27 / 27
第二十七話 静かさは誰のもの?
しおりを挟む
息を吸うたび、胸の奥が浅く持ち上がる。
数秒のはずなのに、異様に長い。
時間が止まったわけじゃない。
自分だけが、世界の重心から半歩だけ、外側にずらされているみたいだった
息を吐くたび、身体の重さだけが少し遅れて落ちてくる。
無意識に、襟元へ指が伸びる。
整える必要なんてないのに。
指先が、布の端をそっとなぞる。
その仕草が、最近何度も繰り返してきた動きと同じだと気づく。
白衣の裾。
低い声。
肩に置かれた、体温を感じさせないほど一定な重み。
鼻の奥に、消毒液の匂いがよみがえる。
その奥に、ほんのわずかな甘い香り。
名前を呼ばれるより前に、身体が姿勢を整える。
まるで、順番を待つ身体みたいに。
胸の奥で縫い止めていた何かが、一本ずつ解けていく。
「……わからない」
吐息が細く震える。
「朝、それを履いたとき……この青い服を着たときより、ずっと静かだったんだ。しっくりきた、っていうか……」
言葉が、少し途切れる。
「実習中も、気づくとピンクのワンピースばっかり見てた。
別に見ようと思ってたわけじゃないのに、目がいくんだ」
喉がかすかに動く。
「自分も、そっち側なのにって……」
小さく息を吐く。
「……変だよね」
言い終わる前に、首を振る。
笑おうとした頬が、うまく動かない。
尚人の指が、無意識にこめかみへ触れる。
落ちてきた前髪を耳の後ろへ流す。
結衣の指が、尚人の頬に触れた。
親指が、骨の下を静かになぞる。
触れられた瞬間、呼吸が一拍遅れた。
――やっぱり。
結衣の目が、ほんのわずかに細くなる。
「ブラもつけてるの? ……パンティーだけ? それとも――他にも?」
「肌、何かしてる?」
「……して、ない」
喉の奥で空気が引っかかる。
「……まだ、何も」
「……“まだ”? 」
結衣はゆっくり顔を上げる。
胸元へ。
腹部へ。
そして、さらに下。
露骨ではない。
それでも――
逃げ場は、なかった。
尚人の腹筋が、無意識に硬くなる。
「さっき、しゃがんだとき」
声が低い。
「内腿、閉じるの早かったよね」
心臓が強く跳ねる。
「いつもなら、あんなに気にしない」
距離が、半歩縮まる。
「歩き方も少し変わってた。
慣れてない布が触れてるときの動き」
逃げられない。
「選んで履いたんでしょ?」
問いではない。
もう、知っている声だった。
尚人は何も言えない。
結衣の視線が、ゆっくり落ちる。
「今も」
「無意識に脚、閉じてる」
太腿が、はっと緊張する。
「守ろうとしてる」
息が止まる。
「隠したいときの身体」
逃げ場がなくなる。
「さっき言ったよね。“静かだった”って」
尚人の指が、無意識に白衣の裾を引く。
ほんの少し、身体を隠すみたいに。
結衣が、ほんの少し首を傾ける。
「……今は?」
言葉が出ない。
さっきまで確かにあったはずの落ち着きが、
いまはただの沈黙に変わっている。
あの静けさは、自分で選んだものだと思っていた。
けれど今になって気づく。
思考を止めてもらう静けさだったのかもしれない。
「神宮寺先生の前では、そんなに慌てないよね」
背骨が冷える。
「指導のとき、もっと素直な顔してる」
喉の奥が細くなる。
「私には隠すの?」
一歩、近づく。
「それとも……先生には、もう見せてるの?」
太腿が、無意識に寄る。
その動きを、結衣は見逃さない。
「落ち着く布なんでしょ?」
さっきの言葉を返される。
「じゃあなんで、こんなに身体、硬いの」
息が崩れる。
「“だけ”って言ったよね。パンティー“だけ”って」
腹の奥が、ぎゅっと引き攣る。
「もう前提が、そっち側じゃない?」
結衣の視線が、ゆっくり下へ落ちる。
「……いつから?」
廊下の蛍光灯が、やけに白い。
「……今日」
喉の奥で、かすかに擦れる声。
結衣はすぐに顔を上げない。
尚人の呼吸を数えるみたいに、数秒だけ視線を伏せる。
「ねえ、尚人」
呼ばれた瞬間、身体が先に姿勢を整えた。
返事は、少し遅れてついてきた。
「実習中さ、立ち位置、いつも修正されてるよね」
指先がわずかに強張る。
「視線の落とし方とか、手の添え方とか」
息が詰まる。
「先生が姿勢を直すときだけ、
あなた、息するの忘れてる」
心臓が細く跳ねる。
「考えるの、やめてる顔してる」
言葉が、胸の奥へ沈む。
思い出す。
肩に置かれた手。
その手が触れている間だけ、思考が静かに止まる。
考えなくていい。
選ばなくていい。
ただ、そこにいればいいという感覚。
正しい位置に立たされる安心。
間違えなくていい安堵。
代わりに、自分で決めなくていい軽さ。
触れられた瞬間、胸の奥のざわめきが薄れていく。
疑問も、迷いも、
ガーゼを重ねられるみたいに、静かに消えていく。
その静けさは優しかった。
優しすぎて、疑問を持つことさえ遠くなる静けさだった。
「その下着も。……“女性の心を理解するため”とか、言われたんじゃないの?」
耳元で囁かれる。
「……違う」
即答できない。
「綾羽さんは……ちゃんと、話を聞いてくれるだけで……」
「本当に?」
その一言で、胸が縮む。
「相談してるうちに、自分の“かたち”を変えられてない?」
喉の奥が細くなる。
「今感じてるその静けさ、本当に尚人の?」
否定されたのは、下着じゃない。
胸の奥に縫い込まれていた“落ち着き”そのものだった。
糸が、内側から引き抜かれていく。
(僕は、自分で……)
言葉が結べない。
ふと、消毒液の匂いが強くなる。
その奥に、甘い残り香。
胸の奥で、名前が軋む。
――尚人。
その名前が、少し遠くで呼ばれているみたいだった。
響きが、少しだけ身体に合わない。
制服のサイズが微妙にずれているみたいに。
太腿に触れる布の感触が、やけに鮮明だ。
太腿の内側で、薄い布が静かに擦れる。
ほんのさっきまで、それは落ち着く布だった。
柔らかく守られているみたいな、静かな安心。
けれど今は違う。
同じ布が、逃げ場をふさいでいるみたいに肌へ貼り付く。
脚を閉じるたび、クロッチの感触がそこにあることを思い出させる。
守っているはずの布が、境界線みたいに身体へ食い込んでくる。
そのたびに、
そこに「ある」ことだけを、はっきり思い出させる。
立っているはずなのに、
重心がどこにあるのか分からない。
床はそこにある。
それでも、自分の重みが自分のものじゃない気がした。
足裏が床に触れている感触だけが、わずかに遅れて伝わってくる。
体重を乗せているはずの場所と、身体の中心が、ほんの少しだけずれている。
まるで、誰かに立たせられている姿勢を、そのまま保たされているみたいに。
自分の足で立っているのか。
それとも、あの静かな手に、そう立たされているのか。
その違いさえ、もうよく分からなかった。
数秒のはずなのに、異様に長い。
時間が止まったわけじゃない。
自分だけが、世界の重心から半歩だけ、外側にずらされているみたいだった
息を吐くたび、身体の重さだけが少し遅れて落ちてくる。
無意識に、襟元へ指が伸びる。
整える必要なんてないのに。
指先が、布の端をそっとなぞる。
その仕草が、最近何度も繰り返してきた動きと同じだと気づく。
白衣の裾。
低い声。
肩に置かれた、体温を感じさせないほど一定な重み。
鼻の奥に、消毒液の匂いがよみがえる。
その奥に、ほんのわずかな甘い香り。
名前を呼ばれるより前に、身体が姿勢を整える。
まるで、順番を待つ身体みたいに。
胸の奥で縫い止めていた何かが、一本ずつ解けていく。
「……わからない」
吐息が細く震える。
「朝、それを履いたとき……この青い服を着たときより、ずっと静かだったんだ。しっくりきた、っていうか……」
言葉が、少し途切れる。
「実習中も、気づくとピンクのワンピースばっかり見てた。
別に見ようと思ってたわけじゃないのに、目がいくんだ」
喉がかすかに動く。
「自分も、そっち側なのにって……」
小さく息を吐く。
「……変だよね」
言い終わる前に、首を振る。
笑おうとした頬が、うまく動かない。
尚人の指が、無意識にこめかみへ触れる。
落ちてきた前髪を耳の後ろへ流す。
結衣の指が、尚人の頬に触れた。
親指が、骨の下を静かになぞる。
触れられた瞬間、呼吸が一拍遅れた。
――やっぱり。
結衣の目が、ほんのわずかに細くなる。
「ブラもつけてるの? ……パンティーだけ? それとも――他にも?」
「肌、何かしてる?」
「……して、ない」
喉の奥で空気が引っかかる。
「……まだ、何も」
「……“まだ”? 」
結衣はゆっくり顔を上げる。
胸元へ。
腹部へ。
そして、さらに下。
露骨ではない。
それでも――
逃げ場は、なかった。
尚人の腹筋が、無意識に硬くなる。
「さっき、しゃがんだとき」
声が低い。
「内腿、閉じるの早かったよね」
心臓が強く跳ねる。
「いつもなら、あんなに気にしない」
距離が、半歩縮まる。
「歩き方も少し変わってた。
慣れてない布が触れてるときの動き」
逃げられない。
「選んで履いたんでしょ?」
問いではない。
もう、知っている声だった。
尚人は何も言えない。
結衣の視線が、ゆっくり落ちる。
「今も」
「無意識に脚、閉じてる」
太腿が、はっと緊張する。
「守ろうとしてる」
息が止まる。
「隠したいときの身体」
逃げ場がなくなる。
「さっき言ったよね。“静かだった”って」
尚人の指が、無意識に白衣の裾を引く。
ほんの少し、身体を隠すみたいに。
結衣が、ほんの少し首を傾ける。
「……今は?」
言葉が出ない。
さっきまで確かにあったはずの落ち着きが、
いまはただの沈黙に変わっている。
あの静けさは、自分で選んだものだと思っていた。
けれど今になって気づく。
思考を止めてもらう静けさだったのかもしれない。
「神宮寺先生の前では、そんなに慌てないよね」
背骨が冷える。
「指導のとき、もっと素直な顔してる」
喉の奥が細くなる。
「私には隠すの?」
一歩、近づく。
「それとも……先生には、もう見せてるの?」
太腿が、無意識に寄る。
その動きを、結衣は見逃さない。
「落ち着く布なんでしょ?」
さっきの言葉を返される。
「じゃあなんで、こんなに身体、硬いの」
息が崩れる。
「“だけ”って言ったよね。パンティー“だけ”って」
腹の奥が、ぎゅっと引き攣る。
「もう前提が、そっち側じゃない?」
結衣の視線が、ゆっくり下へ落ちる。
「……いつから?」
廊下の蛍光灯が、やけに白い。
「……今日」
喉の奥で、かすかに擦れる声。
結衣はすぐに顔を上げない。
尚人の呼吸を数えるみたいに、数秒だけ視線を伏せる。
「ねえ、尚人」
呼ばれた瞬間、身体が先に姿勢を整えた。
返事は、少し遅れてついてきた。
「実習中さ、立ち位置、いつも修正されてるよね」
指先がわずかに強張る。
「視線の落とし方とか、手の添え方とか」
息が詰まる。
「先生が姿勢を直すときだけ、
あなた、息するの忘れてる」
心臓が細く跳ねる。
「考えるの、やめてる顔してる」
言葉が、胸の奥へ沈む。
思い出す。
肩に置かれた手。
その手が触れている間だけ、思考が静かに止まる。
考えなくていい。
選ばなくていい。
ただ、そこにいればいいという感覚。
正しい位置に立たされる安心。
間違えなくていい安堵。
代わりに、自分で決めなくていい軽さ。
触れられた瞬間、胸の奥のざわめきが薄れていく。
疑問も、迷いも、
ガーゼを重ねられるみたいに、静かに消えていく。
その静けさは優しかった。
優しすぎて、疑問を持つことさえ遠くなる静けさだった。
「その下着も。……“女性の心を理解するため”とか、言われたんじゃないの?」
耳元で囁かれる。
「……違う」
即答できない。
「綾羽さんは……ちゃんと、話を聞いてくれるだけで……」
「本当に?」
その一言で、胸が縮む。
「相談してるうちに、自分の“かたち”を変えられてない?」
喉の奥が細くなる。
「今感じてるその静けさ、本当に尚人の?」
否定されたのは、下着じゃない。
胸の奥に縫い込まれていた“落ち着き”そのものだった。
糸が、内側から引き抜かれていく。
(僕は、自分で……)
言葉が結べない。
ふと、消毒液の匂いが強くなる。
その奥に、甘い残り香。
胸の奥で、名前が軋む。
――尚人。
その名前が、少し遠くで呼ばれているみたいだった。
響きが、少しだけ身体に合わない。
制服のサイズが微妙にずれているみたいに。
太腿に触れる布の感触が、やけに鮮明だ。
太腿の内側で、薄い布が静かに擦れる。
ほんのさっきまで、それは落ち着く布だった。
柔らかく守られているみたいな、静かな安心。
けれど今は違う。
同じ布が、逃げ場をふさいでいるみたいに肌へ貼り付く。
脚を閉じるたび、クロッチの感触がそこにあることを思い出させる。
守っているはずの布が、境界線みたいに身体へ食い込んでくる。
そのたびに、
そこに「ある」ことだけを、はっきり思い出させる。
立っているはずなのに、
重心がどこにあるのか分からない。
床はそこにある。
それでも、自分の重みが自分のものじゃない気がした。
足裏が床に触れている感触だけが、わずかに遅れて伝わってくる。
体重を乗せているはずの場所と、身体の中心が、ほんの少しだけずれている。
まるで、誰かに立たせられている姿勢を、そのまま保たされているみたいに。
自分の足で立っているのか。
それとも、あの静かな手に、そう立たされているのか。
その違いさえ、もうよく分からなかった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる