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しおりを挟むなんだか、上だか下だか右だか左だかよくわからない誘いにクロは困惑した。
まったく予想外のことだ。
ただ思い当たることが、あるにはある。
この政府直轄領には、世界的に有名な水族館が存在する。
その広大な敷地は陸地のみならず洋上にまで拡張されており、海洋や水質に関する数多くの研究機関が併設されている。
環境問題を扱う国際会議の会場としても利用されるほど、学術的にも重要な拠点らしい。
「いいけど」
と、ちょっと引き気味にクロが答えると、彼女の瞳が少し揺れたように見えた。
見えた。
けど、
気のせいかもしれない。
なんだかよくわからないままだが、クロは『女に惑わされる男なんて、時代錯誤も甚だしい。そんな感情、おっかさんの腹の中に捨ててきた』とか、自分自身に強がって見せることにした。
心の中だけで。
まあ、そういう心持ちで同じ歳の女性と向き合おうと決心したのだ。
「じゃあ、詳細はスケジューラーで」
とまで言ってから、クロは、彼女の情報パターンが自分とは別フォーマットであることを思い出した。
面倒だけど、新鮮でもある。
たぶん、彼の家格では、一生涯、国籍(出身国)の違いを意識することなどないはずだ。
同じ家柄の人と会話して、同じ家柄の人と付き合って、生涯を終える。そんな感じ。
漠然とそんな人生を想像をしていたし、その通りの道を歩むだろうと信じていた。
クロはトートバッグから、さっき入れたばかりのナビ端末を取り出して、彼女に差し出した。
「同期してくれないか」
マルガレーテは、彼から差し出された手のひらで握ることのできるサイズの円柱型端末を受け取り、その表面に右手親指を少しだけ強く押しつけた。
音も光も振動もないが、クリーム色の円柱型端末を通じて、スケジュールを同期できる程度の個人情報がクロに開示される。
「これ」
彼女はナビ端末を見詰めている。
ナビ端末を持ち歩いている人は今では多くはないが、だからといって珍しいものでもない。
それなのに、彼女はナビ端末を見詰め続けている。
そこでクロは、
『ちょっと馴れ馴れしかったかな?』
と、初めて個人的な会話をする少女に対して、個人情報の開示を要求したことを後悔した。
送り込まれてきたのは、本当に最低限の情報だったのだが、なんだか自分がナンパ男になったような気がして、嫌な気分になる。
「どうかした?」
クロはそう発音したが、心の中では『早く返せよ』と呟いていた。
このような感情の機微が伝わる呼吸をしていない。
突然デートに誘われただけの同級生の間柄に過ぎないのだ。
――む?
――むむ?
――むむむ?
雷にうたれたような衝撃で事実を思い知らされる。そう、これは紛うことなきデートの誘いだ。
こんなこと現実にあるのか?
クロは、この事態をにわかには信じられない。
恋は楽しむものであると考えている一般的なアオイ国民にとって、デートへの誘いとは、男があれこれと策を講じてプランを提示し、女がその価値を認めて初めて成立する。
――本来、そういう構図であるはずだ。
やはり根は外国人だから、そのようなセオリーが通じないのだろうか。
それとも、そんな考えこそが時代錯誤なのだろうか。
混乱しながらも、
自分の既成観念が崩れていく様は面白い。
なーんて考えが、頭をよぎる。
「本を読むの?」
マルガレーテは伝わるはずもないクロの『早く返せよ』に反応するように、彼の手のひらにナビ端末を置いて、そう尋ねた。
通常、読書とは、脳内への情報入力だ。
クロのように、ナビ端末を使用して三次元投影で文字を読む行為は非効率である。
だけど現代は、そんな酔狂な真似にこそ価値があるとも考えられている。
物質的な贅沢を極めたアオイの国民が、次に求めるのは、精神的な満足度であることは自然な流れであろう。
この国の民は、もはや生産活動に人生を追われない。
いかに文化的で伝統的な価値観の中で楽しみを見いだすのか。
それが人生の探求であると考えられている。
だからである。
このような正々堂々真正面からのデートへの誘いは情緒に響かない。
もっと回りくどく、ひねりまくって、
『こいつは一本取られたぜ』と思わせるような技巧が望まれている。
そうは言っても、特定の女性と交際はおろか、一緒に出かけたこともないクロには、駆け引きの中に生まれる摩擦を味わう余裕などない。
なんといってもまだ学生の少年だ。
これくらいまっすぐに言ってもらえたほうが誤解がないというものだ。
彼女が姿勢を変えたため、下から見上げるアングルでは見えなかった、大きな胸に隠れていた首元のリボンが姿を現す。恥ずかしそうにはしていない。
クロも同級生達も、男子はシンプルな白いドレスシャツを着ている。
たとえ建前だとしても、この場は、年齢によるカテゴリ分けだけがすべてであり、家格や一族を意識させるような紋はつけないのが慣例だ。
共有データベースを検索すれば、すべてわかってしまうとしてもだ。
だが、少年少女は、家柄による区別は学生生活には不要と本音で考えていて、家格による区別などは、この場にふさわしくないものという価値観を共有していた。
だけど、そのような事情とは別に、マルガレーテは、いわゆる学生服を着ていた。
女子には、学生服のデザインは“かわいい”という共通認識があるらしく、割と好意的に着用されている。私服と学生服の着用率は半々といったところか。
そのようなことから、クロにとって、同級生女子の学生服姿は、別に珍しいものではないはずなのに、彼女が西洋人ということもあってか、当たり前が逆に珍しいなんて不思議な感覚が湧いた。
襟付きシャツの首元にリボン。チェック柄のスカートと、上にはブレザーを羽織っている。
大きな胸で歪んでしまっているエンブレムは、きっと政府が用意した同化国民のグループマークであろう。
調べたらすぐわかりそうだけど、そんなことに興味はない。
遺伝情報も国籍も、書き換え可能な現代において、重要なのは、やはり本人だ。
彼の目の前には、ミニスカートから伸びた黒タイツの脚がまっすぐに並んでいる。
すっごく長い。
クロと彼女は同じくらいの身長に見える。
あるいは、彼女の方が少し背が高いかもしれない。
クロの身長は百八十二センチメートル。
マルガレーテが大きいのではなく、クロが男子平均からかなり低い。
彼女は女性平均か、やや大きい程度に見える。
でも、そんなことよりも、腰の位置がすごく高いと感じる。
同級生女子と比べて。もちろん自分と比べても、だ。
「読むよ」
自分でもがっかりするくらいの単純な返答をしてしまった。
同じ歳の少女の質問に対して、差し障りなく返事もできない自分が情けない。
だけど、それは知識や経験の足りなさだけではない。
クロは自分でも気付いていないが、そのような意識がないのだ。
女の子にもてたい。良く思われたい。
スマートに見られたいという、そんな欲求がないからだ。
自称文学少年が聞いて呆れる。
彼にとって文学とは、作法の追求でしかないのかもしれない。
だが、このとき、自分の気持ちを正しく理解できていなかった彼は、親戚以外の女性とも上手に接する父を思い出し、実は男として偉大なのではないか、などと的外れなことを考えていた。
だが、すぐに思い直す。
父は常に自然体なだけだ。あのコミュニケーション能力は努力ではなく天性のものだろう。
そう考えると、“偉大”という評価は少し大げさな気がした。
「じゃあ、私も持っていくね」
それだけを残して、彼女はクロの前から立ち去る。
大きな胸が回れ右して、黒タイツの足が、森の中のように見える教室を歩いて行く。
おそらく自然素材で作られているであろうローファーが、ぎゅっぎゅっと地面を握る音を立てながら、土の上を進んでいった。
結果、彼女は言いたいことだけ言って勝手に帰って行った感じになっちゃったけど、クロにムカつく気持ちはなく、どちらかと言えば、解放されたような気分だった。
会話が盛り上がったり、そのまま一緒に寮まで帰ったりといったイベントは発生しない。
現実なんてそんなもんだ。
そもそも寮の場所が違うと思うから、一緒に帰るなんてあり得ないことだけど。
そこは『送っていくべきだ』という発想がクロには出ない。
クロは我に返ると、帰り支度を再開させ、自分も寮へ帰ることにした。
突然同級生の女子からデートに誘われたという事実。
学生時代を彩るパートナーを求めるあまりの妄想ではないようだ。
そもそも淡い性の目覚めはあっても、彼女が欲しいと思ったことなんてないし。
では、この現実をどのように受け止めればよいのだろうか。
彼女が自分を誘ったのは、どのような理由からだろうか。
なぜ、自分のような特徴もないような男がデートに誘われたのであろうか。
わからないことだらけ。
なんらかの目立つ行動をとってしまっていたのか。それは自分の望むことではない。
消極的な性格だという意味ではない。
彼のような家格の人間は、悪目立ちすることがあれば、日々の生活に直結するような問題に発展する可能性があったからだ。
帰り支度を終えたクロは、自分の行動に改めるべきことがあるのかを考えながら寮に歩いて帰った。
途中、ベンチでゆっくりと読書を楽しむという今週の日課を忘れてしまうほど考え込んでいた。
ストレスだ。
他人と接することは愉快なことにつながるけど、他人と関わると面倒だ。
そう思った。
そして、何事もなく次の日も終わり、同級生達と直接顔を合わす一週間は、今回もあっけなく終わる。また三ヶ月後。バイバイ。
次の一週間は、準備期間という名の人脈を広げる期間。
家に帰るまでの準備なんてホントはない。炊事洗濯食事、現代の家事は、文字通り全自動化されているし、それらは必要だからすることではなく、楽しみたいからすることに変化していた。
まとめる荷物もない。ようするに、この準備期間は、政府直轄領内のいろいろな施設をまわったり、大人と議論したり、名前と顔を覚えてもらう活動期間のことだ。
ただ、霧雨家には、それほど重要なポストがまわってくることもないだろうし、興味のあることだけを考えていればいいという状態は、クロにとっては気楽なことだ。同級生のように、自分の能力がどれほど国家に貢献できるかを各種機関にアピールする必要はそれほどない。
地元で暮らしていくことを受け入れるならば、家格が低くても不便を強いられることはない。蔑まれたり、蚊帳の外に置かれたりすることもない。
新島という枠の中で、瑞樹の人間として自分の人生をまっとうさえすれば、家門からはよくやったと評価されるだろう。
実際、家格の低さを事実と受け止めてもコンプレックスに感じたことなどないし、それで悔しい思いをしたことなど一度もない。
そんな中、クロは開示されたマルガレーテの情報の中に身長の項目もあり、見てよいのか悪いのか。見るべきか見るべきでないかで、大いなる葛藤を続けていた。
でも見ちゃった。
身長、百八十二センチメートル。
あ、俺と同じだったんだ。腰の位置に惑わされた!
そうして、約束の日曜日がそれなりの速度で接近してきたのであった。
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