恋は、母をやめてから始まる――正体を隠したまま、仮の婚約者になりました

あい

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第十五話 扉の向こうの他人

重い扉の前で、ノクスは立ち止まった。

部屋の中にいるのは、
エリーゼ・アーデンハルト。

母が「理想だ」と断じた令嬢。

ノックを三度。

「……エリーゼ様」

中から、落ち着いた声が返る。

「はい」

ノクスは静かに名乗った。

「ヴァレンティス家当主、ノクスです」

部屋の中で、アリアの胸がわずかに跳ねる。

(……ノクス?)

同じ名前。

けれど、すぐに打ち消す。

(偶然よ)

あの人と、この人は違う。
住む世界が、あまりにも違いすぎる。

互いの姿は見えない。
ただ、扉一枚を隔てて、向かい合っている。

ノクスは息を整え、告げた。

「母が、あなたとの結婚を決めました」

部屋の中で、アリアはわずかに息を止める。

(結婚……?)

あの威圧。
あの視線。

「私と、ですか」

「はい」

わずかな間のあと、続ける。

「ヴァレンティスの隣に立てるのは、あなたしかいないと」

そして、はっきりと言った。

「ですが、私は結婚できません」

声は平坦だった。

「理由を、お聞きしても?」

「想い人がいます」

迷いのない声。

「その人以外と結婚するつもりはありません」

部屋の中で、アリアは目を伏せる。

(……想い人がいるのね)

どこかで、安堵にも似た感情がよぎる。

あの強い母を持つ人だ。
きっと彼も、自由ではない。

扉の向こうで、ノクスが続ける。

「あなたを巻き込むことになり、申し訳なく思っています」

アリアは、ゆっくりと答えた。

「あなたが拒めば、波紋が広がるのでしょう」

静かな声。

「私からお断りいたします」

迷いのない答えだった。

廊下の空気が、わずかに揺れる。

初対面のはずなのに、
不思議と気持ちは落ち着いていた。

「……ありがとうございます」

短く、しかし確かな声。

「母に逆らえば、影響は避けられません」
「それでも、あなたが自ら断ると決めてくださった」

一拍。

「その決断に、感謝します」

「いいえ」

アリアは小さく息をついた。

「あなたが想い人を守ろうとしているのなら、それは尊重されるべきです」

沈黙。

その沈黙は、重くはなかった。

やがて、ノクスが言う。

「何か、私にできることはありませんか」

「詫びではなく」
「あなたの決断に対する、私からの礼として」

アリアは目を閉じる。

アーデンハルト。

失われた家。
守れなかったもの。

「アーデンハルト家の復興に、お力を貸していただけませんか」

扉越しに、ノクスは即答した。

「もちろんです」

迷いのない声。

「ヴァレンティスとして、全面的に支援いたします」

そこにも、感情はない。

ただ、責任と誠実さだけがあった。

「ありがとうございます」

再び、沈黙。

そして、ノクスは最後に言った。

「……あなたの幸せを、願っています」

礼儀としての言葉。

けれど、偽りはなかった。

アリアは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。

「私も、あなたの幸せを願っています」

扉は、最後まで開かなかった。

互いの顔を見ないまま。
互いの正体を知らないまま。

それでも——
居心地は、悪くなかった。

廊下を離れながら、ノクスは思う。

(母の理想)

だが、自分の理想ではない。

それだけは、はっきりしている。

そして彼は、まったく気づかない。

扉の向こうにいる令嬢が、
自分が想っている“あの人”と同じ人物であるなどと。

そんな可能性を、
一度も考えなかった。

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