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第二十二話 名前が溶けるとき
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意識の境界線が、静かに、そして完全に消失した。
これまでの自分を繋ぎ止めていた、男という名の重力から解放され、漂うだけの器となった空虚な脳。
そこに、最後の一滴が綾羽から落とされた。
「……そうなると。……『尚人』。……その男臭い名前。……今のあなたには、あまりにも不釣り合いだと思わない?」
綾羽の指が、汗ばんで剥き出しになった項(うなじ)を、検品するように滑る。
その指先の冷たさが、もはや「他人」のものとなった名前を、意識の縁から容赦なく押し出した。
「……な、……なおと……。……わたしの……名前……」
「いいえ。それはもういない男の時の名前よ。……でも、いきなり新しい名前を覚えるのは、今のあなたの空っぽな頭には難しいわね。……だから、とりあえず自分を『なお』と呼びなさい。語尾を伸ばして、可愛らしく。……ゆくゆくは、奈緒子、あるいは奈緒美……もしくは桜子? もっとあなたに相応しい、女の子の名前を付けてあげる。その方が嬉しいでしょ?」
尚人は、涙で視界が歪む中、ゆっくりと頷いた。
抗うための言葉を持たない喉が、震えながら新しい音を迎え入れる。
脳内の名簿から「尚人」という角張った、硬い骨組みのような文字が抹消される。
代わりに、ひらがな二文字の、震えるほど柔らかな響きが、空洞になった意識の隅々まで、蜜のように染み渡っていく。
その浸透は、拒否という回路を探すよりも早く、呼吸の奥へ静かに沈み込んだ。
「……はい……。わたしは……今日から自分のことを『なお』と呼びます」
「ええ、もっと。……馴染むまで、その名を吐き出し続けなさい」
綾羽の指先が、うなじを優しく、だが逃がさない強さで机へと押しつける。
「……なお、です……。……わたしは……なお……」
一度、口にする。耳から入った自分の声が、脳の奥で熱く爆ぜる。
同時に、胸の内側で何かが“正しい位置に収まった”ような、説明のつかない安堵がひとつ落ちた。
「……なお……。……なお……です……。……女の子の、なお……」
二度、三度。言葉が唇を滑るたびに、かつての自分を構成していた無骨な記憶が、煤(すす)のように意識から剥がれ落ちていく。
発声のたび、舌の置き場がわずかに変わり、音の輪郭が、無意識に丸く、柔らかく整えられていった。
「……なお……。……なお……。……なお……」
十回、二十回。回数を重ねるごとに、瞳から光が抜け、代わりに蕩けたような法悦が滲み出す。
もはや、それは言葉ですらなかった。自分という存在を削り、綾羽に与えられた「器」の型に流し込むための、壊れた機械のような律動。
自分を「なお」と呼ぶたび、脳の奥で、理由のない甘い震えが静かに弾けた。
その瞬間、身体の奥底で何かが音もなく融(と)け、別の形に固まった。
喉が、ひくりと鳴った。
男としての発声法を忘れたかのように、吐息だけが漏れる。
もはや、自分を三文字で呼ぶ方法は、記憶の地層から完全に剥がれ落ちていた。
なおの瞳には、過去を悔いる色は、もはや欠片もなかった。
あるのは、新しい「名前」と「性」を与えられることを待機している、無垢で空虚な、ナースという名の器の悦びだけだった。
「……わたしは……なお……です……。……女の子に……して……ください……」
自分を「なお」と呼ぶたび、呼吸の深さそのものが、ひとつ下の層へ静かに沈んでいく。
机に伏したまま、なおは、自らその湿った下着をさらに深く、自らの「欠落」へと押し当てた。
桜色のレースが肌を噛み、密着する。
肌に伝わる布の温度が、名前という新しい皮膚となって「彼女」を包んでいく。
その摩擦こそが、今この場所に「なお」として存在している唯一の証明だった。
かつての自分を構成していた肉の重みは消え去り、ただこの繊細な布地の感触だけが、彼女をここに繋ぎ止めている。
「……あ……、ぁ……。……なお……。……なお、です……」
その震える唇は、もはや自らを発音するためのものではない。
ただ、主人がその名を呼び、新しい役割(定義)を注ぎ込むための、開かれた受け皿に過ぎなかった。
呼吸を繰り返すたび、なおは自分自身を深く、深く、この桜色の静寂へと沈め続けていく。
――自らという名の、底のない淵へ。
これまでの自分を繋ぎ止めていた、男という名の重力から解放され、漂うだけの器となった空虚な脳。
そこに、最後の一滴が綾羽から落とされた。
「……そうなると。……『尚人』。……その男臭い名前。……今のあなたには、あまりにも不釣り合いだと思わない?」
綾羽の指が、汗ばんで剥き出しになった項(うなじ)を、検品するように滑る。
その指先の冷たさが、もはや「他人」のものとなった名前を、意識の縁から容赦なく押し出した。
「……な、……なおと……。……わたしの……名前……」
「いいえ。それはもういない男の時の名前よ。……でも、いきなり新しい名前を覚えるのは、今のあなたの空っぽな頭には難しいわね。……だから、とりあえず自分を『なお』と呼びなさい。語尾を伸ばして、可愛らしく。……ゆくゆくは、奈緒子、あるいは奈緒美……もしくは桜子? もっとあなたに相応しい、女の子の名前を付けてあげる。その方が嬉しいでしょ?」
尚人は、涙で視界が歪む中、ゆっくりと頷いた。
抗うための言葉を持たない喉が、震えながら新しい音を迎え入れる。
脳内の名簿から「尚人」という角張った、硬い骨組みのような文字が抹消される。
代わりに、ひらがな二文字の、震えるほど柔らかな響きが、空洞になった意識の隅々まで、蜜のように染み渡っていく。
その浸透は、拒否という回路を探すよりも早く、呼吸の奥へ静かに沈み込んだ。
「……はい……。わたしは……今日から自分のことを『なお』と呼びます」
「ええ、もっと。……馴染むまで、その名を吐き出し続けなさい」
綾羽の指先が、うなじを優しく、だが逃がさない強さで机へと押しつける。
「……なお、です……。……わたしは……なお……」
一度、口にする。耳から入った自分の声が、脳の奥で熱く爆ぜる。
同時に、胸の内側で何かが“正しい位置に収まった”ような、説明のつかない安堵がひとつ落ちた。
「……なお……。……なお……です……。……女の子の、なお……」
二度、三度。言葉が唇を滑るたびに、かつての自分を構成していた無骨な記憶が、煤(すす)のように意識から剥がれ落ちていく。
発声のたび、舌の置き場がわずかに変わり、音の輪郭が、無意識に丸く、柔らかく整えられていった。
「……なお……。……なお……。……なお……」
十回、二十回。回数を重ねるごとに、瞳から光が抜け、代わりに蕩けたような法悦が滲み出す。
もはや、それは言葉ですらなかった。自分という存在を削り、綾羽に与えられた「器」の型に流し込むための、壊れた機械のような律動。
自分を「なお」と呼ぶたび、脳の奥で、理由のない甘い震えが静かに弾けた。
その瞬間、身体の奥底で何かが音もなく融(と)け、別の形に固まった。
喉が、ひくりと鳴った。
男としての発声法を忘れたかのように、吐息だけが漏れる。
もはや、自分を三文字で呼ぶ方法は、記憶の地層から完全に剥がれ落ちていた。
なおの瞳には、過去を悔いる色は、もはや欠片もなかった。
あるのは、新しい「名前」と「性」を与えられることを待機している、無垢で空虚な、ナースという名の器の悦びだけだった。
「……わたしは……なお……です……。……女の子に……して……ください……」
自分を「なお」と呼ぶたび、呼吸の深さそのものが、ひとつ下の層へ静かに沈んでいく。
机に伏したまま、なおは、自らその湿った下着をさらに深く、自らの「欠落」へと押し当てた。
桜色のレースが肌を噛み、密着する。
肌に伝わる布の温度が、名前という新しい皮膚となって「彼女」を包んでいく。
その摩擦こそが、今この場所に「なお」として存在している唯一の証明だった。
かつての自分を構成していた肉の重みは消え去り、ただこの繊細な布地の感触だけが、彼女をここに繋ぎ止めている。
「……あ……、ぁ……。……なお……。……なお、です……」
その震える唇は、もはや自らを発音するためのものではない。
ただ、主人がその名を呼び、新しい役割(定義)を注ぎ込むための、開かれた受け皿に過ぎなかった。
呼吸を繰り返すたび、なおは自分自身を深く、深く、この桜色の静寂へと沈め続けていく。
――自らという名の、底のない淵へ。
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