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間之一 誠の橋を渡さばや
一
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能楽堂の演能予定を見てみても、『船橋』はどこにもなかった。近年では上演されることも少なくなった演目なのだから、当然なのか。一度見てみたいと思ったのにと嘆息して、それから吉彰はおとなしくスマートフォンをポケットの中に放り込んだ。
講義が始まる前の大教室の中は、騒がしい。顔を上げて前を見れば知った顔があって、彼に軽く手を挙げて自分の居場所を主張した。大教室の中の騒がしさなどまるでないものとしているような涼しい顔の彼は、吉彰に気付いて階段を上がってくる。
「蒼雪、『船橋』って舞ったことあるか?」
「何だよ藪から棒に」
隣の席に座った彼に問えば、姫烏頭蒼雪は少しばかり怪訝そうな顔をした。
普段はにこりともしない、楽しそうな顔もしない蒼雪だが、こういう顔はする。普段は冷めたというか、冷淡というか、そういう形容が正しい整った顔が表情を形作っているのを見ると、吉彰はいつも「蒼雪も人間だったなあ」という気持ちになるのだ。
とはいえ、それを口にしたことはない。言われたところで当人が気にするかは別だとしても、それを口に出すべきではないことは吉彰も分かっている。
「いや、ちょっと」
蒼雪は能楽師の息子なのだと聞いている。彼自身も舞台に立ったことはあるらしく、それもあって吉彰は彼に水を向けたのだ。
「俺はない」
「そっか」
とはいえ、彼もまた『船橋』は舞っていないらしい。そもそも上演が少ないのだから、彼が稽古をする機会もないのかもしれない。
「どう思う?」
「『船橋』を、か?」
「ああ」
それでも演目は知っているだろう、彼の意見を聞いてみたかった。
大学に入って最初に友人になったのは、『能楽』が間にある。吉彰は単純に興味があるからだが、蒼雪は身近にあったものだ。だからこそ蒼雪は、吉彰の知らないことも知っているし、彼なりの解釈も持っている。
「……恋は、罪なんだろうな」
「恋が、罪?」
「時代背景的にそうだろう。今時の恋愛結婚だとか、そういうものじゃない。当時の結婚は家の繋がりを強固にして社会を護るものだ。ならばそれに反する恋は、罪だろう?」
今の時代は、そうそう恋が罪になることはない。もちろん既に誰かと付き合っているとか既婚者とか、相手による部分もあるが、だからといって恋そのものが現代において罪になることは、基本的にはない。
けれど、かつては。
ムラ社会という言葉がある。人々は『ムラ』という一つのまとまりを作り、それで社会を形成していた。そしてその社会の中にある単位のひとつが『家』であり、その家同士の繋がりが社会にとって重要であったのもまた事実。
であれば結婚とは、その『家』と『家』を繋ぐものだった。今はそういうものが薄れているからこそ忘れてしまうが、当時の認識で過去の事例は見なければならない。
「だから、『船橋』の男は殺された?」
「そういうことだ」
恋は。その心は。親に反するものは。
それは確かに、罪なのだ。どれだけ当人たちが訴えたところで、罪は罪。親とて認めるわけにはいかないのは、子ども可愛さに赦してやれないのは、親とてその社会の一員としてそこにいるからだ。
その恋のために、社会を飛び出すことはできない。そうなったが最後、待っているのはその家の終わり。
「確か『船橋』のシテとツレの家は、関係性が良くないはずだ」
「ロミオとジュリエットみたいな?」
「そうなる。社会の破壊につながる恋は、邪淫の罪。『船橋』はそういう話だろう」
誰も、赦してはやれない。歓迎もしてやれない。
社会というものは、共同体だ。誰か一人の勝手を赦せば、その共同体は崩壊する。結婚という社会を護る手段を取れないのならば、その社会はその家を護らない。
「歓迎されない恋は、周囲を巻き込んで破滅するからな。今でも」
「何でお前そんなに実感籠もってるんだよ」
「さあな」
その声音に感情が見えた気がして問いかけてみたが、蒼雪は否定も肯定もしなかった。ただほんの少しだけ肩を竦めた彼の瞳に、ひどく冷たいものが横たわっていたような、そんな気がする。
「家の意向に逆らう恋は、罪だ。そして『船橋』のツレの親は、社会を護るためにシテを殺した。だから、シテは自分を殺した相手を一切恨めないんだろうよ」
本当ならば殺した相手を恨むだろう。どうして殺したのだと、そう言って。
けれどそれは、殺された方に何の咎もない時だけなのだ。別に人を殺すことを肯定するつもりはないし、それが取っていい手段だとも思わない。けれど、恨むことができるのかということへの答えは、それしかなかった。
自分には、罪がある。それは、社会を破壊しようとしたことだ。『家』ごと社会から放り出されて、『家』を潰えさせることだ。
「自分のその恋は、罪である。その自覚があったんじゃないか、あの男」
教授がやってきて、講義が始まった。吉彰も蒼雪も講義中に勝手な話をするようなことはなく、それきり『船橋』の話は終わりになる。
けれど、講義を聞きながらもぐるぐると考えてしまう。
その恋は罪だった。邪淫の罪と呼ばれるほどのものだった。だから女の家に通う途上にあった船橋の橋板を外されて、男は真っ逆さまに橋の下。
そうか。だから、橋柱なのか。男は罪を犯し、社会を崩壊させかけた。だからこそ男を贄として、再度社会を存続させようとした。そう考えれば、その行為の理由は分かる。そして男は罪を自覚していたからこそ、自分を殺した、女の親に恨みを述べない。
あるいは――あるいは、あの男は、もうそれしか自分の恋を終わらせる方法がないとも思っていたのか。死ねば気持ちは消えていく、そのはずだった。けれどその気持ちは死んでも消えることはなく、地獄で責め苦を受けている。
平松遼は、どうだったのだろう。
晴季は彼の亡霊はいなかったと言っていた。ならば亡霊は、どこへ消えてしまったのだろう。何も心残りがないというのなら、あんな遺書を書いたりするものなのか。ならば彼が恨んでいるのは、恋人の親か、それとも。
そうだとするのなら、亡霊の、行く先は。
講義が始まる前の大教室の中は、騒がしい。顔を上げて前を見れば知った顔があって、彼に軽く手を挙げて自分の居場所を主張した。大教室の中の騒がしさなどまるでないものとしているような涼しい顔の彼は、吉彰に気付いて階段を上がってくる。
「蒼雪、『船橋』って舞ったことあるか?」
「何だよ藪から棒に」
隣の席に座った彼に問えば、姫烏頭蒼雪は少しばかり怪訝そうな顔をした。
普段はにこりともしない、楽しそうな顔もしない蒼雪だが、こういう顔はする。普段は冷めたというか、冷淡というか、そういう形容が正しい整った顔が表情を形作っているのを見ると、吉彰はいつも「蒼雪も人間だったなあ」という気持ちになるのだ。
とはいえ、それを口にしたことはない。言われたところで当人が気にするかは別だとしても、それを口に出すべきではないことは吉彰も分かっている。
「いや、ちょっと」
蒼雪は能楽師の息子なのだと聞いている。彼自身も舞台に立ったことはあるらしく、それもあって吉彰は彼に水を向けたのだ。
「俺はない」
「そっか」
とはいえ、彼もまた『船橋』は舞っていないらしい。そもそも上演が少ないのだから、彼が稽古をする機会もないのかもしれない。
「どう思う?」
「『船橋』を、か?」
「ああ」
それでも演目は知っているだろう、彼の意見を聞いてみたかった。
大学に入って最初に友人になったのは、『能楽』が間にある。吉彰は単純に興味があるからだが、蒼雪は身近にあったものだ。だからこそ蒼雪は、吉彰の知らないことも知っているし、彼なりの解釈も持っている。
「……恋は、罪なんだろうな」
「恋が、罪?」
「時代背景的にそうだろう。今時の恋愛結婚だとか、そういうものじゃない。当時の結婚は家の繋がりを強固にして社会を護るものだ。ならばそれに反する恋は、罪だろう?」
今の時代は、そうそう恋が罪になることはない。もちろん既に誰かと付き合っているとか既婚者とか、相手による部分もあるが、だからといって恋そのものが現代において罪になることは、基本的にはない。
けれど、かつては。
ムラ社会という言葉がある。人々は『ムラ』という一つのまとまりを作り、それで社会を形成していた。そしてその社会の中にある単位のひとつが『家』であり、その家同士の繋がりが社会にとって重要であったのもまた事実。
であれば結婚とは、その『家』と『家』を繋ぐものだった。今はそういうものが薄れているからこそ忘れてしまうが、当時の認識で過去の事例は見なければならない。
「だから、『船橋』の男は殺された?」
「そういうことだ」
恋は。その心は。親に反するものは。
それは確かに、罪なのだ。どれだけ当人たちが訴えたところで、罪は罪。親とて認めるわけにはいかないのは、子ども可愛さに赦してやれないのは、親とてその社会の一員としてそこにいるからだ。
その恋のために、社会を飛び出すことはできない。そうなったが最後、待っているのはその家の終わり。
「確か『船橋』のシテとツレの家は、関係性が良くないはずだ」
「ロミオとジュリエットみたいな?」
「そうなる。社会の破壊につながる恋は、邪淫の罪。『船橋』はそういう話だろう」
誰も、赦してはやれない。歓迎もしてやれない。
社会というものは、共同体だ。誰か一人の勝手を赦せば、その共同体は崩壊する。結婚という社会を護る手段を取れないのならば、その社会はその家を護らない。
「歓迎されない恋は、周囲を巻き込んで破滅するからな。今でも」
「何でお前そんなに実感籠もってるんだよ」
「さあな」
その声音に感情が見えた気がして問いかけてみたが、蒼雪は否定も肯定もしなかった。ただほんの少しだけ肩を竦めた彼の瞳に、ひどく冷たいものが横たわっていたような、そんな気がする。
「家の意向に逆らう恋は、罪だ。そして『船橋』のツレの親は、社会を護るためにシテを殺した。だから、シテは自分を殺した相手を一切恨めないんだろうよ」
本当ならば殺した相手を恨むだろう。どうして殺したのだと、そう言って。
けれどそれは、殺された方に何の咎もない時だけなのだ。別に人を殺すことを肯定するつもりはないし、それが取っていい手段だとも思わない。けれど、恨むことができるのかということへの答えは、それしかなかった。
自分には、罪がある。それは、社会を破壊しようとしたことだ。『家』ごと社会から放り出されて、『家』を潰えさせることだ。
「自分のその恋は、罪である。その自覚があったんじゃないか、あの男」
教授がやってきて、講義が始まった。吉彰も蒼雪も講義中に勝手な話をするようなことはなく、それきり『船橋』の話は終わりになる。
けれど、講義を聞きながらもぐるぐると考えてしまう。
その恋は罪だった。邪淫の罪と呼ばれるほどのものだった。だから女の家に通う途上にあった船橋の橋板を外されて、男は真っ逆さまに橋の下。
そうか。だから、橋柱なのか。男は罪を犯し、社会を崩壊させかけた。だからこそ男を贄として、再度社会を存続させようとした。そう考えれば、その行為の理由は分かる。そして男は罪を自覚していたからこそ、自分を殺した、女の親に恨みを述べない。
あるいは――あるいは、あの男は、もうそれしか自分の恋を終わらせる方法がないとも思っていたのか。死ねば気持ちは消えていく、そのはずだった。けれどその気持ちは死んでも消えることはなく、地獄で責め苦を受けている。
平松遼は、どうだったのだろう。
晴季は彼の亡霊はいなかったと言っていた。ならば亡霊は、どこへ消えてしまったのだろう。何も心残りがないというのなら、あんな遺書を書いたりするものなのか。ならば彼が恨んでいるのは、恋人の親か、それとも。
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