悪夢に苦しむ皇帝の寝間着を繕ったら、夢の中へ!?特別な侍女になった私の秘密の恋

久遠翠

文字の大きさ
3 / 15

第2話「夢の残り香と、皇帝の渇望」

しおりを挟む
 永い闇が、少しだけ晴れた。
 龍瑛心は、重い瞼をゆっくりと押し上げた。天蓋から差し込む朝の光がやけに眩しく感じる。いつもなら悪夢の残滓が全身にまとわりつき、鉛のような疲労感と共に目覚める。心臓は氷水に浸されたように冷え切り、あの日の光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。
 だが、今朝は違った。

(……体が、少し軽い)

 もちろん、悪夢は見た。燃え盛る宮殿。父の絶命の瞬間。忠臣たちの断末魔。血と炎の匂い。寸分違わぬ、地獄の記憶。
 けれど、いつもと決定的に違う点があった。
 あの絶望の淵で、誰かがいた。

『大丈夫ですよ。私が、ここにいますから』

 温かい声。震えていたが、芯のある優しい響き。そして、冷え切った自分の手を包み込んだ柔らかな温もり。顔も姿も、はっきりとは思い出せない。夢の中の幻だったのかもしれない。だが、その存在は確かに、荒れ狂う悪夢の炎をわずかに凪がせてくれたのだ。
 おかげで、ここ数年で初めて、悪夢の続きにうなされることなく夜明けまで眠れた。

「……誰だ」

 瑛心は静かにつぶやくと、ゆっくりと体を起こした。寝台の傍らには忠実な側近である高順(コウ・ジュン)が控え、すぐに身支度の準備を始める。

「陛下、おはようございます。今朝は、お顔色が少しよろしいようにお見受けいたします」

 高順の言葉に、瑛心は答えなかった。ただ、自分の右手を見つめる。夢の中の温もりが、まだかすかに残っているような気がした。あれは一体何だったのか。自分の心が作り出した、都合の良い幻影か。
 いや、違う。何か、確かな手応えがあった。
 ふと、瑛心は自分が身に着けている寝間着に目をやった。昨日新調された乳白色の絹の寝間着。袖口に施された見事な龍の刺繍に、ふと指を触れさせる。
 その時、かすかな香りが鼻孔をくすぐった。白檀の香りに混じる、甘く清らかな花の香り。そして、陽だまりのような優しい匂い。

(この匂い……)

 夢の中で感じた温もりと、どこか通じるものがある。瑛心は眉をひそめた。まさか。

「高順」

「はっ」

「昨日、この寝間着を準備したのは誰だ」

「尚服局の者たちでございますが……何か不備が?」

「いや」

 瑛心は短く否定する。

「これを繕った者を突き止めろ。些細なほつれを直しただけでもいい。昨日、この寝間着に触れた者を一人残らず探し出せ」

「は……はぁ。承知いたしました」

 高順は主君の意図が読めず、戸惑いの表情を浮かべた。しかし、瑛心の命令は絶対だ。彼はすぐさま一礼し、執務室から下がっていった。

 一人残された瑛心は、再び寝間着の袖口を鼻に寄せた。

(この糸と、薬草のような匂い……)

 きっと、手がかりはこれだ。夢の中の彼女は、幻ではない。
 瑛心は、知らず知らずのうちに口の端を吊り上げていた。それはここ数年彼が浮かべたことのない、獲物を見つけた獣のようなかすかな笑みだった。
 父を失い、誰ひとり信じられぬまま皇帝の座に就いてから、瑛心の心は凍てついていた。眠りとは苦痛の同義語であり、夜が来るのが恐ろしかった。政務に没頭することで、己の心を麻痺させてきた。甘えも安らぎも、全て捨て去ったはずだった。
 だが、昨夜の夢は、その凍てついた心に小さな波紋を広げた。
 あの温もりを、もう一度。
 あの声の主を、この手で確かめたい。
 渇望。それは、瑛心が久しく忘れていた感情だった。玉座という孤独な頂で、ただ一人耐え忍ぶ日々。その闇に差し込んだ一条の光。それがたとえどんなに細く、か弱い光であったとしても、今の彼にとっては唯一の希望だった。

「必ず見つけ出す……」

 窓の外では、朝の光が後宮の瑠璃瓦を照らし、きらびやかな一日が始まろうとしていた。妃たちが今日も彼の気を引こうと着飾り、甘い言葉を囁きに来るだろう。だが、瑛心の心は、今はもうその後宮の華やかな花々には向いていなかった。
 彼の心をとらえて離さないのは、まだ見ぬ夢の中の存在。後宮のどこかにいるはずの、かすかな花の香りを纏う、温かい手の持ち主だけだった。
 捜索は静かに、しかし迅速に始まった。
 皇帝の奇妙な勅命は様々な憶測を呼びながらも、確実に尚服局へと迫っていた。瑛心はただ、焦燥にも似た期待を胸に吉報を待った。
 そしてその日の夜もまた、彼は悪夢に沈む。だが、彼の心には昨日までとは違う微かな光が灯っていた。

(今夜も、君は来てくれるだろうか)

 絶望の闇の中で、彼は救いを求めるようにその温もりを待ちわびていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~

ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。 彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。 ――死んだはずの彼女が、生きている? 同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。 「今さら、逃げ道があると思うなよ」 瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。 秘された皇子と、選び直した愛。 三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?    * * * 後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。

最強の騎士団長に嫁いだ偽りの公爵令嬢は、溺愛から逃げられない

花瀬ゆらぎ
恋愛
囚われた弟を救うため、貧民育ちのリーゼは公爵令嬢になりすまし、騎士団長シルヴィオに嫁いだ。 彼女に与えられた任務は、夫を監視すること。 結婚後、新居で待っていたのは、「氷の騎士」と恐れられる無口な夫。 しかし──戦地から帰還した彼は、別人のようにリーゼを溺愛し始めて……!? 「あなたのことを考えない日は一日たりともなかった」 次第にシルヴィオに惹かれていくリーゼ。けれど彼女は知らない。この結婚には、さらなる罠が仕掛けられていることを。 守り守られ真の夫婦を目指す恋愛ファンタジー! ※ヒロインが実家で虐げられるシリアスな展開がありますが、ヒーローによる救済・溺愛へと繋がります。

王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~

石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。 食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。 そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。 しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。 何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。 扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。 小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。

魔王城の清掃係ですが、ラスボスに懐かれて世界を磨くことになりました

由香
恋愛
異世界に転移したら、なぜか魔王城の清掃係に就職していました。 巨大な玉座、血のついた回廊、禍々しい装飾品の数々。 今日も黙々と床を磨いていたら―― 「お前の磨いた床は、よく眠れる」 恐怖の象徴と名高い魔王様に懐かれました。 見た目は完全にラスボス。 中身はちょっと不器用で、独占欲強めの努力型。 勇者は帰還の道を示し、魔王は隣を選べと願う。 光と闇のはざまで、選ぶのは――ただの清掃係。 戦争よりも、まず床。 征服よりも、まず対話。 これは、世界最強の存在に溺愛されながら 世界平和を“足元から”始める物語。 甘くて、少し熱くて、ちゃんと選ぶ恋。

エリート医務官は女騎士を徹底的に甘やかしたい

鳥花風星
恋愛
女騎士であるニーナには、ガイアという専属魔術医務官がいる。エリートであり甘いルックスで令嬢たちからモテモテのガイアだが、なぜか浮いた話はなく、結婚もしていない。ニーナも結婚に興味がなく、ガイアは一緒いにいて気楽な存在だった。 とある日、ニーナはガイアから女避けのために契約結婚を持ちかけられる。ちょっと口うるさいただの専属魔術医務官だと思っていたのに、契約結婚を受け入れた途端にガイアの態度は日に日に甘くなっていく。

「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」

透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。 そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。 最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。 仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕! ---

冷徹宰相様の嫁探し

菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。 その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。 マレーヌは思う。 いやいやいやっ。 私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!? 実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。 (「小説家になろう」でも公開しています)

氷のメイドが辞職を伝えたらご主人様が何度も一緒にお出かけするようになりました

まさかの
恋愛
「結婚しようかと思います」 あまり表情に出ない氷のメイドとして噂されるサラサの一言が家族団欒としていた空気をぶち壊した。 ただそれは田舎に戻って結婚相手を探すというだけのことだった。 それに安心した伯爵の奥様が伯爵家の一人息子のオックスが成人するまでの一年間は残ってほしいという頼みを受け、いつものようにオックスのお世話をするサラサ。 するとどうしてかオックスは真面目に勉強を始め、社会勉強と評してサラサと一緒に何度もお出かけをするようになった。 好みの宝石を聞かれたり、ドレスを着せられたり、さらには何度も自分の好きな料理を食べさせてもらったりしながらも、あくまでも社会勉強と言い続けるオックス。 二人の甘酸っぱい日々と夫婦になるまでの物語。

処理中です...