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チャット切り貼り:主人公が“共犯”にされる
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翌朝、スマホがアラームより先に鳴った。
寝起きの指で画面を撫でた瞬間、通知が雪崩みたいに崩れてくる。
“#全社-共有 99+”
“#総務-共有 67”
“#統合PJ-速報 31”
“匿名通報窓口 新規投稿:—”
数えるのが馬鹿らしい速度で、画面が埋まっていく。
炎上は、声じゃなくて“既読”で広がる。
誰かが読む。誰かが反応する。誰かが「見た?」と書く。
その一行が、火に酸素を足す。
私はベッドから起き上がり、すぐにノートPCを開いた。立ち上がる青白い光が、部屋の壁を一段冷たく見せる。
画面の中で、火はもう燃えていた。
「A(告発者)自宅待機=黒」
「守秘義務違反ってことは情報漏洩だろ」
「社長が匿ってた証拠、出回ってる」
「福本、本社のくせに社長側で草」
「“同じ側です”って言ってたよね?」
「守秘義務違反を止めたがってたの、逆に怪しい」
“草”の一文字が、胃の奥を冷たくする。
笑いは、処刑の前座になる。
私は呼吸を整え、スクロールを止めた。
読む順番を間違えると、こっちの心が先に折れる。
見るべきは内容じゃない。形だ。
発言の癖。句読点。改行位置。時間。
そして——どのコメントが、どのコメントに火を渡しているか。
画面の端で、また通知が光った。
件名は、短い。
【統合PJ】重要:社内秩序維持のための注意喚起
送信者:佐伯
開く前に、もう分かる。
「鎮火」と言いながら、燃料を配るやつだ。
私はメールを開かず、先にチャットの“固定された投稿”を確認した。
固定文がある。炎上の時、固定文は“旗”になる。
「本件に関する投稿は守秘義務に抵触する恐れがあります。
情報を拡散した場合、厳正に対処します」
守秘義務。
また首輪の言葉。
そして固定したのは、監査室のアカウント。
私は笑いそうになって、笑えなかった。
“拡散するな”と言いながら、固定する。
固定は、全員の目に入れる手段だ。
つまりこれは「止める」じゃなく「方向を揃える」。
机の上に、昨夜の証拠保全メモを広げる。
新人が持ってきた署名紙のコピー。
匿名通報の量産時刻。
切り貼りされたスクショ。
そしてUSBの中の【匿名通報_文案】——未だ開いていないファイルが、そこにある。
胸の奥で、あの警報が鳴った。
燃えるな。
でも燃えないままじゃ、守れない。
ドアを叩く音で、現実に引き戻された。
控えめじゃない、急かすノック。
続いて、社長の声がする。低い。短い。
「開けろ」
私は鍵を開けた。
社長はコートのまま立っていた。髪が少し乱れている。寝ていない目。怒っている目。
その怒りは私に向いていない。——外の空気に向いている。
「見たか」
「見ました」
「監査が、“全社向けに”告発者の自宅待機を流した」
「守秘義務違反、ですね」
「ふざけるな」
社長の声が一段下がる。怒鳴らない怒り。ここは壁が薄いから。
私は机の画面を指した。
「今は、止めるより先に“形を崩す”必要があります」
「形?」
「炎上の中心は二つ。“守秘義務違反=黒”の短絡と、“あなたと私が共犯”の絵です」
私が淡々と言うと、社長は舌打ちを飲み込むように息を吐いた。
「じゃあ、どう崩す」
「全文で出す」
社長の眉が動く。
「全文?」
「切り貼りされてるなら、切り貼りできないものを先に出す。——ただし、私の口じゃない。『手続き』として」
社長が一歩近づく。車内みたいに逃げ道のない距離じゃない。確認の距離。
「お前、やる気か」
「やるしかない」
言った瞬間、胸の奥が熱を持ちかける。私はすぐ、机の上の書類を一枚滑らせた。境界線。仕事の線引き。
社長が書類に視線を落とす。
そこには私が今朝作った、タイトルだけの文書がある。
『証拠保全・聴取手続の適正性に関する申立書(暫定)』
社長の口元がわずかに歪む。
「……喧嘩売ってるな」
「売られた喧嘩です」
私は返した。
「先に買われた。だから、正式に返す」
そのとき、私のスマホが震えた。
佐伯からのメール——じゃない。
社内チャットの新規投稿。固定とは別の“速報”が、全社へ投下されている。
「【速報】福本(本社人事)、監査への協力姿勢に疑義。
ヒアリング妨害の恐れあり。
本日中に統合PJ担当変更の可能性」
担当変更。
つまり、私を外す。
手続きを押さえる人間を外す。
火元に近づく前に、私の足を折る。
社長も同時に画面を見た。
目が、鋭くなる。
「……やっぱり狙いはお前だ」
「ええ」
私は静かに頷いた。怖いのに、妙に落ち着く。狙いが見えたら、対策が立つ。
「社長」
私は言った。
「あなたは“現場”を押さえて。今から、班長たちに“静かに”伝えてください。声を上げるな、じゃない。証拠を残せって」
「お前は」
「私は、監査に“正式文書”を入れます。全文で。条件付きで。切り貼りできない形式で」
社長が一拍だけ黙り、低く言った。
「……折れるな」
「折れません」
嘘じゃない。もう折れたら終わるところまで来ている。
その瞬間、PCの画面がまた光った。
今度は“匿名通報窓口”の新規投稿。
タイトルが、短い。
「告発者は“外部”と通じている」
外部。
一番危険な単語。
守秘義務違反の次に、人を即死させるラベル。
本文には、たった一行。
「証拠:USBで持ち出し(写真あり)」
社長が息を止めたのが分かった。
告発者のUSB——あれの存在を、向こうが掴んだ。
しかも“写真あり”と来たら、次は拡散がセットだ。
私は立ち上がり、鞄を掴んだ。
「社長、告発者を移動させて。今すぐ」
「どこへ」
「“ここじゃない場所”へ」
社長が頷く前に、私のスマホがもう一度震えた。
今度は、佐伯からの着信。
画面には、穏やかな名前が表示されているのに、呼び出し音はサイレンにしか聞こえない。
社長が、私の顔を見て言った。
「出るな」
私は目を閉じ、息を一つ吸った。
出なければ燃料。
出ても燃料。
——なら、燃料の使い方をこちらが決める。
私は通話ボタンに指を置いた。
会議室のドアを開けた瞬間、空気が“刃”になっていた。
机の配置はいつも通り、椅子の数もいつも通り。なのに、座っている人の角度が違う。視線が、最初から一点に揃っている。
——私だ。
班長クラスが数人。総務。現場の古株。若い社員は端に固まって、口を閉じる準備が出来ている。
壁際には監査室の二人。笑っていないのに、礼儀の形だけは整っている。そこが一番怖い。
「本社人事の福本です」
名乗った途端、誰かが鼻で笑った。
「“同じ側です”って言ってた人?」
一言で、会議室の温度が落ちる。
切り貼りされたあのスクショ。条件が消された断定。もう“私の言葉”じゃない言葉が、ここに先回りしている。
「その発言は、条件部分が切られています」
私は即答した。否定より先に、事実の形に戻す。
「本来は『守る側に立つなら』という条件付きです。誰に対して、どの場面で言ったかも含めて、記録があります」
「記録?」
別の班長が言う。声に敵意が混ざっている。
「記録ってのは、“都合のいいやつ”だけ残すんじゃないの?」
周囲が小さく頷く。
敵意は、正義の服を着ている。正義の服を着た敵意は、最も燃える。
私は机の上に、紙を一枚だけ置いた。
タイトルだけの文書。
『証拠保全・聴取手続の適正性に関する申立書(暫定)』
「今日は、誰かを裁く会じゃありません」
私は声を落とした。落とさないと、壁越しに燃料が増える。
「“裁かれるように作られている流れ”を止めるための会です」
「止める?」
総務の年配者が言った。
「もう自宅待機になってる。止めようがないだろ」
「止められます」
私が言い切ると、監査室の片方が、柔らかく口を挟んだ。
「福本さん。発言は慎重に。現場を混乱させます」
混乱させる——それは“封じる”の別名だ。
私は監査を見ずに、現場の人に向けて答えた。
「混乱ではなく、整列させられているんです」
一拍。会議室が静かになる。
誰かが、その言葉の意味を咀嚼する。整列。正しい顔。噂。匿名通報。守秘義務。懲戒。全部が一本の棒で突かれている感覚。
最前列の班長が机を指で叩いた。
「言ってることは分かるよ。でもな、現場は昨日から地獄なんだ」
声が少しだけ震えている。敵意の奥に疲労がある。
「社長は不倫だ、告発者は黒だ、本社は切りに来た、守秘義務違反だって。もう何が本当か分からない。で、あんたは何を守るって?」
質問が、まっすぐだった。
私は息を吸い、答えを一つに絞る。
「生活です」
会議室のどこかで、小さく空気が動く。
「片道三時間の異動。二週間。辞めざるを得ない設計。それを“本人都合”にする文章。——それが現場の生活を壊す。私はそこを止めます」
「証拠あんの?」
若い社員が、ほとんど叫ぶように言った。言ったあとで自分の声に驚いて黙る。
私は頷いた。
「あります。ただし“私の口”じゃなく、手続きで出します」
そして続ける。
「ここで必要なのは、皆さんの“気持ち”じゃない。——皆さんの事実です」
「事実?」
班長が眉をひそめる。
「何を出せって」
「昨日から今朝にかけて、誰が何を言ったか。どのチャットで、どの時間に、どんな文面が回ったか。守秘義務の紙に署名させたのは誰か。言い方を指定されたなら、その言葉そのまま」
私は一つずつ言った。箇条書きのように。切り貼りできない形にするために。
監査室の男が、また柔らかく言う。
「福本さん、現場を煽るのは——」
「煽ってません」
私は初めて監査を見る。声だけは平らに。
「保全です。あなたたちが言っている“証拠保全”を、正しくやるだけです」
監査の男の眉が、ほんの少しだけ動く。
効いた。
会議室の隅で、ずっと黙っていた総務の女性が、紙を一枚差し出した。
手が震えている。
「……これ、昨日、監査の人が置いていきました」
見覚えのある書式。
秘密保持・守秘義務に関する注意喚起
新人のと同じ匂い。首輪の紙。
班長たちの目が、その紙に吸い寄せられる。
敵意が、初めて“方向”を失う。
誰に向けていいか分からなくなる。
私はその紙を受け取り、机の中央に置いた。
「これが、今の炎上の芯です」
声を落とす。
「守秘義務は盾です。でも今は——口を縛る首輪になっている」
沈黙。
次の瞬間、班長がぽつりと言った。
「……俺たち、何も言えねえってことか」
それは敵意じゃない。諦めの一歩手前の声。
「言えます」
私は即答した。
「ただし、言い方を選びます。守秘義務を破らずに“適正性”を問う。切り貼りされない形式で。全文で」
そして、最後に一言を足す。
「だから、私に“事実の断片”をください。私が繋ぎます」
会議室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
敵意が完全に消えたわけじゃない。
でも、“誰を燃やすか”の矢印が、揺れた。
そのとき、会議室の扉が開いた。
佐伯の側近が入ってくる。丁寧すぎる会釈。
そして、静かに言った。
「福本さん。至急、別室へ。——本社人事部長から“直接”です」
“直接”。
それは、手続きの外で殴る合図だ。
班長たちの視線が、また私に刺さる。
今度は敵意じゃない。
——試す目だ。
この女は、本当に守る側に立つのか、と。
私は椅子から立ち上がり、机の上の紙束を一枚だけ残して言った。
「ここで集めたものは、私が保全します。切り貼りさせません」
そして扉へ向かいながら、心の中で決める。
次の一手で、私が折れたら、現場は全部“整列”する。
——だから折れない。今度こそ、条件ごと残す。
別室は、会議室より狭く、空気が薄かった。窓のブラインドが半分だけ下ろされていて、朝の光が縞になって机を切っている。机の上には、私がさっき置いたはずのない“書類一式”が整然と並べられていた。——整えたのは、こっちじゃない。
佐伯の側近が椅子を引く。丁寧な動作。丁寧な圧。
「こちらへ」
私は座らず、立ったまま言った。
「“直接”というのは、電話ですか」
「はい。すぐ繋ぎます」
側近がスピーカーを押す。
ワンコールで繋がった。
『福本さん、お疲れさま』
佐伯の声は穏やかだった。穏やかすぎて、背中が冷える。
『現場で、余計なことを言っているそうだね』
「余計、とは」
『守秘義務だよ。君が“首輪”だの“整列”だの、煽る言葉を使うと、統合PJの秩序が崩れる』
秩序。円滑。いつもの単語。
私は呼吸を整え、机の上の“申立書(暫定)”のタイトルを指先でなぞった。触れていると、冷静になれる。
「私は煽っていません。証拠保全と聴取の適正性を確認しているだけです」
『適正性の確認は本社がやる。君の仕事は“手順通り”だ』
「手順通りなら、全ログの開示をお願いします。匿名通報窓口の投稿ログ、管理権限、テンプレの配布履歴」
一拍。スピーカー越しに、佐伯の呼吸が止まる。
『……福本さん』
名前の呼び方が、少しだけ変わった。柔らかいのに、刃。
『君は賢い。だから分かるはずだ。必要最小限で動け。波及はさせるな』
「波及を止めたいなら、切り貼りの出どころを押さえるべきです」
『切り貼り、という表現は不適切だね』
「不適切なのは、条件を削って断定だけを流す行為です」
側近の目が細くなる。監査室の男が、椅子の背で小さく咳払いをした。
この部屋には、私と側近だけじゃない。壁際に監査が二人。最初から、整列している。
『君は、社長と距離を取りなさい』
佐伯が、唐突に言った。
『現場は“敵意”が強い。君が燃えれば、全部終わる』
私の胃が冷えた。
燃えるな。君のため。いつもの鎖。
「社長との接触は、業務上必要です」
『必要最小限だ』
「では“必要最小限”の定義を、文書でください。監査にも共有してください」
沈黙。側近の指が、机の端を小さく叩く。
その瞬間——別室のドアが、ノックもなく開いた。
「——必要最小限、だと?」
低い声。社長だった。
コートのまま、目だけが燃えている。寝ていない目。怒鳴らない怒りの目。
側近が立ち上がり、慌てた礼儀を貼り付ける。
「社長、ここは——」
「俺の会社だ」
社長はそれだけ言って、私と机の間に半歩入った。庇う動き。けれど、庇い方が強引すぎて、空気が一瞬でざわつく。
スピーカーから、佐伯の声が響く。
『社長。現地対応は福本さんに任せています。介入は——』
「介入?」
社長が笑った。口だけ。
「お前らが現場に“監査”って札貼って入り込んで、匿名通報を量産して、告発者を自宅待機にして。どこが“任せてる”だ」
監査室の男が、柔らかく言う。
「社長、誤解があるようです。匿名通報は社員の自主的な——」
「自主的?」
社長が机を指で叩く。音は小さいのに、会議室より刺さる。
「二分で量産される“自主”があるなら、工場の改善も二分で終わるな」
空気が固まる。
私の胸の奥で、警報が鳴った。——これは危ない。社長が前に出ると、向こうは喜ぶ。勝ち筋を作れる。
でも同時に、社長の強引な盾が、今この瞬間だけは私の喉元の刃を逸らしたのも分かる。
『社長。冷静に。統合PJは——』
「統合PJが何だ。生活を壊していい理由になるのか」
社長の声が、ほんの少し上がる。
私は息を吸い、社長の袖を掴みたくなる衝動を押し込めた。掴んだら、写真になる。掴んだら、油になる。
代わりに、私は言葉で止める。
「社長」
短く呼ぶ。落ち着いた声。
「前に出ないでください。——出るなら、“手続き”として出てください」
社長が、私を見た。
一瞬だけ、怒りが静まる。
私は続ける。
「ここで必要なのは口喧嘩じゃない。ログです。署名です。指示系統です。——それを出せば、燃料が切れます」
社長が小さく舌打ちを飲み込み、視線をスピーカーへ戻した。
「佐伯。今すぐ出せ」
『何を』
「匿名通報窓口の管理権限とログ。監査が配った守秘義務紙の配布履歴。想定問答の原本。出さないなら——」
社長が言いかけたところで、監査室の男が遮る。
「社長、権限の範囲を——」
「俺が権限だ」
強引。乱暴。だけど、現場の人間が最後に使える言葉は、いつもそれだ。
『社長』
佐伯の声から、穏やかさが消えた。
『あなたの発言は、統合の妨害と受け取られかねない』
「受け取れ。どうせ噂は作れるんだろ」
社長が吐き捨てる。
そして、私の方を見ずに言った。
「福本。お前を外すなら、俺が止める」
その一言で、背中が冷たくなった。
止める——盾になるつもりだ。でも、その盾が強すぎると、私は“社長の女”になる。切り貼りの餌になる。
私はすぐに線を引いた。書類を一枚、社長と私の間に滑り込ませる。境界線。仕事の線引き。
「外させないためには、社長が守るんじゃなく、書面で守るんです」
社長が眉を動かす。
私は机の上の“申立書(暫定)”を持ち上げ、監査へ向けて言った。
「本日付で提出します。証拠保全と聴取の適正性に関する申立。受領印をください」
監査の男の目が、ほんの少しだけ泳いだ。
受領印は、逃げ道を塞ぐ。受け取った瞬間、手続きが始まるから。
側近が口を開く。
「それは本社の承認が——」
「承認はいりません」
私は即答した。
「申立は申立です。——拒否するなら、拒否の理由を文書でください。誰が決裁したかも」
沈黙。
社長が、ふっと息を吐く。怒りの熱が少し冷えて、代わりに覚悟が残る。
スピーカーの向こうで、佐伯が静かに言った。
『……福本さん。君は自分が何をしているか分かっているね』
「はい」
私は答えた。
「切り貼りされない形に戻しているだけです」
その瞬間、側近のスマホが震えた。画面を見た側近の顔色が、わずかに変わる。
「……監査室の車、もう一台来ています」
監査室の男が続ける。
「外部の弁護士同席です。——これ以上の議論は、正式な場で」
正式な場。
それは、“こちらの手続きを奪う”合図だ。
社長が一歩、前に出かけて止まる。
私は先に言った。
「いいです。正式な場で。——ただし、私の申立は受領してください。今この場で」
側近が紙を見つめ、監査と目を交わす。
数秒が、やけに長い。
そして、監査が言った。
「……受領します。ただし“暫定”として」
「暫定で十分です」
私は頷いた。受領印さえ取れれば、鎖は切れる。
受領印が押される。
乾いた朱肉の匂いが、妙に現実的だった。
ドアの外から、また足音。今度は複数。
廊下の空気が変わる。
“正式な場”が、こちらへ歩いてくる。
社長が低く言った。
「来たな」
私は受領印の朱を見つめ、静かに答えた。
「ええ。——ここから、切り貼りじゃなく“原本”で戦います」
新人の子——小会議室で震えていた彼女は、総務フロアの端、ロッカー前で立ち尽くしていた。
目は開いているのに、焦点が合っていない。手はスマホを握ったまま、指先だけが小刻みに震えている。画面の光が、彼女の頬を青く照らしていた。
「……呼ばれました」
私を見つけるなり、彼女はそう言った。声が、掠れている。
「誰に」
「監査の人。弁護士の人も来てるって……」
言いながら、彼女は自分の胸元を押さえた。息が入らないときの仕草だ。
私はすぐに、彼女の視線の先を見た。
廊下の向こう、ガラス張りの会議室。中に黒いスーツが数人。机の上に並ぶ資料。——“正式な場”が、現場を飲み込む準備をしている。
新人が、紙を握りしめていた。例の“守秘義務注意喚起”。折り目だらけ。署名欄に自分の名前。
その紙が、彼女の首輪になっている。
「……私、何を言えばいいんですか」
涙は出ていない。出す余裕がない泣き方だ。
「昨日は、言い方を……指定されて」
「うん」
「今日は、違う言い方をしたら……“嘘をついた”って言われる気がして」
彼女は小さく笑おうとして、口角だけが引きつった。
「私、どっちにしても、終わりですよね」
終わり、という言葉が出た瞬間、彼女の肩が落ちる。人はその瞬間に折れる。
私は即座に一歩寄り、でも触れない距離で、声を落とした。
「終わりじゃない」
短く、強く。長い慰めは切り貼りされる。
「今あなたに必要なのは、“正しい答え”じゃない。正しい順番」
彼女が瞬きをする。順番、という言葉に反応する。昨日、監査が“順番”で殴ってきた。
だから私は、順番を奪い返す形で言った。
「まず、体を守る。今、息が浅い。胸が苦しい?」
新人は頷こうとして、頷けず、喉だけが鳴った。
「じゃあ座ろう。——椅子のある場所へ」
私は廊下の角にある小さなベンチへ誘導し、彼女が座るのを見届けた。
「水、飲める?」
彼女はペットボトルを持っているのに、開けられない。指が言うことを聞かない。
私は“開けて”と言わない。手を貸したら、それも噂になる。
代わりに、彼女の手首の角度だけを、言葉で直す。
「親指でキャップを押さえて、他の指を添える。ゆっくり」
数秒かけて、キャップが回った。彼女が一口飲む。息が少しだけ入る。
「……私、昨日、福本さんに話したこと」
彼女が震える声で言う。
「もう、どこかに出回ってます。匿名通報に……“福本が新人に圧をかけて証言を翻させてる”って」
彼女の目が、また遠くを見る。
「私が喋ったせいで……福本さんが」
私は首を横に振った。
「あなたのせいじゃない。これは“量産”だよ。誰かが、あなたの口を使って、絵を作ってる」
「絵……」
「そう。被害者と加害者の絵。正しい顔の絵。共犯の絵」
私は言葉を一つだけ選び、ゆっくり置いた。
「あなたは、絵の道具じゃない」
新人の目が潤む。
でも次の瞬間、彼女のスマホが震えた。通知。
【匿名通報窓口】
「新人は精神的に不安定。証言の信頼性に疑義」
彼女が息を呑み、スマホを落としかけた。
——来た。
壊れかけたところを、さらに壊して“証言の無効化”に持っていく。首輪の次の段階だ。
「……私、壊れてるって」
彼女が呟く。
「もう、言わない方がいいんですか」
言わない方がいい。黙った方が安全。
そう思わせた瞬間に、向こうは勝つ。
私は、彼女のスマホの画面を見ずに言った。
「言う。——ただし、守られる形で」
「守られる形?」
「一人で会議室に入らない。監査と弁護士の前で、あなたが一人になる配置は作らせない」
彼女の目が揺れる。
「でも、福本さんも……狙われて」
「狙われても、やる。あなたのためじゃない。現場全員のため」
その瞬間、廊下の向こうから、監査の男が近づいてきた。柔らかい声。柔らかい刃。
「お時間です。——彼女に少し確認を」
新人の肩が跳ね、目が私に縋りつく。
私は立ち上がり、監査と新人の間に“書類”を一枚差し出した。
さっき受領印を押させた申立書の控え。朱が乾ききっていない。
「確認は、正式手続きとしてやります」
私は平らに言った。
「本人の状態は不安定です。まず医療的配慮の手続きに入れます。今日の聴取は、私同席のもと“短時間”で、記録は全文。異議があるなら文書で」
監査の眉が、ほんの少しだけ動く。
新人が、私の背中越しに小さく息を吸った。——息が入った。戻ってきた。
監査が口元だけで笑う。
「福本さん、あなたは彼女を“誘導”しているように見えます」
誘導。向こうの得意な言葉。
私は即座に返した。
「誘導ではありません。保護です。守秘義務を“首輪”にして署名させたのは誰ですか」
監査の笑みが一瞬だけ止まる。
新人が、震える声で言った。
「……私、昨日、言い方を指定されました」
自分から言った。
誰かに言わされた言葉じゃない。
本当の順番で出てきた言葉。
私は、彼女の横顔を見た。
壊れかけている。だけど、壊れきっていない。
——ここで折らせない。
「大丈夫」
私は短く言った。
「あなたの言葉は、あなたのまま残す。切り貼りさせない」
そして私は、監査に向けて、もう一度だけ言い切った。
「彼女を、道具にしないでください」
告発者は、控室じゃなく、工場敷地の外れの小さな休憩所にいた。喫煙所でもない、誰も座らないベンチ。風除けの壁があるだけの、半端に静かな場所。
「……新人、大丈夫か」
彼は私を見るなり、いきなりそれを訊いた。自分のことより先に。
「壊れかけてる。でも、折らせない」
私が答えると、告発者は短く頷いて、視線を落とした。
指先が、ずっと何かを握っているみたいに硬い。
「あなた、今日呼ばれた」
「呼ばれたよ。弁護士まで連れてきた」
「怖かった?」
「怖いに決まってる」
吐き捨てるように言ってから、彼は笑った。乾いた笑い。
「……でも、狙い通りだ」
私は言葉を止めた。
狙い通り。
その四文字が、ここまでの“被害者”の顔に合わない。
「……何の狙い」
問いが低くなる。怒りが混ざる。
告発者はようやく私を見た。赤い目。限界の目。だけど、芯が残っている。
「俺の狙いは、俺を助けてもらうことじゃない」
彼はゆっくり言った。
「統合を止めることでもない。……やり方を止めることだ」
「やり方?」
「首輪の作り方。守秘義務の使い方。匿名通報の量産。想定問答。懲戒のテンプレ。——あれを“現行犯”で掴む」
彼の声は震えていた。怖さじゃない。怒りの震えだ。
私は一歩だけ詰めた。
「あなた、最初から分かってたの?」
「分かってた」
「じゃあ——」
喉の奥が熱くなる。
「自分が燃えるのも、最初から?」
告発者は視線を逸らさなかった。
「燃えなきゃ、向こうは本気を出さない」
一拍置いて、苦しそうに続ける。
「本気を出させれば、必ずテンプレを使う。規程を盾にして、口を縛って、証言を作る。——その瞬間の紙とログが欲しかった」
私は息を吸った。
怒りが先に来る。来たのに、言葉が出ない。
彼のやり方は汚い。でも、分かる。汚いほど確実に“仕組み”が露出するのも、分かってしまう。
「……じゃあ私を巻き込んだのも」
私が言いかけると、告発者が先に答えた。
「最初からだ」
言い切ってから、彼は少しだけ声を落とした。
「社長は現場を守れる。でも手続きを切れない。監査は“正しい顔”で全部隠す。——切れるのは、本社の手続きを知ってる人間だけだ」
彼の目が私を刺す。
「福本さん、あなたしかいないと思った」
胸の奥が冷えた。
私が選ばれた。偶然じゃない。
あのUSBのフォルダ【佐伯】も、【匿名通報_文案】も、私の手に渡るように作られていた。
「……私を利用した」
「利用した」
彼は否定しない。否定しないから、言葉が重く落ちる。
「ひどいと思ってる。でも、他に道がなかった」
告発者は唇を噛んだ。
「俺が折れたら、現場の人が“本人都合”で消える。新人も、次は首輪を自分で締める側になる」
私は拳を握りしめた。
怒鳴りたいのに、怒鳴ったら“燃料”になる。
だから、確認だけを叩き込む。
「あなた、外部に出すつもり?」
告発者の喉が小さく動いた。
「……もう準備してる」
嫌な予感が背骨を走った。
「何を、どこへ」
「労基じゃない。労基は時間がかかる」
彼は淡々と言った。淡々と言うほど危険な話なのに。
「外部弁護士と、記者。あと、グループ監査委員会にも——自動で飛ぶ」
「自動?」
告発者はポケットからスマホを出し、画面を私に見せた。
カレンダーの予定。
17:00 送信
宛先が複数。ファイル添付。タイトルは短い。
——『統合PJにおける“退職誘導テンプレ”と“証言誘導”の証拠』
喉が鳴った。
これが出れば、統合の空気は破裂する。現場は守れるかもしれない。
でも同時に、新人も、社長も、私も燃える。切り貼りじゃない“原本”で燃える。
「止められるの?」
「俺がキャンセルすれば止まる」
告発者は言い、そして、真っ直ぐに私を見た。
「でも、止めたら——俺はまた首輪を締められて終わる。次はもっと綺麗に、誰も気づかない形で」
風が吹いて、ベンチの背板が小さく鳴った。
空は明るいのに、選択肢だけが暗い。
「……あなたの“本当の狙い”は」
私がゆっくり言う。
「自分を救うことじゃない。現場を守ることでもない。——仕組みを、外に引きずり出すこと」
告発者は、小さく頷いた。
「俺は悪者でもいい。悪者にならないと、悪が見えないから」
その言葉が、怖いほどに真っ直ぐだった。
私は息を吸って、吐いた。
「分かった」
声が自分でも驚くほど冷静だった。
「17:00までに、原本で勝てる形を作る。——それが間に合わなければ、あなたの自動送信を止めない」
告発者の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
救われた、じゃない。
“順番が決まった”ときの安堵だ。
「福本さん」
告発者が言う。
「あなたが折れたら、俺は送る。迷わず送る」
脅しじゃない。宣言だ。
私は頷いた。
「私も迷わない。切り貼りじゃなく、条件ごと残す」
時計は、もう午前を回っている。
17:00まで、残り時間は少ない。
そしてその時間は、私たちの側の火も——点けるかどうかの猶予だった。
別室の“正式な場”が終わった直後、私の端末に入ったのは、メールじゃなかった。
会議招集(強制)。件名は短い。
【至急】統合PJ臨時レビュー(本日16:30/本社オンライン)
出席者:佐伯、法務、監査、外部弁護士、福本
——16:30。
告発者の自動送信は17:00。
時間の切り方が、綺麗すぎる。偶然の形じゃない。
私は廊下の窓に映る自分の顔を見た。青白い。
でも目だけは、妙に落ち着いている。火の中に入る前の、変な静けさだ。
会議室に入ると、画面の向こうはすでに“整列”していた。
中央に佐伯。横に法務。監査室。外部弁護士。全員が同じ背景、同じ照明、同じ角度。
私だけが現場の薄暗い会議室で、壁に寄せた椅子に座る。
『福本さん、ありがとう』
佐伯の声は穏やかだった。穏やかなまま、罠は来る。
画面共有が始まる。
タイトルが出た瞬間、胃が冷たくなる。
『福本(統合PJ担当) 行動確認書(守秘義務・利益相反)』
確認書。
“署名させる紙”の匂いがする。首輪の紙の、上位互換。
『事実確認だけだよ。君も、君自身を守りたいだろう?』
守る。
その単語を、佐伯が使うこと自体が汚い。
確認書の一項目目。
1)本日までに、福本は告発者Aと複数回接触した。
2)福本は、監査による事情聴取を中止させた。
3)福本は、社長と連携し、懲戒手続に影響を与えた可能性がある。
4)福本は、外部への情報波及を引き起こした可能性がある。
——以上を本人の認識として確認する。
“認識として確認”。
事実の形をした、告白の強要。
署名した瞬間、私は“自分で”燃える。
私は息を一つ吸って、声を平らにした。
「署名はしません」
佐伯は驚かない。驚くふりすらしない。
『署名しない、ということは——内容に異議があるんだね?』
「はい。文言が誘導です」
『誘導? 言葉が強いね』
「“可能性”を並べて本人の認識にするのは、誘導です」
法務が口を挟む。
「福本さん、確認書は処分文書ではありません。あなたの身を守るための——」
「守るためなら、なぜ“期限”があるんですか」
私は画面の右上を指差した。
提出期限:本日16:50
——17:00の十分前。
告発者が送るかどうかの分岐点の、さらに手前で私を縛る設計。
沈黙が一瞬だけ落ちる。
佐伯が、ゆっくり言った。
『君は賢い。だから、これが何のためかも分かるはずだ』
「分かります」
私は答えた。
「私の口を縛って、手続きを奪うためです」
佐伯が初めて、微笑みを消した。
穏やかな顔が、ただの白い壁になる。
『では、別案だ』
佐伯は画面を切り替える。次の資料。
『暫定報告書(一次ヒアリング)』
そこには、私が書いていない文章が、すでに整っていた。
新人の証言が、短く。強く。都合よく。
そして最後の結論が太字で置かれている。
——「当該社員Aは守秘義務違反の蓋然性が高い」
私は喉が鳴るのを抑え、言った。
「これは私の報告書ではありません」
『君が出すんだよ』
佐伯は淡々と言う。
『形式上、“現地の統合PJ担当”が提出するのが一番円滑だ』
円滑。
また来た。いつも通りの殺し文句。
「提出しません」
『じゃあ、君は手順を拒否するんだね』
佐伯の声が低くなる。
『それは、統合の妨害に当たる。分かるね?』
——罠の核はここだ。
私を“妨害者”にする。
そうすれば、17:00前に私を外せる。
私が外れれば、原本で勝つ手続きは止まる。告発者は送る。現場は燃える。
私は一拍置き、逆に問いを刺した。
「この報告書の原資料を見せてください」
『原資料?』
「匿名通報窓口の投稿ログ、想定問答の原本、守秘義務注意喚起の配布履歴、ヒアリングの全文記録」
私は淡々と列挙した。
「“全文”です。切り貼りされない形で」
外部弁護士が、初めて口を開いた。
「福本さん、あなたは守秘義務を理解していますか」
「理解しています」
「では、なぜ“全文”を要求する?」
「全文がなければ、切り貼りの真偽が検証できないからです」
私は即答した。
「検証できない報告書は、手続きとして不適正です」
監査の男が、柔らかく笑う。
「“切り貼り”という表現は——」
「不適切なのは、条件を削って断定を流す行為です」
私は同じ返しを、同じ温度で繰り返した。
繰り返しは、原本の作り方だ。
佐伯の目が、ほんの少しだけ細くなる。
そして、最後の罠が落ちてきた。
『福本さん。君のPCとスマホ、会社貸与だね』
「はい」
『提出して。フォレンジックに回す』
「……何のために」
『君が外部に漏らしていない証明だ』
佐伯は穏やかに言う。穏やかに、喉元へ手を伸ばす。
『君が潔白なら、何も怖くない』
——提出した瞬間、私は終わる。
USBのフォルダ【佐伯】。
申立書の草案。
新人の署名紙のコピー。
告発者の“17:00自動送信”の話。
全部が“悪意ある編集”の素材になる。
私は背筋を伸ばし、はっきり言った。
「任意提出には応じません。必要なら、正式な手続きと範囲を文書で提示してください」
『……』
佐伯の沈黙が長い。
長い沈黙は、罠の切り替えだ。
『分かった』
佐伯が言う。
『では君を、本日16:45付で統合PJ担当から外す。後任は監査が兼務する』
口調は淡々。言っていることは、首を落とす宣言。
画面の右下に、小さく通知が出た。
人事通達(下書き)
タイトルだけが見える。
——「福本:統合PJ担当変更(協力姿勢に疑義)」
“疑義”。
証拠じゃない。空気の言葉。
炎上と同じ言語で、人事を動かす。
私は時計を見た。16:41。
——残り19分。
佐伯が、最後に言った。
『君が折れないなら、こちらも守るものを守るだけだ。君の選択だよ』
君の選択。
優しさの形をした脅し。いつも通り。
私は画面を見つめ、声を落とさずに言った。
「私の選択は変わりません」
そして、決定打を置く。
「今この会議、録音録画されてますよね」
佐伯の目が、わずかに動く。
「提出してください。——“全文”で。切り貼りせずに」
外部弁護士が一瞬だけ言葉を失う。
監査が咳払いをする。
佐伯は微笑まない。微笑めない。
沈黙の中で、私の端末が震えた。
告発者からの短いメッセージ。
【17:00、準備完了。福本さん、間に合う?】
私は返信しなかった。
返信が切り貼りされるからじゃない。
返信する暇がないからだ。
画面の向こうで、佐伯が静かに言った。
『福本さん。最後に確認する。君は“どっち側”だ』
——罠の最後は、言葉を切り取ること。
私は、条件ごと残すために、ゆっくり言った。
「適正な手続きの側です。守る側に立つ“なら”、私はそこに立ちます」
時計は16:44。
あと6分で、私の担当は外される。
あと16分で、告発者のメールが飛ぶ。
そして私は、朱肉の受領印の控えを握りしめながら、次の“原本”を作る順番を頭の中で組み直した。
夜の駐車場は、昼の敵意が嘘みたいに静かだった。
白い外灯がアスファルトを冷たく照らし、車の陰が長く伸びる。遠くで誰かのドアが閉まる音がして、それきり。
社長はエントランスの柱にもたれて待っていた。コートの襟を立て、ネクタイは緩んでいる。怒りで燃えていた目が、今は疲れで乾いている。
私が近づくと、社長は一言も言わずに歩き出した。言葉は燃料になる。だから、今夜は言葉を節約している。
「……来たか」
車の横で、やっとそれだけ言った。
「来ました」
私は鞄を抱え直し、息を整える。
今日一日、切り貼りされない言葉を選び続けた喉が痛い。
社長が後部座席のドアを開けた。
「後ろに乗れ」
「助手席じゃないんですか」
「助手席は——噂になる」
即答だった。悔しいくらい正しい。
私は頷き、後部座席に滑り込んだ。ドアが閉まる。音が大きい。逃げ道が消える音。
社長は運転席に乗り込み、エンジンをかけた。暖房の風が少し遅れて流れ、凍っていた指先が痛む。
車はゆっくり動き出し、会社の明かりがミラーの中で小さくなる。
沈黙が長い。沈黙の方が安全なのに、沈黙が不安でもある。
「……担当、外されたのか」
社長が前を見たまま言った。声が低い。
「形式上は、まだ」
私は答えた。
「でも、16:45付って言いました。人事通達の下書きも見せた」
「くそ」
社長が短く吐き捨てる。
「怒っても、火が増えるだけです」
言った瞬間、自分の言い方が冷たくて、胸が少し痛んだ。
社長は返さない。代わりに、ウインカーの音だけが車内に規則正しく響く。
しばらく走って、社長は人のいない河川敷の脇道に車を寄せて止めた。エンジンは切らない。
「ここなら、聞かれない」
そう言うと、社長は初めて私を見た。
「……17:00」
その数字だけで、全身が緊張する。告発者の自動送信。
「止められる?」
社長の問いは、命令じゃない。頼みでもない。確認だ。覚悟の確認。
私は鞄から、受領印の押された控えを出し、膝の上に置いた。朱がまだ少し濃い。
「止めるかどうかは、私じゃなくて告発者です」
「……じゃあ、お前は何をする」
「“原本で勝てる形”を作る」
私は言い切った。
社長が鼻で笑う。
「間に合うのか」
「間に合わせる」
言ってから、息を吐く。息を吐かないと、震えが声に混ざる。
社長がハンドルから手を離し、両手を膝に置いた。
「福本」
名前を呼ばれる。心臓が一拍だけ跳ねる。条項の警報が鳴る。
私は熱を押し込み、平らに返す。
「はい」
「お前、今日、俺を止めたな」
「止めました」
「ありがとな……って言うと、また燃えるか」
社長が苦く笑う。
その笑いに、昼間の敵意と違う疲労が混ざっていて、胸の奥が少しだけ熱くなる。
——恋じゃない。錯覚だ。守り合いの錯覚。
「燃えます」
私は淡々と言った。
「でも、必要なら言ってください。言葉がなくなると、人は折れます」
自分で言って、自分の喉が痛む。今日、新人が壊れかけたのを思い出した。
社長が小さく息を吐き、前を見たまま言った。
「じゃあ言う。お前を——外させない」
強引な守りの言葉。盾の言葉。
その瞬間、私は背筋が冷えた。盾は、私を守る代わりに私を“社長の側”に固定する。切り貼りが喜ぶ。
「外させない、は駄目です」
私は即答した。
「……なんだと」
社長の声に、怒りが少し混じる。
「外させない、は“あなたが守る”です」
私は言葉を整える。条件を残すために。
「必要なのは、“手続きが守る”です。あなたが盾になると、私はただの噂になります」
社長が黙った。
沈黙が、車内に落ちる。エンジンの振動だけが、二人の間を埋める。
「……じゃあ、どうする」
社長が低く言った。
問いが、ようやくこちらを向く。敵意じゃない問い。協力の問い。
私は控えの紙を一枚めくり、ペンを取り出した。
「契約しましょう」
「契約?」
「信頼の契約」
言った途端、言葉の温度が少し上がってしまう。私はすぐに言い直す。
「——業務上の、です」
社長が目を細くする。
「どういう内容だ」
私はペン先で、箇条書きを作る。
「一つ。社長は“単独行動しない”。現場で動くときは、必ず吉岡か班長を同席させる。証人を作る」
「……噂対策か」
「噂対策です。噂は、孤立した瞬間に刺さります」
「二つ。私と社長は、二人きりで会わない」
社長の眉が動く。
私の胸の奥も、わずかに疼く。そこを無視して続ける。
「会うなら、場所と目的を文書に残す。会議招集でもいい。ログにする」
「……不便だな」
「不便でいいんです。不便は原本になります」
「三つ。私が“全文”を出すと決めたものは、社長も口を出さない」
「口を出すな?」
「編集されるからです。あなたが焦って言葉を足した瞬間、その一言だけが切られる」
社長が唇を噛む。分かっている顔だ。分かっていても我慢が難しい顔。
「四つ」
私は一拍置いた。
「私が折れそうなら、社長は“前に出ない”代わりに、“受領印を取らせる”。書面で守る」
社長が、ゆっくり頷く。
最後に、私はペン先を止めた。
「そして——五つ」
言うか迷う。迷ったら切り取られる。だから、条件を付けて言う。
「もし私が外されたら、社長は“私の名前”を使って戦わない」
社長が目を上げた。
「どういう意味だ」
「『福本が言ってた』『福本がやってた』は、私を燃やすだけです」
私は息を吸って続ける。
「戦うなら、社長自身の手続きで。社長名で。私は原本の裏方に回る」
社長が、低く笑った。
「……お前、ほんとに変な女だな」
「仕事です」
いつもの返し。でも今日は、少しだけ震えた。
震えたのは寒さのせいにした。
社長が手を伸ばし、私の膝の上の紙を取ろうとする。私は反射で引っ込めかけて、止めた。引っ込めたら“隠した”になる。
社長は紙を見て、言った。
「署名は?」
「署名はしません」
「じゃあこれは何だ」
「合意です」
私は言った。
「口約束じゃなくて、合意。あなたが破ったら、私が止めます」
社長は少しだけ黙ってから、紙をダッシュボードに置いた。
そして、驚くほど静かに言った。
「分かった。……守る」
短い。強い。
でも今日は、続きが付いた。
「守るってのは、前に出ることじゃない。——お前の手続きを守るってことだな」
その言い方が、胸の奥の熱を少しだけ正しい場所に戻した。
恋じゃない。信頼だ。契約だ。
私は頷いた。
「はい。契約です」
そして、最も大事な条件を置く。切り貼りされないために。
「守る側に立つ“なら”、私たちは同じ側です」
社長は、今度は笑わなかった。
ただ、ゆっくり頷いた。
その瞬間、私のスマホが震えた。
告発者から。
【17:00までに“原本”が出るなら止める。出ないなら送る。今どこ?】
時計を見る。
23:18。
夜はまだ長い。でも、猶予は長くない。
私は返信の画面を開き、短く打った。
【出す。原本で。】
送信ボタンを押す指が、少しだけ震えた。
社長が前を見たまま、低く言う。
「行こう」
「どこへ」
「原本を作る場所へ」
車が動き出す。
外灯の白が流れ、窓の外の夜が、少しだけ味方に見えた。
17:00の五分前。
社内ポータルのトップが、静かに更新された。
【公開】聴取手続の適正性に関する申立(全文)
添付:①聴取記録(全文)②守秘義務注意喚起(署名原本コピー)③匿名通報窓口ログ(時刻・文面一致)④想定問答(原本)⑤本社会議(16:30)録音書き起こし(全文)
※編集・要約なし/切り貼り防止のため、各ページに通し番号・ハッシュ値を付与
——“全文”で。
私は会議室の端で、画面を見つめたまま息を吐いた。
社長は背後に立って、ただ黙っている。
告発者のスマホはテーブルの上で伏せられたまま。あの「自動送信」の画面が、まだ消えていない。
最初に反応したのは、炎上の中心だったチャットだ。
「……え、全文?」
「ハッシュ値付いてる」
「想定問答の原本って何?」
「守秘義務の紙、署名させてるのガチじゃん」
「“言い方を指定”って、これ……」
「匿名通報、文末の癖同じで草じゃない、怖」
“草”が消えた。
代わりに、文章の途中で止まる沈黙が増えていく。
読んだ人が、笑えなくなる速度が、火より早い。
次に流れたのは、私の言葉だった。
切られた断定じゃない。条件ごと、前後ごと残ったやつ。
『守る側に立つなら。——はい、同じ側です』
(注:宛先は新人/社長宛ではない/全文記録 p.42)
矢印が、ゆっくり曲がり始める。
これまで私に刺さっていたものが、「切った手」の方へ向きを変える。
「社長宛じゃなかったのか…」
「じゃあ、あのスクショ改変?」
「“条件消して断定だけ”って、ほんとにやってた」
「監査の固定文、拡散止めるどころか誘導してる」
私は画面をスクロールし、最後の添付——16:30会議の全文書き起こしを開いた。
佐伯の声が、文字になっている。
——「君のPCとスマホ、提出して。フォレンジックに回す」
——「君が潔白なら、何も怖くない」
——「本日16:45付で統合PJ担当から外す」
“穏やかさ”が、文字になるとただの手順だった。
人を縛るための、きれいな段取り。
会議室のドアが開いた。
総務の吉岡が、青い顔で飛び込んでくる。
でも、昨日までの青さと違う。怯えじゃない。確信の青さだ。
「社長……っ、全社の空気が変わってます」
社長が短く問う。
「どう変わった」
「……怒りの矛先が、こっちじゃなくて“手続き”に向いてる」
吉岡は息を飲み、続けた。
「班長たちが言ってます。“俺たちは裁かれる側に並ばされてた”って」
社長が、初めて肩の力を抜いた。
抜いた瞬間に倒れそうで、私の方を見ずに言う。
「……お前の勝ちだ」
「勝ちじゃないです」
私は即答した。
「反転しただけ。元に戻しただけです。——原本に」
そのとき、伏せてあった告発者のスマホが震えた。
17:00。自動送信の時刻。
告発者は一秒だけ私を見て、指先で画面を起こした。
予約送信の一覧。
そこに、赤いボタンがある。
送信をキャンセル
彼の指が止まる。
止まるのは迷いじゃない。確認だ。
“原本で勝てる形”が、間に合ったかどうか。
私は言葉を短くした。切れない形で。
「出ました。全文で」
社長が、低く言う。
「今度は、お前の順番だ」
告発者の指が、赤いボタンを押した。
画面の表示が変わる。
キャンセルしました
その瞬間、スマホの震えが止み、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
燃料が一本、消えた。
——でも、完全に鎮火したわけじゃない。
“全文”は火を消すんじゃない。火元を見せる。
見せられた側は、次に何をするかを選べるようになる。
廊下の向こうで、足音が止まった。
監査室の男が、会議室のドア枠に立っている。
いつもの柔らかい声が、今日は少しだけ乾いていた。
「福本さん。……これは、やりすぎです」
私は立ち上がり、受領印の控えを机の上に置いた。朱が、もう乾いている。
「やりすぎなのは、“条件を消して断定だけを流す”方です」
私は言った。
「私は全文で出した。編集してない。——だから、検証できますよね」
監査は返事をしなかった。
返せない沈黙が、答えだった。
社長が一歩だけ前に出る。強引に守るためじゃない。
今度は、手続きの後ろに立つために。
「正式な場でやれ」
社長が言う。
「この全文を前提に。次は、“切り貼り無し”の場で」
監査の男が、目を伏せた。
そして、ゆっくり頷いた。
その夜、私は社内チャットの一番上に固定された文言が、別の意味に置き換わっていくのを見ていた。
「拡散するな」ではなく、「原本を残せ」。
火はまだある。
でも、火がどこから来たかを、全員が知った。
私は画面を閉じ、最後に社長へだけ、短い文書を渡した。
“信頼の契約”の続き。条項じゃない。手続きの約束。
「守る側に立つ“なら”——」
社長が、続きを言った。
「同じ側だ」
条件が消えないように。
これからも、全文で。
寝起きの指で画面を撫でた瞬間、通知が雪崩みたいに崩れてくる。
“#全社-共有 99+”
“#総務-共有 67”
“#統合PJ-速報 31”
“匿名通報窓口 新規投稿:—”
数えるのが馬鹿らしい速度で、画面が埋まっていく。
炎上は、声じゃなくて“既読”で広がる。
誰かが読む。誰かが反応する。誰かが「見た?」と書く。
その一行が、火に酸素を足す。
私はベッドから起き上がり、すぐにノートPCを開いた。立ち上がる青白い光が、部屋の壁を一段冷たく見せる。
画面の中で、火はもう燃えていた。
「A(告発者)自宅待機=黒」
「守秘義務違反ってことは情報漏洩だろ」
「社長が匿ってた証拠、出回ってる」
「福本、本社のくせに社長側で草」
「“同じ側です”って言ってたよね?」
「守秘義務違反を止めたがってたの、逆に怪しい」
“草”の一文字が、胃の奥を冷たくする。
笑いは、処刑の前座になる。
私は呼吸を整え、スクロールを止めた。
読む順番を間違えると、こっちの心が先に折れる。
見るべきは内容じゃない。形だ。
発言の癖。句読点。改行位置。時間。
そして——どのコメントが、どのコメントに火を渡しているか。
画面の端で、また通知が光った。
件名は、短い。
【統合PJ】重要:社内秩序維持のための注意喚起
送信者:佐伯
開く前に、もう分かる。
「鎮火」と言いながら、燃料を配るやつだ。
私はメールを開かず、先にチャットの“固定された投稿”を確認した。
固定文がある。炎上の時、固定文は“旗”になる。
「本件に関する投稿は守秘義務に抵触する恐れがあります。
情報を拡散した場合、厳正に対処します」
守秘義務。
また首輪の言葉。
そして固定したのは、監査室のアカウント。
私は笑いそうになって、笑えなかった。
“拡散するな”と言いながら、固定する。
固定は、全員の目に入れる手段だ。
つまりこれは「止める」じゃなく「方向を揃える」。
机の上に、昨夜の証拠保全メモを広げる。
新人が持ってきた署名紙のコピー。
匿名通報の量産時刻。
切り貼りされたスクショ。
そしてUSBの中の【匿名通報_文案】——未だ開いていないファイルが、そこにある。
胸の奥で、あの警報が鳴った。
燃えるな。
でも燃えないままじゃ、守れない。
ドアを叩く音で、現実に引き戻された。
控えめじゃない、急かすノック。
続いて、社長の声がする。低い。短い。
「開けろ」
私は鍵を開けた。
社長はコートのまま立っていた。髪が少し乱れている。寝ていない目。怒っている目。
その怒りは私に向いていない。——外の空気に向いている。
「見たか」
「見ました」
「監査が、“全社向けに”告発者の自宅待機を流した」
「守秘義務違反、ですね」
「ふざけるな」
社長の声が一段下がる。怒鳴らない怒り。ここは壁が薄いから。
私は机の画面を指した。
「今は、止めるより先に“形を崩す”必要があります」
「形?」
「炎上の中心は二つ。“守秘義務違反=黒”の短絡と、“あなたと私が共犯”の絵です」
私が淡々と言うと、社長は舌打ちを飲み込むように息を吐いた。
「じゃあ、どう崩す」
「全文で出す」
社長の眉が動く。
「全文?」
「切り貼りされてるなら、切り貼りできないものを先に出す。——ただし、私の口じゃない。『手続き』として」
社長が一歩近づく。車内みたいに逃げ道のない距離じゃない。確認の距離。
「お前、やる気か」
「やるしかない」
言った瞬間、胸の奥が熱を持ちかける。私はすぐ、机の上の書類を一枚滑らせた。境界線。仕事の線引き。
社長が書類に視線を落とす。
そこには私が今朝作った、タイトルだけの文書がある。
『証拠保全・聴取手続の適正性に関する申立書(暫定)』
社長の口元がわずかに歪む。
「……喧嘩売ってるな」
「売られた喧嘩です」
私は返した。
「先に買われた。だから、正式に返す」
そのとき、私のスマホが震えた。
佐伯からのメール——じゃない。
社内チャットの新規投稿。固定とは別の“速報”が、全社へ投下されている。
「【速報】福本(本社人事)、監査への協力姿勢に疑義。
ヒアリング妨害の恐れあり。
本日中に統合PJ担当変更の可能性」
担当変更。
つまり、私を外す。
手続きを押さえる人間を外す。
火元に近づく前に、私の足を折る。
社長も同時に画面を見た。
目が、鋭くなる。
「……やっぱり狙いはお前だ」
「ええ」
私は静かに頷いた。怖いのに、妙に落ち着く。狙いが見えたら、対策が立つ。
「社長」
私は言った。
「あなたは“現場”を押さえて。今から、班長たちに“静かに”伝えてください。声を上げるな、じゃない。証拠を残せって」
「お前は」
「私は、監査に“正式文書”を入れます。全文で。条件付きで。切り貼りできない形式で」
社長が一拍だけ黙り、低く言った。
「……折れるな」
「折れません」
嘘じゃない。もう折れたら終わるところまで来ている。
その瞬間、PCの画面がまた光った。
今度は“匿名通報窓口”の新規投稿。
タイトルが、短い。
「告発者は“外部”と通じている」
外部。
一番危険な単語。
守秘義務違反の次に、人を即死させるラベル。
本文には、たった一行。
「証拠:USBで持ち出し(写真あり)」
社長が息を止めたのが分かった。
告発者のUSB——あれの存在を、向こうが掴んだ。
しかも“写真あり”と来たら、次は拡散がセットだ。
私は立ち上がり、鞄を掴んだ。
「社長、告発者を移動させて。今すぐ」
「どこへ」
「“ここじゃない場所”へ」
社長が頷く前に、私のスマホがもう一度震えた。
今度は、佐伯からの着信。
画面には、穏やかな名前が表示されているのに、呼び出し音はサイレンにしか聞こえない。
社長が、私の顔を見て言った。
「出るな」
私は目を閉じ、息を一つ吸った。
出なければ燃料。
出ても燃料。
——なら、燃料の使い方をこちらが決める。
私は通話ボタンに指を置いた。
会議室のドアを開けた瞬間、空気が“刃”になっていた。
机の配置はいつも通り、椅子の数もいつも通り。なのに、座っている人の角度が違う。視線が、最初から一点に揃っている。
——私だ。
班長クラスが数人。総務。現場の古株。若い社員は端に固まって、口を閉じる準備が出来ている。
壁際には監査室の二人。笑っていないのに、礼儀の形だけは整っている。そこが一番怖い。
「本社人事の福本です」
名乗った途端、誰かが鼻で笑った。
「“同じ側です”って言ってた人?」
一言で、会議室の温度が落ちる。
切り貼りされたあのスクショ。条件が消された断定。もう“私の言葉”じゃない言葉が、ここに先回りしている。
「その発言は、条件部分が切られています」
私は即答した。否定より先に、事実の形に戻す。
「本来は『守る側に立つなら』という条件付きです。誰に対して、どの場面で言ったかも含めて、記録があります」
「記録?」
別の班長が言う。声に敵意が混ざっている。
「記録ってのは、“都合のいいやつ”だけ残すんじゃないの?」
周囲が小さく頷く。
敵意は、正義の服を着ている。正義の服を着た敵意は、最も燃える。
私は机の上に、紙を一枚だけ置いた。
タイトルだけの文書。
『証拠保全・聴取手続の適正性に関する申立書(暫定)』
「今日は、誰かを裁く会じゃありません」
私は声を落とした。落とさないと、壁越しに燃料が増える。
「“裁かれるように作られている流れ”を止めるための会です」
「止める?」
総務の年配者が言った。
「もう自宅待機になってる。止めようがないだろ」
「止められます」
私が言い切ると、監査室の片方が、柔らかく口を挟んだ。
「福本さん。発言は慎重に。現場を混乱させます」
混乱させる——それは“封じる”の別名だ。
私は監査を見ずに、現場の人に向けて答えた。
「混乱ではなく、整列させられているんです」
一拍。会議室が静かになる。
誰かが、その言葉の意味を咀嚼する。整列。正しい顔。噂。匿名通報。守秘義務。懲戒。全部が一本の棒で突かれている感覚。
最前列の班長が机を指で叩いた。
「言ってることは分かるよ。でもな、現場は昨日から地獄なんだ」
声が少しだけ震えている。敵意の奥に疲労がある。
「社長は不倫だ、告発者は黒だ、本社は切りに来た、守秘義務違反だって。もう何が本当か分からない。で、あんたは何を守るって?」
質問が、まっすぐだった。
私は息を吸い、答えを一つに絞る。
「生活です」
会議室のどこかで、小さく空気が動く。
「片道三時間の異動。二週間。辞めざるを得ない設計。それを“本人都合”にする文章。——それが現場の生活を壊す。私はそこを止めます」
「証拠あんの?」
若い社員が、ほとんど叫ぶように言った。言ったあとで自分の声に驚いて黙る。
私は頷いた。
「あります。ただし“私の口”じゃなく、手続きで出します」
そして続ける。
「ここで必要なのは、皆さんの“気持ち”じゃない。——皆さんの事実です」
「事実?」
班長が眉をひそめる。
「何を出せって」
「昨日から今朝にかけて、誰が何を言ったか。どのチャットで、どの時間に、どんな文面が回ったか。守秘義務の紙に署名させたのは誰か。言い方を指定されたなら、その言葉そのまま」
私は一つずつ言った。箇条書きのように。切り貼りできない形にするために。
監査室の男が、また柔らかく言う。
「福本さん、現場を煽るのは——」
「煽ってません」
私は初めて監査を見る。声だけは平らに。
「保全です。あなたたちが言っている“証拠保全”を、正しくやるだけです」
監査の男の眉が、ほんの少しだけ動く。
効いた。
会議室の隅で、ずっと黙っていた総務の女性が、紙を一枚差し出した。
手が震えている。
「……これ、昨日、監査の人が置いていきました」
見覚えのある書式。
秘密保持・守秘義務に関する注意喚起
新人のと同じ匂い。首輪の紙。
班長たちの目が、その紙に吸い寄せられる。
敵意が、初めて“方向”を失う。
誰に向けていいか分からなくなる。
私はその紙を受け取り、机の中央に置いた。
「これが、今の炎上の芯です」
声を落とす。
「守秘義務は盾です。でも今は——口を縛る首輪になっている」
沈黙。
次の瞬間、班長がぽつりと言った。
「……俺たち、何も言えねえってことか」
それは敵意じゃない。諦めの一歩手前の声。
「言えます」
私は即答した。
「ただし、言い方を選びます。守秘義務を破らずに“適正性”を問う。切り貼りされない形式で。全文で」
そして、最後に一言を足す。
「だから、私に“事実の断片”をください。私が繋ぎます」
会議室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
敵意が完全に消えたわけじゃない。
でも、“誰を燃やすか”の矢印が、揺れた。
そのとき、会議室の扉が開いた。
佐伯の側近が入ってくる。丁寧すぎる会釈。
そして、静かに言った。
「福本さん。至急、別室へ。——本社人事部長から“直接”です」
“直接”。
それは、手続きの外で殴る合図だ。
班長たちの視線が、また私に刺さる。
今度は敵意じゃない。
——試す目だ。
この女は、本当に守る側に立つのか、と。
私は椅子から立ち上がり、机の上の紙束を一枚だけ残して言った。
「ここで集めたものは、私が保全します。切り貼りさせません」
そして扉へ向かいながら、心の中で決める。
次の一手で、私が折れたら、現場は全部“整列”する。
——だから折れない。今度こそ、条件ごと残す。
別室は、会議室より狭く、空気が薄かった。窓のブラインドが半分だけ下ろされていて、朝の光が縞になって机を切っている。机の上には、私がさっき置いたはずのない“書類一式”が整然と並べられていた。——整えたのは、こっちじゃない。
佐伯の側近が椅子を引く。丁寧な動作。丁寧な圧。
「こちらへ」
私は座らず、立ったまま言った。
「“直接”というのは、電話ですか」
「はい。すぐ繋ぎます」
側近がスピーカーを押す。
ワンコールで繋がった。
『福本さん、お疲れさま』
佐伯の声は穏やかだった。穏やかすぎて、背中が冷える。
『現場で、余計なことを言っているそうだね』
「余計、とは」
『守秘義務だよ。君が“首輪”だの“整列”だの、煽る言葉を使うと、統合PJの秩序が崩れる』
秩序。円滑。いつもの単語。
私は呼吸を整え、机の上の“申立書(暫定)”のタイトルを指先でなぞった。触れていると、冷静になれる。
「私は煽っていません。証拠保全と聴取の適正性を確認しているだけです」
『適正性の確認は本社がやる。君の仕事は“手順通り”だ』
「手順通りなら、全ログの開示をお願いします。匿名通報窓口の投稿ログ、管理権限、テンプレの配布履歴」
一拍。スピーカー越しに、佐伯の呼吸が止まる。
『……福本さん』
名前の呼び方が、少しだけ変わった。柔らかいのに、刃。
『君は賢い。だから分かるはずだ。必要最小限で動け。波及はさせるな』
「波及を止めたいなら、切り貼りの出どころを押さえるべきです」
『切り貼り、という表現は不適切だね』
「不適切なのは、条件を削って断定だけを流す行為です」
側近の目が細くなる。監査室の男が、椅子の背で小さく咳払いをした。
この部屋には、私と側近だけじゃない。壁際に監査が二人。最初から、整列している。
『君は、社長と距離を取りなさい』
佐伯が、唐突に言った。
『現場は“敵意”が強い。君が燃えれば、全部終わる』
私の胃が冷えた。
燃えるな。君のため。いつもの鎖。
「社長との接触は、業務上必要です」
『必要最小限だ』
「では“必要最小限”の定義を、文書でください。監査にも共有してください」
沈黙。側近の指が、机の端を小さく叩く。
その瞬間——別室のドアが、ノックもなく開いた。
「——必要最小限、だと?」
低い声。社長だった。
コートのまま、目だけが燃えている。寝ていない目。怒鳴らない怒りの目。
側近が立ち上がり、慌てた礼儀を貼り付ける。
「社長、ここは——」
「俺の会社だ」
社長はそれだけ言って、私と机の間に半歩入った。庇う動き。けれど、庇い方が強引すぎて、空気が一瞬でざわつく。
スピーカーから、佐伯の声が響く。
『社長。現地対応は福本さんに任せています。介入は——』
「介入?」
社長が笑った。口だけ。
「お前らが現場に“監査”って札貼って入り込んで、匿名通報を量産して、告発者を自宅待機にして。どこが“任せてる”だ」
監査室の男が、柔らかく言う。
「社長、誤解があるようです。匿名通報は社員の自主的な——」
「自主的?」
社長が机を指で叩く。音は小さいのに、会議室より刺さる。
「二分で量産される“自主”があるなら、工場の改善も二分で終わるな」
空気が固まる。
私の胸の奥で、警報が鳴った。——これは危ない。社長が前に出ると、向こうは喜ぶ。勝ち筋を作れる。
でも同時に、社長の強引な盾が、今この瞬間だけは私の喉元の刃を逸らしたのも分かる。
『社長。冷静に。統合PJは——』
「統合PJが何だ。生活を壊していい理由になるのか」
社長の声が、ほんの少し上がる。
私は息を吸い、社長の袖を掴みたくなる衝動を押し込めた。掴んだら、写真になる。掴んだら、油になる。
代わりに、私は言葉で止める。
「社長」
短く呼ぶ。落ち着いた声。
「前に出ないでください。——出るなら、“手続き”として出てください」
社長が、私を見た。
一瞬だけ、怒りが静まる。
私は続ける。
「ここで必要なのは口喧嘩じゃない。ログです。署名です。指示系統です。——それを出せば、燃料が切れます」
社長が小さく舌打ちを飲み込み、視線をスピーカーへ戻した。
「佐伯。今すぐ出せ」
『何を』
「匿名通報窓口の管理権限とログ。監査が配った守秘義務紙の配布履歴。想定問答の原本。出さないなら——」
社長が言いかけたところで、監査室の男が遮る。
「社長、権限の範囲を——」
「俺が権限だ」
強引。乱暴。だけど、現場の人間が最後に使える言葉は、いつもそれだ。
『社長』
佐伯の声から、穏やかさが消えた。
『あなたの発言は、統合の妨害と受け取られかねない』
「受け取れ。どうせ噂は作れるんだろ」
社長が吐き捨てる。
そして、私の方を見ずに言った。
「福本。お前を外すなら、俺が止める」
その一言で、背中が冷たくなった。
止める——盾になるつもりだ。でも、その盾が強すぎると、私は“社長の女”になる。切り貼りの餌になる。
私はすぐに線を引いた。書類を一枚、社長と私の間に滑り込ませる。境界線。仕事の線引き。
「外させないためには、社長が守るんじゃなく、書面で守るんです」
社長が眉を動かす。
私は机の上の“申立書(暫定)”を持ち上げ、監査へ向けて言った。
「本日付で提出します。証拠保全と聴取の適正性に関する申立。受領印をください」
監査の男の目が、ほんの少しだけ泳いだ。
受領印は、逃げ道を塞ぐ。受け取った瞬間、手続きが始まるから。
側近が口を開く。
「それは本社の承認が——」
「承認はいりません」
私は即答した。
「申立は申立です。——拒否するなら、拒否の理由を文書でください。誰が決裁したかも」
沈黙。
社長が、ふっと息を吐く。怒りの熱が少し冷えて、代わりに覚悟が残る。
スピーカーの向こうで、佐伯が静かに言った。
『……福本さん。君は自分が何をしているか分かっているね』
「はい」
私は答えた。
「切り貼りされない形に戻しているだけです」
その瞬間、側近のスマホが震えた。画面を見た側近の顔色が、わずかに変わる。
「……監査室の車、もう一台来ています」
監査室の男が続ける。
「外部の弁護士同席です。——これ以上の議論は、正式な場で」
正式な場。
それは、“こちらの手続きを奪う”合図だ。
社長が一歩、前に出かけて止まる。
私は先に言った。
「いいです。正式な場で。——ただし、私の申立は受領してください。今この場で」
側近が紙を見つめ、監査と目を交わす。
数秒が、やけに長い。
そして、監査が言った。
「……受領します。ただし“暫定”として」
「暫定で十分です」
私は頷いた。受領印さえ取れれば、鎖は切れる。
受領印が押される。
乾いた朱肉の匂いが、妙に現実的だった。
ドアの外から、また足音。今度は複数。
廊下の空気が変わる。
“正式な場”が、こちらへ歩いてくる。
社長が低く言った。
「来たな」
私は受領印の朱を見つめ、静かに答えた。
「ええ。——ここから、切り貼りじゃなく“原本”で戦います」
新人の子——小会議室で震えていた彼女は、総務フロアの端、ロッカー前で立ち尽くしていた。
目は開いているのに、焦点が合っていない。手はスマホを握ったまま、指先だけが小刻みに震えている。画面の光が、彼女の頬を青く照らしていた。
「……呼ばれました」
私を見つけるなり、彼女はそう言った。声が、掠れている。
「誰に」
「監査の人。弁護士の人も来てるって……」
言いながら、彼女は自分の胸元を押さえた。息が入らないときの仕草だ。
私はすぐに、彼女の視線の先を見た。
廊下の向こう、ガラス張りの会議室。中に黒いスーツが数人。机の上に並ぶ資料。——“正式な場”が、現場を飲み込む準備をしている。
新人が、紙を握りしめていた。例の“守秘義務注意喚起”。折り目だらけ。署名欄に自分の名前。
その紙が、彼女の首輪になっている。
「……私、何を言えばいいんですか」
涙は出ていない。出す余裕がない泣き方だ。
「昨日は、言い方を……指定されて」
「うん」
「今日は、違う言い方をしたら……“嘘をついた”って言われる気がして」
彼女は小さく笑おうとして、口角だけが引きつった。
「私、どっちにしても、終わりですよね」
終わり、という言葉が出た瞬間、彼女の肩が落ちる。人はその瞬間に折れる。
私は即座に一歩寄り、でも触れない距離で、声を落とした。
「終わりじゃない」
短く、強く。長い慰めは切り貼りされる。
「今あなたに必要なのは、“正しい答え”じゃない。正しい順番」
彼女が瞬きをする。順番、という言葉に反応する。昨日、監査が“順番”で殴ってきた。
だから私は、順番を奪い返す形で言った。
「まず、体を守る。今、息が浅い。胸が苦しい?」
新人は頷こうとして、頷けず、喉だけが鳴った。
「じゃあ座ろう。——椅子のある場所へ」
私は廊下の角にある小さなベンチへ誘導し、彼女が座るのを見届けた。
「水、飲める?」
彼女はペットボトルを持っているのに、開けられない。指が言うことを聞かない。
私は“開けて”と言わない。手を貸したら、それも噂になる。
代わりに、彼女の手首の角度だけを、言葉で直す。
「親指でキャップを押さえて、他の指を添える。ゆっくり」
数秒かけて、キャップが回った。彼女が一口飲む。息が少しだけ入る。
「……私、昨日、福本さんに話したこと」
彼女が震える声で言う。
「もう、どこかに出回ってます。匿名通報に……“福本が新人に圧をかけて証言を翻させてる”って」
彼女の目が、また遠くを見る。
「私が喋ったせいで……福本さんが」
私は首を横に振った。
「あなたのせいじゃない。これは“量産”だよ。誰かが、あなたの口を使って、絵を作ってる」
「絵……」
「そう。被害者と加害者の絵。正しい顔の絵。共犯の絵」
私は言葉を一つだけ選び、ゆっくり置いた。
「あなたは、絵の道具じゃない」
新人の目が潤む。
でも次の瞬間、彼女のスマホが震えた。通知。
【匿名通報窓口】
「新人は精神的に不安定。証言の信頼性に疑義」
彼女が息を呑み、スマホを落としかけた。
——来た。
壊れかけたところを、さらに壊して“証言の無効化”に持っていく。首輪の次の段階だ。
「……私、壊れてるって」
彼女が呟く。
「もう、言わない方がいいんですか」
言わない方がいい。黙った方が安全。
そう思わせた瞬間に、向こうは勝つ。
私は、彼女のスマホの画面を見ずに言った。
「言う。——ただし、守られる形で」
「守られる形?」
「一人で会議室に入らない。監査と弁護士の前で、あなたが一人になる配置は作らせない」
彼女の目が揺れる。
「でも、福本さんも……狙われて」
「狙われても、やる。あなたのためじゃない。現場全員のため」
その瞬間、廊下の向こうから、監査の男が近づいてきた。柔らかい声。柔らかい刃。
「お時間です。——彼女に少し確認を」
新人の肩が跳ね、目が私に縋りつく。
私は立ち上がり、監査と新人の間に“書類”を一枚差し出した。
さっき受領印を押させた申立書の控え。朱が乾ききっていない。
「確認は、正式手続きとしてやります」
私は平らに言った。
「本人の状態は不安定です。まず医療的配慮の手続きに入れます。今日の聴取は、私同席のもと“短時間”で、記録は全文。異議があるなら文書で」
監査の眉が、ほんの少しだけ動く。
新人が、私の背中越しに小さく息を吸った。——息が入った。戻ってきた。
監査が口元だけで笑う。
「福本さん、あなたは彼女を“誘導”しているように見えます」
誘導。向こうの得意な言葉。
私は即座に返した。
「誘導ではありません。保護です。守秘義務を“首輪”にして署名させたのは誰ですか」
監査の笑みが一瞬だけ止まる。
新人が、震える声で言った。
「……私、昨日、言い方を指定されました」
自分から言った。
誰かに言わされた言葉じゃない。
本当の順番で出てきた言葉。
私は、彼女の横顔を見た。
壊れかけている。だけど、壊れきっていない。
——ここで折らせない。
「大丈夫」
私は短く言った。
「あなたの言葉は、あなたのまま残す。切り貼りさせない」
そして私は、監査に向けて、もう一度だけ言い切った。
「彼女を、道具にしないでください」
告発者は、控室じゃなく、工場敷地の外れの小さな休憩所にいた。喫煙所でもない、誰も座らないベンチ。風除けの壁があるだけの、半端に静かな場所。
「……新人、大丈夫か」
彼は私を見るなり、いきなりそれを訊いた。自分のことより先に。
「壊れかけてる。でも、折らせない」
私が答えると、告発者は短く頷いて、視線を落とした。
指先が、ずっと何かを握っているみたいに硬い。
「あなた、今日呼ばれた」
「呼ばれたよ。弁護士まで連れてきた」
「怖かった?」
「怖いに決まってる」
吐き捨てるように言ってから、彼は笑った。乾いた笑い。
「……でも、狙い通りだ」
私は言葉を止めた。
狙い通り。
その四文字が、ここまでの“被害者”の顔に合わない。
「……何の狙い」
問いが低くなる。怒りが混ざる。
告発者はようやく私を見た。赤い目。限界の目。だけど、芯が残っている。
「俺の狙いは、俺を助けてもらうことじゃない」
彼はゆっくり言った。
「統合を止めることでもない。……やり方を止めることだ」
「やり方?」
「首輪の作り方。守秘義務の使い方。匿名通報の量産。想定問答。懲戒のテンプレ。——あれを“現行犯”で掴む」
彼の声は震えていた。怖さじゃない。怒りの震えだ。
私は一歩だけ詰めた。
「あなた、最初から分かってたの?」
「分かってた」
「じゃあ——」
喉の奥が熱くなる。
「自分が燃えるのも、最初から?」
告発者は視線を逸らさなかった。
「燃えなきゃ、向こうは本気を出さない」
一拍置いて、苦しそうに続ける。
「本気を出させれば、必ずテンプレを使う。規程を盾にして、口を縛って、証言を作る。——その瞬間の紙とログが欲しかった」
私は息を吸った。
怒りが先に来る。来たのに、言葉が出ない。
彼のやり方は汚い。でも、分かる。汚いほど確実に“仕組み”が露出するのも、分かってしまう。
「……じゃあ私を巻き込んだのも」
私が言いかけると、告発者が先に答えた。
「最初からだ」
言い切ってから、彼は少しだけ声を落とした。
「社長は現場を守れる。でも手続きを切れない。監査は“正しい顔”で全部隠す。——切れるのは、本社の手続きを知ってる人間だけだ」
彼の目が私を刺す。
「福本さん、あなたしかいないと思った」
胸の奥が冷えた。
私が選ばれた。偶然じゃない。
あのUSBのフォルダ【佐伯】も、【匿名通報_文案】も、私の手に渡るように作られていた。
「……私を利用した」
「利用した」
彼は否定しない。否定しないから、言葉が重く落ちる。
「ひどいと思ってる。でも、他に道がなかった」
告発者は唇を噛んだ。
「俺が折れたら、現場の人が“本人都合”で消える。新人も、次は首輪を自分で締める側になる」
私は拳を握りしめた。
怒鳴りたいのに、怒鳴ったら“燃料”になる。
だから、確認だけを叩き込む。
「あなた、外部に出すつもり?」
告発者の喉が小さく動いた。
「……もう準備してる」
嫌な予感が背骨を走った。
「何を、どこへ」
「労基じゃない。労基は時間がかかる」
彼は淡々と言った。淡々と言うほど危険な話なのに。
「外部弁護士と、記者。あと、グループ監査委員会にも——自動で飛ぶ」
「自動?」
告発者はポケットからスマホを出し、画面を私に見せた。
カレンダーの予定。
17:00 送信
宛先が複数。ファイル添付。タイトルは短い。
——『統合PJにおける“退職誘導テンプレ”と“証言誘導”の証拠』
喉が鳴った。
これが出れば、統合の空気は破裂する。現場は守れるかもしれない。
でも同時に、新人も、社長も、私も燃える。切り貼りじゃない“原本”で燃える。
「止められるの?」
「俺がキャンセルすれば止まる」
告発者は言い、そして、真っ直ぐに私を見た。
「でも、止めたら——俺はまた首輪を締められて終わる。次はもっと綺麗に、誰も気づかない形で」
風が吹いて、ベンチの背板が小さく鳴った。
空は明るいのに、選択肢だけが暗い。
「……あなたの“本当の狙い”は」
私がゆっくり言う。
「自分を救うことじゃない。現場を守ることでもない。——仕組みを、外に引きずり出すこと」
告発者は、小さく頷いた。
「俺は悪者でもいい。悪者にならないと、悪が見えないから」
その言葉が、怖いほどに真っ直ぐだった。
私は息を吸って、吐いた。
「分かった」
声が自分でも驚くほど冷静だった。
「17:00までに、原本で勝てる形を作る。——それが間に合わなければ、あなたの自動送信を止めない」
告発者の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
救われた、じゃない。
“順番が決まった”ときの安堵だ。
「福本さん」
告発者が言う。
「あなたが折れたら、俺は送る。迷わず送る」
脅しじゃない。宣言だ。
私は頷いた。
「私も迷わない。切り貼りじゃなく、条件ごと残す」
時計は、もう午前を回っている。
17:00まで、残り時間は少ない。
そしてその時間は、私たちの側の火も——点けるかどうかの猶予だった。
別室の“正式な場”が終わった直後、私の端末に入ったのは、メールじゃなかった。
会議招集(強制)。件名は短い。
【至急】統合PJ臨時レビュー(本日16:30/本社オンライン)
出席者:佐伯、法務、監査、外部弁護士、福本
——16:30。
告発者の自動送信は17:00。
時間の切り方が、綺麗すぎる。偶然の形じゃない。
私は廊下の窓に映る自分の顔を見た。青白い。
でも目だけは、妙に落ち着いている。火の中に入る前の、変な静けさだ。
会議室に入ると、画面の向こうはすでに“整列”していた。
中央に佐伯。横に法務。監査室。外部弁護士。全員が同じ背景、同じ照明、同じ角度。
私だけが現場の薄暗い会議室で、壁に寄せた椅子に座る。
『福本さん、ありがとう』
佐伯の声は穏やかだった。穏やかなまま、罠は来る。
画面共有が始まる。
タイトルが出た瞬間、胃が冷たくなる。
『福本(統合PJ担当) 行動確認書(守秘義務・利益相反)』
確認書。
“署名させる紙”の匂いがする。首輪の紙の、上位互換。
『事実確認だけだよ。君も、君自身を守りたいだろう?』
守る。
その単語を、佐伯が使うこと自体が汚い。
確認書の一項目目。
1)本日までに、福本は告発者Aと複数回接触した。
2)福本は、監査による事情聴取を中止させた。
3)福本は、社長と連携し、懲戒手続に影響を与えた可能性がある。
4)福本は、外部への情報波及を引き起こした可能性がある。
——以上を本人の認識として確認する。
“認識として確認”。
事実の形をした、告白の強要。
署名した瞬間、私は“自分で”燃える。
私は息を一つ吸って、声を平らにした。
「署名はしません」
佐伯は驚かない。驚くふりすらしない。
『署名しない、ということは——内容に異議があるんだね?』
「はい。文言が誘導です」
『誘導? 言葉が強いね』
「“可能性”を並べて本人の認識にするのは、誘導です」
法務が口を挟む。
「福本さん、確認書は処分文書ではありません。あなたの身を守るための——」
「守るためなら、なぜ“期限”があるんですか」
私は画面の右上を指差した。
提出期限:本日16:50
——17:00の十分前。
告発者が送るかどうかの分岐点の、さらに手前で私を縛る設計。
沈黙が一瞬だけ落ちる。
佐伯が、ゆっくり言った。
『君は賢い。だから、これが何のためかも分かるはずだ』
「分かります」
私は答えた。
「私の口を縛って、手続きを奪うためです」
佐伯が初めて、微笑みを消した。
穏やかな顔が、ただの白い壁になる。
『では、別案だ』
佐伯は画面を切り替える。次の資料。
『暫定報告書(一次ヒアリング)』
そこには、私が書いていない文章が、すでに整っていた。
新人の証言が、短く。強く。都合よく。
そして最後の結論が太字で置かれている。
——「当該社員Aは守秘義務違反の蓋然性が高い」
私は喉が鳴るのを抑え、言った。
「これは私の報告書ではありません」
『君が出すんだよ』
佐伯は淡々と言う。
『形式上、“現地の統合PJ担当”が提出するのが一番円滑だ』
円滑。
また来た。いつも通りの殺し文句。
「提出しません」
『じゃあ、君は手順を拒否するんだね』
佐伯の声が低くなる。
『それは、統合の妨害に当たる。分かるね?』
——罠の核はここだ。
私を“妨害者”にする。
そうすれば、17:00前に私を外せる。
私が外れれば、原本で勝つ手続きは止まる。告発者は送る。現場は燃える。
私は一拍置き、逆に問いを刺した。
「この報告書の原資料を見せてください」
『原資料?』
「匿名通報窓口の投稿ログ、想定問答の原本、守秘義務注意喚起の配布履歴、ヒアリングの全文記録」
私は淡々と列挙した。
「“全文”です。切り貼りされない形で」
外部弁護士が、初めて口を開いた。
「福本さん、あなたは守秘義務を理解していますか」
「理解しています」
「では、なぜ“全文”を要求する?」
「全文がなければ、切り貼りの真偽が検証できないからです」
私は即答した。
「検証できない報告書は、手続きとして不適正です」
監査の男が、柔らかく笑う。
「“切り貼り”という表現は——」
「不適切なのは、条件を削って断定を流す行為です」
私は同じ返しを、同じ温度で繰り返した。
繰り返しは、原本の作り方だ。
佐伯の目が、ほんの少しだけ細くなる。
そして、最後の罠が落ちてきた。
『福本さん。君のPCとスマホ、会社貸与だね』
「はい」
『提出して。フォレンジックに回す』
「……何のために」
『君が外部に漏らしていない証明だ』
佐伯は穏やかに言う。穏やかに、喉元へ手を伸ばす。
『君が潔白なら、何も怖くない』
——提出した瞬間、私は終わる。
USBのフォルダ【佐伯】。
申立書の草案。
新人の署名紙のコピー。
告発者の“17:00自動送信”の話。
全部が“悪意ある編集”の素材になる。
私は背筋を伸ばし、はっきり言った。
「任意提出には応じません。必要なら、正式な手続きと範囲を文書で提示してください」
『……』
佐伯の沈黙が長い。
長い沈黙は、罠の切り替えだ。
『分かった』
佐伯が言う。
『では君を、本日16:45付で統合PJ担当から外す。後任は監査が兼務する』
口調は淡々。言っていることは、首を落とす宣言。
画面の右下に、小さく通知が出た。
人事通達(下書き)
タイトルだけが見える。
——「福本:統合PJ担当変更(協力姿勢に疑義)」
“疑義”。
証拠じゃない。空気の言葉。
炎上と同じ言語で、人事を動かす。
私は時計を見た。16:41。
——残り19分。
佐伯が、最後に言った。
『君が折れないなら、こちらも守るものを守るだけだ。君の選択だよ』
君の選択。
優しさの形をした脅し。いつも通り。
私は画面を見つめ、声を落とさずに言った。
「私の選択は変わりません」
そして、決定打を置く。
「今この会議、録音録画されてますよね」
佐伯の目が、わずかに動く。
「提出してください。——“全文”で。切り貼りせずに」
外部弁護士が一瞬だけ言葉を失う。
監査が咳払いをする。
佐伯は微笑まない。微笑めない。
沈黙の中で、私の端末が震えた。
告発者からの短いメッセージ。
【17:00、準備完了。福本さん、間に合う?】
私は返信しなかった。
返信が切り貼りされるからじゃない。
返信する暇がないからだ。
画面の向こうで、佐伯が静かに言った。
『福本さん。最後に確認する。君は“どっち側”だ』
——罠の最後は、言葉を切り取ること。
私は、条件ごと残すために、ゆっくり言った。
「適正な手続きの側です。守る側に立つ“なら”、私はそこに立ちます」
時計は16:44。
あと6分で、私の担当は外される。
あと16分で、告発者のメールが飛ぶ。
そして私は、朱肉の受領印の控えを握りしめながら、次の“原本”を作る順番を頭の中で組み直した。
夜の駐車場は、昼の敵意が嘘みたいに静かだった。
白い外灯がアスファルトを冷たく照らし、車の陰が長く伸びる。遠くで誰かのドアが閉まる音がして、それきり。
社長はエントランスの柱にもたれて待っていた。コートの襟を立て、ネクタイは緩んでいる。怒りで燃えていた目が、今は疲れで乾いている。
私が近づくと、社長は一言も言わずに歩き出した。言葉は燃料になる。だから、今夜は言葉を節約している。
「……来たか」
車の横で、やっとそれだけ言った。
「来ました」
私は鞄を抱え直し、息を整える。
今日一日、切り貼りされない言葉を選び続けた喉が痛い。
社長が後部座席のドアを開けた。
「後ろに乗れ」
「助手席じゃないんですか」
「助手席は——噂になる」
即答だった。悔しいくらい正しい。
私は頷き、後部座席に滑り込んだ。ドアが閉まる。音が大きい。逃げ道が消える音。
社長は運転席に乗り込み、エンジンをかけた。暖房の風が少し遅れて流れ、凍っていた指先が痛む。
車はゆっくり動き出し、会社の明かりがミラーの中で小さくなる。
沈黙が長い。沈黙の方が安全なのに、沈黙が不安でもある。
「……担当、外されたのか」
社長が前を見たまま言った。声が低い。
「形式上は、まだ」
私は答えた。
「でも、16:45付って言いました。人事通達の下書きも見せた」
「くそ」
社長が短く吐き捨てる。
「怒っても、火が増えるだけです」
言った瞬間、自分の言い方が冷たくて、胸が少し痛んだ。
社長は返さない。代わりに、ウインカーの音だけが車内に規則正しく響く。
しばらく走って、社長は人のいない河川敷の脇道に車を寄せて止めた。エンジンは切らない。
「ここなら、聞かれない」
そう言うと、社長は初めて私を見た。
「……17:00」
その数字だけで、全身が緊張する。告発者の自動送信。
「止められる?」
社長の問いは、命令じゃない。頼みでもない。確認だ。覚悟の確認。
私は鞄から、受領印の押された控えを出し、膝の上に置いた。朱がまだ少し濃い。
「止めるかどうかは、私じゃなくて告発者です」
「……じゃあ、お前は何をする」
「“原本で勝てる形”を作る」
私は言い切った。
社長が鼻で笑う。
「間に合うのか」
「間に合わせる」
言ってから、息を吐く。息を吐かないと、震えが声に混ざる。
社長がハンドルから手を離し、両手を膝に置いた。
「福本」
名前を呼ばれる。心臓が一拍だけ跳ねる。条項の警報が鳴る。
私は熱を押し込み、平らに返す。
「はい」
「お前、今日、俺を止めたな」
「止めました」
「ありがとな……って言うと、また燃えるか」
社長が苦く笑う。
その笑いに、昼間の敵意と違う疲労が混ざっていて、胸の奥が少しだけ熱くなる。
——恋じゃない。錯覚だ。守り合いの錯覚。
「燃えます」
私は淡々と言った。
「でも、必要なら言ってください。言葉がなくなると、人は折れます」
自分で言って、自分の喉が痛む。今日、新人が壊れかけたのを思い出した。
社長が小さく息を吐き、前を見たまま言った。
「じゃあ言う。お前を——外させない」
強引な守りの言葉。盾の言葉。
その瞬間、私は背筋が冷えた。盾は、私を守る代わりに私を“社長の側”に固定する。切り貼りが喜ぶ。
「外させない、は駄目です」
私は即答した。
「……なんだと」
社長の声に、怒りが少し混じる。
「外させない、は“あなたが守る”です」
私は言葉を整える。条件を残すために。
「必要なのは、“手続きが守る”です。あなたが盾になると、私はただの噂になります」
社長が黙った。
沈黙が、車内に落ちる。エンジンの振動だけが、二人の間を埋める。
「……じゃあ、どうする」
社長が低く言った。
問いが、ようやくこちらを向く。敵意じゃない問い。協力の問い。
私は控えの紙を一枚めくり、ペンを取り出した。
「契約しましょう」
「契約?」
「信頼の契約」
言った途端、言葉の温度が少し上がってしまう。私はすぐに言い直す。
「——業務上の、です」
社長が目を細くする。
「どういう内容だ」
私はペン先で、箇条書きを作る。
「一つ。社長は“単独行動しない”。現場で動くときは、必ず吉岡か班長を同席させる。証人を作る」
「……噂対策か」
「噂対策です。噂は、孤立した瞬間に刺さります」
「二つ。私と社長は、二人きりで会わない」
社長の眉が動く。
私の胸の奥も、わずかに疼く。そこを無視して続ける。
「会うなら、場所と目的を文書に残す。会議招集でもいい。ログにする」
「……不便だな」
「不便でいいんです。不便は原本になります」
「三つ。私が“全文”を出すと決めたものは、社長も口を出さない」
「口を出すな?」
「編集されるからです。あなたが焦って言葉を足した瞬間、その一言だけが切られる」
社長が唇を噛む。分かっている顔だ。分かっていても我慢が難しい顔。
「四つ」
私は一拍置いた。
「私が折れそうなら、社長は“前に出ない”代わりに、“受領印を取らせる”。書面で守る」
社長が、ゆっくり頷く。
最後に、私はペン先を止めた。
「そして——五つ」
言うか迷う。迷ったら切り取られる。だから、条件を付けて言う。
「もし私が外されたら、社長は“私の名前”を使って戦わない」
社長が目を上げた。
「どういう意味だ」
「『福本が言ってた』『福本がやってた』は、私を燃やすだけです」
私は息を吸って続ける。
「戦うなら、社長自身の手続きで。社長名で。私は原本の裏方に回る」
社長が、低く笑った。
「……お前、ほんとに変な女だな」
「仕事です」
いつもの返し。でも今日は、少しだけ震えた。
震えたのは寒さのせいにした。
社長が手を伸ばし、私の膝の上の紙を取ろうとする。私は反射で引っ込めかけて、止めた。引っ込めたら“隠した”になる。
社長は紙を見て、言った。
「署名は?」
「署名はしません」
「じゃあこれは何だ」
「合意です」
私は言った。
「口約束じゃなくて、合意。あなたが破ったら、私が止めます」
社長は少しだけ黙ってから、紙をダッシュボードに置いた。
そして、驚くほど静かに言った。
「分かった。……守る」
短い。強い。
でも今日は、続きが付いた。
「守るってのは、前に出ることじゃない。——お前の手続きを守るってことだな」
その言い方が、胸の奥の熱を少しだけ正しい場所に戻した。
恋じゃない。信頼だ。契約だ。
私は頷いた。
「はい。契約です」
そして、最も大事な条件を置く。切り貼りされないために。
「守る側に立つ“なら”、私たちは同じ側です」
社長は、今度は笑わなかった。
ただ、ゆっくり頷いた。
その瞬間、私のスマホが震えた。
告発者から。
【17:00までに“原本”が出るなら止める。出ないなら送る。今どこ?】
時計を見る。
23:18。
夜はまだ長い。でも、猶予は長くない。
私は返信の画面を開き、短く打った。
【出す。原本で。】
送信ボタンを押す指が、少しだけ震えた。
社長が前を見たまま、低く言う。
「行こう」
「どこへ」
「原本を作る場所へ」
車が動き出す。
外灯の白が流れ、窓の外の夜が、少しだけ味方に見えた。
17:00の五分前。
社内ポータルのトップが、静かに更新された。
【公開】聴取手続の適正性に関する申立(全文)
添付:①聴取記録(全文)②守秘義務注意喚起(署名原本コピー)③匿名通報窓口ログ(時刻・文面一致)④想定問答(原本)⑤本社会議(16:30)録音書き起こし(全文)
※編集・要約なし/切り貼り防止のため、各ページに通し番号・ハッシュ値を付与
——“全文”で。
私は会議室の端で、画面を見つめたまま息を吐いた。
社長は背後に立って、ただ黙っている。
告発者のスマホはテーブルの上で伏せられたまま。あの「自動送信」の画面が、まだ消えていない。
最初に反応したのは、炎上の中心だったチャットだ。
「……え、全文?」
「ハッシュ値付いてる」
「想定問答の原本って何?」
「守秘義務の紙、署名させてるのガチじゃん」
「“言い方を指定”って、これ……」
「匿名通報、文末の癖同じで草じゃない、怖」
“草”が消えた。
代わりに、文章の途中で止まる沈黙が増えていく。
読んだ人が、笑えなくなる速度が、火より早い。
次に流れたのは、私の言葉だった。
切られた断定じゃない。条件ごと、前後ごと残ったやつ。
『守る側に立つなら。——はい、同じ側です』
(注:宛先は新人/社長宛ではない/全文記録 p.42)
矢印が、ゆっくり曲がり始める。
これまで私に刺さっていたものが、「切った手」の方へ向きを変える。
「社長宛じゃなかったのか…」
「じゃあ、あのスクショ改変?」
「“条件消して断定だけ”って、ほんとにやってた」
「監査の固定文、拡散止めるどころか誘導してる」
私は画面をスクロールし、最後の添付——16:30会議の全文書き起こしを開いた。
佐伯の声が、文字になっている。
——「君のPCとスマホ、提出して。フォレンジックに回す」
——「君が潔白なら、何も怖くない」
——「本日16:45付で統合PJ担当から外す」
“穏やかさ”が、文字になるとただの手順だった。
人を縛るための、きれいな段取り。
会議室のドアが開いた。
総務の吉岡が、青い顔で飛び込んでくる。
でも、昨日までの青さと違う。怯えじゃない。確信の青さだ。
「社長……っ、全社の空気が変わってます」
社長が短く問う。
「どう変わった」
「……怒りの矛先が、こっちじゃなくて“手続き”に向いてる」
吉岡は息を飲み、続けた。
「班長たちが言ってます。“俺たちは裁かれる側に並ばされてた”って」
社長が、初めて肩の力を抜いた。
抜いた瞬間に倒れそうで、私の方を見ずに言う。
「……お前の勝ちだ」
「勝ちじゃないです」
私は即答した。
「反転しただけ。元に戻しただけです。——原本に」
そのとき、伏せてあった告発者のスマホが震えた。
17:00。自動送信の時刻。
告発者は一秒だけ私を見て、指先で画面を起こした。
予約送信の一覧。
そこに、赤いボタンがある。
送信をキャンセル
彼の指が止まる。
止まるのは迷いじゃない。確認だ。
“原本で勝てる形”が、間に合ったかどうか。
私は言葉を短くした。切れない形で。
「出ました。全文で」
社長が、低く言う。
「今度は、お前の順番だ」
告発者の指が、赤いボタンを押した。
画面の表示が変わる。
キャンセルしました
その瞬間、スマホの震えが止み、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
燃料が一本、消えた。
——でも、完全に鎮火したわけじゃない。
“全文”は火を消すんじゃない。火元を見せる。
見せられた側は、次に何をするかを選べるようになる。
廊下の向こうで、足音が止まった。
監査室の男が、会議室のドア枠に立っている。
いつもの柔らかい声が、今日は少しだけ乾いていた。
「福本さん。……これは、やりすぎです」
私は立ち上がり、受領印の控えを机の上に置いた。朱が、もう乾いている。
「やりすぎなのは、“条件を消して断定だけを流す”方です」
私は言った。
「私は全文で出した。編集してない。——だから、検証できますよね」
監査は返事をしなかった。
返せない沈黙が、答えだった。
社長が一歩だけ前に出る。強引に守るためじゃない。
今度は、手続きの後ろに立つために。
「正式な場でやれ」
社長が言う。
「この全文を前提に。次は、“切り貼り無し”の場で」
監査の男が、目を伏せた。
そして、ゆっくり頷いた。
その夜、私は社内チャットの一番上に固定された文言が、別の意味に置き換わっていくのを見ていた。
「拡散するな」ではなく、「原本を残せ」。
火はまだある。
でも、火がどこから来たかを、全員が知った。
私は画面を閉じ、最後に社長へだけ、短い文書を渡した。
“信頼の契約”の続き。条項じゃない。手続きの約束。
「守る側に立つ“なら”——」
社長が、続きを言った。
「同じ側だ」
条件が消えないように。
これからも、全文で。
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