『神宮寺綾羽の調整記録 ―ナースへ堕とす禁断オペ―』

風間玲央

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第三話 知らない匂いが、まだ首元に残っていた

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――違和感は、沈んだままでは終わらなかった。

午後の光がわずかに傾き、学食の窓際に影を落とし始めたころ、綾羽は静かに手を離した。
それだけで、尚人の身体から張りつめていた糸がふっと緩む。

「……放課後。忘れないでちょうだい」

そう言って微笑み、彼女は背を向ける。
去り際の白衣の裾が、床の光をなぞるように揺れた。
その一瞬、視線だけが尚人の首元に残ったまま。

その背中が見えなくなるまで、尚人は無意識に視線を追っていた。
自分が“見送っている”のか、“引き留められている”のか、その区別すら曖昧なまま。

「……尚人」

結衣の声が、すぐ隣から落ちる。

はっとして視線を戻すと、彼女はいつもの笑顔を保ったまま、箸を持つ手だけを止めていた。
何気ない仕草なのに、空気が一段、静まる。

「放課後、研究室なんだ?」

「うん……行くことになってて」

「……ふうん」

それだけで会話は終わった。
けれど、結衣の視線は尚人の胸元から離れない。

――診る、という言葉。
身体、という言い方。

結衣の視線は、尚人の首元に吸い寄せられた。
さっきまで、そこに綾羽の指が触れていた場所。
白い肌の上に、まだ熱が残っていそうな錯覚。
そのすぐそばに、消毒液とは違う匂いが、薄く絡みついている気がして――胸の奥が、ひやりと冷えた。

自分の知らない誰かの手が、すでに触れている。
その事実だけで、理由もなく息が詰まる。

健二が空になった丼を持ち上げ、満足そうに息をつく。

「いやあ……さすが神宮寺さんだな。別世界の人って感じ」

その直後、丼がトレイに置かれる乾いた音が、思った以上に大きく響いた。
静まり返っていたわけではない。
けれど、結衣と尚人の間にだけ張りつめていた空気を、その音が無遠慮に叩き割ったように感じられた。

「……そうね」

結衣は短く答える。
その声は、ほんのわずかに低かった。

健二は何も気に留めない。
音も、沈黙も、視線の重さも。
彼だけが、同じ昼休みの中に立っている。

尚人は、二人のやり取りを聞きながら、自分の手元に目を落とした。

箸を持つ指が、どこか頼りなく見える。
力を入れていないわけじゃない。
けれど、意識しないと、形を保てない感じがした。

──気づけば、指先だけが、無意識に内側へ揃うように寄っていた。

離せば、そのまま落ちてしまいそうで。

(……前から、こんなだったっけ……)

健二に叩かれた肩の感触が、遅れて蘇る。
重さ。
衝撃。
そして、それに対して何も返せなかった、自分の身体。
受け止めたまま、返し方を思い出せない感覚。

その鈍さが、指先の動きにまで静かに滲み始めていることに、尚人はまだ気づいていなかった。

「尚人、最近さ……」

結衣は息を吸いかけて、言葉を止めた。

「……ううん。なんでもない」

その言葉の途中で、結衣は気づいてしまった。
もし今、問いを投げてしまったら。
もし「大丈夫?」と口にしてしまったら。

――尚人は、簡単に頷いてしまうだろう。

自分の状態を、正確に測る術を持たないまま。
誰かに委ねることに、すでに慣れ始めている、その表情で。
それが、どうしようもなく怖かった。

結衣は箸を置き、立ち上がる。

「先、行くね。午後の授業、遅れると嫌だし」

「……うん、また後で」

そう返した尚人の声は、いつも通りだった。
けれど、背中を見送る結衣には、その声が、少しだけ遠く聞こえた。

そして尚人自身もまた、自分の口が確かに動いたはずなのに、耳に届いたのは、どこか他人のセリフのようで、胸の内側を通らず、外側から撫でられただけの音に感じられた。

それが、自分の声なのかどうか。
確かめる前に、答えを知ってしまいそうで――

尚人は、何も考えないことを選んだ。

その瞬間、指先だけが、もう一度だけ――
自分の意思とは無関係に、かすかに揃い直したことに、彼はまだ気づいていなかった。
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