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合縁奇縁
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********【ジョセフ・オーウェル】
「……即位式の前に連れて行ってくれるのですか?」
顔に垂れかかる黒髪をかき上げながら、聖女が疑問を口にした。甘く澄んだ声が耳に流れ込み、妙に心が和む。
「ああ。規模は小さいのですが、王都に私が作った孤児院があります。もし興味があれば、連れて行きますよ」
そう答えると、聖女は一瞬うれしそうな素振りを見せ、それから心細げな眼差しを私に向けてきた。
「……これから作る孤児院の参考に、ぜひ行ってみたいです。しかし、この外見でぶらぶら街中を歩くと、騒ぎになってしまわないでしょうか?」
「ああ。確かに、観光客が入ってきたとはいえ、聖女の容姿は人目を引きかねないですからね。ただ、即位式の前夜、暗くなってから行けば大丈夫でしょう。子供たちが眠っているかも知れないが、雰囲気はなんとなく掴めるでしょう」
私がそう言うと、聖女は顔を和らげて頷いた。
今朝から突然、こうして聖女が普通にしゃべり、いろいろな表情を見せてくれるようになった。
ニロ王子と護衛の反応からすれば、おそらくこちらのほうが普通ではないのだろう。島に滞在した数日間で何があったのか?
そんなことを考えていた時、自分の両手を揉みながら落ち着かない聖女の様子が視界に入った。
「どうしました?」
そう心配すると、聖女は小さく息を呑んだ。
「あ、あの、ジョセフ様。……もしよかったら、聖女ではなく、名前でよんでくれますか……?」
「……君の名前?」
そう確認すれば、聖女が恥ずかしそうに頷いた。
言われてみれば、私はまだ彼女の名前を呼んだことがない。前世を記憶する、同じ境遇のもの同士。仕事上の関係だけではなく、もっと親しく接して欲しいということか。
「もちろん、いいですよ」
快く承諾すると、いま呼んで欲しそうな目で彼女は私を見つめてきた。意外とせっかちなんだな。
……ふふ。
あどけなさの残るその瞳を微笑ましくながめながら、口を開いた。
「……フェーリ」
要望に応じて彼女の名前を紡ぎ出した瞬間、ばっと胸がふるえた。
……ん? なんだ、この奇妙な動悸は……?
まさか、名前を呼んだくらいで緊張してしまったのか……。
ふと動揺する私に気づく気配もなく、フェーリはその柔らかそうな唇を綻ばせた。
「……ありがとうございます、ジョセフ様」
「ああ……」
無表情の時から愛らしい顔がその微笑みに彩られて、思わず見入ってしまった。
ニロ王子が見ようとして、まだ見れていないフェーリの清楚な笑顔。
哀れな独占欲が満たされたからか、たちまち気分が昂揚してきた。これはいけない。
目をつむり、静かに呼吸を整えた。
ニロ王子は明らかにフェーリを愛している。そして、先ほどの会話でフェーリに対する私の気持ちを見抜かれてしまったから、警告のつもりで彼女の額にキスをしたのだろう。
平和を望むならば、不必要な対立を避けるべきだ。なにより、フェーリもニロ王子に気があるように見える。
同じ転生者で日本人同士……たとえ本気でフェーリをのぞんでも、あの二人の間に私の入る隙間などないだろう。
改めてそう思ったところ、部屋の扉がコンコンと叩かれて、イグの声が聞こえてきた。どうやら、そろそろ船が王都に到着するらしい。
ああ、無自覚のうちにフェーリと夜通しで話してしまったのか……!
はっとして謝ろうとしたが、その前にフェーリがペコペコと頭を下げてきた。そして部屋の前にいるニロ王子と護衛のもとへ行き、必死に謝ったのだ。
初めてあった時、身勝手な先入観で、私はフェーリを傲慢ちきな令嬢だと確信していた。いま思えば、あれはなんて浅はかな考えだろう。
── 盲目的、被害妄想。
食事会の時、ニロ王子に言われた言葉がまだ鋭く胸に突き刺さる。
正義のつもりで、私は戦争を全否定して、関与しないと明言した。しかし、その行為がかえって仇となり、宰相とイグを苦しめてしまった。
はじめから公爵家と正面から対峙して、私がもっとうまくやっていれば、宗教戦争を防げたかもしれないのに……っと、今さら後悔しても仕方がない。
フェーリの言った通り、悶々と悩んだところで終わった戦争をなかったことにできない。償いとして、いまの私にできることをするしかないのだ。
自分でも分かる道理なのに、フェーリに言われるまで素直に受け入れられなかった。
私もまだまだ学びが足りないな。
フェーリの横顔を眺めながら、改めてそう感じた時、ニロ王子の冷たい表情が目を引いた。いつからか、瞬きもせずニロ王子が私を見ていた。
まるで、自分の縄張りを守っている狼のよう。
凄まじい威圧感……これが日本のブシか?
私を警戒する気持ちを理解できなくはないが、ここまで気を張る必要があるのか?
別に気圧されたわけではないが、国のことを考えると、これ以上ニロ王子に敵視されるのは困る。
はあ……しょうがない。もう少しフェーリから距離を取ろうか。
こっそりそう決めた途端、銀色の瞳を光らせていたニロ王子が私から目を離した。
……偶然、か?
よく分からないが、ニロ王子に思考を読まれた気がして仕方がない。
今後、重要な話し合いがある時、あまり王子の眼を見ないほうが得策かもしれない。
そうして王都に着船すると、出迎えに来てくれた宰相がフェーリと丁寧に挨拶を交わした。背後にいるニロ王子はフェーリの護衛で来たため、宰相との正式な挨拶はお預けだ。
フェーリが聖女として大衆に姿を見せるのは式典最後のパレードと決まっている。だが、早くフェーリを一目みようと王城の正門に群衆がかなり集まっているようだ。
このまま王城へ行くと騒動を起こしかねない。それで即位式まで宰相の屋敷に泊まることになったのだ。
応接間に入ると、挨拶にきた貴族が列を作りフェーリを待っていた。それから長い挨拶が終わり、一緒に昼食を済ますと、フェーリの疲れた溜め息が耳に入った。
「だいぶ疲れたでしょう、フェーリ。今晩、孤児院へ行く準備を整えてから、また声をかけますので、今のうちにゆっくりと休んでください」
イグが貴族らの見送りに行った後、フェーリにそう伝えると、彼女は申し訳ない表情で私を見つめてきた。おそらく私も疲れていると心配しているのだろう。
私もすぐに休むと保証すると、安心した素振りでフェーリが頷き、使用人について部屋のほうへと向かった。
そうして、人がいなくなり、屋敷はいつも通りの静けさを取り戻した。
「おかえり。よく頑張ったな、ジョセフ」
書斎に入ると、宰相が私の背中に手を回して、しっかりと抱きしめてくれた。
「ただいま」
笑顔でそう返すと、宰相が温かみのある表情を浮かべた。
「出発前、あれだけ嫌がっていたから心配していたが、予定どおり聖女が即位式に参加してくれる。つまり、聖女がお前を王として認めるということだ。これで心置きなく、お前の改名の披露ができる」
そう言って、宰相は満足げに私の肩をトントンと優しく叩いた。
「……私の改名?」
「ああ、明日からお前はこの国の王になる。いつまでも『ジョセフ・オーウェル』でいられないだろう。お前も王族の一員だ。王の名前を継ぐのは当然だろう?」
「……王族の一員? いいえ。しかし、伝統的に庶子の私は王の名前を継ぐことはできないはずです……」
不意をつかれてそう答えれば、宰相に困った顔をされた。
「なにを言っているのだ、ジョセフ。たしかに、正室の王子ではないお前は先代王の名を継ぐことができない。だが、今のお前は嫡子も当然の身分。それに、崩御した兄貴もお前の改名を望んでいるのだ」
「……そう、ですか」
王となる私の正統性を誇示するためにも改名したほうがいい。しかし、それは以来の伝統に反する行為。批判を招きかねない。
私の懸念が伝わったのか、宰相が力強い声で言った。
「伝統を理由に難癖をつける厄介者も出てくるだろう。ただ、聖女がお前に名を授ける形で披露すれば、公衆の支持を得られる。それで充分だ」
たしかに、フェーリは神の子として拝められている。
旧習を破ることになるが、神の子から授かった名前なら、誰も文句を言えないだろう。
『ジョセフ・ミトラ・クニタメ』……か。
必要だと頭で分かっていても、会ったこともない母親の苗字を捨てるような心境になって、後ろめたい。
小さくため息を漏らしてから頷くと、宰相は意外そうな顔になった。
「聖女から名を授けると聞いて、もう少し嫌そうな顔になると思ったが、案外素直に頷いたな」
あ、そうか。私とコンラッド家の誤解がとけたことを宰相はまだ知らないか。
そう思い、王国でのいきさつを宰相に話すと、彼は苦い顔で「そうか。すべてを知ったのか」と呟いた。
たしかに、宰相は私から真実を隠したが、意図して私を騙したわけではない。
そもそも、戦争の因果関係をしっかりと分析すれば、宰相の関与は明白だ。それなのに、私は盲目的にコンラッド家と王国のせいにした。
私のせいで戦争が起こされた……この事実を無意識的に否定したかったのだろう。
それがニロ王子の言った被害妄想……。
最初からニロ王子にすべてを見すかされているようで、歯痒い。
やり場のない気持ちにおそわれて、爪を手のひらに食い込ませていれば、
「……ジョセフ。民を思って戦争を望まないお前の気持ちは痛いほど分かる。選択肢があれば、私も内戦を避けたかった。ただ、例えお前が王位継承権を放棄してこの国から去っても、平和が訪れるわけではない。次期国王の座を争って、公爵家らが仲間割れを始めるだけだ。理解しろとは言わないが、この国はお前が必要だ。余計なことを考えないで、強い王になって欲しい」
私が自責の念に苦しまれていると思ったのか、宰相が厳しい表情でそう言ってきた。
「はい。心配しなくてもいいですよ、宰相。戦争の責任を感じるなら、自分のできることをして最善を尽くすしかないと、王国にいた時、フェーリにそう諭されました。気をしっかりして、私が国を守らなければ、我が国の聖女にがっかりされてしまいますからね」
落ち着いてそう告げると、宰相は驚いたような顔でフェーリを褒め始めた。
フェーリから元気をもらったのは本当だが、それにしても、頑固な正直者の私を救った本物の聖女って……これはさすがに大袈裟な気がする。
第一、私は別に聖女教に回心したわけではないのだが……はあ。
そうして黙って聞いていれば、「ジョセフ。お前が片膝を立てば、このまま聖女がテワダプドルに残ってくれるかも知れないな」と宰相が私をからかってきた。
「宰相……変なうわさが立ってしまいますから、そういう冗談はやめてください」
やや真剣な口調でそう返せば、
「知っているか、ジョセフ。火の無いところに煙は立たない。お前の心にやましい気持ちがなければ、変なうわさが流れても慌てる必要はない」
と宰相がいかにも面白そうな顔をして、私を見つめた。
「……もちろん。やましい気持ちなどありませんよ」
丸眼鏡を軽く押し上げながらそう呟くと、宰相は白い歯をこぼして爽快に笑いはじめた。
「相変わらず、分かりやすいな、ジョセフ。これは困った。うちのイグにも頑張ってもらわないとな」
「……頑張ることなどありませんよ、宰相。そんなことより、コンラッド侯爵との取り引きについて話しましょう」
そうしてどうにかその話題を変え、宰相に王国の事情を説明した。
それから即位式の段取りを再確認すると、部屋にもどり軽く仮眠をとった。
そうして日没になってから、約束どおりフェーリに孤児院を案内したのだ。
メモを片手に、フェーリはずっと真剣な面持ちで私の言葉を聴いてくれた。
その勤勉さに感心しながら庭のほうを通っていた時、なにかを発見したらしいフェーリが歩く足を止めた。
私もそのほうをみると、灯りに照らされた噴水の向こうに小さな人影があったのだ。
就寝時間をすぎたから、子どもはみんな寝ているはず。
誰だ? と訝しげに近づけば、指を組み跪いていた少年が声を上げて驚いた。
「ジョ、ジョセフ様……!」
私の顔を見るなり、突き飛ばされたように少年が尻餅をついた。
定期的に子どもの身体検査をしていたから、すぐに彼が施設にいる子だと分かった。
「ここで祈祷していたのですか?」
私がそう聞くと、少年は混乱した表情で頷いた。
たしか、この少年の父親は敗北した公爵軍の兵士で、最後の戦いで命を落とした。そして、追うように流行りの疫病で母親を失ったのだ。
そう思い出したところ、少年の震えた声が聞こえてきた。
「そちらは、まさか、聖女様……」
青い瞳に黒髪。宰相の島からフェーリの容姿の情報がここまで広まってきたのか。
驚く私に、フェーリが戸惑った視線をなげかけてきた。バレたからには仕方ないか。
「そうですよ」
私が肯定すると、ビクンッと少年が目と口を大きく開いた。
「……せいっ!」
「しぃーっ」
慌てて人差し指を口にあてると、はっと少年が自分の口を塞いだ。
そんな少年の前にしゃがみ込み、フェーリが挨拶を口にした。
「こんばんは。お名前は?」
「……ご、ごめんなさい!」
わなわなと少年が芝生に顔を伏せた。
「……どうしたの?」
困惑するフェーリに、少年は怯えた声で説明しはじめる。
どうやら、少年の父親が聖女教を信じなかったから、一家は聖女の加護を受けられない。そのせいで疫病にかかってしまったと、死ぬ時まで、少年の母親が繰り返してそう言ったようだ。
最後まで女神教のために戦った父親に祈りをささげたら、聖女の気分を害してしまう。そう分かりながらも、父親を忘れられず、夜な夜なここで祈っているらしい。
「聖女様……もうしませんので、どうか僕をお許しください……」
涙ぐんだ目で少年がフェーリを見あげた。
「残念だけれど、あなたは悪いことをしていないから、許すことができないわ」
「悪いことをしていない……で、でも、僕のお父さんは最後まで聖女様を信じてくれませんでした……それなのに、僕はこっそり祈りつづけました。聖女様を信じない人のために……それは悪いことではないですか……?」
そう聞かれ、フェーリは優しく潤った瞳で少年を見つめた。
「ねえ、教えて。お父さんは生前、あなたを大事にしてくれるいい人だった?」
フェーリの唐突な質問に当惑しつつも、少年がこわごわとうなずいた。
「それで充分よ。愛する人を思い、祈りをささげることはいけないことではないし、後ろめたい行為ではない。気分を害されたどころか、私は喜ばしく思っているよ。だから、胸を張って祈ってもいいと思うわ」
「胸を張って祈ってもいい……」
「そう。今後はもっと胸を張って祈ろう」
フェーリがそう繰り返せば、少年はポロポロと大粒の涙を流しはじめた。
その涙を指でぬぐいながら、フェーリは柔らかく微笑んだ。
その温かい笑顔は、清楚でとてつもなく美しく見える。
この笑みを見たから、キーパー・ストロングがフェーリを聖女として拝んだのだろう。
よく分からないが、ドクドクと胸が激しく動悸を打ちはじめて、そう確信した。
そうしてその光景を眺めていれば、少年の頬を撫でるフェーリの薬ゆびがちかっと光った。
指輪……?
そういえば、フェーリに婚約者がいると護衛が言っていたな。
ということは、ニロ王子はそれを知った上で、堂々とフェーリに触れているのか? 他人の婚約者に……?
それはいくらなんでも非常識だ。
王子は遊び半分でフェーリに手を出している? いや。それはあり得ないだろう。
逆に、なぜニロ王子がフェーリの婚約解消を求めないで容認しているのだ?
ドナルドもきっとニロ王子の気持ちを把握しているのに、それでもフェーリを別の人と婚約させたのか……なぜだ?
普通に考えて、そのほうが利益はあるからだ。
ニロ王子とドナルドは親しくしているように見えたが……あれは従属的な関係ではなかったのか?
事情をよく知らないが、背後に複雑な原因がありそうだ。
これは無闇に首を突っ込まないほうがいいな。
私が片膝をつけば、フェーリはここに残ってくれると宰相が言ったが、そんな簡単にはいかないだろう。
フェーリに惹かれたのは本当だが、それでもこれ以上プロテモロコと王国の戦争に巻き込まれるのはごめんだ。
私情より国を選ぶ。フェーリのことは早いうちに忘れたほうがいい。
当然の結論なのに、虚しく苦々しい気持ちがどっと湧いてきた。
耐えられずフェーリから目をそらせば、悩ましげに自分の毛先をつまむイグの姿が視界に飛び込んだ。
「どうしたのですか、イグ?」
「あ、いいえ。聖女様の髪の毛があまりに美しく見えたので、少し、羨ましいと思っただけです……」
とイグはほのかに頬を染めて答えた。
そうしてふっと困ったように小さく息を吐くイグの姿が可愛らしかった。
「……羨ましく思うことはないですよ、イグ。私からすれば、君の髪の毛は十分きれいに見えますから」
笑顔でそう言うと、イグは耳の根まで赤らめて、恥ずかしそうに笑った。
「ありがとうございます……ジョセフ様……」
ニコニコと嬉しそうに微笑むイグを見て、ほっと胸が軽くなった。
「……ああ」
そうだ。
私には、私欲よりも大事なものがある。
欲望に思想を惑わされるのは倫理的ではない。
自分のやるべきことを見失ってはいけない。
そうして気持ちを改めて、孤児院の案内を再開した。
「……即位式の前に連れて行ってくれるのですか?」
顔に垂れかかる黒髪をかき上げながら、聖女が疑問を口にした。甘く澄んだ声が耳に流れ込み、妙に心が和む。
「ああ。規模は小さいのですが、王都に私が作った孤児院があります。もし興味があれば、連れて行きますよ」
そう答えると、聖女は一瞬うれしそうな素振りを見せ、それから心細げな眼差しを私に向けてきた。
「……これから作る孤児院の参考に、ぜひ行ってみたいです。しかし、この外見でぶらぶら街中を歩くと、騒ぎになってしまわないでしょうか?」
「ああ。確かに、観光客が入ってきたとはいえ、聖女の容姿は人目を引きかねないですからね。ただ、即位式の前夜、暗くなってから行けば大丈夫でしょう。子供たちが眠っているかも知れないが、雰囲気はなんとなく掴めるでしょう」
私がそう言うと、聖女は顔を和らげて頷いた。
今朝から突然、こうして聖女が普通にしゃべり、いろいろな表情を見せてくれるようになった。
ニロ王子と護衛の反応からすれば、おそらくこちらのほうが普通ではないのだろう。島に滞在した数日間で何があったのか?
そんなことを考えていた時、自分の両手を揉みながら落ち着かない聖女の様子が視界に入った。
「どうしました?」
そう心配すると、聖女は小さく息を呑んだ。
「あ、あの、ジョセフ様。……もしよかったら、聖女ではなく、名前でよんでくれますか……?」
「……君の名前?」
そう確認すれば、聖女が恥ずかしそうに頷いた。
言われてみれば、私はまだ彼女の名前を呼んだことがない。前世を記憶する、同じ境遇のもの同士。仕事上の関係だけではなく、もっと親しく接して欲しいということか。
「もちろん、いいですよ」
快く承諾すると、いま呼んで欲しそうな目で彼女は私を見つめてきた。意外とせっかちなんだな。
……ふふ。
あどけなさの残るその瞳を微笑ましくながめながら、口を開いた。
「……フェーリ」
要望に応じて彼女の名前を紡ぎ出した瞬間、ばっと胸がふるえた。
……ん? なんだ、この奇妙な動悸は……?
まさか、名前を呼んだくらいで緊張してしまったのか……。
ふと動揺する私に気づく気配もなく、フェーリはその柔らかそうな唇を綻ばせた。
「……ありがとうございます、ジョセフ様」
「ああ……」
無表情の時から愛らしい顔がその微笑みに彩られて、思わず見入ってしまった。
ニロ王子が見ようとして、まだ見れていないフェーリの清楚な笑顔。
哀れな独占欲が満たされたからか、たちまち気分が昂揚してきた。これはいけない。
目をつむり、静かに呼吸を整えた。
ニロ王子は明らかにフェーリを愛している。そして、先ほどの会話でフェーリに対する私の気持ちを見抜かれてしまったから、警告のつもりで彼女の額にキスをしたのだろう。
平和を望むならば、不必要な対立を避けるべきだ。なにより、フェーリもニロ王子に気があるように見える。
同じ転生者で日本人同士……たとえ本気でフェーリをのぞんでも、あの二人の間に私の入る隙間などないだろう。
改めてそう思ったところ、部屋の扉がコンコンと叩かれて、イグの声が聞こえてきた。どうやら、そろそろ船が王都に到着するらしい。
ああ、無自覚のうちにフェーリと夜通しで話してしまったのか……!
はっとして謝ろうとしたが、その前にフェーリがペコペコと頭を下げてきた。そして部屋の前にいるニロ王子と護衛のもとへ行き、必死に謝ったのだ。
初めてあった時、身勝手な先入観で、私はフェーリを傲慢ちきな令嬢だと確信していた。いま思えば、あれはなんて浅はかな考えだろう。
── 盲目的、被害妄想。
食事会の時、ニロ王子に言われた言葉がまだ鋭く胸に突き刺さる。
正義のつもりで、私は戦争を全否定して、関与しないと明言した。しかし、その行為がかえって仇となり、宰相とイグを苦しめてしまった。
はじめから公爵家と正面から対峙して、私がもっとうまくやっていれば、宗教戦争を防げたかもしれないのに……っと、今さら後悔しても仕方がない。
フェーリの言った通り、悶々と悩んだところで終わった戦争をなかったことにできない。償いとして、いまの私にできることをするしかないのだ。
自分でも分かる道理なのに、フェーリに言われるまで素直に受け入れられなかった。
私もまだまだ学びが足りないな。
フェーリの横顔を眺めながら、改めてそう感じた時、ニロ王子の冷たい表情が目を引いた。いつからか、瞬きもせずニロ王子が私を見ていた。
まるで、自分の縄張りを守っている狼のよう。
凄まじい威圧感……これが日本のブシか?
私を警戒する気持ちを理解できなくはないが、ここまで気を張る必要があるのか?
別に気圧されたわけではないが、国のことを考えると、これ以上ニロ王子に敵視されるのは困る。
はあ……しょうがない。もう少しフェーリから距離を取ろうか。
こっそりそう決めた途端、銀色の瞳を光らせていたニロ王子が私から目を離した。
……偶然、か?
よく分からないが、ニロ王子に思考を読まれた気がして仕方がない。
今後、重要な話し合いがある時、あまり王子の眼を見ないほうが得策かもしれない。
そうして王都に着船すると、出迎えに来てくれた宰相がフェーリと丁寧に挨拶を交わした。背後にいるニロ王子はフェーリの護衛で来たため、宰相との正式な挨拶はお預けだ。
フェーリが聖女として大衆に姿を見せるのは式典最後のパレードと決まっている。だが、早くフェーリを一目みようと王城の正門に群衆がかなり集まっているようだ。
このまま王城へ行くと騒動を起こしかねない。それで即位式まで宰相の屋敷に泊まることになったのだ。
応接間に入ると、挨拶にきた貴族が列を作りフェーリを待っていた。それから長い挨拶が終わり、一緒に昼食を済ますと、フェーリの疲れた溜め息が耳に入った。
「だいぶ疲れたでしょう、フェーリ。今晩、孤児院へ行く準備を整えてから、また声をかけますので、今のうちにゆっくりと休んでください」
イグが貴族らの見送りに行った後、フェーリにそう伝えると、彼女は申し訳ない表情で私を見つめてきた。おそらく私も疲れていると心配しているのだろう。
私もすぐに休むと保証すると、安心した素振りでフェーリが頷き、使用人について部屋のほうへと向かった。
そうして、人がいなくなり、屋敷はいつも通りの静けさを取り戻した。
「おかえり。よく頑張ったな、ジョセフ」
書斎に入ると、宰相が私の背中に手を回して、しっかりと抱きしめてくれた。
「ただいま」
笑顔でそう返すと、宰相が温かみのある表情を浮かべた。
「出発前、あれだけ嫌がっていたから心配していたが、予定どおり聖女が即位式に参加してくれる。つまり、聖女がお前を王として認めるということだ。これで心置きなく、お前の改名の披露ができる」
そう言って、宰相は満足げに私の肩をトントンと優しく叩いた。
「……私の改名?」
「ああ、明日からお前はこの国の王になる。いつまでも『ジョセフ・オーウェル』でいられないだろう。お前も王族の一員だ。王の名前を継ぐのは当然だろう?」
「……王族の一員? いいえ。しかし、伝統的に庶子の私は王の名前を継ぐことはできないはずです……」
不意をつかれてそう答えれば、宰相に困った顔をされた。
「なにを言っているのだ、ジョセフ。たしかに、正室の王子ではないお前は先代王の名を継ぐことができない。だが、今のお前は嫡子も当然の身分。それに、崩御した兄貴もお前の改名を望んでいるのだ」
「……そう、ですか」
王となる私の正統性を誇示するためにも改名したほうがいい。しかし、それは以来の伝統に反する行為。批判を招きかねない。
私の懸念が伝わったのか、宰相が力強い声で言った。
「伝統を理由に難癖をつける厄介者も出てくるだろう。ただ、聖女がお前に名を授ける形で披露すれば、公衆の支持を得られる。それで充分だ」
たしかに、フェーリは神の子として拝められている。
旧習を破ることになるが、神の子から授かった名前なら、誰も文句を言えないだろう。
『ジョセフ・ミトラ・クニタメ』……か。
必要だと頭で分かっていても、会ったこともない母親の苗字を捨てるような心境になって、後ろめたい。
小さくため息を漏らしてから頷くと、宰相は意外そうな顔になった。
「聖女から名を授けると聞いて、もう少し嫌そうな顔になると思ったが、案外素直に頷いたな」
あ、そうか。私とコンラッド家の誤解がとけたことを宰相はまだ知らないか。
そう思い、王国でのいきさつを宰相に話すと、彼は苦い顔で「そうか。すべてを知ったのか」と呟いた。
たしかに、宰相は私から真実を隠したが、意図して私を騙したわけではない。
そもそも、戦争の因果関係をしっかりと分析すれば、宰相の関与は明白だ。それなのに、私は盲目的にコンラッド家と王国のせいにした。
私のせいで戦争が起こされた……この事実を無意識的に否定したかったのだろう。
それがニロ王子の言った被害妄想……。
最初からニロ王子にすべてを見すかされているようで、歯痒い。
やり場のない気持ちにおそわれて、爪を手のひらに食い込ませていれば、
「……ジョセフ。民を思って戦争を望まないお前の気持ちは痛いほど分かる。選択肢があれば、私も内戦を避けたかった。ただ、例えお前が王位継承権を放棄してこの国から去っても、平和が訪れるわけではない。次期国王の座を争って、公爵家らが仲間割れを始めるだけだ。理解しろとは言わないが、この国はお前が必要だ。余計なことを考えないで、強い王になって欲しい」
私が自責の念に苦しまれていると思ったのか、宰相が厳しい表情でそう言ってきた。
「はい。心配しなくてもいいですよ、宰相。戦争の責任を感じるなら、自分のできることをして最善を尽くすしかないと、王国にいた時、フェーリにそう諭されました。気をしっかりして、私が国を守らなければ、我が国の聖女にがっかりされてしまいますからね」
落ち着いてそう告げると、宰相は驚いたような顔でフェーリを褒め始めた。
フェーリから元気をもらったのは本当だが、それにしても、頑固な正直者の私を救った本物の聖女って……これはさすがに大袈裟な気がする。
第一、私は別に聖女教に回心したわけではないのだが……はあ。
そうして黙って聞いていれば、「ジョセフ。お前が片膝を立てば、このまま聖女がテワダプドルに残ってくれるかも知れないな」と宰相が私をからかってきた。
「宰相……変なうわさが立ってしまいますから、そういう冗談はやめてください」
やや真剣な口調でそう返せば、
「知っているか、ジョセフ。火の無いところに煙は立たない。お前の心にやましい気持ちがなければ、変なうわさが流れても慌てる必要はない」
と宰相がいかにも面白そうな顔をして、私を見つめた。
「……もちろん。やましい気持ちなどありませんよ」
丸眼鏡を軽く押し上げながらそう呟くと、宰相は白い歯をこぼして爽快に笑いはじめた。
「相変わらず、分かりやすいな、ジョセフ。これは困った。うちのイグにも頑張ってもらわないとな」
「……頑張ることなどありませんよ、宰相。そんなことより、コンラッド侯爵との取り引きについて話しましょう」
そうしてどうにかその話題を変え、宰相に王国の事情を説明した。
それから即位式の段取りを再確認すると、部屋にもどり軽く仮眠をとった。
そうして日没になってから、約束どおりフェーリに孤児院を案内したのだ。
メモを片手に、フェーリはずっと真剣な面持ちで私の言葉を聴いてくれた。
その勤勉さに感心しながら庭のほうを通っていた時、なにかを発見したらしいフェーリが歩く足を止めた。
私もそのほうをみると、灯りに照らされた噴水の向こうに小さな人影があったのだ。
就寝時間をすぎたから、子どもはみんな寝ているはず。
誰だ? と訝しげに近づけば、指を組み跪いていた少年が声を上げて驚いた。
「ジョ、ジョセフ様……!」
私の顔を見るなり、突き飛ばされたように少年が尻餅をついた。
定期的に子どもの身体検査をしていたから、すぐに彼が施設にいる子だと分かった。
「ここで祈祷していたのですか?」
私がそう聞くと、少年は混乱した表情で頷いた。
たしか、この少年の父親は敗北した公爵軍の兵士で、最後の戦いで命を落とした。そして、追うように流行りの疫病で母親を失ったのだ。
そう思い出したところ、少年の震えた声が聞こえてきた。
「そちらは、まさか、聖女様……」
青い瞳に黒髪。宰相の島からフェーリの容姿の情報がここまで広まってきたのか。
驚く私に、フェーリが戸惑った視線をなげかけてきた。バレたからには仕方ないか。
「そうですよ」
私が肯定すると、ビクンッと少年が目と口を大きく開いた。
「……せいっ!」
「しぃーっ」
慌てて人差し指を口にあてると、はっと少年が自分の口を塞いだ。
そんな少年の前にしゃがみ込み、フェーリが挨拶を口にした。
「こんばんは。お名前は?」
「……ご、ごめんなさい!」
わなわなと少年が芝生に顔を伏せた。
「……どうしたの?」
困惑するフェーリに、少年は怯えた声で説明しはじめる。
どうやら、少年の父親が聖女教を信じなかったから、一家は聖女の加護を受けられない。そのせいで疫病にかかってしまったと、死ぬ時まで、少年の母親が繰り返してそう言ったようだ。
最後まで女神教のために戦った父親に祈りをささげたら、聖女の気分を害してしまう。そう分かりながらも、父親を忘れられず、夜な夜なここで祈っているらしい。
「聖女様……もうしませんので、どうか僕をお許しください……」
涙ぐんだ目で少年がフェーリを見あげた。
「残念だけれど、あなたは悪いことをしていないから、許すことができないわ」
「悪いことをしていない……で、でも、僕のお父さんは最後まで聖女様を信じてくれませんでした……それなのに、僕はこっそり祈りつづけました。聖女様を信じない人のために……それは悪いことではないですか……?」
そう聞かれ、フェーリは優しく潤った瞳で少年を見つめた。
「ねえ、教えて。お父さんは生前、あなたを大事にしてくれるいい人だった?」
フェーリの唐突な質問に当惑しつつも、少年がこわごわとうなずいた。
「それで充分よ。愛する人を思い、祈りをささげることはいけないことではないし、後ろめたい行為ではない。気分を害されたどころか、私は喜ばしく思っているよ。だから、胸を張って祈ってもいいと思うわ」
「胸を張って祈ってもいい……」
「そう。今後はもっと胸を張って祈ろう」
フェーリがそう繰り返せば、少年はポロポロと大粒の涙を流しはじめた。
その涙を指でぬぐいながら、フェーリは柔らかく微笑んだ。
その温かい笑顔は、清楚でとてつもなく美しく見える。
この笑みを見たから、キーパー・ストロングがフェーリを聖女として拝んだのだろう。
よく分からないが、ドクドクと胸が激しく動悸を打ちはじめて、そう確信した。
そうしてその光景を眺めていれば、少年の頬を撫でるフェーリの薬ゆびがちかっと光った。
指輪……?
そういえば、フェーリに婚約者がいると護衛が言っていたな。
ということは、ニロ王子はそれを知った上で、堂々とフェーリに触れているのか? 他人の婚約者に……?
それはいくらなんでも非常識だ。
王子は遊び半分でフェーリに手を出している? いや。それはあり得ないだろう。
逆に、なぜニロ王子がフェーリの婚約解消を求めないで容認しているのだ?
ドナルドもきっとニロ王子の気持ちを把握しているのに、それでもフェーリを別の人と婚約させたのか……なぜだ?
普通に考えて、そのほうが利益はあるからだ。
ニロ王子とドナルドは親しくしているように見えたが……あれは従属的な関係ではなかったのか?
事情をよく知らないが、背後に複雑な原因がありそうだ。
これは無闇に首を突っ込まないほうがいいな。
私が片膝をつけば、フェーリはここに残ってくれると宰相が言ったが、そんな簡単にはいかないだろう。
フェーリに惹かれたのは本当だが、それでもこれ以上プロテモロコと王国の戦争に巻き込まれるのはごめんだ。
私情より国を選ぶ。フェーリのことは早いうちに忘れたほうがいい。
当然の結論なのに、虚しく苦々しい気持ちがどっと湧いてきた。
耐えられずフェーリから目をそらせば、悩ましげに自分の毛先をつまむイグの姿が視界に飛び込んだ。
「どうしたのですか、イグ?」
「あ、いいえ。聖女様の髪の毛があまりに美しく見えたので、少し、羨ましいと思っただけです……」
とイグはほのかに頬を染めて答えた。
そうしてふっと困ったように小さく息を吐くイグの姿が可愛らしかった。
「……羨ましく思うことはないですよ、イグ。私からすれば、君の髪の毛は十分きれいに見えますから」
笑顔でそう言うと、イグは耳の根まで赤らめて、恥ずかしそうに笑った。
「ありがとうございます……ジョセフ様……」
ニコニコと嬉しそうに微笑むイグを見て、ほっと胸が軽くなった。
「……ああ」
そうだ。
私には、私欲よりも大事なものがある。
欲望に思想を惑わされるのは倫理的ではない。
自分のやるべきことを見失ってはいけない。
そうして気持ちを改めて、孤児院の案内を再開した。
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