恋は、母をやめてから始まる――正体を隠したまま、仮の婚約者になりました

あい

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小話 サンドイッチ騒動

ノクスがお見合いのために“社長”と名乗り、体裁を整えるために作られた
ヴァレンティスが運営する最小規模の支店——“偽りの小さな会社”。

昼下がり。

受付の扉が、控えめに開いた。

「こんにちは」

その一言で、社内の空気が止まる。

——アリア様だ。

社員が一瞬で立ち上がる。

「い、いらっしゃいませ!」

別の社員が慌てて椅子を整える。

(来た……!)
(当主に連絡!!)

一人が音もなく奥へ走る。

アリアはきょとんとした顔で微笑んだ。

「お仕事中にごめんなさい」
「ノクスさんに、これを」

包みを少し掲げる。

「サンドイッチを作りすぎてしまって」

社員たちの目が一斉に輝く。

(作りすぎ!?)
(俺たちの分もある!?)

「社長はただいま視察に出ておりまして」

「では、お渡ししていただければ——」

「すぐ戻られます」

即答だった。

「え?」

「お茶をお出しします」
「応接間にご案内いたします」

半ば強引に応接室へ案内する。

(帰さない!)
(絶対帰さない!)

アリアは戸惑いながらも席に着いた。

「そんな、本当に少しだけで……」

(少しでいい。その“少し”が重要!)


ーーー


応接間でお茶を飲んでいると応接室の扉が勢いよく開いた。

「……アリア」

ノクスだった。

明らかに早足。
明らかに整っていない呼吸。

社員たちは心の中で拍手する。

(間に合った!)
(ナイス連絡!)

ノクスは咳払いを一つ。

「今日はどうしたんですか」

アリアは包みを差し出した。

「差し入れを持ってきたんです」
「お忙しそうなので、片手で食べられるものをと」

ノクスは一瞬だけ目を細める。

「……ありがとうございます」

(当主の機嫌、急上昇)

社員、心の声。

ノクスは自然な動きで言う。

「せっかくですから、少しだけお時間をいただけますか」

社員一同、無言で頷く。

アリアは柔らかく笑った。

「ほんの少しだけですよ?」

その言葉を合図に、社員たちはそっと立ち上がる。

「では、ごゆっくり」

静かに応接室を出て、扉を閉める。

——廊下。

扉の向こうを見つめながら、社員たちは一斉に肩の力を抜いた。

「……あの通らない企画書、持ってこい」

「今日なら絶対通る」

「今しかない」

偽りの小さな会社は、今日も平和だった。

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