緋色の蛇は宵に咲く

羽純朱夏

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一章

玖話

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新緑の季節が過ぎ去り、湿度の多い梅雨の時期がやってきていた。
その夜は雷を伴った豪雨だったー。
明かりの少ない仄暗い細道で、若い男が傘も差さずに、ふらついて歩いていた。

「……?なんだ?俺、こんな道通ってたっけ」

数時間前までは、会社帰りの同僚たちと居酒屋で飲んで、騒いでいたはずだった。
雨に打たれ、酔いが冷めてみれば、何故か知らない路地裏にいた。

妙に喉が渇く。手足が痺れ、体温だけが妙に高い。

「……早く帰りたいのに、くそっ!」

前方から、ざり、と足音。雷鳴と共に目の前が明るくなり、何かが見えた。
それは人の姿ではない、一見蛇のような……いや、それよりずっと禍々しい、の気配があった。

「な、何だ……ば、化け物!!」

叫ぶも逃げる事もできず、闇がその男を深く飲み込んでいく。

『寄こせ……』

低く邪悪な声が谺した後、男の姿はなくなった。その場に一足の靴を残したまま。
ーー神隠しだった。


***

雨の中、ライブが終わりを迎えようとしていた。
姉が好きなアーティストのライブに、彼が出るということで共にライブを見ていた。
今日の彼は、どこか調子が悪そうに映った。
あの金木犀の香りは、あの時と同じように、仄かに香り、自分に届いている。

(瑪瑙さん、疲れてるのかな……)

視線を、一切観客に向けることはなく、彼はひたすら演奏に集中しているようだった。
スタンディングのため、やや前よりのためか、汗で赤い髪が乱れているのがわかる。
彼を纏う赤いもやが今日は一層濃く感じる。


激しい演奏と共に、あの夢のような蛇の幻影がーー。こちらをずっと睨んでいる気がした。

「っ……!」

突如、また不思議な声が紬に響いてきた。


(番が欲しい……)

音に紛れて、苦しんでいるような、声が聞こえる。
急に胸が苦しくなり、恐怖を感じるーー。

(何故、まったく治まらない……!)

苛立ちを抱えたような声が届く。

観客たちは、より一層盛り上がるかのように、各々の振りが激しさを増していた。
周りと身体がぶつかりながらも、紬は囚われたように棒立ちのまま、瑪瑙から目を離すことができなかった。

いくつかの曲が演奏された後、ボーカルが「ラスト」と叫ぶ。
照明が会場全体を眩しく照らし、盛大な最後を迎えた。


音が止んだと共に、瑪瑙は崩れ落ちそうな様子でステージを去っていった。
それと同時に、胸の苦しさは跡形もなく消えてなくなった。


「紬、大丈夫?今日はちょっと……紬にはきつかったかもだね。無理に連れてきてごめん」
「……あ、ううん。大丈夫……」

ライブの状況よりも、あの幻影に対する恐怖を感じたまま、会場を後にする。
しばらく姉の手を握り、駅まで歩く。
手の震えに気づいたのが、姉が声をかける。

「ちょっと、紬どうしたの?めっちゃ震えてるじゃん」
「怖くて……」

幼い頃時折、霊的な恐怖を感じると、姉に抱きついていた気がする。


「紬、もしや何かいたーー?」
「っ……」
「よし、わかった!ちゃんとあんたの家まで送るから……早く帰ろう」

駅のホームでは、ファンたちがライブの話をしている声が聞こえてくる。
会話に紛れて、彼の内容が耳に入ってきたーー。


「なんか、今日の瑪瑙おかしくなかった?辛そうだった」
「そう?別にいつも通りだと思ったけど……じっくり見てなかった」

やはり今日の彼は、様子がおかしかった確信したーー。
あの靄から現れた赤い蛇は、もしかして自分に何かを訴えていたのだろうかーー?
それとも、自分を捉えて殺そうと、狙いを定めていたのかーー?

曲の中から聞こえた『番が欲しい』の言葉がよくわからない。
ただ身体の震えが収まらないまま、電車に乗り込んだ後も姉の手を離せずにいた。


***

大雨の中、熱を帯びた身体を引きずり傘も差さず、神社の神域へと瑪瑙は足を踏み入れる。
あれから、まったくといっていいほど身体の熱が消えない。
発情を迎えた蛇の本能が、身体の中でずっとうごめいていると感じる。

「っ……今日は来ていた」

番の気が、見えない糸で繋がれているように、存在がはっきりとわかっていた。
こんなことなら、香りなどに目覚めなければと後悔する。
境内を照らす灯篭が微かに灯る暗闇の中、敷地内にある池へと流れる滝に打たれ頭を冷やそうとする。

だが、消えないーーこの渇きと熱さは、もう何日も消すことができない。

「この身体が、辛い……」

濡れて貼り付いているシャツを脱ぎ捨てると、その左の胸元には人ではないという証である赤い鱗の肌が見える。

「……化け物だ」

人になれず、神としての力も劣っている自分はーー今、ただつがいを求め続け彷徨う化け物だと悲観する。

「こんな奇妙な姿を見せたら……あの子は恐れる。番となれるわけない」

自分たちを生み出した神は、どうしてこんな香りを授けたのかーー?
捉えられたものは逃げられなくなるというのに。

「琥珀殿のように、幸せなど望めない……こんな状態では、番を傷つける」

苦しくて、悲しいーーこの熱に自分が焼かれて消えてしまいたくなるほどに。

「会ってはいけない。絶対にーー」

赤い蛇に姿を変え、瑪瑙は池の底へと身を沈めた。

間違いなく彼女は自分の番ーー
今ある日常に、この湧き出る欲で支障をきたすわけにはいかない。

『彼女は気づいているかな……知らないといいけれど……』

このまま忘れられたら、どれだけいいのだろうか。
大物主大神の眷属になってから、いつか番が欲しいと望んでいなければ。憧れなど持たなければーー。
番を昔のように喰らってしまうかもしれないのに、神は簡単に番と交われば熱は治まるなど口にして。

『親しくもないのに、彼女を道具のように利用するなんて……できるわけない』

水の底へとただ沈んでいく、先程の柔い光が遠ざかっていく。
瑪瑙はまだ燻る自身の熱を抱えながら、しばらく水の底に漂い続けた。


***

紬たちが家につく頃、まだ雨は止みそうになく降り続いている。
「じゃあね、紬。ちゃんと温まって寝るんだよ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「あ、そういえば最近、瑪瑙のアカウント出たみたい。フォローしてみなよ」
「……ありがとう、見てみるね」

姉が去り、シャワーを浴びに浴室へと向かう。
無事に眠れるだろうかーーー。
浴室から出て着替えを済ませ、そのままベットへと転がる。
枕元に最近買っていた、金木犀の練り香水を手に取り、手首に塗る。
仄かに香る香りを、鼻で吸い込み心を落ち着ける。

「……」

明かりを消すと、イヤホンを耳にあて彼の曲をかけて瞳を閉じる。
琵琶の曲ーーあの「落涙」が流れ出す。
あの時の演奏中の彼の姿を思い出す。金木犀の香りと共にーー。


しばらくして、朦朧とした意識の中で真っ白な風景が浮かぶ。
琵琶を手にして、大きな巨石に座り演奏している一人の人物が浮かぶ。
取り囲むように、澄んだ川の流れと、花々の息吹。鳥の声ーー。

いったい誰の夢だろうかーー?

『主様、僕は貴女のようになりたいです……』

赤褐色の蛇が、その者の傍らにいた。

『綺麗な曲を奏でるようになり、一人前の神になりたいです』
『そうか、お前は本当に音が好きだな』

『えぇ、あと相談が……。香りが、まだありません……。また、仲間に先を越されました。いつになれば香りを発するのでしょう……?』
『焦ることはない。何度も言うが、が来ればお前も香りを発せられるだろう』
『その言葉をもう何度か聞きました。私はもう幼くありません……!』
『……』

赤い蛇は人型に顕現し、赤髪の男性が映し出されるーー不意に彼のようだと思った。

『力欲しさに番を喰らってしまいましたが……何も起こらない。主、主自ら私の番を選んでもらえませんか?』
『瑪瑙、番は時が来れば現れる、香りを持てばすぐにな……だが、それは時に、苦しみも伴う』
『……苦しみとは、いったい?』
『それは、各々が独自の感情をもつだろう。まぁ……苦しみを知らず、自ら道具のように利用する者もいるが』
『……』

何かに呼ばれたのか、天女のような女性は琵琶を置き、その場から去っていく。
彼女が去った後、彼に似たその男は、その場に置かれた琵琶を手に持ち、ばちを使って一音、弦を鳴らした。


『……いつか、会えるだろうか。本当に私にも……』

そっと静かに音を奏でる。その指先が、不思議と彼と重なって見えた。
あの時のライブの衣装のように、白地に朱が映える出で立ちで。羽衣のような粒子が見え、天の使者のようにー。

のように、心を通わせられるよう努力しないとですね……。番に会えた時、曲を聞かせてあげようか……』

何かを決意したように、彼は天を見上げる。
その顔はどこか穏やかだった。

『ーーさん』

何者かに呼ばれた気がして目を覚ますと、紬は、今の夢に対し更に不思議な感覚を覚えた。
姉に教えてもらった、彼のアカウントをすぐにフォローして、再び瞼を閉じる。

スマホの画面には「弁天」という曲が表示されていた。
瑪瑙が奏でるその音色が子守唄のように心地よく、紬を眠りへといざなった。
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