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第一章
第五話
しおりを挟む翌日のクラスは、昨日の始業式の日よりも和やかでリラックスした空気が流れていた。春の光が斜めに差し込む教室で、俺はカツカツとチョークを走らせたあと、生徒たちの顔を見渡す。
窓側の席の後ろから二番目の席――澪は外を眺めていた。黒板の文字よりも、窓の向こうの海を見ている時間のほうが長そうだ。試しに、一瞬だけ視線を置いてみるとメガネ越しに小さく目を見開いて、慌てて背筋を伸ばした。
「じゃあ、この例文……相良、読んでみてくれる?」
「えっ、あ……はい」
名前を呼ぶと、澪の肩が小さく跳ねた。びくっと驚いたあと、そっと人差し指でメガネのフレームを押し上げる。
その仕草は無駄に力が入っていて、指先がほんの少し震えている。緊張を誤魔化すための『おまじない』のようにも見えた。
恥ずかしさを堪えるようにうつむいたまま立ち上がる前、澪はもう一度、ちょんと控えめにメガネを持ち上げる。フレームの奥で揺れる瞳が、不安とがんばろうという意気込みの両方を映していて、見ているこちらの胸までくすぐられる可愛さのようなものを秘めていた。
読み上げる声は最初こそ震えていたが、次第にリズムを掴んだのか、読み終わるころにはすっかり落ち着いた声に変わっていた。つまずくことなく読み切れたことが嬉しいのだろう、ふっと浮かんだ誇らしげな笑みと、その直後にまた照れ隠しのようにメガネをちょんと触る。それが、澪の癖だということがわかった。
「ありがとう。座っていいよ」
「はい」
授業が終わってチャイムが鳴ると、生徒たちは一気に休み時間のテンションになる。笑い声、椅子を引く音、廊下を走る足音。その中で、澪はノートを閉じるのが少し遅かった。ピアスや前髪金髪に肩を叩かれたが「先に行ってて」と笑い、教壇のほうへ歩いてくる。
「あの、先生」
顔を上げると、ノートを胸に抱えた澪が、丸眼鏡の奥の目を少し気まずそうに揺らしながら立っていた。
「昨日は……ありがとうございました」
「ん? ああ。たばこ?」
「はい。ほんとにもし違う先生に見つかってたら、たぶん本当にまずかったので。よくよく考えたら……なんか怖くなりました」
「はは。まあ、俺の機嫌が良かったってことで」
冗談めかして言うと澪は一瞬固まって、それから一瞬目を逸らして苦笑した。彼は真剣に感謝の気持ちを伝えてきていたみたいで、それを軽く返してしまったことを少しだけ俺は反省した。
「でも、本気で親に言われたら泣いてたと思います」
「え、なんで?」
「俺、あんまり母さんに迷惑かけたくないんです。母子家庭で……母さんいつも忙しいから。俺のことに時間を使ってほしくなくて」
「……そっか。それなら尚更、親に迷惑をかけないように気をつけないとだね」
「はい……すみません、なんかちょっと重たい話になっちゃって。でも、先生はこうゆう話しても平気そうだなって思って」
「はは。うん、いいんだよ。相談は年中受け付けてるって言ったでしょ? だから、気にしないで」
澪は照れたように小さく笑う。非常階段での毅然とした態度や堂々とした目線は、彼なりの静かな反抗だったのかもしれない。
自分の弱味を他人に見せたくないタイプなのか、それとも単純に俺のことを警戒していたのか。
いずれにせよ、今目の前で可愛らしく目を垂らして笑ってる彼は、実に高校生らしい。
「で? 何か授業のことで聞きに来たのかな?」
「あ、そうなんです! ここ、説明聞いてたんですけど、まだよく分からなくて。なんとなく分かった気はするんですけど、なんかこう、自分の中でしっくり来てなくて」
「なるほどね」
思い出したように、付箋がいくつも並んだノートのページを開く。そのページはまるで教科書の一部かと思うほど整っていて、行間は揃い、特徴的な丸文字が一文字ずつ丁寧に呼吸をしているように並んでいた。
見せられた部分には、淡い色のマーカーが主張しすぎないように引かれ、要点ごとに色がきちんと分けられている。
無駄に派手ではなく、けれど一目で『ここが大事』と分かる、几帳面な人間にしか作れない静かな美しさがあった。ノート全体がまるで一冊の作品のように、理解しようとした痕跡がどの行にも丁寧に刻まれている。
このノートからは相良澪という妥協を許さないまっすぐで真面目な性格が全て伝わってきた。眼鏡の奥からは、少し必死さまで伝わってくる。まるで『俺は納得するまで引きません』と言わんばかりに。
「じゃあ、例え話をしようか」
俺はノートの余白にさらさらと書きながら、澪がわからないと疑問に思っている箇所を丁寧に教えた。澪はふむふむと頷きながら、赤いボールペンを鼻に当ててしっかりと、俺の話を聞いている。
春風が厚いカーテンを揺らすと、シャンプーの香りがふわっと香る。弱い日差しが、柔らかそうな黒髪を少しだけ透かしていた。
「……あ、分かったかもしれないです、それ」
「おっ、飲み込みが早いんだね」
「先生の教え方、わかりやすいです!」
ぱっと顔が明るくなり、また眼鏡をちょんと押し上げる。理解がカチッとハマった表情があまりにも清々しくて俺も教えていて気持ちのいい瞬間だった。
ノートに新たな文字が加えられてマーカーが引かれていく。俺はペンを走らせる澪を見ながら呟いた。
「相良はさ、友達思いだよね」
「え、俺ですか? どうしてですか?」
「昨日の一件もそうだけど。友達といるときの顔、教室で見てると分かるよ」
「え、見てたんですか?」
「まあ一応、担任だからね」
「なんか、ちょっと恥ずかしいですよ」
澪は頬を触りながら、照れたように笑った。白い頬が、うっすらと赤みを帯びている。やがて教室から生徒達が次の授業の教室へとゾロゾロと移動を始めると、澪は慌ててノートを閉じた。
「あ、行かなきゃ。先生、ありがとうございました。また、分からないとこあったら来てもいいですか?」
「いつでもどうぞ。遠慮されると、それはそれで寂しいからさ」
「じゃあ、遠慮しないで来ます! それじゃ、行ってきます!」
「はい。行ってらっしゃい」
えへへ。と笑ったあと、教室を飛び出していく背中を見送りながら、気づけば口元が少し緩んでいたことに気づく。扉が閉まる音がして、廊下の足音が遠ざかっていく。
俺はまだ、さっきまで澪が立っていたあたりをなんとなく見つめていた。分からないところをちゃんと分からないと言えて、納得したら素直に顔を明るくする。
チョークをケースに入れ直しながら、さっきの「また来ます」という声が、耳の奥にほんのり残っているのを感じた。
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