堕ちた聖女と騎士

茜菫

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「ふっ、二人が、口づけ合ったの……!」

 そう言うのが精一杯だった。エカチェリーナが真っ赤になってうつむくと、耳に小さく笑う声が届く。

「口づけと言うだけなのに……ふっ……かわいい」

 アレクサンドルの言葉にエカチェリーナの胸が騒ぎだした。真っ赤なまま顔を上げ、アレクサンドルをにらみつける。

「だって、そんな……恥ずかしいじゃない!」

「そうですか?」

「サーシャはしたことがあるのかもしれないけれど……私は……!」

「いえ、ありませんよ」

 エカチェリーナの動きがぴたりと止まる。口づけをしたことがないというアレクサンドルの唇に、つい目がいった。

(したこと……ないんだ……)

 だれも触れたことがない、アレクサンドルの唇。エカチェリーナがじっと見つめていると、アレクサンドルは目を細めて自分の唇を指でなぞった。

「……してみたいですか?」

「え……」

「口づけ」

 エカチェリーナはなにも答えられず、ただ立ち尽くす。アレクサンドルは一歩鏡に近づき、エカチェリーナを惑わした。

「してみたいのでしょう?」

「っ、で、でも……」

「どうせ、鏡越しです。本当にするわけじゃありません」

「あ……」

「ここにいるのは私たちだけ。だれも、まさか鏡越しに逢引しているなんて、考えもしません」

「そ、う、だけど……」

「私たち、二人だけの秘密です」

 二人だけの秘密、その甘美な誘惑にエカチェリーナの足が動いた。一歩、また一歩と、まるで鏡に吸い寄せられるように足を進める。

「カーチャ」

 アレクサンドルの甘い声が、エカチェリーナから正常さを失わせた。鏡越しに息がかかりそうなほど顔を寄せ合うと、エカチェリーナは目を閉じ、唇を重ねる。

 唇から伝わるのは、鏡の冷たさと硬さだけ。到底口づけと呼べるようなものではない。それでも、エカチェリーナはアレクサンドルと口づけ合おうとした、その事実だけは確かだった。

「カーチャの唇は、きっと、とてもやわらかいのでしょうね」

 アレクサンドルの指が、鏡の中のエカチェリーナの唇をなぞるように動く。自分の指とはまったく違う、節くれた長い指だ。

「あなたの唇に、本当に触れられたのなら……」

 アレクサンドルのつぶやきにエカチェリーナは顔をそらす。顔は真っ赤に染まって熱く、胸はどきどきと高鳴ってせわしない。

「また、からかって……そんな意地悪……っ」

「からかってなどいませんよ」

 エカチェリーナの息が止まる。恐る恐るアレクサンドルへと目を戻すと、じっとエカチェリーナを見つめる青い瞳と目が合った。

「私は、あなたが聖女になってしまったころからずっと、……ずっと、あなたのそばで……触れたくて、触れたくて仕方がなかったのですから」

 その目は真っすぐにエカチェリーナに向けられている。そこにはやさしいほほ笑みも、意地の悪い笑みもなかった。

「っ、どうして、いまごろ……」

 アレクサンドルは聖女の騎士としてそばに控えていたこの三年もの間、触れたいと思い続けていたという。まったくそんな想いを表に足さずに隠し通していたというのに、なぜ、いまになってそれを語るのか。

 アレクサンドルは目を細めると、わずかに口の端を上げる。

「あなたも少し、同じ気持ちになったでしょう?」

 エカチェリーナは驚きに目を見開き、口を閉ざした。

『もしかして、恋ですか?』

 侍女の言葉がエカチェリーナの頭に浮かぶ。物語の令嬢のように、彼の言葉にときめき、触れたいと思い、一緒にいたいと願う、その気持ちが自分の中に生まれていることにエカチェリーナは気づいた。

「……あなたのせいじゃない」

「ええ、そうです」

 夜の逢瀬がなければ、エカチェリーナはアレクサンドルにこんな気持ちを抱くことはなかったかもしれない。

 自分を救ってくれた、いままでも、これからもずっと自分を守ってくれる、絶対の信頼を寄せる騎士。ただ、それだけだった。

「……あなたも、やわらかいのかしら」

「さあ、どうでしょう」

 エカチェリーナも指でアレクサンドルの唇をなぞる。鏡越しでしか触れられない、アレクサンドルの唇。エカチェリーナはその唇に、本当に触れたくなっていた。

「サーシャ……」

「これは、私たち、二人だけの秘密です」

 だが、それは叶わない。アレクサンドルが秘密だということは、これは知られてはならないことなのだろう。

「……いけないこと、じゃない?」

「いけないことかもしれませんね。ですが、知られなければいいだけのことです」

 こんなことはやめておくべきことだ。頭ではわかっていたが、エカチェリーナはそれに従えなくなっていた。

「カーチャ」

 エカチェリーナが触れた鏡に、アレクサンドルが手を重ねる。その感触も、熱も感じられないが、それだけでエカチェリーナの心はよろこんでいた。

「夜のことはすべて、二人だけの秘密です」

 これまでも、これからも、夜のうちに起きたすべてのことは二人だけの秘密だ。アレクサンドルの言葉に、エカチェリーナは迷わずうなずく。

「わかったわ。……私たちだけの秘密ね」

 いけないことかもしれない。そう思いながらも、アレクサンドルとだけ共有する秘密は、甘い果実のように魅力的だ。甘く芳しいその果実に、手を伸ばさずにはいられない。

 それが禁断の果実だと知らずに、エカチェリーナはそれを選んだ。



「おはようございます、聖女さま」

「っ、おはよう」

 朝、部屋を出て侍女に声をかけられ、エカチェリーナは少し動揺してしまった。しかし、侍女はその変化に気づくことなく、いつもの通りにエカチェリーナを誘導する。

(そうよね、だれも気づくはずがないわ)

 この部屋で鏡越しにアレクサンドルと会っているなど、だれも気づくはずがない。ましてや、口づけまでしたなんて、わかるはずがない。

(……二人だけの秘密だもの)

 エカチェリーナの胸によろこびの感情が生まれる。だがそれは、聖女には似つかわしくない感情だった。

 エカチェリーナは侍女に連れられ、身を清めて禊に向かう。夜は秘密で変わっても、変わらない日課だ。それが少しおかしく思えたが、エカチェリーナは泉に足を踏み入れる。

「……っ」

 肌にわずかに感じる、ぴりっとした刺激。痛みというほどではないものの、昨日よりも強くなったそれにエカチェリーナは眉根を寄せた。

(はぁ。早く終わらせよう)

 エカチェリーナは禊を済ませ、中に戻る。侍女らに世話され、聖女の衣に身を包むと、祈りの場に向かった。

 祈りの場では司祭たちに囲まれ、エカチェリーナは聖樹への祈りを捧げた。いままではなに一つ曇りなく、敬虔な祈りを捧げていたエカチェリーナだが、今日は違った。

(……早く終わらないかしら)

 エカチェリーナの心には曇りがあった。はたから見ればいつもと変わらない、けれどもエカチェリーナは変わってしまっていた。

 この場にいるだれもが、エカチェリーナの変化に気づいていない。気づかないまま、意味をなくした祈りの時間が過ぎていく。

「聖女さま、お疲れ様です」

「ありがとう、アレクサンドル」

 そして、祈りを終えたエカチェリーナの元に、アレクサンドルが現れた。エカチェリーナはいつもと変わらないように笑んで、アレクサンドルの手を取った。

(二人だけの、秘密だもの)

 秘密は、だれにも知られないからこそ秘密であり得るのだから。

 その後、エカチェリーナは笑顔で教徒との話に耳をかたむけ、アレクサンドルもなに食わぬ顔でそばに控えた。滞りなく勤めが終わり、やがて夜になった。

 部屋に戻ったエカチェリーナは、本を読んで時間をつぶした。早くアレクサンドルに会いたい気持ちがあったが、急いで前のようにアレクサンドルのあられもない姿を見てしまうわけにもいかない。
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