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見つめてハニー【見蜂】
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夕立が上がった後に差す西日。それが照らし出した、きらきらと輝く鳶色の目は蜂蜜のような色をしていた。
見つめてハニー
「お先に失礼します」
蜂谷隆治が定時に仕事を終えると、車通勤で電車の時間を気にしなくて良い同僚たちは手を振って見送ってくれた。八月の五時は、夏至よりは日が短いが、それでもまだ窓の外は明るかった。
エレベーターホールで、自分よりも先に退出していた別の同僚を見て声を掛ける。
「見浦さん、お疲れ様です」
蜂谷が声を掛けると、見浦康成は驚いたように振り返った。
「お疲れ様です」
小さく呟く。見浦がそっけないのは、今に始まったことではなくて、大雑把な蜂谷はそれをさほど気にしていなかった。中には無愛想だの可愛げがないだの言う社員もいるが、特別悪態を吐いてくることがなければ別に良いと思う。ちゃんと目を見て話してくれるし。それに蜂谷のつまらない冗談にも笑ってくれる。
だから、と言うわけではないが、蜂谷は見浦と話すことが多かった。会社の中では、誰よりも彼に詳しいという自負がある。実は酒があまり得意ではないとか、でも酒のあてになるようなものは好きなのだとか、どこのドラッグストアでシャンプーを買うだとか、そんな他愛のない話の延長で得る知識。
知ってるからなんだ、という話だ。仕事には何の役にも立たないけれど、少なくとも彼を身近に感じることはできる。人間は集団の生き物だから。
蜂谷が見浦と話すようになるから、彼への言伝などを頼まれる。そうしてまた見浦と話す。それの繰り返しだった。
見浦のことが好きだ。良い人だと思う。冗談を聞いて笑う時に、軽く握った拳で口元を覆う姿とか、その時目尻に寄る皺だとか、「ふふ」と小さく漏らす声だとか、何だか陽だまりみたいな人だ。こんなに良い人なのに、恋人はいないらしい。奥さんと二人で、地味ながらも堅実に暮らしていそうなものだけれど。
などとつらつら考えていると、エレベーターが来た。箱の中で、疲れましたね、とかなんとか世間話。最寄駅まで一緒に歩くこともある。今日もそうなりそうだ。
「一雨来そうですね」
見浦が空を見て呟いた。確かに、空には真っ黒な雲が一面を埋め尽くすように掛かっている。雷も落ちそうな気がする。自然早足になるが、夏の気まぐれはもっと早かった。逃れようとする人たちを見て、天邪鬼を発揮したのかもしれない。
ざっ、と雨粒が強く叩きつけられた。夏の出勤なんてシャツ一枚で、その薄い布越しに感じる乱打は痛みすら覚える。
「わっ、降ってきた」
「蜂谷さん、こっち」
見浦が手招きして、屋根のある歩道に連れて行ってくれた。バタバタバタと、すぐ上にある屋根で雨が行き止まりになっている音がした。そうかと思えば、両端から滝のように水が垂れてくる。
このまま止まなかったらどうなるんだろう。こんな大雨が降る度に、蜂谷はそんな不安を少しだけ感じる。実際、大雨による冠水被害は報じられているが、彼の不安はそう言うリアルなものではなくて、子供が感じる非現実的な不安に近い。ずっと家に帰れないのかな。
「すぐ止みますよ」
そんな自分の不安を見透かしたかの様に、見浦が言った。
「そうですよね」
彼が言う通り、自分がそんなわけないと思った通り、雨はすぐに止んだ。通り雨だったらしい。傘を買うために飛び込んだのだろう、コンビニから新品のビニール傘を持って出てきた男性が唖然として空を見ていた。
「良かった」
どちらともなく、また駅に向かって歩き出す。ずぶ濡れの歩道で、同じく濡れた光沢を放つマンホールを踏んで、蜂谷の足が滑った。
「わっ」
「おっと」
転びそうになって手を突こうとしたその時、腰に手が回った。誰の? 見浦の手に決まっている。
すみません、ありがとうございます。そう言おうとして、思わず彼の顔を見た。
西日が差している。その光が、見浦の顔を照らしていた。自然光で陰影の付いた表情は、美しい。
何よりも、気にしたことがなかった瞳の色。日本人なら黒いと思っていたその目は、澄んだ鳶色をしていた。
(知らなかった)
社内で一番彼のことを知っていると思っていたのに。目の色までは知らなかった。
陽光に照らされたその瞳は、蜂蜜みたいにきらきらとしている。なんて綺麗なんだろう。この世にこんな綺麗なものがあるなんて。
けれど、それと同時に、瞳の中にある相手の感情が、嫌でもわかってしまった。目は口ほどに、物を言う。
蜂谷に恋している瞳だった。
(ああ)
悪い気は全然しなかった。むしろ、酔いしれてしまいそう。なんて美しい。瞳と感情の間に均整が取れていて、その表情は一つの不快も蜂谷に与えなかった。
「すみません」
やがて、見浦は手を離した。すごく長い時間、そうしてもらっていたように感じていたけれど、実際にはほんの数秒の出来事だ。
その間に、蜂谷の心はすっかりその瞳に囚われてしまっていて。
「いえ、ありがとうございます」
照れた様な笑みがこぼれてしまった。
もしかしたら、思い過ごしかもしれない。今ので一目惚れしてしまったのは自分の方なのかもしれないし。
でも嬉しかった。
二人は何事もなかったかのように駅の改札を潜り、反対方向の電車に乗るため、そこで別れた。
好きな人との帰り道は緊張する。見浦にとって、社内で一番親しく、そのために一番恋しくなってしまった、つまり片想いの相手である蜂谷との帰り道は。駅までのたった僅かな道のり。そこまで自然に振る舞うのが難しい。
通り雨で一緒に雨宿りをすることになって、軒下で待っていると、蜂谷は自分以上にそわそわしていた。天幕の端から舗道に叩き付けられる水を見ている。
「すぐ止みますよ」
ノアの方舟みたいな雨だから不安なのかもしれない。言ってから、お節介だったかな、と思っていると、彼は少し安心した顔で、
「そうですよね」
笑ってくれて良かったと思う。
雨が止んで、夏の色をした西日が出ると、二人はまた駅に向かって歩き始めた。すぐに、蜂谷がマンホールで滑る。
「わっ」
「おっと」
咄嗟に手が出てしまった。好きだからとか関係なくて、人間として。隣で転びそうになった人を助けない理由ってあんまりない。
腰を抱いて支えると、顔を上げた蜂谷と目が合った。
(ああ)
長い睫毛に陽光が反射しているのが見える。その中の目が、じっと自分の目を見ていた。なんだかこちらの目に何か書いてあるのを読んでいるみたいだった。
知られてしまったことを確信した。
「すみません」
諸々のことを含めて詫びて、手を離すと、
「いえ、ありがとうございます」
はにかんだように笑った。
この気持ちもいつか冷めてしまうのだろう。冷めてしまえと思っていた。けれど、その笑顔を見てしまうともう駄目だった。きっと見浦からこの想いは手放せない。
改札を通って、別れてから、輝く睫毛に縁取られた目。そこに浮かぶ透き通った鼈甲みたいな瞳を、ずっと反芻していた。
見つめてハニー
「お先に失礼します」
蜂谷隆治が定時に仕事を終えると、車通勤で電車の時間を気にしなくて良い同僚たちは手を振って見送ってくれた。八月の五時は、夏至よりは日が短いが、それでもまだ窓の外は明るかった。
エレベーターホールで、自分よりも先に退出していた別の同僚を見て声を掛ける。
「見浦さん、お疲れ様です」
蜂谷が声を掛けると、見浦康成は驚いたように振り返った。
「お疲れ様です」
小さく呟く。見浦がそっけないのは、今に始まったことではなくて、大雑把な蜂谷はそれをさほど気にしていなかった。中には無愛想だの可愛げがないだの言う社員もいるが、特別悪態を吐いてくることがなければ別に良いと思う。ちゃんと目を見て話してくれるし。それに蜂谷のつまらない冗談にも笑ってくれる。
だから、と言うわけではないが、蜂谷は見浦と話すことが多かった。会社の中では、誰よりも彼に詳しいという自負がある。実は酒があまり得意ではないとか、でも酒のあてになるようなものは好きなのだとか、どこのドラッグストアでシャンプーを買うだとか、そんな他愛のない話の延長で得る知識。
知ってるからなんだ、という話だ。仕事には何の役にも立たないけれど、少なくとも彼を身近に感じることはできる。人間は集団の生き物だから。
蜂谷が見浦と話すようになるから、彼への言伝などを頼まれる。そうしてまた見浦と話す。それの繰り返しだった。
見浦のことが好きだ。良い人だと思う。冗談を聞いて笑う時に、軽く握った拳で口元を覆う姿とか、その時目尻に寄る皺だとか、「ふふ」と小さく漏らす声だとか、何だか陽だまりみたいな人だ。こんなに良い人なのに、恋人はいないらしい。奥さんと二人で、地味ながらも堅実に暮らしていそうなものだけれど。
などとつらつら考えていると、エレベーターが来た。箱の中で、疲れましたね、とかなんとか世間話。最寄駅まで一緒に歩くこともある。今日もそうなりそうだ。
「一雨来そうですね」
見浦が空を見て呟いた。確かに、空には真っ黒な雲が一面を埋め尽くすように掛かっている。雷も落ちそうな気がする。自然早足になるが、夏の気まぐれはもっと早かった。逃れようとする人たちを見て、天邪鬼を発揮したのかもしれない。
ざっ、と雨粒が強く叩きつけられた。夏の出勤なんてシャツ一枚で、その薄い布越しに感じる乱打は痛みすら覚える。
「わっ、降ってきた」
「蜂谷さん、こっち」
見浦が手招きして、屋根のある歩道に連れて行ってくれた。バタバタバタと、すぐ上にある屋根で雨が行き止まりになっている音がした。そうかと思えば、両端から滝のように水が垂れてくる。
このまま止まなかったらどうなるんだろう。こんな大雨が降る度に、蜂谷はそんな不安を少しだけ感じる。実際、大雨による冠水被害は報じられているが、彼の不安はそう言うリアルなものではなくて、子供が感じる非現実的な不安に近い。ずっと家に帰れないのかな。
「すぐ止みますよ」
そんな自分の不安を見透かしたかの様に、見浦が言った。
「そうですよね」
彼が言う通り、自分がそんなわけないと思った通り、雨はすぐに止んだ。通り雨だったらしい。傘を買うために飛び込んだのだろう、コンビニから新品のビニール傘を持って出てきた男性が唖然として空を見ていた。
「良かった」
どちらともなく、また駅に向かって歩き出す。ずぶ濡れの歩道で、同じく濡れた光沢を放つマンホールを踏んで、蜂谷の足が滑った。
「わっ」
「おっと」
転びそうになって手を突こうとしたその時、腰に手が回った。誰の? 見浦の手に決まっている。
すみません、ありがとうございます。そう言おうとして、思わず彼の顔を見た。
西日が差している。その光が、見浦の顔を照らしていた。自然光で陰影の付いた表情は、美しい。
何よりも、気にしたことがなかった瞳の色。日本人なら黒いと思っていたその目は、澄んだ鳶色をしていた。
(知らなかった)
社内で一番彼のことを知っていると思っていたのに。目の色までは知らなかった。
陽光に照らされたその瞳は、蜂蜜みたいにきらきらとしている。なんて綺麗なんだろう。この世にこんな綺麗なものがあるなんて。
けれど、それと同時に、瞳の中にある相手の感情が、嫌でもわかってしまった。目は口ほどに、物を言う。
蜂谷に恋している瞳だった。
(ああ)
悪い気は全然しなかった。むしろ、酔いしれてしまいそう。なんて美しい。瞳と感情の間に均整が取れていて、その表情は一つの不快も蜂谷に与えなかった。
「すみません」
やがて、見浦は手を離した。すごく長い時間、そうしてもらっていたように感じていたけれど、実際にはほんの数秒の出来事だ。
その間に、蜂谷の心はすっかりその瞳に囚われてしまっていて。
「いえ、ありがとうございます」
照れた様な笑みがこぼれてしまった。
もしかしたら、思い過ごしかもしれない。今ので一目惚れしてしまったのは自分の方なのかもしれないし。
でも嬉しかった。
二人は何事もなかったかのように駅の改札を潜り、反対方向の電車に乗るため、そこで別れた。
好きな人との帰り道は緊張する。見浦にとって、社内で一番親しく、そのために一番恋しくなってしまった、つまり片想いの相手である蜂谷との帰り道は。駅までのたった僅かな道のり。そこまで自然に振る舞うのが難しい。
通り雨で一緒に雨宿りをすることになって、軒下で待っていると、蜂谷は自分以上にそわそわしていた。天幕の端から舗道に叩き付けられる水を見ている。
「すぐ止みますよ」
ノアの方舟みたいな雨だから不安なのかもしれない。言ってから、お節介だったかな、と思っていると、彼は少し安心した顔で、
「そうですよね」
笑ってくれて良かったと思う。
雨が止んで、夏の色をした西日が出ると、二人はまた駅に向かって歩き始めた。すぐに、蜂谷がマンホールで滑る。
「わっ」
「おっと」
咄嗟に手が出てしまった。好きだからとか関係なくて、人間として。隣で転びそうになった人を助けない理由ってあんまりない。
腰を抱いて支えると、顔を上げた蜂谷と目が合った。
(ああ)
長い睫毛に陽光が反射しているのが見える。その中の目が、じっと自分の目を見ていた。なんだかこちらの目に何か書いてあるのを読んでいるみたいだった。
知られてしまったことを確信した。
「すみません」
諸々のことを含めて詫びて、手を離すと、
「いえ、ありがとうございます」
はにかんだように笑った。
この気持ちもいつか冷めてしまうのだろう。冷めてしまえと思っていた。けれど、その笑顔を見てしまうともう駄目だった。きっと見浦からこの想いは手放せない。
改札を通って、別れてから、輝く睫毛に縁取られた目。そこに浮かぶ透き通った鼈甲みたいな瞳を、ずっと反芻していた。
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