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第2話「夢の残り香と、皇帝の渇望」
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永い闇が、少しだけ晴れた。
龍瑛心は、重い瞼をゆっくりと押し上げた。天蓋から差し込む朝の光がやけに眩しく感じる。いつもなら悪夢の残滓が全身にまとわりつき、鉛のような疲労感と共に目覚める。心臓は氷水に浸されたように冷え切り、あの日の光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。
だが、今朝は違った。
(……体が、少し軽い)
もちろん、悪夢は見た。燃え盛る宮殿。父の絶命の瞬間。忠臣たちの断末魔。血と炎の匂い。寸分違わぬ、地獄の記憶。
けれど、いつもと決定的に違う点があった。
あの絶望の淵で、誰かがいた。
『大丈夫ですよ。私が、ここにいますから』
温かい声。震えていたが、芯のある優しい響き。そして、冷え切った自分の手を包み込んだ柔らかな温もり。顔も姿も、はっきりとは思い出せない。夢の中の幻だったのかもしれない。だが、その存在は確かに、荒れ狂う悪夢の炎をわずかに凪がせてくれたのだ。
おかげで、ここ数年で初めて、悪夢の続きにうなされることなく夜明けまで眠れた。
「……誰だ」
瑛心は静かにつぶやくと、ゆっくりと体を起こした。寝台の傍らには忠実な側近である高順(コウ・ジュン)が控え、すぐに身支度の準備を始める。
「陛下、おはようございます。今朝は、お顔色が少しよろしいようにお見受けいたします」
高順の言葉に、瑛心は答えなかった。ただ、自分の右手を見つめる。夢の中の温もりが、まだかすかに残っているような気がした。あれは一体何だったのか。自分の心が作り出した、都合の良い幻影か。
いや、違う。何か、確かな手応えがあった。
ふと、瑛心は自分が身に着けている寝間着に目をやった。昨日新調された乳白色の絹の寝間着。袖口に施された見事な龍の刺繍に、ふと指を触れさせる。
その時、かすかな香りが鼻孔をくすぐった。白檀の香りに混じる、甘く清らかな花の香り。そして、陽だまりのような優しい匂い。
(この匂い……)
夢の中で感じた温もりと、どこか通じるものがある。瑛心は眉をひそめた。まさか。
「高順」
「はっ」
「昨日、この寝間着を準備したのは誰だ」
「尚服局の者たちでございますが……何か不備が?」
「いや」
瑛心は短く否定する。
「これを繕った者を突き止めろ。些細なほつれを直しただけでもいい。昨日、この寝間着に触れた者を一人残らず探し出せ」
「は……はぁ。承知いたしました」
高順は主君の意図が読めず、戸惑いの表情を浮かべた。しかし、瑛心の命令は絶対だ。彼はすぐさま一礼し、執務室から下がっていった。
一人残された瑛心は、再び寝間着の袖口を鼻に寄せた。
(この糸と、薬草のような匂い……)
きっと、手がかりはこれだ。夢の中の彼女は、幻ではない。
瑛心は、知らず知らずのうちに口の端を吊り上げていた。それはここ数年彼が浮かべたことのない、獲物を見つけた獣のようなかすかな笑みだった。
父を失い、誰ひとり信じられぬまま皇帝の座に就いてから、瑛心の心は凍てついていた。眠りとは苦痛の同義語であり、夜が来るのが恐ろしかった。政務に没頭することで、己の心を麻痺させてきた。甘えも安らぎも、全て捨て去ったはずだった。
だが、昨夜の夢は、その凍てついた心に小さな波紋を広げた。
あの温もりを、もう一度。
あの声の主を、この手で確かめたい。
渇望。それは、瑛心が久しく忘れていた感情だった。玉座という孤独な頂で、ただ一人耐え忍ぶ日々。その闇に差し込んだ一条の光。それがたとえどんなに細く、か弱い光であったとしても、今の彼にとっては唯一の希望だった。
「必ず見つけ出す……」
窓の外では、朝の光が後宮の瑠璃瓦を照らし、きらびやかな一日が始まろうとしていた。妃たちが今日も彼の気を引こうと着飾り、甘い言葉を囁きに来るだろう。だが、瑛心の心は、今はもうその後宮の華やかな花々には向いていなかった。
彼の心をとらえて離さないのは、まだ見ぬ夢の中の存在。後宮のどこかにいるはずの、かすかな花の香りを纏う、温かい手の持ち主だけだった。
捜索は静かに、しかし迅速に始まった。
皇帝の奇妙な勅命は様々な憶測を呼びながらも、確実に尚服局へと迫っていた。瑛心はただ、焦燥にも似た期待を胸に吉報を待った。
そしてその日の夜もまた、彼は悪夢に沈む。だが、彼の心には昨日までとは違う微かな光が灯っていた。
(今夜も、君は来てくれるだろうか)
絶望の闇の中で、彼は救いを求めるようにその温もりを待ちわびていた。
龍瑛心は、重い瞼をゆっくりと押し上げた。天蓋から差し込む朝の光がやけに眩しく感じる。いつもなら悪夢の残滓が全身にまとわりつき、鉛のような疲労感と共に目覚める。心臓は氷水に浸されたように冷え切り、あの日の光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。
だが、今朝は違った。
(……体が、少し軽い)
もちろん、悪夢は見た。燃え盛る宮殿。父の絶命の瞬間。忠臣たちの断末魔。血と炎の匂い。寸分違わぬ、地獄の記憶。
けれど、いつもと決定的に違う点があった。
あの絶望の淵で、誰かがいた。
『大丈夫ですよ。私が、ここにいますから』
温かい声。震えていたが、芯のある優しい響き。そして、冷え切った自分の手を包み込んだ柔らかな温もり。顔も姿も、はっきりとは思い出せない。夢の中の幻だったのかもしれない。だが、その存在は確かに、荒れ狂う悪夢の炎をわずかに凪がせてくれたのだ。
おかげで、ここ数年で初めて、悪夢の続きにうなされることなく夜明けまで眠れた。
「……誰だ」
瑛心は静かにつぶやくと、ゆっくりと体を起こした。寝台の傍らには忠実な側近である高順(コウ・ジュン)が控え、すぐに身支度の準備を始める。
「陛下、おはようございます。今朝は、お顔色が少しよろしいようにお見受けいたします」
高順の言葉に、瑛心は答えなかった。ただ、自分の右手を見つめる。夢の中の温もりが、まだかすかに残っているような気がした。あれは一体何だったのか。自分の心が作り出した、都合の良い幻影か。
いや、違う。何か、確かな手応えがあった。
ふと、瑛心は自分が身に着けている寝間着に目をやった。昨日新調された乳白色の絹の寝間着。袖口に施された見事な龍の刺繍に、ふと指を触れさせる。
その時、かすかな香りが鼻孔をくすぐった。白檀の香りに混じる、甘く清らかな花の香り。そして、陽だまりのような優しい匂い。
(この匂い……)
夢の中で感じた温もりと、どこか通じるものがある。瑛心は眉をひそめた。まさか。
「高順」
「はっ」
「昨日、この寝間着を準備したのは誰だ」
「尚服局の者たちでございますが……何か不備が?」
「いや」
瑛心は短く否定する。
「これを繕った者を突き止めろ。些細なほつれを直しただけでもいい。昨日、この寝間着に触れた者を一人残らず探し出せ」
「は……はぁ。承知いたしました」
高順は主君の意図が読めず、戸惑いの表情を浮かべた。しかし、瑛心の命令は絶対だ。彼はすぐさま一礼し、執務室から下がっていった。
一人残された瑛心は、再び寝間着の袖口を鼻に寄せた。
(この糸と、薬草のような匂い……)
きっと、手がかりはこれだ。夢の中の彼女は、幻ではない。
瑛心は、知らず知らずのうちに口の端を吊り上げていた。それはここ数年彼が浮かべたことのない、獲物を見つけた獣のようなかすかな笑みだった。
父を失い、誰ひとり信じられぬまま皇帝の座に就いてから、瑛心の心は凍てついていた。眠りとは苦痛の同義語であり、夜が来るのが恐ろしかった。政務に没頭することで、己の心を麻痺させてきた。甘えも安らぎも、全て捨て去ったはずだった。
だが、昨夜の夢は、その凍てついた心に小さな波紋を広げた。
あの温もりを、もう一度。
あの声の主を、この手で確かめたい。
渇望。それは、瑛心が久しく忘れていた感情だった。玉座という孤独な頂で、ただ一人耐え忍ぶ日々。その闇に差し込んだ一条の光。それがたとえどんなに細く、か弱い光であったとしても、今の彼にとっては唯一の希望だった。
「必ず見つけ出す……」
窓の外では、朝の光が後宮の瑠璃瓦を照らし、きらびやかな一日が始まろうとしていた。妃たちが今日も彼の気を引こうと着飾り、甘い言葉を囁きに来るだろう。だが、瑛心の心は、今はもうその後宮の華やかな花々には向いていなかった。
彼の心をとらえて離さないのは、まだ見ぬ夢の中の存在。後宮のどこかにいるはずの、かすかな花の香りを纏う、温かい手の持ち主だけだった。
捜索は静かに、しかし迅速に始まった。
皇帝の奇妙な勅命は様々な憶測を呼びながらも、確実に尚服局へと迫っていた。瑛心はただ、焦燥にも似た期待を胸に吉報を待った。
そしてその日の夜もまた、彼は悪夢に沈む。だが、彼の心には昨日までとは違う微かな光が灯っていた。
(今夜も、君は来てくれるだろうか)
絶望の闇の中で、彼は救いを求めるようにその温もりを待ちわびていた。
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