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第二部 炎嬢編
忍びと聖女
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「エリオット様、どうかお気をつけて──」
己が顔を隠す狐面越しに、主の紫の瞳に暫しの別れを告げて。
引かれる銀の後ろ髪を振り切り、私──影狐ことミオリ・アイゼンは迷宮の奥へと駆け出していた。
忘れもしない、数か月前のあの朝から、私がお仕えするダンケルハイト侯爵家ご令嬢エリシャ様は変わった。
正確には、以前のひたすら優しく素直で世界一可愛らしかった小さなエリシャ様が、独りで閉じこもっていた暗い部屋の扉の鍵を開けてくださった。私にとっては、そんな感覚。
──もし私の知らない誰かが、重くて冷たいあの扉を開くきっかけを作ってくれたのなら、その誰かにも全身全霊の感謝をささげたい。
けれど同時にエリシャ様は、波乱の運命に足を踏み出してしまった。
そして私は侍女として忍びとして……そして姉として……、命を賭してもエリシャ様をお守りする。その誓いを新たにしたのだ。
そう、私は忍び。このまま全力で走れば、同行する栗色の髪の少女を置き去りにしてしまう、ということに思い到る。そこで速度をわずかに緩めると、彼女はたちまち追いついてきた。
王国に禍が降りかかるとき、これを払うため顕現する「聖女」。それは建国三英雄のひとり、聖女ミレイアの生まれ変わりとされる。
その「候補」として学園に特別に編入してきたのが、私の隣で栗色のふたつ結びを背に跳ねさせつつ全力疾走している少女、マリカ・マリリア。
──まあもちろん私にとっての聖女様はエリシャ様のみだけれど。
彼女は走りながら時折、白い手袋をはめた右手を心臓や太腿にあてて何ごとか小さく呟いている。おそらく自分自身に治癒魔法をかけているのだろう。
魔力を体力の予備タンクとして使うなんて無茶苦茶な話は聞いたことがないけれど、彼女の場合はそれだけ少ない魔力消費で大きな効果を得られるから、そんな芸当が可能なのだろう。
通路の分岐点では「こっち!」という彼女の指示に従い、走りながら壁に指先で特殊塗料の矢印を描きつつ。ほどなくして私たちは第二区郭の安息地点に到達していた。
迷宮の主の言葉通り、一度も魔物に遭遇することなく。
「影狐さんは、疲れてない?」
地上へと簡単な現状報告を済ませた私に、マリカが問いかけてくる。
「もし疲れたらいつでも遠慮せず言ってね。それじゃあ、先を急ごう!」
首を横に振る私を見るや彼女は、笑顔で急かしてきた。とにかく一刻も早く先行パーティを助けに駆けつけたい。彼女の頭の中はそれだけでいっぱいなのだろう。
これは、本当は認めたくないことだが。
彼女と初めて出会ったあの日、村を助けに向かうエリシャ様の瞳に浮かんでいたのと同じ種類の熱を、私はそこに感じていた。
本人たちは気付いていないだろうけれど、たぶん二人の芯の部分は、とてもよく似通っている。だからこのマリカという少女はもしかしたら、エリシャ様の波乱の運命を支える盟友になり得るかも知れない。
ほんとうは、私がそうなりたい。けれど私にとって大切なのはエリシャ様だけ。村を助けたのも、自分がそうしたかったからじゃなく、エリシャ様が望まれていたからこそ。そんな自分ではエリシャ様の心に心で共鳴することはできないと、悔しいけれど私は気付いている。
そんなことを片隅に想いながら、私は彼女と迷宮を駆ける。
途中で遭遇した瘴犬、そしてこの区郭から姿を見せたいやらしい嗤い声を発する人型の魔物──瘴鬼を、私の忍具とマリカの聖套(鈍器)で薙ぎたおしつつ。
特にマリカは瘴鬼に個人的な嫌悪感があるらしく、容赦がなかった……。
「この先、すごくいやな感じ……瘴獄狼でもないし……」
第一、第二と同程度であれば第三区郭もそろそろ終盤に差し掛かったところ──まっすぐ続く通路を走りながら、マリカが警告を発した。
ほどなく姿を現したのは、巨大な赤黒い人型だった。天井に頭がつかえるほどの威容を猫背に屈めながら、口元に三日月型の嗤いを浮かべて通路を塞いでいる。
ギゲゲ、ギギゲゲゲ……
それは巨大な瘴鬼──私も忍びとしての知識のなかでしか知らない、大瘴鬼と呼ばれる存在だろう。
「さっき話した作戦、試してみよう!」
瘴鬼嫌いのせいなのか、戦意みなぎらせてマリカが言う。
こんな暴走娘がほんとうに聖女なのだろうかと今さらながら疑念を抱きつつも、彼女が聖套の声と共に傍らに顕現させた巨大な光柱に、私は並走の勢いのまま跳び乗っていた。
「行くよ!」
「応!」
足元から温かく包み込むような聖なる力の加護を感じつつ、柱の上を駆け抜けた私がその先端部を蹴って大瘴鬼に向かい跳躍しようとした瞬間、そこに凄まじい加速が上乗せされる。
──影狐ちゃんのスピードに、私の加護を上乗せしたら最強じゃない?
いつの間にやらのちゃん付けでそんなことを言い出した時にはどうしたものかと思ったが。
両手で突き出した忍者刀を鏃として、マリカが射出時に利かせた捻りで高速回転しながら、聖なる光に包まれた螺旋の流星と化した私は、大瘴鬼の分厚い胸板をなんの抵抗もなく貫通していた。
勢いあまって石床を滑りながら着地した私が振り向くと、大瘴鬼の背にぽっかり開いた大穴の向こう側、マリカが満面の笑みで親指を立てる。つられて、私も親指を立て返してしまった。
本当に無茶苦茶な聖女様だが、その痛快さが胸に灯す「勇気」は確かに──この先、ほんとうに王国に危機が訪れるのだとしたら、大きな力になるのだろう。願わくば、それがエリシャ様にとっての力でもあって欲しい。私はそう祈るのだった。
『またタイムレコード更新……しかも四人以上向けエリアボスを一瞬でか……いやになるな』
霧散する大瘴鬼と共に、迷宮の主の呆れた声が響いていた。
「また何か特典もらえるの?」
『ふたつ、有用な情報を提供しよう。まずは次の第四区郭、おまえたちが速すぎるせいで、先行パーティが倒した魔物や区郭ボスの再配置が間に合いそうにない』
マリカの問いに対する彼の答えは、確かに有用なもの。それならば、このあとの安息地点はスルーしても次区郭を走り抜けられる。
『そしてもうひとつ。先行パーティだが、さきほど第五区郭の最深部に到達した。──ああ、先刻の凡庸という言葉は取り消そう。だが、彼らを救いたくば急いだほうがいい』
それが揺るがぬ事実だとばかりに、彼は淡々と宣言した。
『──迷宮の主には、絶対に勝てない』
己が顔を隠す狐面越しに、主の紫の瞳に暫しの別れを告げて。
引かれる銀の後ろ髪を振り切り、私──影狐ことミオリ・アイゼンは迷宮の奥へと駆け出していた。
忘れもしない、数か月前のあの朝から、私がお仕えするダンケルハイト侯爵家ご令嬢エリシャ様は変わった。
正確には、以前のひたすら優しく素直で世界一可愛らしかった小さなエリシャ様が、独りで閉じこもっていた暗い部屋の扉の鍵を開けてくださった。私にとっては、そんな感覚。
──もし私の知らない誰かが、重くて冷たいあの扉を開くきっかけを作ってくれたのなら、その誰かにも全身全霊の感謝をささげたい。
けれど同時にエリシャ様は、波乱の運命に足を踏み出してしまった。
そして私は侍女として忍びとして……そして姉として……、命を賭してもエリシャ様をお守りする。その誓いを新たにしたのだ。
そう、私は忍び。このまま全力で走れば、同行する栗色の髪の少女を置き去りにしてしまう、ということに思い到る。そこで速度をわずかに緩めると、彼女はたちまち追いついてきた。
王国に禍が降りかかるとき、これを払うため顕現する「聖女」。それは建国三英雄のひとり、聖女ミレイアの生まれ変わりとされる。
その「候補」として学園に特別に編入してきたのが、私の隣で栗色のふたつ結びを背に跳ねさせつつ全力疾走している少女、マリカ・マリリア。
──まあもちろん私にとっての聖女様はエリシャ様のみだけれど。
彼女は走りながら時折、白い手袋をはめた右手を心臓や太腿にあてて何ごとか小さく呟いている。おそらく自分自身に治癒魔法をかけているのだろう。
魔力を体力の予備タンクとして使うなんて無茶苦茶な話は聞いたことがないけれど、彼女の場合はそれだけ少ない魔力消費で大きな効果を得られるから、そんな芸当が可能なのだろう。
通路の分岐点では「こっち!」という彼女の指示に従い、走りながら壁に指先で特殊塗料の矢印を描きつつ。ほどなくして私たちは第二区郭の安息地点に到達していた。
迷宮の主の言葉通り、一度も魔物に遭遇することなく。
「影狐さんは、疲れてない?」
地上へと簡単な現状報告を済ませた私に、マリカが問いかけてくる。
「もし疲れたらいつでも遠慮せず言ってね。それじゃあ、先を急ごう!」
首を横に振る私を見るや彼女は、笑顔で急かしてきた。とにかく一刻も早く先行パーティを助けに駆けつけたい。彼女の頭の中はそれだけでいっぱいなのだろう。
これは、本当は認めたくないことだが。
彼女と初めて出会ったあの日、村を助けに向かうエリシャ様の瞳に浮かんでいたのと同じ種類の熱を、私はそこに感じていた。
本人たちは気付いていないだろうけれど、たぶん二人の芯の部分は、とてもよく似通っている。だからこのマリカという少女はもしかしたら、エリシャ様の波乱の運命を支える盟友になり得るかも知れない。
ほんとうは、私がそうなりたい。けれど私にとって大切なのはエリシャ様だけ。村を助けたのも、自分がそうしたかったからじゃなく、エリシャ様が望まれていたからこそ。そんな自分ではエリシャ様の心に心で共鳴することはできないと、悔しいけれど私は気付いている。
そんなことを片隅に想いながら、私は彼女と迷宮を駆ける。
途中で遭遇した瘴犬、そしてこの区郭から姿を見せたいやらしい嗤い声を発する人型の魔物──瘴鬼を、私の忍具とマリカの聖套(鈍器)で薙ぎたおしつつ。
特にマリカは瘴鬼に個人的な嫌悪感があるらしく、容赦がなかった……。
「この先、すごくいやな感じ……瘴獄狼でもないし……」
第一、第二と同程度であれば第三区郭もそろそろ終盤に差し掛かったところ──まっすぐ続く通路を走りながら、マリカが警告を発した。
ほどなく姿を現したのは、巨大な赤黒い人型だった。天井に頭がつかえるほどの威容を猫背に屈めながら、口元に三日月型の嗤いを浮かべて通路を塞いでいる。
ギゲゲ、ギギゲゲゲ……
それは巨大な瘴鬼──私も忍びとしての知識のなかでしか知らない、大瘴鬼と呼ばれる存在だろう。
「さっき話した作戦、試してみよう!」
瘴鬼嫌いのせいなのか、戦意みなぎらせてマリカが言う。
こんな暴走娘がほんとうに聖女なのだろうかと今さらながら疑念を抱きつつも、彼女が聖套の声と共に傍らに顕現させた巨大な光柱に、私は並走の勢いのまま跳び乗っていた。
「行くよ!」
「応!」
足元から温かく包み込むような聖なる力の加護を感じつつ、柱の上を駆け抜けた私がその先端部を蹴って大瘴鬼に向かい跳躍しようとした瞬間、そこに凄まじい加速が上乗せされる。
──影狐ちゃんのスピードに、私の加護を上乗せしたら最強じゃない?
いつの間にやらのちゃん付けでそんなことを言い出した時にはどうしたものかと思ったが。
両手で突き出した忍者刀を鏃として、マリカが射出時に利かせた捻りで高速回転しながら、聖なる光に包まれた螺旋の流星と化した私は、大瘴鬼の分厚い胸板をなんの抵抗もなく貫通していた。
勢いあまって石床を滑りながら着地した私が振り向くと、大瘴鬼の背にぽっかり開いた大穴の向こう側、マリカが満面の笑みで親指を立てる。つられて、私も親指を立て返してしまった。
本当に無茶苦茶な聖女様だが、その痛快さが胸に灯す「勇気」は確かに──この先、ほんとうに王国に危機が訪れるのだとしたら、大きな力になるのだろう。願わくば、それがエリシャ様にとっての力でもあって欲しい。私はそう祈るのだった。
『またタイムレコード更新……しかも四人以上向けエリアボスを一瞬でか……いやになるな』
霧散する大瘴鬼と共に、迷宮の主の呆れた声が響いていた。
「また何か特典もらえるの?」
『ふたつ、有用な情報を提供しよう。まずは次の第四区郭、おまえたちが速すぎるせいで、先行パーティが倒した魔物や区郭ボスの再配置が間に合いそうにない』
マリカの問いに対する彼の答えは、確かに有用なもの。それならば、このあとの安息地点はスルーしても次区郭を走り抜けられる。
『そしてもうひとつ。先行パーティだが、さきほど第五区郭の最深部に到達した。──ああ、先刻の凡庸という言葉は取り消そう。だが、彼らを救いたくば急いだほうがいい』
それが揺るがぬ事実だとばかりに、彼は淡々と宣言した。
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