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第二話 白衣が触れた午後、僕は少しずつ忘れ始めていた
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学食の空気が、目に見えない形で変わった。
ざわめきが一段落し、視線が自然と入口へ集まる。
「……神宮寺教授だ」
誰かの声が、ひそやかに落ちる。
医学部教授、神宮寺綾羽。
看護科の学生にとっては、実習先でその名を耳にしただけで、無意識に背筋が伸びる存在だった。
腰まで届く艶やかな黒髪をハーフアップにまとめ、白衣を纏った姿は常に端正で、無駄がない。
歩調は静かで、視線は鋭い。だが、声を荒げることは一度もない。
その抑制された態度こそが、かえって周囲の緊張を濃くしていた。
年齢は二十八歳。
異例の若さで教授職に就いた、紛れもない天才医師。
──ただし、その肩書き以上に学生たちを萎縮させているのは、
彼女の前では「誤魔化し」も「曖昧さ」も、一切の逃げ道が許されないという事実だった。
完成された美貌は、飾り立てることを必要としない。
それでも彼女が一歩進むたび、視線は抗えず、自然と引き寄せられてしまう。
その白い肌は冷ややかさではなく、触れれば溶けてしまいそうな危うさを帯び、口元に浮かぶ微かな微笑は、優しさと同時に“選別する側”の静かな意志を宿していた。
女としての艶と、学者としての理性。
本来なら相反するはずのそれらが、彼女の中では同じ場所で、寸分の狂いもなく共存している。
その均衡こそが、見る者の判断を鈍らせ、距離感を誤らせる。
──彼女は最初から、
「選ばれるか、選ばれないか」を決める側の人間なのだと、誰もが直感してしまう存在だった。
その認識が学食に共有されたかのように、ざわめきが一瞬、揺らぐ。
視線が行き先を失い、やがて一つの点へと収束していく。
その足取りは迷いなく、尚人の席へ向かってくる。
――その「向かってくる」という事実を、結衣は誰よりも早く理解してしまう。
結衣は無意識のまま、尚人の袖口を指先でつまんでいた。
自分でも理由がわからないまま、すぐに手を離す。
離したはずの指先だけが、わずかに温度を残したまま強張っていた。
誰かの囁きが、その名を空間に落とした瞬間、
結衣の指が、箸の柄をきゅっと握った。
笑顔はそのままなのに、反応だけが一拍遅れる。
健二が「すげえな……」と呟く横で、結衣は小さく息を飲み、一度だけ視線を伏せた。
胸の奥で、理由のない警戒だけが、はっきりと形を取り始めていた。
結衣は息を吸いそこねた。
胸が、音を立てずに縮む。
獲物を追う捕食者と、視線だけが先に重なってしまった。
「尚人くん。午後の実習、必要な資料を忘れていったでしょう?」
綾羽の視線が、尚人の喉元に一瞬だけ落ちた。
その一瞥は、測るように正確だった。
白衣の下で、胸が静かに上下する。
ほんのわずかに深くなった呼吸は、誰にも気づかれないほどの変化だった。
綾羽は隣に立ち、そっと尚人の肩に手を置いた。
近づいた瞬間、尚人の鼻に、消毒液の匂いが届いた。
病院で慣れ親しんだ、判断を要しない匂い。
けれどその奥に、ほんのわずか、別の香りが混じる。
清潔さの隙間に滑り込む、高価で私的な気配。
尚人は一瞬、自分がどこに立っているのかを考え直した。
触れられた瞬間、尚人の背筋は反射的に伸びる。
考えるより先に、姿勢だけが正しい位置へ“整えられて”いた。
言葉より先に、身体が応じてしまう相手。
自分より年上の――そう呼ばれている存在だった。
その光景は、周囲から見れば奇妙だった。
学長の姪であり、天才と呼ばれ、美貌まで兼ね備えた綾羽が、これほど“男の気配が薄い”尚人の隣に立っている。
医学部の天才教授と、看護科二年生の尚人。
あまりに噛み合わない組み合わせに、
いつしか――
「本当に付き合ってるのか?」
そんな噂さえ、ひそやかに囁かれるようになっていた。
それでも二人は、否定もしなければ、説明もしなかった。
――その形が、いちばん波風を立てずに済んだからだ。
「……ありがとうございます、綾羽さん」
尚人が頭を下げると、彼女の手が、慈しむように彼の襟足を掠めた。
その指先が描く曲線は、愛を囁いているようにも、
処方箋を書き換えているようにも見えた。
指が離れたあとも、そこだけ体温が残ったままだった。
「放課後、研究室で待っているわ。
今日は少し――ゆっくりと身体を診てあげるから」
その言葉を残して、綾羽は一歩、距離を取った。
机の端に置かれた資料が、トレイに触れて、かすかに紙の音を立てる。
その角に指先が触れると、そこだけが、ほんのりと温かかった。
背筋を正そうとして、
その動きが、ほんのわずかに自分の意思より早く整ってしまう。
それを違和感と呼ぶには、まだ早すぎた。
まだ、それは名前を持つほどの感覚ではなかった。
返事をしようとして、なぜか喉が先に鳴る。
学食の喧騒の中、
その言葉だけが尚人の耳元で、冷たく、甘く響く。
その瞬間、尚人の胸の奥で、ほんの微かに何かが引っかかった。
けれどそれは、痛みになるほど明確ではなく、
「気のせいだ」と飲み込めてしまう程度の、あまりに小さな違和感だった。
綾羽が離れると、空気が戻ってくる。
食器の音が、笑い声が、遅れて追いついてくる。
尚人は、視線を落とした。
さっきまで耳に残っていた健二の声も、
視界の端にあったはずの結衣の気配も、
思い出そうとしなければ、もう形を結ばなかった。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
そしてそれが沈んだ瞬間、
呼吸だけが、ほんの少し――以前より深く、静かに整っていた。
名前を持たないまま、
沈んだことすら、もう意識に浮かばなくなりながら。
ざわめきが一段落し、視線が自然と入口へ集まる。
「……神宮寺教授だ」
誰かの声が、ひそやかに落ちる。
医学部教授、神宮寺綾羽。
看護科の学生にとっては、実習先でその名を耳にしただけで、無意識に背筋が伸びる存在だった。
腰まで届く艶やかな黒髪をハーフアップにまとめ、白衣を纏った姿は常に端正で、無駄がない。
歩調は静かで、視線は鋭い。だが、声を荒げることは一度もない。
その抑制された態度こそが、かえって周囲の緊張を濃くしていた。
年齢は二十八歳。
異例の若さで教授職に就いた、紛れもない天才医師。
──ただし、その肩書き以上に学生たちを萎縮させているのは、
彼女の前では「誤魔化し」も「曖昧さ」も、一切の逃げ道が許されないという事実だった。
完成された美貌は、飾り立てることを必要としない。
それでも彼女が一歩進むたび、視線は抗えず、自然と引き寄せられてしまう。
その白い肌は冷ややかさではなく、触れれば溶けてしまいそうな危うさを帯び、口元に浮かぶ微かな微笑は、優しさと同時に“選別する側”の静かな意志を宿していた。
女としての艶と、学者としての理性。
本来なら相反するはずのそれらが、彼女の中では同じ場所で、寸分の狂いもなく共存している。
その均衡こそが、見る者の判断を鈍らせ、距離感を誤らせる。
──彼女は最初から、
「選ばれるか、選ばれないか」を決める側の人間なのだと、誰もが直感してしまう存在だった。
その認識が学食に共有されたかのように、ざわめきが一瞬、揺らぐ。
視線が行き先を失い、やがて一つの点へと収束していく。
その足取りは迷いなく、尚人の席へ向かってくる。
――その「向かってくる」という事実を、結衣は誰よりも早く理解してしまう。
結衣は無意識のまま、尚人の袖口を指先でつまんでいた。
自分でも理由がわからないまま、すぐに手を離す。
離したはずの指先だけが、わずかに温度を残したまま強張っていた。
誰かの囁きが、その名を空間に落とした瞬間、
結衣の指が、箸の柄をきゅっと握った。
笑顔はそのままなのに、反応だけが一拍遅れる。
健二が「すげえな……」と呟く横で、結衣は小さく息を飲み、一度だけ視線を伏せた。
胸の奥で、理由のない警戒だけが、はっきりと形を取り始めていた。
結衣は息を吸いそこねた。
胸が、音を立てずに縮む。
獲物を追う捕食者と、視線だけが先に重なってしまった。
「尚人くん。午後の実習、必要な資料を忘れていったでしょう?」
綾羽の視線が、尚人の喉元に一瞬だけ落ちた。
その一瞥は、測るように正確だった。
白衣の下で、胸が静かに上下する。
ほんのわずかに深くなった呼吸は、誰にも気づかれないほどの変化だった。
綾羽は隣に立ち、そっと尚人の肩に手を置いた。
近づいた瞬間、尚人の鼻に、消毒液の匂いが届いた。
病院で慣れ親しんだ、判断を要しない匂い。
けれどその奥に、ほんのわずか、別の香りが混じる。
清潔さの隙間に滑り込む、高価で私的な気配。
尚人は一瞬、自分がどこに立っているのかを考え直した。
触れられた瞬間、尚人の背筋は反射的に伸びる。
考えるより先に、姿勢だけが正しい位置へ“整えられて”いた。
言葉より先に、身体が応じてしまう相手。
自分より年上の――そう呼ばれている存在だった。
その光景は、周囲から見れば奇妙だった。
学長の姪であり、天才と呼ばれ、美貌まで兼ね備えた綾羽が、これほど“男の気配が薄い”尚人の隣に立っている。
医学部の天才教授と、看護科二年生の尚人。
あまりに噛み合わない組み合わせに、
いつしか――
「本当に付き合ってるのか?」
そんな噂さえ、ひそやかに囁かれるようになっていた。
それでも二人は、否定もしなければ、説明もしなかった。
――その形が、いちばん波風を立てずに済んだからだ。
「……ありがとうございます、綾羽さん」
尚人が頭を下げると、彼女の手が、慈しむように彼の襟足を掠めた。
その指先が描く曲線は、愛を囁いているようにも、
処方箋を書き換えているようにも見えた。
指が離れたあとも、そこだけ体温が残ったままだった。
「放課後、研究室で待っているわ。
今日は少し――ゆっくりと身体を診てあげるから」
その言葉を残して、綾羽は一歩、距離を取った。
机の端に置かれた資料が、トレイに触れて、かすかに紙の音を立てる。
その角に指先が触れると、そこだけが、ほんのりと温かかった。
背筋を正そうとして、
その動きが、ほんのわずかに自分の意思より早く整ってしまう。
それを違和感と呼ぶには、まだ早すぎた。
まだ、それは名前を持つほどの感覚ではなかった。
返事をしようとして、なぜか喉が先に鳴る。
学食の喧騒の中、
その言葉だけが尚人の耳元で、冷たく、甘く響く。
その瞬間、尚人の胸の奥で、ほんの微かに何かが引っかかった。
けれどそれは、痛みになるほど明確ではなく、
「気のせいだ」と飲み込めてしまう程度の、あまりに小さな違和感だった。
綾羽が離れると、空気が戻ってくる。
食器の音が、笑い声が、遅れて追いついてくる。
尚人は、視線を落とした。
さっきまで耳に残っていた健二の声も、
視界の端にあったはずの結衣の気配も、
思い出そうとしなければ、もう形を結ばなかった。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
そしてそれが沈んだ瞬間、
呼吸だけが、ほんの少し――以前より深く、静かに整っていた。
名前を持たないまま、
沈んだことすら、もう意識に浮かばなくなりながら。
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