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第1話「針子と皇帝の、悪夢の邂逅」
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紫龍帝国の後宮は、花の園だ。
色とりどりの絹を纏った妃たちが蝶のように舞い、蜜のように甘い言葉で皇帝の寵愛を競い合う。そんなきらびやかな世界の片隅に、尚服局(しょうふくきょく)はあった。妃や女官たちの衣装を仕立て、繕う場所。私、李玲花の職場であり、世界の全てだ。
私の仕事は針と糸で布を紡ぐこと。そして私には、誰にも言えない秘密がある。
私が心を込めて縫った衣を身に着けた人の夢に、眠ると入り込めてしまうのだ。
といっても大した力ではない。夢の中で何かできるわけでもなく、ただぼんやりと他人の夢を覗き見るだけ。同僚の少女が見る故郷の夢、厳しい先輩女官が見る恋しい人の夢。それはほんのり温かくて、私の殺風景な毎日にささやかな彩りをくれる、小さな秘密だった。
その日までは。
「玲花!急ぎの仕事よ!これを今夜までに」
尚服局の長である女官長が、私の前に一枚の衣を広げた。息を呑むほど美しい、月光を溶かし込んだかのような乳白色の絹の寝間着。最高級の生地に、金の糸で繊細な龍の刺繍が施されている。
「こ、これは……まさか」
「そうよ。天子様がお召しになる御寝着(おんしんぎ)よ。袖口がほんの少しほつれてしまったの。他の者には任せられないわ。あなたの腕は確かだから」
天子様――この国の頂点に立つ、若き皇帝・龍瑛心(リュウ・エイシン)陛下。
噂に聞く彼は、氷のように冷たく美しい方だという。先帝であった父君を目の前で暗殺された過去を持ち、そのトラウマから心を閉ざし誰も寄せ付けない。そして、夜ごと悪夢にうなされているともいう。
(私が、皇帝陛下の……?)
心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなる。こんな高貴なものに触れることすら恐れ多い。けれど、断ることなどできるはずもなかった。
私は震える手で針を取り、恐る恐る袖口のほつれに糸を通した。一針、また一針。陛下の安らかな眠りを祈りながら、全神経を集中させて丁寧に縫い上げていく。かすかに香る白檀の香りが、持ち主の高貴さを物語っていた。
その夜。
いつものように自室の固い寝台に潜り込み、私は疲労困憊で目を閉じた。すぐに意識が遠のいていく。
(ああ、今日はどんな夢を見るんだろう……)
いつもなら、ふわりと温かい誰かの夢に漂うはずだった。なのに。
気づくと、私は燃え盛る炎の中にいた。
「……え?」
熱風が肌を舐め、パチパチと柱がはぜる音が耳をつんざく。鼻を突くのは煙と、そして生々しい血の匂い。周りでは黒い影たちが鈍い金属音を響かせながら斬り結んでいる。悲鳴と怒号が渦巻き、まるで地獄のようだった。
(痛い、苦しい、怖い……!)
これは夢だ。分かっているのに、恐怖は本物だった。他人の夢のはずなのに、今まで感じたことのないほど鮮明で、五感を直接揺さぶってくる。
あまりの恐怖に身をすくませていると、視界の隅に小さな影が見えた。
炎に照らされた回廊の柱の陰で、小さな男の子が膝を抱えて震えている。まだ十歳にも満たないだろうか。豪華な衣服は煤で汚れ、整った顔は恐怖と絶望に歪んでいた。
(あの子は……)
そして、彼は見てしまった。広間の中心で、煌びやかな衣装を血に染めて倒れる男性の姿を。その胸には、一本の凶刃が深々と突き立っていた。
「ちち……うえ……」
幼い少年のかすれた声が、私の胸を抉る。
ああ、そうか。この少年こそが若き日の皇帝陛下。そしてここは、彼が悪夢として見続けている、先帝陛下暗殺の現場なのだ。
悪夢はさらに彼を苛む。血に濡れた刃を持つ覆面の男たちが、ゆっくりと少年ににじり寄ってくる。彼はもう声も出せず、ただ大きく見開いた瞳から涙をこぼすだけだった。
「やめて……!」
気づけば、私は叫んでいた。
夢の中では干渉できないはずなのに。この悪夢の強烈な絶望が、私の力の壁を突き破ったのかもしれない。
私は震える足で少年に駆け寄り、その小さな体をかばうように彼の前に立ちはだかった。覆面の男たちは私が見えていないかのように、ただ皇帝陛下だけを睨みつけている。
「もう、この方を苦しめないで!」
それでも、悪夢は止まらない。
どうすれば。どうすれば、この人を救える?
涙を流し続ける幼い皇帝陛下の、氷のように冷たくなった手を、私は無我夢中で握りしめた。
「大丈夫です。大丈夫……私が、ここにいますから」
声が震える。けれど、できるだけ優しく、温かく。
祈るような気持ちで、彼の手に自分の体温を注ぎ込む。すると、不思議なことが起こった。
ごうごうと燃え盛っていた炎の勢いが、ほんの少しだけ弱まった。耳元で響いていた剣戟の音が少しだけ遠のいた。覆面の男たちの輪郭が、わずかに揺らいだ気がした。
悪夢は消えない。けれど、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ和らいだのだ。
私はただ、ひたすらに彼の手を握りしめ続けた。夜が明けるまで、この恐ろしい夢の中で孤独に震える彼の唯一の味方でいようと、心に誓いながら。
やがて東の空が白み始め、私の意識が現実へと引き戻されていく。薄れゆく視界の中で、幼い皇帝の瞳がわずかに驚きを映し、私を見つめたような気がした。
色とりどりの絹を纏った妃たちが蝶のように舞い、蜜のように甘い言葉で皇帝の寵愛を競い合う。そんなきらびやかな世界の片隅に、尚服局(しょうふくきょく)はあった。妃や女官たちの衣装を仕立て、繕う場所。私、李玲花の職場であり、世界の全てだ。
私の仕事は針と糸で布を紡ぐこと。そして私には、誰にも言えない秘密がある。
私が心を込めて縫った衣を身に着けた人の夢に、眠ると入り込めてしまうのだ。
といっても大した力ではない。夢の中で何かできるわけでもなく、ただぼんやりと他人の夢を覗き見るだけ。同僚の少女が見る故郷の夢、厳しい先輩女官が見る恋しい人の夢。それはほんのり温かくて、私の殺風景な毎日にささやかな彩りをくれる、小さな秘密だった。
その日までは。
「玲花!急ぎの仕事よ!これを今夜までに」
尚服局の長である女官長が、私の前に一枚の衣を広げた。息を呑むほど美しい、月光を溶かし込んだかのような乳白色の絹の寝間着。最高級の生地に、金の糸で繊細な龍の刺繍が施されている。
「こ、これは……まさか」
「そうよ。天子様がお召しになる御寝着(おんしんぎ)よ。袖口がほんの少しほつれてしまったの。他の者には任せられないわ。あなたの腕は確かだから」
天子様――この国の頂点に立つ、若き皇帝・龍瑛心(リュウ・エイシン)陛下。
噂に聞く彼は、氷のように冷たく美しい方だという。先帝であった父君を目の前で暗殺された過去を持ち、そのトラウマから心を閉ざし誰も寄せ付けない。そして、夜ごと悪夢にうなされているともいう。
(私が、皇帝陛下の……?)
心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなる。こんな高貴なものに触れることすら恐れ多い。けれど、断ることなどできるはずもなかった。
私は震える手で針を取り、恐る恐る袖口のほつれに糸を通した。一針、また一針。陛下の安らかな眠りを祈りながら、全神経を集中させて丁寧に縫い上げていく。かすかに香る白檀の香りが、持ち主の高貴さを物語っていた。
その夜。
いつものように自室の固い寝台に潜り込み、私は疲労困憊で目を閉じた。すぐに意識が遠のいていく。
(ああ、今日はどんな夢を見るんだろう……)
いつもなら、ふわりと温かい誰かの夢に漂うはずだった。なのに。
気づくと、私は燃え盛る炎の中にいた。
「……え?」
熱風が肌を舐め、パチパチと柱がはぜる音が耳をつんざく。鼻を突くのは煙と、そして生々しい血の匂い。周りでは黒い影たちが鈍い金属音を響かせながら斬り結んでいる。悲鳴と怒号が渦巻き、まるで地獄のようだった。
(痛い、苦しい、怖い……!)
これは夢だ。分かっているのに、恐怖は本物だった。他人の夢のはずなのに、今まで感じたことのないほど鮮明で、五感を直接揺さぶってくる。
あまりの恐怖に身をすくませていると、視界の隅に小さな影が見えた。
炎に照らされた回廊の柱の陰で、小さな男の子が膝を抱えて震えている。まだ十歳にも満たないだろうか。豪華な衣服は煤で汚れ、整った顔は恐怖と絶望に歪んでいた。
(あの子は……)
そして、彼は見てしまった。広間の中心で、煌びやかな衣装を血に染めて倒れる男性の姿を。その胸には、一本の凶刃が深々と突き立っていた。
「ちち……うえ……」
幼い少年のかすれた声が、私の胸を抉る。
ああ、そうか。この少年こそが若き日の皇帝陛下。そしてここは、彼が悪夢として見続けている、先帝陛下暗殺の現場なのだ。
悪夢はさらに彼を苛む。血に濡れた刃を持つ覆面の男たちが、ゆっくりと少年ににじり寄ってくる。彼はもう声も出せず、ただ大きく見開いた瞳から涙をこぼすだけだった。
「やめて……!」
気づけば、私は叫んでいた。
夢の中では干渉できないはずなのに。この悪夢の強烈な絶望が、私の力の壁を突き破ったのかもしれない。
私は震える足で少年に駆け寄り、その小さな体をかばうように彼の前に立ちはだかった。覆面の男たちは私が見えていないかのように、ただ皇帝陛下だけを睨みつけている。
「もう、この方を苦しめないで!」
それでも、悪夢は止まらない。
どうすれば。どうすれば、この人を救える?
涙を流し続ける幼い皇帝陛下の、氷のように冷たくなった手を、私は無我夢中で握りしめた。
「大丈夫です。大丈夫……私が、ここにいますから」
声が震える。けれど、できるだけ優しく、温かく。
祈るような気持ちで、彼の手に自分の体温を注ぎ込む。すると、不思議なことが起こった。
ごうごうと燃え盛っていた炎の勢いが、ほんの少しだけ弱まった。耳元で響いていた剣戟の音が少しだけ遠のいた。覆面の男たちの輪郭が、わずかに揺らいだ気がした。
悪夢は消えない。けれど、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ和らいだのだ。
私はただ、ひたすらに彼の手を握りしめ続けた。夜が明けるまで、この恐ろしい夢の中で孤独に震える彼の唯一の味方でいようと、心に誓いながら。
やがて東の空が白み始め、私の意識が現実へと引き戻されていく。薄れゆく視界の中で、幼い皇帝の瞳がわずかに驚きを映し、私を見つめたような気がした。
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