『神宮寺綾羽の調整記録 ―ナースへ堕とす禁断オペ―』

風間玲央

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第二十七話 静かさは誰のもの?

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息を吸うたび、胸の奥が浅く持ち上がる。
数秒のはずなのに、異様に長い。
時間が止まったわけじゃない。
自分だけが、世界の重心から半歩だけ、外側にずらされているみたいだった
息を吐くたび、身体の重さだけが少し遅れて落ちてくる。

無意識に、襟元へ指が伸びる。
整える必要なんてないのに。
指先が、布の端をそっとなぞる。

その仕草が、最近何度も繰り返してきた動きと同じだと気づく。

白衣の裾。
低い声。
肩に置かれた、体温を感じさせないほど一定な重み。
鼻の奥に、消毒液の匂いがよみがえる。
その奥に、ほんのわずかな甘い香り。

名前を呼ばれるより前に、身体が姿勢を整える。
まるで、順番を待つ身体みたいに。
胸の奥で縫い止めていた何かが、一本ずつ解けていく。

「……わからない」

吐息が細く震える。

「朝、それを履いたとき……この青い服を着たときより、ずっと静かだったんだ。しっくりきた、っていうか……」

言葉が、少し途切れる。

「実習中も、気づくとピンクのワンピースばっかり見てた。
別に見ようと思ってたわけじゃないのに、目がいくんだ」

喉がかすかに動く。

「自分も、そっち側なのにって……」

小さく息を吐く。

「……変だよね」

言い終わる前に、首を振る。
笑おうとした頬が、うまく動かない。
尚人の指が、無意識にこめかみへ触れる。
落ちてきた前髪を耳の後ろへ流す。

結衣の指が、尚人の頬に触れた。
親指が、骨の下を静かになぞる。
触れられた瞬間、呼吸が一拍遅れた。

――やっぱり。

結衣の目が、ほんのわずかに細くなる。

「ブラもつけてるの? ……パンティーだけ? それとも――他にも?」
「肌、何かしてる?」

「……して、ない」

喉の奥で空気が引っかかる。

「……まだ、何も」

「……“まだ”? 」

結衣はゆっくり顔を上げる。

胸元へ。
腹部へ。

そして、さらに下。

露骨ではない。

それでも――
逃げ場は、なかった。
尚人の腹筋が、無意識に硬くなる。

「さっき、しゃがんだとき」

声が低い。

「内腿、閉じるの早かったよね」

心臓が強く跳ねる。

「いつもなら、あんなに気にしない」

距離が、半歩縮まる。

「歩き方も少し変わってた。
慣れてない布が触れてるときの動き」

逃げられない。

「選んで履いたんでしょ?」

問いではない。
もう、知っている声だった。
尚人は何も言えない。
結衣の視線が、ゆっくり落ちる。

「今も」

「無意識に脚、閉じてる」

太腿が、はっと緊張する。

「守ろうとしてる」

息が止まる。

「隠したいときの身体」

逃げ場がなくなる。

「さっき言ったよね。“静かだった”って」

尚人の指が、無意識に白衣の裾を引く。
ほんの少し、身体を隠すみたいに。

結衣が、ほんの少し首を傾ける。

「……今は?」

言葉が出ない。

さっきまで確かにあったはずの落ち着きが、
いまはただの沈黙に変わっている。
あの静けさは、自分で選んだものだと思っていた。
けれど今になって気づく。
思考を止めてもらう静けさだったのかもしれない。

「神宮寺先生の前では、そんなに慌てないよね」

背骨が冷える。

「指導のとき、もっと素直な顔してる」

喉の奥が細くなる。

「私には隠すの?」

一歩、近づく。

「それとも……先生には、もう見せてるの?」

太腿が、無意識に寄る。
その動きを、結衣は見逃さない。

「落ち着く布なんでしょ?」

さっきの言葉を返される。

「じゃあなんで、こんなに身体、硬いの」

息が崩れる。

「“だけ”って言ったよね。パンティー“だけ”って」

腹の奥が、ぎゅっと引き攣る。

「もう前提が、そっち側じゃない?」

結衣の視線が、ゆっくり下へ落ちる。

「……いつから?」

廊下の蛍光灯が、やけに白い。

「……今日」

喉の奥で、かすかに擦れる声。

結衣はすぐに顔を上げない。
尚人の呼吸を数えるみたいに、数秒だけ視線を伏せる。

「ねえ、尚人」

呼ばれた瞬間、身体が先に姿勢を整えた。
返事は、少し遅れてついてきた。

「実習中さ、立ち位置、いつも修正されてるよね」

指先がわずかに強張る。

「視線の落とし方とか、手の添え方とか」

息が詰まる。

「先生が姿勢を直すときだけ、
あなた、息するの忘れてる」

心臓が細く跳ねる。

「考えるの、やめてる顔してる」

言葉が、胸の奥へ沈む。
思い出す。
肩に置かれた手。

その手が触れている間だけ、思考が静かに止まる。
考えなくていい。
選ばなくていい。
ただ、そこにいればいいという感覚。

正しい位置に立たされる安心。
間違えなくていい安堵。
代わりに、自分で決めなくていい軽さ。

触れられた瞬間、胸の奥のざわめきが薄れていく。
疑問も、迷いも、
ガーゼを重ねられるみたいに、静かに消えていく。

その静けさは優しかった。
優しすぎて、疑問を持つことさえ遠くなる静けさだった。

「その下着も。……“女性の心を理解するため”とか、言われたんじゃないの?」

耳元で囁かれる。

「……違う」

即答できない。

「綾羽さんは……ちゃんと、話を聞いてくれるだけで……」

「本当に?」

その一言で、胸が縮む。

「相談してるうちに、自分の“かたち”を変えられてない?」

喉の奥が細くなる。

「今感じてるその静けさ、本当に尚人の?」

否定されたのは、下着じゃない。
胸の奥に縫い込まれていた“落ち着き”そのものだった。
糸が、内側から引き抜かれていく。

(僕は、自分で……)

言葉が結べない。
ふと、消毒液の匂いが強くなる。
その奥に、甘い残り香。
胸の奥で、名前が軋む。

――尚人。

その名前が、少し遠くで呼ばれているみたいだった。
響きが、少しだけ身体に合わない。
制服のサイズが微妙にずれているみたいに。
太腿に触れる布の感触が、やけに鮮明だ。

太腿の内側で、薄い布が静かに擦れる。
ほんのさっきまで、それは落ち着く布だった。
柔らかく守られているみたいな、静かな安心。

けれど今は違う。
同じ布が、逃げ場をふさいでいるみたいに肌へ貼り付く。

脚を閉じるたび、クロッチの感触がそこにあることを思い出させる。
守っているはずの布が、境界線みたいに身体へ食い込んでくる。
そのたびに、
そこに「ある」ことだけを、はっきり思い出させる。

立っているはずなのに、
重心がどこにあるのか分からない。

床はそこにある。
それでも、自分の重みが自分のものじゃない気がした。

足裏が床に触れている感触だけが、わずかに遅れて伝わってくる。
体重を乗せているはずの場所と、身体の中心が、ほんの少しだけずれている。

まるで、誰かに立たせられている姿勢を、そのまま保たされているみたいに。

自分の足で立っているのか。
それとも、あの静かな手に、そう立たされているのか。

その違いさえ、もうよく分からなかった。
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