『神宮寺綾羽の調整記録 ―ナースへ堕とす禁断オペ―』

風間玲央

文字の大きさ
4 / 27

第四話 精神医学教授の部屋

しおりを挟む
――放課後。

研究棟の廊下は、学食とは違う静けさに包まれていた。
消毒液の匂い。
白い壁。
足音が、やけに大きく響く。

尚人は立ち止まり、研究室の扉を見上げた。
ネームプレートには、整った文字で名前が刻まれていた。

【神宮寺 綾羽】
精神医学教授
臨床心理ユニット主任

深く息を吸う。
胸の奥で、またあの“引っかかり”が小さく動いた。
それは痛みでも違和感でもなく、
気づいた瞬間にはもう馴染んでいる、奇妙な感触だった。

けれど、それが何なのか、言葉にできるほどではない。
不安でも、恐怖でもない。
ましてや拒絶でもない。

ただ――
自分が、ここに来ることを“当然”だと思っている、その感覚だけが、静かに異質だった。
疑問より先に、身体のほうが納得してしまっているような、不自然な軽さ。
その「当然」が、いつから刷り込まれたものなのかを、もう思い出せなかった。

喉の奥が、意味もなくきゅっと細くなる。

ノックをする前に、扉の向こうから声がした。

「入っていいわよ、尚人くん」

見透かされていた。
足音も、呼吸の間も。
立ち止まった時間さえ、もう回収されていた気がする。
こちらが準備する前に、すでに始まっている――そんな感覚。

尚人は一拍遅れて、ドアノブに手をかける。
その指先は、ほんのわずかに冷たかった。
冷えた金属の感触が、思考より先に皮膚へ染み込んでくる。

ゆっくりと開いた扉の先、綾羽は窓を背にして立っていた。
西日が白衣を透かし、輪郭を曖昧に溶かしている。
逆光のせいで、顔の表情だけが読み取れない。

「……失礼します」

扉が閉まった瞬間、廊下の足音は思ったよりもあっさりと消えた。
残ったのは、白衣が擦れる微かな音と、自分の呼吸だけだった。
外の世界と切り離されたのが、はっきりと分かる静けさ。

「ええ。そこへ座って。あなたのための『席』よ」

促されたのは、部屋の中央に置かれた一脚の革張りの椅子。
自律神経の安定を補助する、カウンセリング用に設計された椅子だと、前に説明された気がする。

椅子そのものが、柔らかな色調で統一され、背もたれの曲線や肘掛けの高さまで、妙に身体に寄り添うよう調整されている。

心地いい、と判断するより先に――なぜか落ち着いてしまう。
座る前から、姿勢を小さくまとめるよう誘導されている気がした。

白を基調にした本棚には、医学書の間に、小さな観葉植物や淡い色の小物が並んでいる。
丸みのある陶器の置物。
ガラス瓶に挿された乾いた花。
どれも無機質な研究室には似つかわしくない。

窓辺にはレースのカーテン。
柔らかな光が滲むように入り込み、角張った影を意図的に消している。
机の上には、使い込まれたマグカップと、控えめな香りのアロマ。
甘さを抑えた匂いが、無意識の呼吸に絡みつく。

柔らかく整えられた空間は、
無意識に声量を落とし、動作を小さくし、相手の反応を先に伺ってしまうような方向へ――
人の振る舞いそのものを、音もなく書き換えていくための装置のようだった。

その説明が頭に浮かんだ瞬間、胸がひとつぶんだけ、浅く息を吸っていた。

この部屋に、尚人はもう何度も足を運んでいる。
それでも、最初に腰を下ろす瞬間だけ、身体が一瞬ためらう。

安心できるはずなのに、
その椅子に座ると、自分の居場所が少しずつ決まっていく気がして。
輪郭を与えられていくような、逃げ場が減っていくような。
気づけば、膝の位置や背筋の伸ばし方まで、以前より小さく整えている。

背もたれに身を預けた瞬間、肩の力が抜けるのに脈だけ上がる。
理由を探す前に、その感覚はもう「問題ない」と処理されていた。
脚を揃えたほうが落ち着く――そんな感覚が、いつの間にか染みついている。

気づけば、膝頭の間隔が、最初から決められていたみたいに、自然と内側へ寄っていた。
自分でそうした覚えがないことに気づくより先に、身体のほうが“これが正しい”と静かに納得している。

――以前も、ここで同じ姿勢になった気がした。
その先を思い出そうとすると、視界が一瞬だけ白くなる。

それが誰の判断だったのか――もう、確かめる術はなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)

MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。 かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。 44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。 小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。 一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。 ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

あべこべな世界

廣瀬純七
ファンタジー
男女の立場が入れ替わったあべこべな世界で想像を越える不思議な日常を体験した健太の話

処理中です...