『神宮寺綾羽の調整記録 ―ナースへ堕とす禁断オペ―』

風間玲央

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第二十六話 境界は、もう戻らない

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結衣の指先が、尚人の青い実習服の腰のあたりに、そっと触れた。
かさ、と乾いた布の音。
触れた瞬間だけ、時間が一拍遅れる。
そのすぐ下には、今も熱を帯びたピンクのレースがある。

指先から伝わる体温に、尚人は思わず肩を揺らした。
息が詰まり、視線の逃げ場がなくなる。

けれど、逃げ出すことはできなかった。
足の裏ではなく、膝の裏がふっと抜けるような感覚に変わり、
床に縫いつけられたみたいに、動かなかった。

指先が、無意識に実習服の裾をきゅっと摘まむ。
まるでスカートの端を整えるみたいな、小さすぎる仕草だった。

「……変、だよね」

尚人は、ようやくそれだけを絞り出した。
声が、思っていたより小さかった。
喉の奥がひりつき、声が思ったよりも遅れて落ちる。

否定したかったわけじゃない。責められるのが怖かったわけでもない。
――どう思われているのかを、先に知りたかっただけだ。

自分の声は、実習中と同じように、隠しようもなく柔らかく、湿っていた。
語尾がほどけて、廊下の空気に残る。

結衣は少しだけ目を細め、唇の端を微かに上げた。
確かめるような視線。

さらに一歩踏み込む。
靴音が、やけに近い。

触れている指先に力がこもる。
ズボンの生地越しに、その下のレースの凹凸をなぞる。
探るというより、形を覚えようとする動きだった。

「……いつから?」

囁くような声。
けれど、逃げ道を塞ぐような確かさがあった。

「なんでそんなの、履いてるの。
朝、自分で選んで、足を通したんでしょう?」

「それは……」

言葉が続かず、唇だけが開いたままになる。

「ただの好奇心?
それとも、履かなきゃいけない理由があった?」

「……それとも。最初から、自分で選びたかった?」

質問が、尚人の逃げ場を一つずつ削っていく。
重心がわからなくなって、視界の高さだけがずれる。
身体だけが、廊下に取り残された。

尚人は、ガラスに映る自分を直視できなかった。
そのはずなのに、視線は勝手にずれていった。
結衣のピンクのワンピースの裾。
歩幅に合わせてわずかに揺れる布の影。

見てはいけないと思った瞬間に、もう遅かった。
焦点が合うより先に、目が捕まってしまう。
裾の揺れが、まるで「こっちへ」と合図しているみたいだった。

青い実習服を着た男の姿をしているのに、親友の女子に下着の感触を弄られている。
視線を上げた瞬間、その像が壊れてしまいそうで。

廊下の蛍光灯が、やけに白かった。
反射した光が、目の奥に刺さる。
遠くで誰かの足音がしているのに、
水の底から届くように輪郭がぼやける。

声も、気配も、距離の概念ごと剥がれていく。
床の冷たさだけが、足裏に残った。

尚人は視線を落としたままにしようとした。
だが結衣の気配が近すぎて、意味をなさない。

ふと顔を上げた瞬間、彼女の瞳の奥に焦点が合ってしまう。
逃げるより先に、捕まえられた。

瞳の奥が、笑っていないのに、優しく「答え」を待っている。

「女の子に、なりたいの?」

結衣の口から、最も直截な言葉がこぼれた。

答えが出なかった。
口を開こうとして、閉じる。
喉だけがひくりと動く。

「……尚人」って呼ばれたところだけ、
胸の奥が、わずかに引っかかった。
――その名前が、今の自分に、少しだけ固すぎる。

(否定しなきゃいけないのに――
どうして、胸の奥のほうが、もう返事をしてるんだ)

呼吸の仕方が、わからなくなっていた。
吸っているのか、吐いているのかさえ曖昧で、
ただ胸の内側だけが、熱で満ちていく。

空調の風の音が、ふっと途切れた気がした。
廊下のざわめきも、遠い。

結衣の指先の向こうで、自分の心臓の音が、異様にはっきり響いている。

どくん、と。
……今度は、わずかにずれた鼓動。

脈打つたびに、腰の奥が微かに熱を持つ。
ピンクのレース越しに、鼓動が伝わってしまいそうだった。

心臓が鳴るたび、下腹の奥がわずかに遅れて応える。
まるで、もう身体の方が先に理解しているみたいに。

戻らなきゃ、と思った。
――けれど、戻る場所の輪郭が、もう薄い。

“戻りたい”という言葉だけが、口の手前でほどけていく。
そしてその隙間に、結衣の問いが、静かに居座った。

ガラスに映る青い自分の像だけが、
結衣の立つ位置から滲んだ淡紅に侵されて、
輪郭を失いはじめていた。

結衣の視線が、ほんのわずかだけ細まる。
――ああ、やっぱり。
そんな無言の確信が、そこにはもう宿っていた。

尚人の喉が、小さく鳴った。
否定の言葉は、最後まで形にならなかった。
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