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颯の策略
休みが明け、またいつもの日常が始まった。朝、いつもの時間にオフィスへ着きデスクへ向かう。目の前のモニターに電源を入れメールを開く手つきさえも、いつもと変わらない。
「おはようございます、先輩」
聞き慣れた、礼儀正しい声。視線を向けると颯がすでに隣の席でパソコンを立ち上げ朝のルーティンをこなしていた。
その仕草も、言葉遣いも、笑みも。どこを切り取っても、いつもの颯だった。
だが俺の中には、ほんのわずかな変化があった。何気なく目をやったシャツの脇のあたりに視線が引き寄せられる。
汗じみなんてあるはずもない。気づかれないようにすぐ目を逸らす。心を振り払うように、画面に集中する。だけど、意識はもう完全に過去のままではなかった。
隣で颯が、何事もなかったかのように、静かに資料を作っている。ふわりと香る柔軟剤のムスクの香り。そしてその横顔には、相も変わらず、あどけなさと涼しげな清潔感が漂っていた。
周囲の視線に映るのは、ただの上司と部下。三年目の営業担当と、新卒の新人。それ以上でも、それ以下でもない。
――それなのに、自分の内側だけが、知らない場所へ踏み込んでしまったような感覚に、俺は少しだけ眉を曇らせた。
その日の夜。ソファに座りハイボールを飲み干す。手の中の缶がぬるくなった頃。俺はふと、自分のシャツの襟元に手を伸ばした。指先でつまみ、そっと鼻に近づける。ほんのりと、汗の匂いがする。今日一日の疲れが染みついた、いつもの香り。
だけど――違う。これじゃない。この汗の匂いじゃない。目隠しの奥で嗅がされた濃くて、熱くて息が詰まりそうだったあの匂い。
あの、颯の匂いを――今、自分はまた、嗅ぎたいと思ってるらしい。
できれば思い出したくはない。忘れたふりをしていたのに。こうして夜が静まると勝手に蘇ってくる。じんわりと身体がほてるような感覚と一緒に。
「……馬鹿みたいだ、俺」
呟いた声が自分でも思った以上にかすれていた。何に囚われているのか、自分でもまだ分かっていないふりをしていたかった。けれど、確かに感じている。
あの夜から何かが変わってしまったことを。認めたくないこの感情と、まだ言葉にできないこの欲望が、じわじわと、心を侵食している。
○
ある日の朝。社内の空気はいつも通りで、キーボードを叩く音と、電話の呼び出し音が静かに混ざり合っていた。何事もなかったかのように颯を見ると、変わらぬ笑顔で軽く会釈を返してくる。
「先輩、今日のプレゼンよろしくお願いしますね」
「……ああ。こっちこそ頼りにしてるよ」
一言交わす会話も自然で、誰が見てもただの上司と部下だった。
そのプレゼンを行うため、電車に乗り込む。混雑には巻き込まれず、二人並んで立っていた。颯はつり革に手を伸ばし俺はそのすぐ隣で無言を貫いていた。
ふと、目に入る。颯の半袖シャツの隙間。わずかに開いた布の奥白い肌がちらりと覗く。
その奥に――確かに顔を埋めさせられた場所がある。電車の揺れに合わせて颯の身体が小さく動くたび布が浮き、また沈んでいく。
あの夜の匂いが、香ってくるわけではない。清潔感のあるこの青年の、その秘められた場所からは到底考えられない。
けれど、頭の奥が勝手に匂いを思い出す。記憶が濃く蘇って、思わず喉が鳴った。
汗ばんだ肌の香り。甘くて、むせかえるような、あの香りをもう一度嗅ぎたい。その衝動が、喉元まで込み上げてくる。
「……どうしました?」
不意に、隣の颯が振り返る。あどけない笑顔と少し汗をにじませた額。声は、いつもより少し高めで子供のように無邪気だった。
「暑いですね。大丈夫ですか? 顔、赤いように見えますけど……」
心配そうな表情。けれど、その目の奥には――わずかに、満足げな揺らぎがあった。
俺の視線に気づいていたのか?
ずっと、最初から分かっていたような顔だった。視線を逸らすこともできずに俺は静かに息をつく。何でもないふりをしながら、胸の奥に押し込んだ衝動は、もう形を変えて膨らみはじめていた。
プレゼンは無事に終わった。クライアントの反応も上々で手応えもある。肩の力が抜けて自然と俺も小さく息を吐いた。
その横で、颯がスマホを確認してから嬉しそうに顔を上げた。
「先輩、お疲れさまでした。次の打ち合わせまで時間ありますね。あ、あそこにカフェありますよ」
そう言って、颯が指差したのは駅ビルの中にある小さな喫茶店だった。
「少し、休みませんか? 喉乾いちゃいました」
俺は断る理由もなく、黙ってうなずいた。二人が腰掛けたのは窓際のテーブル。向かい合わせではなく横並びのソファ席だった。運ばれてきたアイスミルクティーを前に颯がストローを咥えた。
小さな音で氷がカラカラと鳴る。
「ふぅ。おいしい! やっぱり、汗かいちゃいますね」
そう言いながら、颯はシャツの襟元を指でつまんで首筋を扇いだ。その仕草があまりに自然で――それでいて、無防備すぎた。
一瞬、視線がそちらに吸い寄せられる。すぐに逸らす。
すると、すかさず。
「……先輩?」
颯がのぞき込んでくる。距離が近い。ムスクの香りが――ふわりと寄ってくる。
「さっきから、ぼーっとしてませんか?」
「……寝不足ですか? あ! 肩とか……貸しましょうか?」
冗談めかして颯は自分の肩をすっと差し出す。
「さっきから、先輩……。ちょっとだけ……苦しそうに見えます」
笑っているのに、声はやけに静かだった。知らないふりをしているのは、自分の方だと――思い知らされる。颯の仕掛けは、静かで、甘い。そして、抜け出せないほど、巧妙だった。
プレゼンを終えた帰り道。夕方のラッシュ前の電車は、まだ混み合うには少し早く、運よく並んで座れた。颯は小さく伸びをすると俺の顔をちらりと見た。
「今日も、フォローしていただいて、ありがとうございました。先輩が一緒で、すごく心強かったです!」
「……いや、よくやってたよ。あの場で、あれだけ話せたら十分」
そう返すと、颯がまた、くすりと笑う。
「えへへ。先輩に褒められるの好きです」
なんでもないような声音なのに言葉の最後が妙に耳に残った。
すると、電車が揺れて颯が少し身を寄せた。前で抱えたリュックが当たって、自然と距離が近づく。
「このまま帰るんですか?」
「……予定はないけど」
「じゃあ……飲みに行きませんか?」
笑顔のまま、さりげなく問いかける。その顔は近い。車内の揺れに合わせて、肩が触れる。
「軽くでいいので。もうちょっと先輩と話したいです」
「じゃあ、一杯だけな」
「やったあ! じゃあお店選びは任せてください」
休みが明け、またいつもの日常が始まった。朝、いつもの時間にオフィスへ着きデスクへ向かう。目の前のモニターに電源を入れメールを開く手つきさえも、いつもと変わらない。
「おはようございます、先輩」
聞き慣れた、礼儀正しい声。視線を向けると颯がすでに隣の席でパソコンを立ち上げ朝のルーティンをこなしていた。
その仕草も、言葉遣いも、笑みも。どこを切り取っても、いつもの颯だった。
だが俺の中には、ほんのわずかな変化があった。何気なく目をやったシャツの脇のあたりに視線が引き寄せられる。
汗じみなんてあるはずもない。気づかれないようにすぐ目を逸らす。心を振り払うように、画面に集中する。だけど、意識はもう完全に過去のままではなかった。
隣で颯が、何事もなかったかのように、静かに資料を作っている。ふわりと香る柔軟剤のムスクの香り。そしてその横顔には、相も変わらず、あどけなさと涼しげな清潔感が漂っていた。
周囲の視線に映るのは、ただの上司と部下。三年目の営業担当と、新卒の新人。それ以上でも、それ以下でもない。
――それなのに、自分の内側だけが、知らない場所へ踏み込んでしまったような感覚に、俺は少しだけ眉を曇らせた。
その日の夜。ソファに座りハイボールを飲み干す。手の中の缶がぬるくなった頃。俺はふと、自分のシャツの襟元に手を伸ばした。指先でつまみ、そっと鼻に近づける。ほんのりと、汗の匂いがする。今日一日の疲れが染みついた、いつもの香り。
だけど――違う。これじゃない。この汗の匂いじゃない。目隠しの奥で嗅がされた濃くて、熱くて息が詰まりそうだったあの匂い。
あの、颯の匂いを――今、自分はまた、嗅ぎたいと思ってるらしい。
できれば思い出したくはない。忘れたふりをしていたのに。こうして夜が静まると勝手に蘇ってくる。じんわりと身体がほてるような感覚と一緒に。
「……馬鹿みたいだ、俺」
呟いた声が自分でも思った以上にかすれていた。何に囚われているのか、自分でもまだ分かっていないふりをしていたかった。けれど、確かに感じている。
あの夜から何かが変わってしまったことを。認めたくないこの感情と、まだ言葉にできないこの欲望が、じわじわと、心を侵食している。
○
ある日の朝。社内の空気はいつも通りで、キーボードを叩く音と、電話の呼び出し音が静かに混ざり合っていた。何事もなかったかのように颯を見ると、変わらぬ笑顔で軽く会釈を返してくる。
「先輩、今日のプレゼンよろしくお願いしますね」
「……ああ。こっちこそ頼りにしてるよ」
一言交わす会話も自然で、誰が見てもただの上司と部下だった。
そのプレゼンを行うため、電車に乗り込む。混雑には巻き込まれず、二人並んで立っていた。颯はつり革に手を伸ばし俺はそのすぐ隣で無言を貫いていた。
ふと、目に入る。颯の半袖シャツの隙間。わずかに開いた布の奥白い肌がちらりと覗く。
その奥に――確かに顔を埋めさせられた場所がある。電車の揺れに合わせて颯の身体が小さく動くたび布が浮き、また沈んでいく。
あの夜の匂いが、香ってくるわけではない。清潔感のあるこの青年の、その秘められた場所からは到底考えられない。
けれど、頭の奥が勝手に匂いを思い出す。記憶が濃く蘇って、思わず喉が鳴った。
汗ばんだ肌の香り。甘くて、むせかえるような、あの香りをもう一度嗅ぎたい。その衝動が、喉元まで込み上げてくる。
「……どうしました?」
不意に、隣の颯が振り返る。あどけない笑顔と少し汗をにじませた額。声は、いつもより少し高めで子供のように無邪気だった。
「暑いですね。大丈夫ですか? 顔、赤いように見えますけど……」
心配そうな表情。けれど、その目の奥には――わずかに、満足げな揺らぎがあった。
俺の視線に気づいていたのか?
ずっと、最初から分かっていたような顔だった。視線を逸らすこともできずに俺は静かに息をつく。何でもないふりをしながら、胸の奥に押し込んだ衝動は、もう形を変えて膨らみはじめていた。
プレゼンは無事に終わった。クライアントの反応も上々で手応えもある。肩の力が抜けて自然と俺も小さく息を吐いた。
その横で、颯がスマホを確認してから嬉しそうに顔を上げた。
「先輩、お疲れさまでした。次の打ち合わせまで時間ありますね。あ、あそこにカフェありますよ」
そう言って、颯が指差したのは駅ビルの中にある小さな喫茶店だった。
「少し、休みませんか? 喉乾いちゃいました」
俺は断る理由もなく、黙ってうなずいた。二人が腰掛けたのは窓際のテーブル。向かい合わせではなく横並びのソファ席だった。運ばれてきたアイスミルクティーを前に颯がストローを咥えた。
小さな音で氷がカラカラと鳴る。
「ふぅ。おいしい! やっぱり、汗かいちゃいますね」
そう言いながら、颯はシャツの襟元を指でつまんで首筋を扇いだ。その仕草があまりに自然で――それでいて、無防備すぎた。
一瞬、視線がそちらに吸い寄せられる。すぐに逸らす。
すると、すかさず。
「……先輩?」
颯がのぞき込んでくる。距離が近い。ムスクの香りが――ふわりと寄ってくる。
「さっきから、ぼーっとしてませんか?」
「……寝不足ですか? あ! 肩とか……貸しましょうか?」
冗談めかして颯は自分の肩をすっと差し出す。
「さっきから、先輩……。ちょっとだけ……苦しそうに見えます」
笑っているのに、声はやけに静かだった。知らないふりをしているのは、自分の方だと――思い知らされる。颯の仕掛けは、静かで、甘い。そして、抜け出せないほど、巧妙だった。
プレゼンを終えた帰り道。夕方のラッシュ前の電車は、まだ混み合うには少し早く、運よく並んで座れた。颯は小さく伸びをすると俺の顔をちらりと見た。
「今日も、フォローしていただいて、ありがとうございました。先輩が一緒で、すごく心強かったです!」
「……いや、よくやってたよ。あの場で、あれだけ話せたら十分」
そう返すと、颯がまた、くすりと笑う。
「えへへ。先輩に褒められるの好きです」
なんでもないような声音なのに言葉の最後が妙に耳に残った。
すると、電車が揺れて颯が少し身を寄せた。前で抱えたリュックが当たって、自然と距離が近づく。
「このまま帰るんですか?」
「……予定はないけど」
「じゃあ……飲みに行きませんか?」
笑顔のまま、さりげなく問いかける。その顔は近い。車内の揺れに合わせて、肩が触れる。
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