11 / 32
『第ニ話・3 : サーバー切断の向こう側』
しおりを挟む颯太の意識は、暗い虚無の中に漂っていた。
――戻ってはいけない場所へ、引き戻される予感だけが残った。
上下も時間もわからない。
ただ冷たい闇だけが、全身を締めつけていた。
やがて、その闇が裂けるようにして、安っぽい蛍光灯の白い光が、容赦なくまぶたを射抜き――彼は目を覚ました。
そこは――あまりに色褪せた現実の世界だった。
「……は、あ……?」
掠れた息が、やけに重く喉に絡んだ。
吸い込んだ空気は、精霊のささやきが満ちた清涼なものではなく、数日取り替えていないシーツの脂臭さと、カビの混じった重い泥が、肺の奥にまとわりついた。
息を整えようと顔を上げたとき、視線の端に鏡が映る。
部屋の隅、ほこりをかぶった姿見。
ふらつく足で近づき、鏡を覗き込む。
――一瞬、認識が追いつかなかった。
映っていたのは、金色でもなければ、光に揺れるピンク色の髪でもない。
ただ、寝癖で跳ねた脂ぎった黒髪の青年。頬はこけ、目の下には死人のような隈が刻まれている。
そこに、勇者だった痕跡は――ひとつも残っていなかった。
見る影もなく疲れ切った、みすぼらしい自分。
颯太だった。
(……俺……あのしなやかな、リリアの指先は……どこへ行った……?)
あのとき、確かに剣を握っていたはずの感触だけが、空しく指の奥に残っている。
震える指で頬をなぞる。冷たい皮膚の感触が返ってくる。あのとき、仲間と分かち合った温もりも、肌をなでる精霊の加護も、指先をすり抜けていく。
胸に手を当てても、あの高鳴りも、光の奔流もない。
勇者の剣も、女神の祝福も消え失せ、残ったのは、“引きこもり”の青年の心臓が、頼りなく胸の内側を打ち続けている――ただ、それだけだった。
ただの肉体。
ただの呼吸。
——そこに、“勇者”の手触りだけが、どこにも残っていなかった。
(ピンクの髪……もう……どこにもない……)
指先に絡んでいたはずの鮮やかな残光も、もう残っていない。
鏡の中の自分を見つめるうちに、膝から力が抜けた。
ついさっきまで仲間を導く勇者だったはずなのに――今はただ、この狭い四畳半に閉じ込められた惨めで弱々しい颯太に戻っている。
この部屋の空気は、まるで時間が止まったように淀んでいた。
散らかったカップ麺の容器は乾いたスープを貼りつかせ、積み上げられたゲーム雑誌は端が黄ばんでめくれ上がっている。
机の隅には、半年前に買ったまま封も切っていない医学専門書。
父の背中を継ぐはずだったその重みが、今はただ、埃を被って机の端を占拠している。
閉め切ったカーテンは昼夜を遮断し、空気は湿った埃の匂いで満ちている。
ベッドの上で、颯太は汗に濡れたTシャツを肌に張り付け、荒い息を吐いた。
その光景のすべてが、英雄だった時間を――無言で踏み潰していた。
英雄だった記憶が――皮膚の下で腐っていくようで、胃の奥がわずかに痙攣した。
視界の先、パソコンのモニターにはログアウト画面。
冷たい文字列で表示されたのは“サーバー切断”。
つい先ほどまでリリアとして剣を握っていたはずのあの世界は、灰色の無機質な文字に、無造作に置き換わっていた。
(……なんでだ……? なんでログアウトしてんだよ……!)
喉の奥が、焼けつくようにひりついた。
背筋を伝う汗は、冷たい膜になって肌に張りつき、
胸の奥では、鼓動だけが場違いなほど暴れている。
(リリアは……王都は……みんな……どうなったんだ……)
デモリオンを倒した――
そこから先の記憶だけが、刃物で抉り取られたみたいに消えている。
気がつけば、布団の上。
見慣れた腐りかけの天井。
現実に戻ったはずなのに、胸を満たしたのは安堵じゃない。
底の抜けた容器みたいな空白だけが、内側に広がっていた。
(……俺、この世界じゃ……なんの役にも立たない)
父に会わせる顔はない。
母には、心配ばかり積み重ねている。
だからこそ——
あの世界だけが、自分を“必要としてくれた場所”だった。
ふと、視線がモニターへ引き戻される。
――そのとき。
あり得ない違和感が、網膜の奥に引っかかった。
灰色のログイン画面。
そこに表示されているはずの“サーバー切断”の文字が、わずかに、滲んだ。
ノイズだと思った。
だが違う。
画面の奥、
灰色の向こう側に、
本来あり得ない“深度”が生まれている。
(……なんだ……これ……)
瞬きする。
消えない。
滲みは、ゆっくりと形を結び始めていた。
切り立った岩壁に囲まれた、凍りつく谷。
白い冷気が、地を這うように流れている。
その中央に立っているのは——
背中を預け合って剣を構える、セラフィーと仲間たちだった。
(……嘘だろ……)
喉が、音もなく引きつった。
さらに、その向こう。
黒い霧をまとって現れたのは——
あの時、最後まで倒しきれなかった魔族の王子レオと、二人の将。
(……やばい……あいつら……!
レオは……今のあいつらじゃ、止められない……!)
心臓が、肋骨を内側から叩き割りそうなほど、激しくのたうつ。
指先の温度が、急速に失われていく。
画面越しのはずなのに、谷を吹き抜ける氷の風が、頬を撫でた気がした。
錯覚のはずなのに——
皮膚だけが、あちら側の空気を知っている。
仲間たちは武器を握りしめ、凍てついた地面に踏みとどまっている。
だが――
その肩が、ほんのわずかに震えているのを、颯太は見逃せなかった。
——あれは、
かつて自分の背中にも走っていた震えだった。
——その瞬間、
画面の向こうで、セラフィーの視線が、確かに、こちらを見た。
画面越しのはずなのに、
——視線だけが、こちら側に届いていた。
0
あなたにおすすめの小説
クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる
アルカス
ファンタジー
16歳になったばかりの高校2年の主人公。
でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。
その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。
転生したら最強種の竜人かよ~目立ちたくないので種族隠して学院へ通います~
ゆる弥
ファンタジー
強さをひた隠しにして学院の入学試験を受けるが、強すぎて隠し通せておらず、逆に目立ってしまう。
コイツは何かがおかしい。
本人は気が付かず隠しているが、周りは気付き始める。
目立ちたくないのに国の最高戦力に祭り上げられてしまう可哀想な男の話。
伯爵家の三男に転生しました。風属性と回復属性で成り上がります
竹桜
ファンタジー
武田健人は、消防士として、風力発電所の事故に駆けつけ、救助活動をしている途中に、上から瓦礫が降ってきて、それに踏み潰されてしまった。次に、目が覚めると真っ白な空間にいた。そして、神と名乗る男が出てきて、ほとんど説明がないまま異世界転生をしてしまう。
転生してから、ステータスを見てみると、風属性と回復属性だけ適性が10もあった。この世界では、5が最大と言われていた。俺の異世界転生は、どうなってしまうんだ。
出来損ない貴族の三男は、謎スキル【サブスク】で世界最強へと成り上がる〜今日も僕は、無能を演じながら能力を徴収する〜
シマセイ
ファンタジー
実力至上主義の貴族家に転生したものの、何の才能も持たない三男のルキウスは、「出来損ない」として優秀な兄たちから虐げられる日々を送っていた。
起死回生を願った五歳の「スキルの儀」で彼が授かったのは、【サブスクリプション】という誰も聞いたことのない謎のスキル。
その結果、彼の立場はさらに悪化。完全な「クズ」の烙印を押され、家族から存在しない者として扱われるようになってしまう。
絶望の淵で彼に寄り添うのは、心優しき専属メイドただ一人。
役立たずと蔑まれたこの謎のスキルが、やがて少年の運命を、そして世界を静かに揺るがしていくことを、まだ誰も知らない。
傷物転生令嬢マグダリーナと原初の魔法使いエステラの幻想譚-女神とスライムの光とともに- (旧タイトル:ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異
天三津空らげ
ファンタジー
日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――
※他サイトでも掲載しています
※ちょいちょい手直ししていってます
2026.12.14 タイトル変更 旧タイトル:ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活
レベル1の地図士は、世界の裏側を知ってしまった
あめとおと
ファンタジー
異世界に転移した主人公が得たスキルは【地図作成】。
戦闘能力ゼロ、初期レベル1。
冒険者ギルドでは「外れスキル」と笑われ、
新人向けの雑用クエストしか回ってこない。
しかしそのスキルは、
ダンジョンの隠し通路、未踏破エリア、消えた古代文明の痕跡まで“地図に表示する”
という、とんでもない能力だった。
生き残るために始めた地味な探索が、
やがて世界の秘密と、国家すら動かす大冒険へ――。
これは、
戦えない主人公が“冒険そのもの”で成り上がる物語。
同作品を「小説家になろう」で先行配信してます。
この度異世界に転生して貴族に生まれ変わりました
okiraku
ファンタジー
地球世界の日本の一般国民の息子に生まれた藤堂晴馬は、生まれつきのエスパーで透視能力者だった。彼は親から独立してアパートを借りて住みながら某有名国立大学にかよっていた。4年生の時、酔っ払いの無免許運転の車にはねられこの世を去り、異世界アールディアのバリアス王国貴族の子として転生した。幸せで平和な人生を今世で歩むかに見えたが、国内は王族派と貴族派、中立派に分かれそれに国王が王位継承者を定めぬまま重い病に倒れ王子たちによる王位継承争いが起こり国内は不安定な状態となった。そのため貴族間で領地争いが起こり転生した晴馬の家もまきこまれ領地を失うこととなるが、もともと転生者である晴馬は逞しく生き家族を支えて生き抜くのであった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる