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第一章
第六話
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放課後になり、俺は屋上にある喫煙スペースにやってきた。ケースから取り出したデバイスにスティックを差し込むとブブッと加熱を知らせる最初の振動。
ここは職員用の小さなスペース。風避けの柵と、ベンチがひとつ。新学期初日、生徒たちに注意した日からここで喫煙することにほんの少しの罪悪感を覚える。
やめたいと思いつつも、ずるずる続けている自分への嫌悪を感じたのは、加熱が終わったことを知らせる二度目の振動のあとだ。
先端のカプセルを歯で潰す。薄く甘い蒸気を吸い込み口から吐き出すと、風があっさりとここまでの疲労を煙と共に運んでいった。
「ふぅ……」
ふと、下のグラウンドに視線を向けるとトラックの外周を、運動部の生徒たちが列になって走っていた。声を出しながら、きれいな隊列とは言えないがその先頭付近で、やけに大きな声を出している生徒がいる。
「ラスト一周、がんばろ! ほら、ペース落ちてる!」
トレードマークの丸メガネを外しているし見慣れないジャージ姿だったので一瞬わからなかったが、あの元気で特徴がある高い声は澪だ。細身の身体に低い身長の澪が運動部だと知り俺は再び意外だな、と思った。
「もうちょい! いける、いける!」
自分もしんどそうなのに、後ろを向いて声をかけている。遅れそうな部員の背中を軽く押して、笑いながら前に戻っていく。彼の周りには苦しそうにしながらもその明るい声に励まされて笑う部員達の姿。
その様子を見ていると、さっき昼休みに頭をわしゃわしゃされていたときとはまた違う『健気さ』が見えた。可愛がられているだけじゃない。
ちゃんと、自分なりに誰かを引っ張ろうとしている。俺は甘い煙を吐きながら、ゆっくり目でその姿を追っていた。
ランニングが終わって、部員たちが一斉に立ち止まり、息を整える。顧問の先生が何か指示を出している横で、澪が頭の後ろに手を組んで空を見上げた。
その視線の先に、ちょうど屋上がある。目があった――澪の丸く見開かれた目が、はっきり俺の姿を捉えるとそのあとすぐ、笑った。
走ったあとで息が上がっているはずなのに、顔だけは妙に嬉しそうで、手を大きく振ってきた。
その瞬間、少し遅れて隣にいた部員たちも空を見上げる。数人の視線が一度に屋上に飛んできたのを感じて、急に自分がとんでもなく悪いことをしているような気持ちになってしまい、俺は反射的に、柱の影に身を引いた。
「はは……」
デバイスを指先で回しながら、ふと苦笑いが漏れる。他の生徒に見られるのはまだいいにせよ、澪にだけは見られたくなかったな、と思った。
あれだけ偉そうに説教めいたことを言ったばかりなのに。
翌朝。校門の前は、いつものように生徒たちのざわめきで満ちていた。朝の校門指導。これはこれで色々な生徒と交流ができる場ではあるから、悪くないと思い始めていた。
「凪せんせー!おはようございます!」
「おはよう」
「今日もイケメンだね~!」
「はいはい。どうもどうもー」
女子生徒の挨拶に軽く返事をしながら、校門の横に立っていると、少し離れたところから聞き覚えのある男子たちの笑い声が近づいてきた。
例のメンバーだった。前髪金髪、ピアス、ジャージ腰パン、そして丸メガネがその輪の中の低いところでひょいと揺れている。
「おはようございます、凪先生」
澪が真っ先に頭を下げる。その後ろから、いつものメンバーもつられて緩い挨拶の言葉を投げかけてぺこぺこ頭を下げた。
「おはよう。あれ? 今日は煙の匂いがしないみたいだね」
「うわっ先生、根に持つタイプっすね」
俺が冗談半分で先日の出来事をからかうと、ピアスの生徒が笑いながら答えた。喫煙していたピアスの生徒とも、軽い会話をするようになっていた。
そして澪が、一歩だけ前に出て、小声で言った。
「凪先生、昨日、屋上にいましたよね」
「……」
「タバコ、吸ってましたよね!」
丸メガネの奥の目が、責めるというより『知ってますよ』とでも言いたげに得意げな感じで喋りかけ目をきらきらさせている。後ろのほうから、すかさずピアスが口を挟んだ。
「え、マジ? 凪ちん、ずるくない? 俺にあんだけ言っといて」
「ほんとっすよ。俺らも一服付き合いますよ、凪ちん」
「屋上で喫煙指導受けたいっす」
「君たち、反省してないね。てか、なにその凪ちんって」
「いいじゃん! 朝比奈だとなげーから、凪ちん! んでこいつが澪ちん!」
「凪ちん、澪ちん……? 人のことをちんちんちんちん言わないで欲しいな。それに、あさひなも、なぎちんも、文字数変わんないと思うけど」
「うわっ! 凪ちん! 朝から下ネタ連発で最低だな! まあ、細かいことは気にすんなって」
テンションの高いやり取りが交わされていくが、この連中は完全に俺を教師としてではなく友達みたいな目線で見てきている。
でも、この距離ならではの楽しさがあるし、いざという時に頼ってくれるのではないかと思っている。
そして、そんな会話をニコニコしながら聞いていた澪が眼鏡をちょんと上げて会話に入ってくる。
「でも先生、なんで隠れたんですか?」
「そりゃあ、あんな一斉に見られたら、誰でも隠れたくなるでしょ」
「ほんとかなー。実は注意した手前、自分も吸ってるの見られて気まずくなったとかですか?」
「はは。鋭いね。正解っ」
くすっと笑いを含んだ、からかいに近い声で問い詰めてくる。核心を突いている上に認めざるを得ないので、素直に俺は答えた。
「まっ先生だって、完璧な大人じゃないってことだよ」
「ずりーよなー大人って。都合のいい時だけ大人大人ってさー」
「わかるわー。『大人』って単語で片付けて、なんとかなると思ってんだよ」
「はは。君たちも大人になればよくわかるよ。子供たちにとってみれば、大人はみんな、だいたい狡《ずる》いからね。ここを使って、常に逃げ道は確保しておくんだよ」
わざとらしく頭に指をトントン触れると、澪は笑った。頬は緩み、本当に楽しそうな顔をして笑っている。
「生徒は、逃げ道なんてないのに、大人はタバコに逃げるんですか」
「げっ」
「言ってたじゃないですか、身体の成長を妨げるし吸っててもいい事ないって」
「まあ……そうは言ったけど。俺は別にたばこ吸ってても良い年齢だし?」
「えーっ。生徒には、やめろって言ってたのに?」
「わかったわかった! 努力はしてみるよ。ってそもそも、生徒にやめろって言うのは当たり前でしょ」
「じゃあもし、吸ってるところ見られたらどうします?」
「うーん。そうだな。次は、もうちょっと自然に隠れてみるよ」
「あのー。そういう意味じゃないんですけどー?」
そんな会話をしているうちに、予鈴が鳴った。
「ほらほら。遅刻するよ! 行って行って」
「うぃーす」
「行きまーす」
俺は金髪やピアス達を軽く押すようにして門の中へ送り出す。澪も、「行ってきます」といつもの調子で笑ったあと。
「朝から先生と話せて。ちょっとやる気になりました! 今日も頑張ります! またあとで!」
去り際に小声で付け足したあと、ニコッと笑って眼鏡をちょんと上げて校門を抜けて行った。その背中を見送りながら、俺はふっと、胸の中でひとつ息を吐いた。
明るくて、健気で、人懐っこくて。ちょっと生意気な生徒達は俺の気持ちを上げてくれる。そう言われて俺もやる気になってきた。
校門での生徒とのやりとりは、俺に教師としての活力を与えてくれる。どんなに落ち込むことがあったとしても、前を向こうって思わせてくれる気がした。
澪との出会いは、こんな具合だった。運命的な出会いでもない。至って普通に一人の教師が、一人の生徒と出会っただけ。なんてことないささやかな日常の一コマみたいな顔をして、今でもこうして俺の記憶の中に並んでいる。
第一章 完
ここは職員用の小さなスペース。風避けの柵と、ベンチがひとつ。新学期初日、生徒たちに注意した日からここで喫煙することにほんの少しの罪悪感を覚える。
やめたいと思いつつも、ずるずる続けている自分への嫌悪を感じたのは、加熱が終わったことを知らせる二度目の振動のあとだ。
先端のカプセルを歯で潰す。薄く甘い蒸気を吸い込み口から吐き出すと、風があっさりとここまでの疲労を煙と共に運んでいった。
「ふぅ……」
ふと、下のグラウンドに視線を向けるとトラックの外周を、運動部の生徒たちが列になって走っていた。声を出しながら、きれいな隊列とは言えないがその先頭付近で、やけに大きな声を出している生徒がいる。
「ラスト一周、がんばろ! ほら、ペース落ちてる!」
トレードマークの丸メガネを外しているし見慣れないジャージ姿だったので一瞬わからなかったが、あの元気で特徴がある高い声は澪だ。細身の身体に低い身長の澪が運動部だと知り俺は再び意外だな、と思った。
「もうちょい! いける、いける!」
自分もしんどそうなのに、後ろを向いて声をかけている。遅れそうな部員の背中を軽く押して、笑いながら前に戻っていく。彼の周りには苦しそうにしながらもその明るい声に励まされて笑う部員達の姿。
その様子を見ていると、さっき昼休みに頭をわしゃわしゃされていたときとはまた違う『健気さ』が見えた。可愛がられているだけじゃない。
ちゃんと、自分なりに誰かを引っ張ろうとしている。俺は甘い煙を吐きながら、ゆっくり目でその姿を追っていた。
ランニングが終わって、部員たちが一斉に立ち止まり、息を整える。顧問の先生が何か指示を出している横で、澪が頭の後ろに手を組んで空を見上げた。
その視線の先に、ちょうど屋上がある。目があった――澪の丸く見開かれた目が、はっきり俺の姿を捉えるとそのあとすぐ、笑った。
走ったあとで息が上がっているはずなのに、顔だけは妙に嬉しそうで、手を大きく振ってきた。
その瞬間、少し遅れて隣にいた部員たちも空を見上げる。数人の視線が一度に屋上に飛んできたのを感じて、急に自分がとんでもなく悪いことをしているような気持ちになってしまい、俺は反射的に、柱の影に身を引いた。
「はは……」
デバイスを指先で回しながら、ふと苦笑いが漏れる。他の生徒に見られるのはまだいいにせよ、澪にだけは見られたくなかったな、と思った。
あれだけ偉そうに説教めいたことを言ったばかりなのに。
翌朝。校門の前は、いつものように生徒たちのざわめきで満ちていた。朝の校門指導。これはこれで色々な生徒と交流ができる場ではあるから、悪くないと思い始めていた。
「凪せんせー!おはようございます!」
「おはよう」
「今日もイケメンだね~!」
「はいはい。どうもどうもー」
女子生徒の挨拶に軽く返事をしながら、校門の横に立っていると、少し離れたところから聞き覚えのある男子たちの笑い声が近づいてきた。
例のメンバーだった。前髪金髪、ピアス、ジャージ腰パン、そして丸メガネがその輪の中の低いところでひょいと揺れている。
「おはようございます、凪先生」
澪が真っ先に頭を下げる。その後ろから、いつものメンバーもつられて緩い挨拶の言葉を投げかけてぺこぺこ頭を下げた。
「おはよう。あれ? 今日は煙の匂いがしないみたいだね」
「うわっ先生、根に持つタイプっすね」
俺が冗談半分で先日の出来事をからかうと、ピアスの生徒が笑いながら答えた。喫煙していたピアスの生徒とも、軽い会話をするようになっていた。
そして澪が、一歩だけ前に出て、小声で言った。
「凪先生、昨日、屋上にいましたよね」
「……」
「タバコ、吸ってましたよね!」
丸メガネの奥の目が、責めるというより『知ってますよ』とでも言いたげに得意げな感じで喋りかけ目をきらきらさせている。後ろのほうから、すかさずピアスが口を挟んだ。
「え、マジ? 凪ちん、ずるくない? 俺にあんだけ言っといて」
「ほんとっすよ。俺らも一服付き合いますよ、凪ちん」
「屋上で喫煙指導受けたいっす」
「君たち、反省してないね。てか、なにその凪ちんって」
「いいじゃん! 朝比奈だとなげーから、凪ちん! んでこいつが澪ちん!」
「凪ちん、澪ちん……? 人のことをちんちんちんちん言わないで欲しいな。それに、あさひなも、なぎちんも、文字数変わんないと思うけど」
「うわっ! 凪ちん! 朝から下ネタ連発で最低だな! まあ、細かいことは気にすんなって」
テンションの高いやり取りが交わされていくが、この連中は完全に俺を教師としてではなく友達みたいな目線で見てきている。
でも、この距離ならではの楽しさがあるし、いざという時に頼ってくれるのではないかと思っている。
そして、そんな会話をニコニコしながら聞いていた澪が眼鏡をちょんと上げて会話に入ってくる。
「でも先生、なんで隠れたんですか?」
「そりゃあ、あんな一斉に見られたら、誰でも隠れたくなるでしょ」
「ほんとかなー。実は注意した手前、自分も吸ってるの見られて気まずくなったとかですか?」
「はは。鋭いね。正解っ」
くすっと笑いを含んだ、からかいに近い声で問い詰めてくる。核心を突いている上に認めざるを得ないので、素直に俺は答えた。
「まっ先生だって、完璧な大人じゃないってことだよ」
「ずりーよなー大人って。都合のいい時だけ大人大人ってさー」
「わかるわー。『大人』って単語で片付けて、なんとかなると思ってんだよ」
「はは。君たちも大人になればよくわかるよ。子供たちにとってみれば、大人はみんな、だいたい狡《ずる》いからね。ここを使って、常に逃げ道は確保しておくんだよ」
わざとらしく頭に指をトントン触れると、澪は笑った。頬は緩み、本当に楽しそうな顔をして笑っている。
「生徒は、逃げ道なんてないのに、大人はタバコに逃げるんですか」
「げっ」
「言ってたじゃないですか、身体の成長を妨げるし吸っててもいい事ないって」
「まあ……そうは言ったけど。俺は別にたばこ吸ってても良い年齢だし?」
「えーっ。生徒には、やめろって言ってたのに?」
「わかったわかった! 努力はしてみるよ。ってそもそも、生徒にやめろって言うのは当たり前でしょ」
「じゃあもし、吸ってるところ見られたらどうします?」
「うーん。そうだな。次は、もうちょっと自然に隠れてみるよ」
「あのー。そういう意味じゃないんですけどー?」
そんな会話をしているうちに、予鈴が鳴った。
「ほらほら。遅刻するよ! 行って行って」
「うぃーす」
「行きまーす」
俺は金髪やピアス達を軽く押すようにして門の中へ送り出す。澪も、「行ってきます」といつもの調子で笑ったあと。
「朝から先生と話せて。ちょっとやる気になりました! 今日も頑張ります! またあとで!」
去り際に小声で付け足したあと、ニコッと笑って眼鏡をちょんと上げて校門を抜けて行った。その背中を見送りながら、俺はふっと、胸の中でひとつ息を吐いた。
明るくて、健気で、人懐っこくて。ちょっと生意気な生徒達は俺の気持ちを上げてくれる。そう言われて俺もやる気になってきた。
校門での生徒とのやりとりは、俺に教師としての活力を与えてくれる。どんなに落ち込むことがあったとしても、前を向こうって思わせてくれる気がした。
澪との出会いは、こんな具合だった。運命的な出会いでもない。至って普通に一人の教師が、一人の生徒と出会っただけ。なんてことないささやかな日常の一コマみたいな顔をして、今でもこうして俺の記憶の中に並んでいる。
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