最愛の人の幸せが私の幸せ【完】

mako

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令嬢たちの序列と視線

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婚約発表から数日後。
 モルディアン王宮では、今期最後の夜会が開催されようとしていた。

 今宵は、冬の入り口に差しかかる「暁の舞踏会」と呼ばれる格式高い夜会。
 舞踏会そのものの華やかさもさることながら、社交界においては、若き令嬢たちが次代の王妃候補としてどれだけの“品格”を持っているかを、貴族たちが静かに見定める場でもあった。

 その会場の中央、黄金色のシャンデリアが照らす大理石の床にて、
 貴族令嬢たちは色とりどりのドレスに身を包み、優雅に舞い踊っていた。

 ――だが、注目の的は一人だけだった。

 「まぁ……あれが“あの方”なのね」

 「ほんとうに、あのリディアンネ・フランク?」

 「うそみたい。壁の花って噂だったのに……」

 ささやく声が、風に乗って会場のあちこちから漂う。

 王太子ハインツの「婚約者」となった公爵令嬢、リディアンネ・フランク。

 もともと名家の出ではあるが、社交界ではさして目立たない存在だった彼女が、今や“王妃候補”として中央に呼び寄せられたことに、令嬢たちは動揺を隠せずにいた。

 けれど当の本人――リディアンネは、至っていつも通りだった。

 過剰な飾りのない、深紅のドレスに身を包み、遠くから王太子の姿をそっと見守るようにしているだけ。
 王太子の隣に立つことも、周囲に誇示するようなそぶりも見せず、ただ静かに、そこに在る。

 (……やっぱり、私はここに立つ器じゃないわ)

 心のどこかでそう呟くリディアンネは、周囲の視線すらも“通り過ぎる風”のように受け止めていた。

 それでも――そんな彼女の姿が、逆に他の令嬢たちを刺激していた。

 その中に、特に鋭い眼差しを光らせていたのが―― 侯爵令嬢・カトリーナ・ノイマン

 鮮やかな紺青のドレスを身にまとい、背筋をぴんと張った立ち姿は、まさに“絵になる令嬢”そのもの。
 社交界では既に注目の的であり、何より王太子妃の座を狙う“本命”と目されていた存在だった。

 (……あの娘が、王太子の婚約者?)

 カトリーナは、リディアンネの物静かな立ち居振る舞いを観察しながら、グラスを傾けた。

 (悪くないわね……いえ、むしろ――)

 何かを仕掛けるには「打ってつけ」とでも言いたげな笑みが、彼女の口元に浮かんだ。

 その数歩隣で、無邪気に笑っていたのは――
 伯爵令嬢・ミレイユ・シュタイン

 栗色の巻き髪と淡いピンクのドレスを揺らしながら、どこか夢見がちな表情でリディアンネを見つめていた。

 「うわぁ……綺麗な人……」

 ミレイユは、他の令嬢たちのような嫉妬や計算を抱えていなかった。むしろ、リディアンネの“寂しげな強さ”に惹かれ、興味を持ち始めていた。その日の夜会が終盤に差しかかったころ、カトリーナは静かにリディアンネの前に歩み寄った。

 「ごきげんよう、公爵令嬢リディアンネ・フランク様。お会いできて光栄ですわ」

 リディアンネは、その声に気づき、微笑みを返す。

 「……ごきげんよう、カトリーナ・ノイマン様」

 二人の令嬢が対峙した瞬間、周囲の空気がピリリと張り詰める。それは、静かなる“試合開始”の合図のようでもあった。

そしてその様子を、少し離れた場所から見つめていたのが――ファビウス。

彼は王太子の隣に控えつつ、会場の空気の一つ一つを、まるで冷静な棋士のように読み取っていた。

 (……彼女は、きっと、知らぬうちに踏み込んでしまったのだ。この、美しくも冷たい“社交という戦場”に)

リディアンネの横顔に、どこか“壊れそうな強さ”を見たそのとき、ファビウスの胸に、小さな痛みが生まれたのだった。



夜会が終わった翌日、リディアンネは王宮内の小さな離宮へと招かれていた。そこは「婚約者」という立場にある者だけが招かれる、ごく限られた特別な空間――

だが、それは形式上のことにすぎず、リディアンネ自身は深く意味を受け止めるつもりもなかった。その控えめな部屋で、彼女は今日もまた、静かに紅茶を口にしていた。カップの中に浮かぶ小さな泡を見つめながら、ぼんやりと昨日の夜会のことを思い返していた。

(……カトリーナ様)

昨夜、堂々とした態度で声をかけてきたあの令嬢の目には、明確な意志が宿っていた。
強さ。自信。野心。――そして、競争心。

それはリディアンネのような“後ろに立つ存在”とは対照的な、「前に出る者の光」だった。

(やっぱり、私なんかじゃ……)

リディアンネはそっと目を伏せた。この婚約がどれだけ「形式」にすぎないとわかっていても、彼女の中にうっすらとした不安の影が差していくのを、止めることはできなかった。

 
一方そのころ――

 
王太子ハインツは、執務室の窓際で報告書を眺めていた。だが、ページをめくる手は、どこか鈍く、目線も虚ろだった。

(……リディアンネ)

ふと、彼の脳裏をよぎったのは、昨夜の夜会での彼女の姿だった。中央に立つでもなく、他の令嬢たちのように会話を交わすでもなく、ただ静かに、時折、こちらを見つめていたその瞳。
それはまるで、「何も求めないまなざし」だった。

(……ああいう視線で見られることは、今までなかったな)

そう思った瞬間、マリアの笑顔が重なった。
彼女はいつも、何かを求める目で彼を見ていた。

 
愛情ではない――
どこか、「確証」や「証明」を欲しがるような、貪るような眼差し。

(マリア……本当に、君は……)

確かに、マリアといるときの空気は心地よいものだった。彼女はよく笑い、よく甘え、王太子である自分から“王子様”という虚飾を引き出してくれた。

だが最近――何かが違う。

 
笑顔の裏にある期待。距離を詰めようとする手。
たびたび口にする「正妃になりたい」という言葉。それらが、ハインツの心に、少しずつ重くのしかかり始めていた。

「殿下。失礼いたします」

重々しい扉の向こうから聞こえたのは、ファビウスの低い声だった。彼は書類の束を抱えて入室し、王太子の机に静かにそれを置く。

「昨夜の夜会の記録と、貴族会からの報告書です」


「ありがとう。……ファビウス、昨日のリディアンネをどう見た?」

唐突な問いに、ファビウスは一瞬だけ眉を動かした。

「……率直に申し上げれば、殿下が選んだ理由が、ようやく少しだけ理解できました」


「……理由?」

 
「彼女は、騒がぬ者です。求めず、誇らず、けれど――消えていない」


その言葉に、ハインツは目を細めた。

「……消えていない、か。妙な表現だな」


「ですが、正確です。彼女は“空気のような存在”ではありません。静かで、目立たない。けれど確かにそこにいる。……まるで――重石のように、静かに支える者です」


ファビウスはそれだけ言い、少しだけ視線を落とした。彼は自分の言葉に、私情が混じり始めていることに気づいていた。

 
(リディアンネ様は……不憫な方だ)

そして同時に、その「不憫さ」が、なぜか心に引っかかるのだった。

 

午後になり、リディアンネは小さな温室へと足を運んだ。そこは公爵家の娘たちが育てるために整備された花園で、リディアンネにとっては唯一“人目を気にせず呼吸できる場所”でもあった。

 
庭の奥で、彼女は花弁に手を伸ばしたとき――

「まぁ、ごきげんよう、リディアンネ様」

甘く柔らかな声が響いた。

振り返ると、そこにいたのは伯爵令嬢――ミレイユ・シュタインだった。

「あなた様と、お話してみたかったのです」

リディアンネは、少し戸惑いながらも微笑んだ。

「……わたくしも、驚いております。こうして、話しかけてくださる方がいらっしゃるなんて」

ミレイユはくすくすと笑った。

「皆、ちょっと嫉妬してるだけですよ。だって……王太子殿下のお隣に立つのが、あなた様なのですから」

 
リディアンネの目が、ほんの少しだけ揺れた。

 
「わたくしは……ただの“お飾り”です。殿下の心は、きっと別の方に……」


「でも、“お飾り”として振る舞えることが、どれほど強さの要ることか……あなたは、分かっていらっしゃるのでしょう?」


ミレイユはそう言って、彼女の手をそっと取った。

「だから私は、あなたとお話がしたかったのです。わたくし……あなたのようになれたらいいのにって、思いましたの」

 
その言葉が、リディアンネの胸に、初めて“灯”のようなものを残した。

(わたしにも、こうして――そばにいてくれる方が……)

小さな希望。
 
それはまだ「恋」ではない。でも確かに、「孤独」ではなかった。



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