隣の夫婦 ~離婚する、離婚しない、身近な夫婦の話

紫ゆかり

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第1章

梓の場合 その8 離婚条件

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 弁護士という職業の人に会ったのは初めてだった。
 ドラマやテレビ番組の中での弁護士は、あきるほど見ていても、自分のことで弁護士に相談にのってもらうという人はどのくらいいるだろう、1割もいないのではないかと梓は思った。

 その弁護士は、川中という四十代後半の落ち着いた雰囲気の男性の弁護士だった。
 川中は梓の話を聞き終えると
「ご相談の内容はわかりました。ただ朋彦さんには、不貞行為や暴力、ギャンブルなどによる浪費、借金もありませんし、収入を開示しませんが、生活費も渡しています。また『その他、婚姻を継続しがたい重大な事由』としても……」
「でも、彼とはやっていけないのです。常識からは外れた考えかもしれませんが、彼のしたことは私には大きな打撃でした」梓は手の中のハンカチを握りしめた。
「やり直しをする可能性は?」
「ありません。離婚を考えているのではなく、離婚したいのです」

 梓は川中と相談しながら、譲れること、譲れないことを整理していった 梓は子供の親権と、自分の手元で育てることだけは譲れなかった。ただ子供達の生活基盤を変えること、特に小学生の蓮の学区の変更は避けたかった。
「住居の問題ですね。それは今の住居で過ごしたい、という……」
「はい。住宅ローンの債務者は夫ですが、名義は私と共有です、新居の購入に私の両親が700万円の頭金を援助してくれたので……ただ問題は、夫が私の希望を承諾してくれるかです。そのための譲歩はできるだけします」

 川中と相談した結果、住居の確保のため梓は月額3万円の部屋代を朋彦に支払い、子供たちの学資保険以外の、朋彦名義の預貯金などの財産をすべて放棄することにした。また養育費は、希望額でなく、裁判所の算定方法で決める、面会は朋彦の希望にそった形で行う、という内容にした。梓はこれがぎりぎりの譲歩であることを川中に伝えた。目立った夫婦喧嘩もしないのに、同居中の離婚交渉は、どれだけ家を暗くするだろうかと梓は暗澹としたが、朋彦を「卑怯」と感じてしまった以上、やはり朋彦とこのまま夫婦として暮らしていくのはできなかった。今をごまかしても、きっとどこかで破綻するのを感じていた。
「朋彦、話があるの……」帰宅後、梓は朋彦に離婚を切り出した。

 それからの日々は、梓は思い出すのもつらく、その時の心の傷は今も癒えていない。しかし形のない違和感を抱えてやり過ごしてきた日々の重さが、梓の決心をどうにか支えた。支配関係をじわじわと築いていった朋彦を、梓はどうしても、許すことができなかった。
 最初は離婚を拒否した朋彦も、次第に梓の決心が固いことを認めるようになった。朋彦も知り合いの弁護士にも相談し、最終的に離婚条件を承諾し、離婚協議書を作成した。朋彦は異動願いを出し、転勤が決まった時点で離婚届を出した。川中に相談してから二年近くたってからだった。

 現実の別れは、お互いが握手をして微笑んで別れるような、美しいものではなかった。家を出る朋彦の後ろ姿を梓は見送っただけだった。子供達を傷つけ、梓も朋彦も傷つけあい、周囲を巻き込んだ。梓のわがままではないのか、子供達のためにもやり直せないのか、と両親からも言われた。
 しかし梓は後戻りはしなかった。
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