにかくあちこちにいて気味が悪い。
 しかもどういうわけか私以外の人は見えないようで、人々は平気でそれをすり抜けていく。試しに小石を投げ入れたりしたことはあるがやはり通り抜けてしまう。そして色々投げつけてみた結果、ある物だけがそれに触れることが分かった。
 私はポケットに忍ばせていた手作りの数珠――腕輪を取り出した。これは父に教えて貰って作った物だ。使っているのは市販のアクセサリービーズで特別な物ではない。
 それを握りしめて黒いもやに近付き、私はえいっと投げつけた。するとばちんと静電気が起こり、同時に黒いもやもはじけて消えていった。
 お父さんが作ってたのはこの黒いもやを消す物なんだ。あの網で捕まえれば剣と銃で消せる。
 この黒いもやが何なのかは分からない。何故父がそんな不思議な道具を作れるのかは知らないが、納品先である鯉屋という店はこれを使うのだろう。ならきっと何か知っているに違いない。
 私は鞄に金魚帖が入っているのを確認し、黒いもやを避けながら駅に向かった。
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