『神宮寺綾羽の調整記録 ―ナースへ堕とす禁断オペ―』

風間玲央

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第十一話 袋はもう脈を打っている

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バスタオルを腰に巻いたまま、洗面台の前に立つ。
鏡の中の自分は、いつもと変わらないはずだった。

濡れた髪。
湯気に火照った頬。
どこか焦点の合わない目。

……なのに。

視線だけが、理由もなく下へ滑っていく。
顔でも肩でもなく、もっと下――
腹のあたりを素通りして、意識の外側から静かに引き寄せられる場所。

尚人は、胸の奥に絡みついた空気を、ゆっくり吐き出した。

指先でなぞったそこには、自分でも説明のつかない「熱」が、まるで他人のものみたいに居座っている。
触れた記憶なんてないのに、もう触れてしまったあとみたいな感覚だけが、皮膚の裏に残っている。

「……最悪だ」

呟いた声は、思ったよりも低く、乾いていた。

鏡の自分と目が合う。
その瞳は――たった今、越えてしまった線を、もう誤魔化せなくなっていた。

理由も、理屈も、まだ追いついていない。

けれど身体だけが、先に知ってしまった。

一歩踏み出しただけで、
足元の床が、音もなく消えていくような感覚がする。
身体の重さだけが、宙に取り残された。

(……だめだ)

濡れた床を避けるように部屋へ戻り、タンスを開ける。
引き出しの奥から、いつもと同じボクサーパンツを掴み、脚を通した。
布が腿に触れる。

その瞬間――思考より先に、身体が止まった。

(――違う。)

履き慣れているはずなのに。
何年も同じ感触だったはずなのに。
ゴムの締めつけ方、布の厚み、肌との距離。

すべてが、いきなり誇張されたみたいに主張してくる。

腰まわりの筋肉が、わずかに内側へ引こうとして――自分の意思と噛み合わない。

まるで、自分の皮膚の上に、他人の剥製(はくせい)を重ねているような、鈍く粘つく違和。
遅れて、生理的な拒絶が喉元までせり上がった。

「……」

腰骨のあたりを引き寄せて整えるが、その仕草すら微妙に噛み合わない。
呼吸だけが、浅く、細くなる。

さっきまで湯にほどかれていた身体が、
今は逆に、内側へ縮こまるみたいに硬くなっていく。

ベッドに腰を下ろし、太腿に掌を押し当てる。
確かな重さ。
いつもの感触。

それなのに――

掌の下の筋肉が、自分とは無関係な生き物みたいに、ほんのわずか遅れた拍で脈打って見えた。

皮膚の内側で、知らない何かが勝手に動いている。
昨日までの自分のリズムじゃない。

息を止めた。

触れてはいけない場所に、触れてしまった気がした。
自分の肉のはずなのに、どこか“他人の身体”を借りているみたいで。

喉の奥が、ひくりと鳴る。
皮膚の内側で、何かが静かに裏返る。

理由を探そうとした瞬間――
その裂け目から、記憶がぬるりと滲み出した。

遅れて、研究室の出口が浮かぶ。
白衣の袖から覗く、細い手首。
すれ違うだけで衣服の奥まで侵食してくるような、薬品と花の混じった匂い。
紙袋を差し出された時の、指先の温度。

『今日から下着は、これを身につけて』

抑揚のない声。
命令とも忠告ともつかない――
いや、最初から拒否という選択肢を奪い去る響きだった。

『……今は理由、聞かなくていいわ』
『ちゃんと落ち着くから』

仄明るい色の紙袋。
細いリボン。
医療器具の横に置かれていたとは思えないほど、日常の体温を宿した包装。

……それを、あろうことか持ち帰ってきてしまった。

部屋の隅。
脱いだジャケットの横に無造作に置かれたそれは、
そこだけ空間が、わずかに呼吸しているみたいに浮いて見える。

尚人は、背を向けるように立ち上がった。

(……関係ない)

たかが下着だ。

そう言い聞かせ、逃げるように意識を逸らす。
それでも、歩くたびに腰元が気になって仕方がない。
布の擦れる音が、耳の奥で乾いた衝撃になる。

……さっきより、ひどい。

舌打ちしかけて、途中で止めた。

今まで、自分の身体がこんなに「うるさかった」ことなど一度もない。

なのに。

ゴムの縁が肌を弾くたび、
先ほど胸に湯を流したときの感触が、呪縛みたいに蘇る。

中心から外へ、輪郭をなぞるように滑った手つき。
掌の重さと熱。
逃げ場のない角度。

(……やめろ)

頭を振っても、胸の奥の呼吸だけが、
まるで誰かの肺を借りているみたいに、静かに上下している。

むしろ――

部屋の隅にある“あの袋”だけが、
心臓の鼓動に合わせて、わずかに輪郭を濃くしていく。

見ないようにするほど、
意識の触手が、そこへ、そこへと伸びていく。

尚人は拳を握りしめ、しばらく動けなかった。

(開けるだけだ)
(履くわけじゃない。ただ、中身を確認するだけだ)

自分でも空々しいと分かる言い訳を、喉の奥で繰り返し――

気づけば。

もう、足が前に出ていた。

尚人は、その袋へと、一歩を踏み出した。
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