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第一話 名前を呼ばれた午後
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偏差値は都内でも有数とされる、名門私立大学の学食。
その窓際だった。
午後のやわらかな光がテーブルを満たす中で――瀬戸尚人は、開いた教科書をぼんやりと見つめていた。
表紙には《看護学概論》と記されている。
ページは開かれているが、視線は文字を追っていない。
白紙の余白に吸い込まれるように、思考がどこか遠くへ漂っていた。
「尚人、またそんなに小食かよ。
……お前さ、前から細かったけど、こんなだっけ?
もっと食えって。肉だよ、肉」
向かいの席で山盛りの唐揚げ丼を掻き込んでいるのは、悪友の佐々木健二だった。
法学部らしく、講義帰りでも気にしないのか、ネクタイは緩み、袖をまくった腕には無遠慮な力強さがある。
日焼けした肌に、がっしりとした体格。並んで座ると、二人は同じ年とは思えない。
彼と比べることで、尚人の線の細さは、よりはっきりと浮かび上がる。
まるで、隣の健二が生命力を過剰に放っているせいで、尚人の色だけが薄まっていくような錯覚さえ覚える。
健二の箸が豪快に丼をさらうたび、油の光が跳ね、肉の塊が次々と消えていく。
その対照のように、尚人のトレイの上だけが、不自然なほど静かなままだった。
「……なんか最近、前みたいに入らなくて」
「お前、看護科だろ? 体力勝負じゃん。
法律ならさ、気合と理屈でゴリ押せるけど、身体は嘘つかないだろ。実習とか大丈夫なのかよ」
「……まあ、なんとか、ね」
「お前のその、陶器みたいな白さとさ、線の細さ。
看護科の女子が放っておかないのも分かるけど――
男としては、もうちょっとガツンと来いよ」
健二が笑いながら肩を叩く。
その大きな手の重みで、尚人の身体はわずかに揺れた。
――それは単なる体格差ゆえの揺れではなく、どこか根を失ったものが触れられたときの、不自然な揺れだった。
遅れて、尚人の呼吸だけが、ほんのわずかに浅く乱れる。
「……なあ尚人、前こんな軽かったっけ?」
それを、本人だけが「大げさだ」と受け止めていた。
あるいは、揺れることそのものに慣らされ始めていることにも、気づかずに。
そんなテーブルに、一人の女子学生がトレイを持って近づいてきた。
「健二、あんたが叩くと尚人が折れちゃうでしょ。少しは加減しなさいよ」
クラスメイトの結城結衣だった。
尚人と同じ看護科で、実習着姿の時間が増えてきたせいか、人の体調を見る目が自然と身についている。
活発そうなポニーテールに、慈しむような優しい瞳。
――幼馴染み。
尚人にとって、気づけばずっと隣にいた――
変わっていく自分を測るための、“最後の基準点”のような存在だ。
彼女は尚人の隣に腰を下ろし、思ったよりも近い距離で顔を覗き込んだ。
「尚人、本当に肌、綺麗よね。……ねえ、ほんとに特別なことしてない?
女子として、ちょっと嫉妬しちゃう」
「な、何もしないよ……ただの体質だよ、結衣」
結衣の視線が、時折、唇や喉仏に留まる。
かつては確かに「男」を意識させていたはずのそこが、いまは、どこにも属していない“空白”のように見えてしまう。
喉仏の起伏が、以前よりも曖昧だった。
呼吸に合わせて上下するはずの線が、皮膚の内側に吸収されていくように、柔らかく見える。
それはまるで、彫刻される前の大理石を眺めているような、寄る辺ない美しさだった。
完成を待つその「空白」を、誰がどんな色で塗りつぶそうとしているのか。結衣の胸に、言葉にならないざわつきが広がる。
尚人の顔立ちは、もともと柔らかかった。
角のない輪郭。感情が滲みやすい目元。
強さよりも先に、“受け止める”ことを覚えたような表情。
それらが今は、性別の印象を補強するのではなく、境界そのものを曖昧にしていた。
結衣は、その違和感から目を逸らすように、ふいに視線を外した。
そして気づけば、学食の入口を確認している。
誰もいないことを確かめると、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
来てほしくない誰かの気配を、先回りして確かめるように。
その瞬間だった。
「尚人くん」
食器の触れ合う音も、周囲の笑い声も、まるで水底に沈んだみたいに遠のいた。
声は、思ったよりも近かった。
鼓膜ではなく、皮膚の内側を、静かに撫でられた気がした。
――その一拍あとで、尚人の指先が、理由の分からないまま、ほんのわずかに震えた。
その窓際だった。
午後のやわらかな光がテーブルを満たす中で――瀬戸尚人は、開いた教科書をぼんやりと見つめていた。
表紙には《看護学概論》と記されている。
ページは開かれているが、視線は文字を追っていない。
白紙の余白に吸い込まれるように、思考がどこか遠くへ漂っていた。
「尚人、またそんなに小食かよ。
……お前さ、前から細かったけど、こんなだっけ?
もっと食えって。肉だよ、肉」
向かいの席で山盛りの唐揚げ丼を掻き込んでいるのは、悪友の佐々木健二だった。
法学部らしく、講義帰りでも気にしないのか、ネクタイは緩み、袖をまくった腕には無遠慮な力強さがある。
日焼けした肌に、がっしりとした体格。並んで座ると、二人は同じ年とは思えない。
彼と比べることで、尚人の線の細さは、よりはっきりと浮かび上がる。
まるで、隣の健二が生命力を過剰に放っているせいで、尚人の色だけが薄まっていくような錯覚さえ覚える。
健二の箸が豪快に丼をさらうたび、油の光が跳ね、肉の塊が次々と消えていく。
その対照のように、尚人のトレイの上だけが、不自然なほど静かなままだった。
「……なんか最近、前みたいに入らなくて」
「お前、看護科だろ? 体力勝負じゃん。
法律ならさ、気合と理屈でゴリ押せるけど、身体は嘘つかないだろ。実習とか大丈夫なのかよ」
「……まあ、なんとか、ね」
「お前のその、陶器みたいな白さとさ、線の細さ。
看護科の女子が放っておかないのも分かるけど――
男としては、もうちょっとガツンと来いよ」
健二が笑いながら肩を叩く。
その大きな手の重みで、尚人の身体はわずかに揺れた。
――それは単なる体格差ゆえの揺れではなく、どこか根を失ったものが触れられたときの、不自然な揺れだった。
遅れて、尚人の呼吸だけが、ほんのわずかに浅く乱れる。
「……なあ尚人、前こんな軽かったっけ?」
それを、本人だけが「大げさだ」と受け止めていた。
あるいは、揺れることそのものに慣らされ始めていることにも、気づかずに。
そんなテーブルに、一人の女子学生がトレイを持って近づいてきた。
「健二、あんたが叩くと尚人が折れちゃうでしょ。少しは加減しなさいよ」
クラスメイトの結城結衣だった。
尚人と同じ看護科で、実習着姿の時間が増えてきたせいか、人の体調を見る目が自然と身についている。
活発そうなポニーテールに、慈しむような優しい瞳。
――幼馴染み。
尚人にとって、気づけばずっと隣にいた――
変わっていく自分を測るための、“最後の基準点”のような存在だ。
彼女は尚人の隣に腰を下ろし、思ったよりも近い距離で顔を覗き込んだ。
「尚人、本当に肌、綺麗よね。……ねえ、ほんとに特別なことしてない?
女子として、ちょっと嫉妬しちゃう」
「な、何もしないよ……ただの体質だよ、結衣」
結衣の視線が、時折、唇や喉仏に留まる。
かつては確かに「男」を意識させていたはずのそこが、いまは、どこにも属していない“空白”のように見えてしまう。
喉仏の起伏が、以前よりも曖昧だった。
呼吸に合わせて上下するはずの線が、皮膚の内側に吸収されていくように、柔らかく見える。
それはまるで、彫刻される前の大理石を眺めているような、寄る辺ない美しさだった。
完成を待つその「空白」を、誰がどんな色で塗りつぶそうとしているのか。結衣の胸に、言葉にならないざわつきが広がる。
尚人の顔立ちは、もともと柔らかかった。
角のない輪郭。感情が滲みやすい目元。
強さよりも先に、“受け止める”ことを覚えたような表情。
それらが今は、性別の印象を補強するのではなく、境界そのものを曖昧にしていた。
結衣は、その違和感から目を逸らすように、ふいに視線を外した。
そして気づけば、学食の入口を確認している。
誰もいないことを確かめると、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
来てほしくない誰かの気配を、先回りして確かめるように。
その瞬間だった。
「尚人くん」
食器の触れ合う音も、周囲の笑い声も、まるで水底に沈んだみたいに遠のいた。
声は、思ったよりも近かった。
鼓膜ではなく、皮膚の内側を、静かに撫でられた気がした。
――その一拍あとで、尚人の指先が、理由の分からないまま、ほんのわずかに震えた。
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