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『第十七話・4 : 『いちごタルトとネクロコード──午後三時の境界』
しおりを挟む焼きたての香りが、まだ鼻の奥に残っていた。
袋の中では、いちごタルトの温もりがほんのりと指先に伝わる。
その熱が、戦場の冷たさをようやく追い出してくれるようだった。
そんな中、二人と一匹は、どこへ行くあてもなく歩いていた。
気づけば、市場の喧噪を離れ、石畳を街の奥へと進んでいる。
昼下がりのざわめきが遠のくたび、足音だけが静かに響いていた。
「ここ、どこ?」
「さあ、わかんないわよ。地図ないし」
「ワン太の鼻って、コンパスみたいに北向くとかないのかな?」
「はぁ? あるわけないでしょ!」
バッグの中のワン太が、困ったように小さく首をかしげた。
そして――おもむろに鼻を“くいっ”と上げて、適当な方向を指す。
「……ほら、ほら見て! 今ちょっと北っぽくない!?」
「それ絶対テキトーにやってるだけよ!!」
セラフィーが呆れ顔で肩をすくめ、リリアは吹き出した。
笑う瞬間、頬にかかった髪が陽に透け、ふたりの距離が少しだけ近づく。
そんな他愛もないやり取りに、昼下がりの空気が少しだけ軽くなった。
やがて、通りの端にひっそりと古本屋が現れた。
色あせた看板の文字はかすれ、窓辺には埃をかぶった分厚い本が乱雑に積まれている。
「……こんな所に、本屋なんてあったの?」
リリアは首をかしげながらも、気づけば足が自然とそちらへ向かっていた。
扉を押して入ると、紙とインクと黴の匂いがどっと押し寄せる。
棚には日記の断片、古い魔導書の写し、誰が書いたとも知れぬ草稿がぎっしり。
埃の粒が光に揺れ、時の沈黙が頁の隙間で眠っていた。
まるで“忘れられた知識の吹き溜まり”だった。
リリアの視線は――すぐさま一冊の本に釘付けになった。
タイトルは『百年残る王宮パティスリー秘伝』。その隣には『スイーツ巡礼ガイド』『砂糖錬金大全』など、甘党の理性を吹き飛ばす文字が並んでいる。
(おお……! これだ、これが今いちばん必要な知識だよ! 古代魔法とか禁呪とか剣術とかは、もうしばらくいい!)
(“苺ショートはスポンジの気泡が命”とか、“モンブランは絞り口で格が決まる”とか……そういう禁断の奥義がこの本には眠ってるに違いない!)
思わず手を伸ばすリリア。
その横で、セラフィーはため息をつきながら呟いた。
「……まさか古書店で修行に役立つ本を探すと思ったら、これとはね」
「いや違うよ、これはちゃんとした修行だよ!」
(俺にとって“スイーツの探求”は立派な戦いなんだ!)
バッグの中のワン太が“むにっ”と前足を上げた。
リリアは自信満々にうなずく。
「ね? こいつも“甘味は命”って言ってるよ」
「言ってない!! ワン太を同意芸に使わないで!」
「今のは、絶対“助けて”って言ってたわよ!?」
(いや絶対これ、ドーナツ要求の合図だろ……。完全に俺と同じ“甘味党”じゃねぇか……)
棚の前で繰り広げられる、姉妹漫才のような応酬に。古書店の空気は一瞬だけ、すこし温かさを取り戻した。
ふと視線の端に――ひときわ黒ずんだ革装丁の一冊が目に入った。
他のどの本よりも古く、まるで煤にまみれたような色。
背表紙には、かろうじて『……ネクロコード』と読める古文字が刻まれている。
リリアの手が、意識とは裏腹に吸い寄せられる。
その瞬間、古書店の空気がわずかに重くなった気がした。
そして――指先が革表紙に触れた瞬間。
空気が裂けた。
笑い合っていたセラフィーの声も、ワン太の尻尾のかすかな揺れも、
すべて、厚い水の底へ沈んでいくように遠のいた。
店内の灯火がぐらりと揺れ、紙の匂いに紛れて“古い血と鉄錆”の匂いが鼻を刺した。
意識の奥で、何かがきしむ音がした。
ぱらり、と頁が勝手にめくれる。
並んでいたのは、見覚えのある符号――かつて戦場で使った“ゴーレム操作術”の変形。
だが、その下に添えられた一文が、心臓を凍らせた。
「器は操るもの。そして時に――器に操られる」
言葉が胸に沈んだ瞬間、リリアの指がひとりでに震える。
関節が、意志とは別の律動で“ページをめくろうとする”。
心臓の鼓動までもが、微妙にズレる。
まるで身体が、自分ではない何かに“拍子を合わせていく”ようだった。
「っ……!」
本を閉じかけたその瞬間――背後で、声が“形を持ちかけて”いた。
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