『神宮寺綾羽の調整記録 ―ナースへ堕とす禁断オペ―』

風間玲央

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第十話 身体が先に覚えている夜

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実習棟の廊下。
結衣は、曲がり角で尚人とすれ違いかけて、足を止めた。

「直人?」

呼びかけた声に、尚人は振り返る。
「……あ、結衣」

その返事が、いつもより少しだけ柔らかくて、結衣の胸に小さな引っかかりが残る。
理由は言えない。
言えないけれど――

尚人の手が、無意識に自分の胸元へ上がりかけ、途中で止まった。
まるで“白衣の襟”を整える動きの名残みたいに。

そして、もうひとつ。

尚人の膝が、立ったままなのに、ほんの僅かに内側へ寄っている。

本人は気づかない。
気づかないまま、落ち着いた顔をしている。

結衣は一度だけ、唇を開いて――閉じた。

(……今の、何)

問いにする前に、空気に溶けた。

「……大丈夫?」

代わりに出たのは、いつもと同じ言葉だった。

尚人は、少しだけ間を置いて頷く。
頷くより先に、呼吸が整う。

「……大丈夫」

返事の音が、やけに静かだった。

結衣は笑おうとして、うまく笑えない。
ただ、廊下の空気だけが、どこか呼吸を潜めたみたいに静まり返っていた。

“いつもと同じ”なのに、
“同じじゃない”。

――その差だけが、確かに残った。



その夜、アパートの重い扉を閉めると、蝶番が低く鳴った。
尚人は無意識のまま照明のスイッチに指をかける。

パチリ。

白い光が天井から降ってきた、その瞬間――
胸の奥で、呼吸が一拍だけ詰まった。

居心地が、悪い。

グレーのカーテン。
紺のベッドカバー。
革張りのペンケース。

「落ち着く部屋」だったはずの配置が、どれも冷たく、角ばって見える。

さっきまでいた研究室の空気が、まだ肌の奥に残っている。

淡い色の壁。
甘すぎないアロマの匂い。
声の調子まで丸く包まれるような、あの部屋。

それと比べて――
この空間は、硬い。

守るための場所じゃない。
形を保つために作られた、直線の集合体みたいだ。

直人は視線を逸らし、机の引き出しを開けた。

奥にある付箋の束。
黄色、青、緑。

――淡いピンク。

指先が、迷わずそこへ伸びる。

ざらりとした紙の感触が伝わった瞬間、胸の奥がかすかに震えた。
触れているだけで、肩の奥に噛みついていた力が、するりと抜け落ちる。

(……)

理由を拾い上げるより先に、感覚のほうが終わっていた。
確信は、音もなく沈む。

直人は一枚剥がし、無意識のまま手の甲に貼った。

その上に置かれた色は、不自然なくらい馴染んでいる。
皮膚の境目が、呼吸のたびにほんのわずか曖昧になる。

喉の奥から、息とも笑いともつかない音が零れる。

「……いいな」

その理由が形になる前に、舌の上で溶けた。

ふと、鏡に映る自分を見る。

見慣れているはずの輪郭。
けれど――視線だけが、落ち着く位置を失っている。

内側だけが、別の速度で進んでいる。
借り物みたいだ。

ジャケットを脱ぎ、ベッドに腰を下ろす。

呼吸を整えるつもりはなかったのに、
胸の上下だけが、あの部屋の速度に引き戻されていく。

選んだ覚えはない。

それでも――
息の間隔だけが、白衣の裾の揺れと同じ周期をなぞっていた。



シャワーをひねると、湯気が狭い脱衣所に白く広がった。

尚人はタオルを首にかけたまま、しばらく動けずに立っている。
湯が肩を打ち、背中を流れ落ちる。

……軽い。

正確には、軽くなったというより、
力が抜けていく順番が、いつもと違う。

熱に溶かされるみたいに、
筋肉の奥から、余計な張りがほどけていく。

湯をすくい、胸元へ流す。

水滴が鎖骨を伝い、中央へ集まり、
そこから腹へと線を引く。

その一本の道筋を――
追っている自分に、遅れて気づく。

“見る”というより、
水の重さがどこに溜まりやすいかを量っている。

視線が、胸のあたりで止まった。

湯に濡れた皮膚が、呼吸に合わせてわずかに上下している。
動きは前からあったはずなのに――
今は、その揺れ方だけがやけに目につく。

一瞬だけ。

呼吸の上下に、見慣れていたはずの輪郭が、
ほんのわずか遅れてついてくる気がした。

――違う。

そう思った時には、
確かめる理由のほうが、もう湯気の奥へ沈みかけていた。

指先が、迷ってから触れた。

押すほどでもなく、掴むほどでもなく、
熱を確かめるみたいに、中心から外へなぞってしまう。

変わっていないはずだ。
輪郭も、厚みも。

それなのに、触れた瞬間、胸の奥で小さく息がほどけた。

……違う。

変わっていない。
……はずなのに。

指先が、勝手に続きを探している。



腰のあたりへ、手が下りる。

骨の位置。
皮膚の張り。
指に返る弾力。

――一瞬だけ、指先が迷った。

支えている位置が、わずかに低い気がする。

昨日と同じはずなのに、
触れた感触だけが、妙に静かに収まる。

押すでもなく、探るでもなく――
丸みを崩さないように、輪郭を預けるみたいに滑っている。

床に散った水滴を避けようとして、
無意識に脚を寄せた。

――寄せた?

考えるより先に、そうなっていた。

小さく息を吐き、髪に指を通す。

動作が、妙に静かだ。
跳ねない。
急がない。

力を入れたつもりなのに、
丸く収まってしまう。



バスタオルを手に取り、身体を拭く。

脚を開いた瞬間、
内腿に空気が触れて、わずかに眉が寄った。

……近い。

寄せた覚えはないのに、
距離が短い。

一歩、引く。

けれどすぐ、また揃っている。

自分の動きなのに、
半拍遅れて気づく。

舌打ちしかけて、途中で止めた。

なぜ苛立ったのか――
考えようとした時点で、
その理由だけが、湯気の奥へ沈殿していった。

呼吸だけが、静かに整っていく。

整えた覚えは、ない。

それでも、胸の奥は妙に収まりがよくて、
身体のほうが先に「これでいい」と納得してしまっている。

尚人は、ほんのわずかに眉を寄せ――
そして、その違和感の行き先を見失った。

……次の瞬間には、もう思い出せない。

ただ、

気づかないまま、脚の内側だけが、また静かに揃っていた。
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