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『第二十話・5 : 甘美なる救い──帰還の鐘は、まだ鳴らない』
しおりを挟むリリアは、燃える街路に、足を踏み出した。
熱が頬を打ち、煤が舞う。だが視線は揺れない。
炎の唸りは、まだ止んでいなかった。
黒煙が街路を覆い、崩れ落ちた建物の下からは助けを呼ぶ声が途切れ途切れに響いている。
泣き声。悲鳴。瓦礫のきしむ音。
光は魔を祓った。
けれど、人の苦しみまでは終わらせてくれない。
焼けた鉄と血の匂いが肺を満たす。
リリアは剣を下ろしたまま、胸の奥でひとつ息をほどいた。
肩にのしかかるのは、祈りと──責任。
――それでも、歩みを止めることだけはできなかった。
セラフィーが震える膝を意志で支え、隣に立つ。
ワン太は前を向いたまま、ただ一度だけ、尻尾を揺らした。
布でできたはずの瞳が、揺らぐ炎の向こう――王城をまっすぐ見ている。
(……お前は、迷わないんだな。)
(いやいやいや、なんで俺より先に覚悟決めてんの? おかしくない?
俺が主人公ポジのはずなんだけど?
……くそ、かっこいいじゃん。腹立つわ……!)
リリアは、ゆっくりと息を吸った。
それだけで十分だった。
リリアは剣を握り直し、燃える街路を駆け出した。
「……セラフィー。魔力は戻った?」
問いかける声は低く、だが焦燥を押し殺していた。
セラフィーは走りを緩め、肩で息をしながら首を横に振る。
「無理……今は回復も、火を払う魔法も使えない。私にできるのは……祈ることくらい」
額に散った煤が汗に溶け、頬を伝って落ちる。
悔しさが、噛み締めた唇に滲んでいた。
それでも、セラフィーは呼吸を整え、前を向いた。
「でも一緒に行くわ。歩ける限りは、ちゃんと隣に立つ。一人で背負わせたりしない。」
その言葉は、炎よりまっすぐだった。
リリアの胸が、きゅっと熱くなる。
ブッくんが涙目で頁をばたばたさせている。
「ひぃぃっ……! ワイ、水気ゼロを通り越して、紙100%・可燃率120%なんやで!?
この状況、死刑宣告どころか“焚き火の主役”やんけぇぇ!!」
(いや自分でステータス開示してくんのやめろ。
しかも焚き火の主役ってなんだよ。
火に弱いアピールの必死さが逆に強いわ。
……でも、そのバカさ、ちょっと助かる。)
そのとき──ワン太が“ぽふっ”と跳び出した。
焦げた街路を駆け、倒れた瓦礫の隙間に鼻先を突っ込む。
前足で瓦礫を掻き、短く息を吐いたように小さな胸が揺れる。
(……そうか。まだ、生きてる人がいる!)
リリアは剣を背に収め、地面を蹴った。
「みんな、どいて! わたしがやる!」
腕に力を込めると、瓦礫の隙間からかすかな光が滲み出す。
それは残滓の魔法ではなく──人々の祈りに応えるように、剣が残した光の加護だった。
崩れた梁がふっと軽くなり、下敷きになっていた少年が咳き込みながら姿を現す。
「だ……大丈夫?」
リリアは少年を抱き上げ、母親の腕へと渡す。
母親は涙で顔を濡らしながら、深々と頭を垂れた。
「ありがとうございます……女神さま……!」
その呼び名が落ちた瞬間、胸の奥がひりついた。
熱のせいじゃない。炎の光のせいでもない。
まるで、自分の名前が書き換えられる音がしたかのように。
(……やめてくれよ。“女神”なんてがらじゃない。
俺はただ……ケーキを信じて生きてるだけの人間なんだってば。)
(……違う。救われているのは俺の方だ。助けたんじゃない。手を伸ばせる自分を、確かめたかったんだ。)
だが否応なく、周囲の視線は彼女を仰ぎ見ていた。
炎の街の中で──「祈り」と「救い」の象徴になった自分を。
その重さが、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
逃げたいはずなのに、足はもう前を向いていた。
(……もう、戻れないんだな。)
それを認めた瞬間――心が、静かに形を変えた。
光が引いたあとも、街はまだ呼吸していた。
泣き声も、祈りも、火の音も――ぜんぶ、ここに残っている。
人々はなおリリアを見上げ、祈りの言葉を口にし続けている。
リリアは剣を握り直し、遠くの王城を見据えた。
──炎に包まれながらも、その城はまだ崩れてはいなかった。
白亜の壁は煤で黒く染まり、塔の先端は煙に呑まれている。
それでも城門は閉ざされ、必死に抗う意志がそこにあった。
(……まだ、終わってない。)
セラフィーが荒い息を整え、焦げた空を仰ぐ。
「……王城はまだ持ちこたえているわ。けれど――」
その声は強さと、かすかな恐れを同時に抱いていた。
「この炎と軍勢に呑まれるのは、時間の問題……」
リリアは目を閉じ、ほんの一瞬だけ迷いを胸の奥へ押し込む。
そして、顔を上げた。
「……急がなきゃ。私たちが行けば、まだ間に合う。」
「ひぃぃぃっ!? そんな火の中に飛び込むつもりかいな!?」
ブッくんは涙目で頁をばたばたさせて、わめき散らした。
「見てみぃあの炎!!
焼肉どころか本棚まるごと炭になる温度やぞ!?
しかも魔物までうようよおるやんけ!!
ワイが行ったら秒で“線香花火の最後のやつ”になるわ!!!」
(こいつ比喩のセンスはあるんだよな……悲しいことに。)
(てか“線香花火の最後のやつ”って言うなよ……
情緒と運命同時に燃え尽きる感じやめろ……)
(……まあでも、怖いのはわかる。
俺だってそうだ。
本音言えば、戦場よりスイーツビュッフェの列に並んでいたいタイプなんだよ。)
(……でもそれでも、見捨ててケーキだけ食う奴にはなりたくねぇんだよ。)
リリアは、息をひとつだけ吸った。
広場にひざまずいていた人々が、一斉に顔を上げる。
「女神さま……!」
「王城を……どうか王様を……!」
祈りの声は炎に呑まれず、真っすぐにリリアへ届いた。
それは熱風よりも重く、迷いを逃がさない重さだった。
(……そうだよ。俺はケーキが食いたかっただけだ。
ザッハトルテ見つけて、食って、ちょっと笑って……
それで、今日は終わるはずだった。)
(なのに、気づいたら“女神さま”とか呼ばれてんの、
どういうギャグだよ。向いてねぇし。似合わねぇし。
本音言えば、今すぐ菓子屋に逃げ込みたい。)
胸の奥が、きゅっと熱くなった。
(……でも、あの子、泣き止んだんだよな。
あの母さん、助かったんだよな。
俺が手を伸ばしたから。)
(ケーキも守りたい。
人も守りたい。)
(欲張りって言われてもいい。
“どっちか”なんて、最初から選ぶ気ねぇんだよ。)
(だって、それが俺だろ。
……文句あるなら、ケーキ持ってこい。)
言葉は、胸の奥で小さく燃えた。炎よりも静かに、強く。
リリアは剣を掲げた。
その刃に映る炎は、もう恐怖の色ではない。
燃え落ちる街路を越え、まだ落ちぬ王都の心臓――王城へと。
……踏み出す。
焦げた風が、背中を押した。
足は、自分より先に走り出していた。
呼吸が、前へ進む未来を決める。
体は、ただそのあとを追った。
その一歩は、もう戻らない自分を選んだ一歩だった。
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