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しおりを挟む卯の花の門に
-はじまり-
極東に位置する島国、アオイ。
激しく移り変わる厳しい気候でありながらも、それがかえって美しい四季を生み出しているとして世界中から注目されている国だ。
しかし、それだけではない。
世界に先駆けてフェムト技術の実用化を成功させたこの国は、今や生物工学の先進国として人類に貢献している。
極東共同体の盟主にして、新世界秩序評議会加盟国の中でも最も強い発言力を持つ国である。
端的に言うならば、世界の中心国ということだ。
彼はそんな国の、学生という身分を持つ者であった。
学生は、国家から保護対象として教育を受ける生活のすべてを保証されている一方、国家運営への発言権を持たないとされている。(現実には、家門というこの国独自の家族制度から意見を述べることは可能)
しかし、彼はそのような制限を、ある意味気楽な立場だとして受け止めており、不平不満を感じてはいなかった。
国政参加とはいっても、結局は家門の論理に縛られるのである。
彼は常日頃、このように考えている。
自分の家は、新島と呼ばれる氏族のひとつ、瑞樹家の傍系の傍系にあたり、また、自分自身が含まれている世代のグループには頼れるリーダーがいる。
正直、過大な出世欲を持たなければ、世界で最も安心・安全な暮らしは保証されている人生である。(※氏族は、“うじぞく”、“しぞく”、どちらの読みも正解です)
質の高い睡眠から覚めて、
おいしい食事をして、
自分の好きな学問に没頭して、
そして眠りにつく。
家の命じるまま家庭を作り、
子供を産んで、
気がつけば老いて、
やがて永遠の眠りにつく。
自分の運命が見えるようだ。
だけど、冷静に考えるならば、非常に満ち足りた人生とも言える。
四百年前に発生した“大崩壊”以前の生活と比べるならば、これ以上はないほど贅沢な生き方だ。
最近はめっきり会う機会が減ったものの、両親はいつも楽しく過ごしているように見える。
夫婦そろって山を歩いては、地盤から見た環境整備という自分の選んだ役割に、熱心に取り組んでいる。
充実した生活を送っているように見える。
かまってもらった記憶は少ないが、理性的で尊敬できる両親であり、理想の夫婦だ。
そんなことを考える彼は、今では瑞樹の領地内に新しい家をいただき、一人で生活している。
それは、この国では一般的な学生の生活であり、やがて独り立ちするための準備とも言えるだろう。
しかし、今日は特別な日であった。
新島氏主催のイベントとして作られた、家門内の学生たちが集合して行われる講義の日だったのだ。
クラス分けは年齢ごとにされている。
彼の歳では、三ヶ月ごとに一週間が、このイベントに割り当てられている。
高度な通信の整った現代、ひとつの場所に集合するという行為自体をナンセンスと言い切る意見も多い。
事実、同じ年齢の、いわゆる同級生達とは、ことあるごとに様々な手段でコミュニケーションをとっているし、実際に顔を合わせて共有する情報があるわけではない。
しかし、“そこに実在することを意識する”という冗談のような理由で、この集合講義は開催されているのだ。
だけど、やはり同級生と会って話をすることは楽しい。
人生の中でも貴重で有意義な時間を過ごしているように思える。
一緒にスポーツを楽しんだり、このために用意された寮で夜中まで進路について話し合ったりと、それこそ、“そこに実在することを意識する”ことは、小さくても自分の支えになっているような気がした。
友人と冗談を言ってふざけ合ったり、他者のバイタリティを感じることができるのは良い刺激だ。
それは、無意識層通信と呼ばれる遠隔通信では得がたいものなのかもしれない。
このように、大きな責任を感じることもなく、同級生達と楽しく過ごせるのも学生のうちだけだろう。
成人すれば、アオイ国民として、なによりも合理的で冷静な態度が求められる。
同じ年齢の人達と、同じ世代に生まれたからこそ感じる悩みを話し合う機会などなくなってしまうことが簡単に予想できる。
そのような儚い時間を、青春時代と呼ぶのであろう。
そんなことを考えながらも楽しく同級生と過ごしていれば、一週間のスケジュールなんて、あっという間に終わってしまっていた。
明日のグループミーティングが終わったら、みんなそれぞれの家族が所属する領地に戻るのだ。
「また明日な」
何人もの同級生がそう言い合って寮に帰っていった。
一人の同級生が彼の肩を軽く叩いて教室から立ち去る。
彼もそれに手を振って応えた。
教室とは言っても彼らの集まっている場所は、まるで森林の中の開けた場所のように見える。
一見すると屋外だ。
生徒達は、好きな場所に机と椅子を生成して講義を受けている。
教師は政府から派遣された役人が担当しており、講義の内容は主に国際情勢についてとなる。
四百年前の過ちを繰り返さないようにすることは、全人類共通の悲願であり、世界の中心となるアオイは、その責任を担っているとも言えるだろう。
しかし、彼には、そんな世界の行く末など、どこか別の出来事のように感じられた。
それぐらい、空は青く、優しい風が通り過ぎる。
木漏れ日に抱かれているような心地よさがありながらも、そこは紛れもなく室内だった。
山と同等の大きさを持つ建築物の内部に、彼らの教室は存在している。
もっとも、その光景は屋内というより、開けた屋外を思わせるものだった。
文明の進歩によってアーキロジーは発展し、ビルディングという概念そのものが変質していた。
この世界において、都市とはすなわち、巨大な建築物を指す言葉なのだ。
教室から寮へと向かう帰路もまた、その建築物の内部にある。
視界に広がる風景は屋外と変わらず、距離も決して短くはない。
だが彼らは、その移動を苦としない。
この国の人間は、そうした環境を前提に肉体そのものが調整されているのだから。
外国には、移動そのものを完全に自動化している国もあるという。
だが彼は、機械補助によって生活の質を高める方法よりも、この国が選んだ、肉体強化による問題へのアプローチのほうに、どこか“趣”を感じていた。
そうした思想そのものが、世界最高峰の生物工学を擁する国として、この国が国際社会で主導的な立場を保っている理由ではないか。
そう考えるからだ。
『よし』
心の中で区切りをつけ、彼も寮へ戻る支度を始めた。
強靱な肉体を持つ彼にとって、移動距離は問題ではない。
他国よりも高い生産力を持つとされるこの国の人間として、考慮すべきなのは時間だけだ。
もっとも、その移動時間さえも、意識を並列化し、複数に割り当てればいいだけのことなのだが。
彼は、手を振って帰って行った同級生とは別の、自分の寮に戻る準備を始めた。
愛用のトートバッグに小さなナビ端末を入れる。
手のひらにすっぽりと収まる大きさの情報機器だ。
今や通信に端末を利用するアオイ国民は少ない。地表の無意識層と呼ばれる大気レイヤーにあるプロトコルを利用して人々は会話可能だからだ。
政府の情報ソースや特定の相手との会話は、便宜上チャンネルと呼んでいる相手の意思を、脳内で掴むことができれば可能となる。
場所や相手の状態による制限はあるものの、このようなことから、ほぼ都市内で過ごすこの国の国民にとって、荷物を持たずに生活することは当たり前となりつつある。
鞄を持つのは、彼のような物好きか、外国人だけではないかと感じるほどだ。
彼は、帰り道の林道に用意されているベンチで、“文字”による文学を楽しむのが日課だったのだ。
そのために端末が必要ということである。
結局、物語は脳が処理する。
文字という一手間になにかしらの合理性はない。
だが、すでに科学技術はほぼ頂点に達していると考えられており、歴史を振り返っても、人類の進歩は鈍化していると考えるのが一般的だ。
少なくとも人類が炎を手に取ったような爆発的な革新は、もはや望めないだろう。
このようなことから、科学へのアプローチは、いまや専門家だけのものではなく、人類全体の関心事であり、役割と言える。
彼は、物語が好きであるという純粋な気持ちと同様に、文学的視点からの社会への貢献を考えていたのだ。
『バイタルは今日も良好』
なにも気負うことのない気持ちの彼が、椅子から腰を上げようとしたまさにその瞬間、声がかけられた。
当然、そこに人がいること、歩いてこちらに向かってきていることには気付いていた。
しかし、今や人類に天敵などいようものか。
この国の環境で甘やかされている身の彼は、この完全に安全な世界で、警戒など意識する必要もなかったのだ。
ちょっとまわりとは生体サインが違うけど気になどしない。
だから声をかけられて驚いた。
自分に用事のある人間とは思わなかったからだ。
「霧雨くん」
彼は、声がかけられた方に振り向いた。
間違いなく自分の名前である。
『霧雨クロガネ』が、両親にもらった彼の名前であった。
この国では、夫婦に子供が産まれれば、一族の有力者に名付けを頼むことがほとんどではあるが、彼の両親は自ら子供の命名をしたのだ。
ただ、この程度は異端とは言われない。『そうなんだ』程度のことだ。
しかし、同級生たちは彼を霧雨とは呼ばない。
霧雨という名前は、彼の最小単位の家族を表すものであり、同級生達から彼は、霧雨家が属する一族名である『瑞樹』と呼ばれている。
彼が併せて驚いたのは、その点である。
国民のほぼ全員が、なんらかの家門に属しているこの国に於いて、最小単位の家族名で呼ぶことは、ちょっと特別なニュアンスを持つ。
ましてや家格に関係なく、年齢だけを基準としたこの集合講義の場では、瑞樹と呼ばれるくらいが丁度いい距離と感じられるのだ。
このようなことから、彼が霧雨と呼ばれるのは、瑞樹の領地のひとつである地元だけだったのだ。
だから霧雨と名字で呼ばれることは誤りではないものの、この場ではふさわしくないもののように感じたのだ。
間違いなんかじゃない。
でも、そんな風に呼ばれるのは久しぶりだったのだ。
霧雨家の人々は、彼を『クロ』と呼ぶし。
自分の名前に対して、関心が薄れていたのではないかという疑問が湧いた。
呼びかけられた声の主を見て、彼は『なるほど』と思った。
凜と通った声の持ち主は、この国には本来存在しないブロンドの髪と青い瞳の少女だったからだ。
自分の黒い髪や茶色の瞳とは、なぜか対照的に見えた。
同じ歳の同級生に間違いはない。
講義の中で、わずかではあるが会話をした記憶もある。
彼女は同化政策による“アイアール法”によって、外国から移住してきた少女だった。
近づいてきた人に覚えた違和感の正体はこれであったのかと思い至る。
自分を含めた同級生たちとは違う生体信号、共通であるはずの生体フォーマットが異なる違和感である。
もちろん、遺伝的ルーツが異なるとはいえ、今は間違いなくアオイ国民である。
元外国人であっても、国民としての権利は完全に保証されている。
ただ、多文化尊重の観点から、生体情報の書き換えは行われていない。
これが生体信号の異なる理由だ。
「えっと……」
クロは彼女からの呼びかけに対して、
正しく返答ができなかった。
突然同級生の女子に声をかけられて、ちょっと情けない声が出てしまった。
恥ずかしい。
地元では、幼少時に一族の年上女性に面倒を見てもらっていたし、現在進行形で年下の女の子の相手をさせられることも多い。
だが、同族以外の女性とやりとりする機会なんて、いままでほとんどなかった。
いや、皆無だったのだ。
星の裏側にも飛んでいけるような時代に、結局は狭い世界で生涯を過ごす者がほとんどだ。
彼もそのひとりであるはずだった。
だったのだが?
彼は同じ年齢の少女にぶつけられた視線を外してしまう。
「ラーヴェンブルクさん?」
彼女の名前を呼び返すことで精一杯だ。
会話など続けられそうもない。正直つらい。
目の前の背筋の伸びた存在を、本当はなんと呼べばいいのかもわからない。
机に視線を落としてしまう。
普段、同級生の女子とは仲良くしている。
女の子と親密になることに、あまり関心はないが、避けるようなことはない。
それが学生なりの社交術というものだ。
だけど、一対一の対話となると、途端に何を話せばいいのかわからなくなる。
楽しい会話じゃなくて、無難な単語を選択してしまう。
「霧雨くん。少しいいかな?」
完璧な発音のアオイ語なのに、なぜか通商用語の発音に聞こえる。
彼女の見た目に引っ張られた、先入観によるものだ。
彼女、同級生である、
『ラーヴェンブルク・マルガレーテ』は、
彼の座る椅子の真横まで近付いた。
とても整った容姿を持つ少女だ。
白く輝く金髪に青い瞳。でも無表情。愛想なし。
冷たく感じるが、それを含めても端整な顔立ちだ。
小顔で手足がすらりと長く、スタイルに非の打ち所がない。
敢えて、どうしてもと考えるのであれば、大きな胸のサイズが体型に対して不釣り合いに感じるくらいだ。
人体造形に関わるノイゲシュタルトの流行は、百年ほど前にはじまり、すぐに終わったと言われている。
だから、この容姿は、両親から自然な形で受け継がれた遺伝情報によるものだろう。
クロは、彼女を美しいと感じることで、自分の中の美意識が、すっかり西洋かぶれしていると思い知らされた。
外国にルーツを持つ人を美しいと感じるなんて……
いや、あんまり関係ないか。
その通りだ。現在であってもなくても、美意識とは個人のものであり、遺伝や文化的背景とは別問題である。
しかも、現在は世界各国で人種的分類は意味をなさなくなってきている。
同化政策によるアイアール法なる恐るべき国際法の存在でもわかるだろう。
好みとは、個人の持ち物であって、誰かに肯定や否定される筋合いのもんなんかじゃない。
四百年前に、人類が自らの手で行ったリセットは、洋の東西すら曖昧にした。
いま、ようやく四百年かけて、人は、自分たちの形を元の姿に戻しつつあるのだ。
それは、復元なのだろうか。それとも退化か。
分けたいのかくっつけたいのか。偉い人たちの考えはわからん。
それがクロの率直な気持ちだった。
だが、それ以上の理由がある。
この国では、百年前にノイゲシュタルトという流行があった。
このため、整った容姿の価値が、それ以前に比べて大きく薄らいでいる。
この国の婚姻は、ほぼ家門の都合という利害によるものであり、美しいことよりも自然であることの方が好ましいという価値観のパラダイムシフトが起こっていたからだ。
椅子に座ったまま、頭を切り替えて、クロは顔を上げた。
大きな胸が邪魔だけど、高い位置の腰上から発せられる、彼女の青い視線と対決する。
表情が読めない。
本当に無愛想な奴。早く会話を打ち切りたい。
そんなクロの思惑とは裏腹に、マルガレーテは本題に入った。
「来週の日曜日は予定がないって、本当ですか?」
端的であり事務的だ。
でも非常にわかりやすく、クロはかえって好感を持つ。
男女の会話としては物足りない。
だけど、そんな会話を求めていないので丁度良い。
クロは極めてストレートな言葉を使用する彼女に、
『こんな話し方をする人だったのか』と感じながらも、その真意を測りかねていた。
同級生の会話に、こんな風な言葉を選んでもいいんだという驚きもあった。
さっき友達とした会話を聞かれていたのだと思う。
彼女の言うとおり、
明後日の日曜ではなく、来週の日曜日のこと。
その休日は、久しぶりに両親と顔を合わせる日であったのだが、父親の都合により予定がキャンセルになったのだ。
せっかくだし、料理でも研究して過ごそうか。
あるいはのんびりと読書に耽る。なんて、過ごし方もよいだろう。
そう考えていたのだ。
クロは、『用事がある』と嘘を言って、誤魔化してしまいたい衝動に駆られたが、聞かれていたのであれば仕方ない。
そこまで大胆でも大人ではない。
「うん。そうだけど」
今では同じ国籍の少女に、しぶしぶ肯定するほかなかった。
面倒な素振りでも見せればよかったか。と、後悔もちょっぴりあり。
「じゃあ」
マルガレーテが口を開く。
「水族館に行きたいのだけど、一緒に行ってくれませんか?」
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