『神宮寺綾羽の調整記録 ―ナースへ堕とす禁断オペ―』

風間玲央

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第五話 判断を預ける椅子

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「今日は、少し表情が違うわね。
なんだか、前より柔らかい」

綾羽は診察机の端に腰をかけ、組んだ脚をゆっくりと揺らした。
白衣の隙間から覗く膝が、一定のリズムで視界の端を往復する。

それは、ただの無意識の動きのはずなのに。

視線が――吸われかけた。

尚人は、はっとして慌てて逸らす。
見られているのは自分のはずなのに、なぜかこちらのほうが試されている気がした。

「……そう、見えますか」

「ええ。ここに来る前から、もう肩に力が入ってない。
……全体の雰囲気が、ずいぶん穏やかになってる」

尚人は否定しようとして、やめた。

ここに座ると、いつも言葉が遅れる。
考えるより先に、頷いてしまいそうになる。

否定する理由を探す前に、
受け入れる準備だけが、先に整ってしまう。

「最初は、カウンセリングというより、ただの相談だったわね」

綾羽は淡々と続ける。
声に感情は乗らない。
波のない音程で、事実だけを並べる。

「将来の進路。
看護師としての適性。
……共感性、対人感受性、細かな配慮。

いわゆる“女性向き”とされる資質に、
自分は届かないと思い込んでいた」

一瞬の間。

それは、過去を区切るための沈黙だった。

「でも、それは違うわ。
変えられるって――もう、気づいてるでしょう?」

視線が、尚人の胸元を静かになぞる。
測るように。
確認するように。

服の奥、その内側まで透かそうとする視線だった。

尚人は喉の奥で息を詰めた。
笑って流そうとしたはずなのに、唇がうまく動かない。

「……じゃあ、僕……女になったほうが、楽なんですか」

言った瞬間。

――遅れて、鼓動が跳ねた。

冗談のつもりだった。
けれど声の響きは思ったより乾いていて、

まるで本心だけが、先に零れ落ちたみたいだった。

綾羽の唇が、わずかに弧を描く。

「あなたはもう、何度もここに来てる。
そのたびに、確実に変わってきたの」

尚人の喉が、小さく鳴った。

否定の言葉は浮かばない。
反論の形を探すより先に、

その言い方を“事実”として受け取ってしまっている。

思い返せば、いつからか。

話を聞いてもらう時間ではなく、
質問に答え、反応を確かめられる時間になっていた。

自分の中身を差し出す代わりに、
判断を預ける時間に。

――その交換が、いつ成立したのかさえ思い出せない。

「今日は、続きね」

綾羽はモニターに視線を移す。

「前回のセッションの後に取った心理指標と、
今日の再評価。
――ベースラインからの変化を見るわ」

モニターを見る目は、冷えた計測の目だった。

尚人に戻ってきたときだけ、
その焦点が、わずかに柔らぐ。

――個別に調整されたみたいに。

その違和感が、胸の奥をかすめた。

「前回の状態から、どう変わったか。
――それを確認するだけ。記録して、次に進むために」

“確認”。

その言葉が、尚人の中で静かに重くなる。
診断よりも、処理に近い響きだった。

「力を抜いて。
もう、説明しなくていいからね」

優しい声。

けれど。

選択肢を与えない優しさだった。

尚人は、背もたれに身体を預けた。

革の冷たさが、背中にゆっくりと広がる。
熱を奪われるほど、頭の中が静かになっていく。

考えをまとめようとした瞬間だけ、
言葉になる前の輪郭が、ほどけていった。

――いつから、考えなくなったのだろう。

ここに座ると、
判断を預けるのが、楽だと思えるようになったのは。

疑問より先に、
委ねるほうが自然になっている。

綾羽は、尚人の胸郭の上下と、膝の角度、瞬きの回数を一拍分だけ確認してから、静かに言った。

「治療プロトコル上は、次の段階に進める数値ね」

その瞬間。

尚人の膝が――

無意識に、わずかに揃った。

自分で動かした感覚は、なかった。

「精神科として見れば、状態はだいぶ良くなってるわ。
もう、心配する段階は過ぎている」

モニターの隅で、心拍変動の波形が細く整っていく。

尚人の胸の奥で、何かがふっと緩む。
その直後、遅れてきたように、胸の奥がきゅっと細く縮んだ。

理由は分からない。

けれど身体だけが、評価を受け取っていた。

褒められたと理解するより先に――
条件反射みたいに。

「以前みたいに、不安を言葉にしようとして、無理に抱え込む感じも減ってる。
……反応も、ずいぶん落ち着いてきたわ。

もう、迷い方そのものが変わっている」

綾羽は、ゆっくりと言い切る。

「今のあなたは――

ためらう前に相手の言葉を飲み込み、
表情が動くより先に頷き、
判断を相手に預ける癖が、もう反射の域に入っている」

それは褒め言葉のはずなのに。

胸の奥で、何かがわずかに擦れた。

「このままでいい。
ちゃんと、経過は取れてる。
……急がなくていいわ。

もう、流れはできているから」

綾羽は微笑む。
安心させる角度で。
疑問を抱かせない速度で。

「だから、ここでは何もしなくていいの。
今日は調整と確認だけ。

治療計画は、私のほうで更新しておくから。

私がちゃんと――あなたに合う形へ導いてあげる」

尚人は、小さく頷いた。

自分の意思で動いたのか、
確かめる前に。

首のほうが先に、肯定の形を作っていた。

入室したときは気にも留めなかった香りが、
いつの間にか喉の奥に張りついている。

甘い花のアロマ。
消毒液の刺激臭。
その奥に混じる、人の体温に近い、柔らかい気配。

吸うたび、肺の内側に薄い膜が張る。

それでも。

――不快だと考える前に。

その判断自体が、どこから来たのか分からなかった。

気づいたときには、もう。

抗う形を、していなかった。

――いや。

いつの間にか。

胸の奥へ、静かに縫い込まれていた。

それが“治療の一環”だと説明された記憶はある。

けれど――

いつ、そう同意したのかだけは、思い出せなかった。

「考えなくていい」

その言葉だけが。

いつ聞いたのかも分からないまま、
最初からそこにあったみたいに――

尚人の呼吸のリズムに、もう静かに重なっていた。
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