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烙印の口付け【狐嫁】

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 僕は母に似ている、と父はよく言った。
 僕は笑うと父に似ている、と母はよく言った。

 高校三年で父が亡くなった時、笑う理由がなかった僕は、葬儀では母の隣に、似たような表情で座っているしかなかった。



 告別式の日はよく晴れていた。次々と弔問客が来て、別れを告げていく。学生時代の友人、勤め先の同期、同僚、上司……。
「あら」
 母が窓の外を見て、小さく呟いた。
「狐の嫁入り……」
 葬式の日に嫁入りもへったくれもないだろうと思ったけれど、確かに窓の外は太陽が出ていながらも、さあっ、と密やかな音を立てて雨が降っていた。天気雨だ。いつものことだがすぐに止んだ。それと同時に、会場が少しざわめく。
 黄褐色の髪の毛をした、僕より少し年上……大学生くらいの男性がふらりと入ってきたからだ。細い身体に、黒い着物をだらしなく纏った彼は、音もなく焼香台に近寄ると、適当な焼香をしてしばらく立っていた。
「お友達?」
 母はあろうことか、僕にそんなことを聞く。そんなわけない。僕は思わず、強く首を横に振ってしまった。
 彼はちらりとこちらを見た。僕と目が合うと、何故か眉を上げてこちらを睨んでくる。まったく知らない顔だった。少し吊り気味の目で狐を思わせる。その鋭い目が、僕の瞳に突き刺さった。奥まで届きそうな勢いで。僕は慌てて目を逸らした。
「知ってる人?」
 母は再度尋ねた。友達でなくても、知人だと思ったらしい。僕はまた首を横に振った。



 火葬場で、母が泣きながらスイッチを押す。お骨拾いまでの時間で昼食を済ませると、僕は呼ばれるまで火葬場の敷地内をブラブラと歩くことにした。ガサ、と音がして、振り返ると、植え込みの中に狐がいた。
 東京にも狐がいるのか。僕は少し距離を取った。父は生前、「狐を見ても絶対近寄るな」と僕にきつく言い渡していた。寄生虫がいるから、と言うのがその理由だ。取り返しの付かないことになるからと。少し調べて、怖くなった僕はその教えを守るつもりでいたが、そもそも東京に狐はほとんどいない。動物として可愛いとは思うけど。
 僕は狐から距離を取った。ガサガサと草の揺れる音。向こうも逃げたかな、と思ったその時、唐突に手首を掴まれて、僕は悲鳴を上げかけた。振り返ると……あの吊り目の彼がいた。明るい茶色の目で、僕をじっと見ている。
「お前、紀幸のりゆきの子か?」
 紀幸とは父の事だ。はい、と答えそうになったが、知らない奴に素性を明かす必要はない。
「離してください。あなたは誰ですか?」
 僕は手を振り払おうとするが、ガッチリと掴むその手は人間離れした力で、びくともしない。
「離さない。俺は裏山の狐だ」
「裏山……?」
 僕が住んでいる住宅街の近くには小さな山がある。ちゃんとした名前は別にあるのだが、皆「裏山」と呼んでいた。そう言えば、稲荷神社がある、と言う話は聞いていて、父はそこにも絶対近づくなと僕に言っていたが……。
 助けを求めようと辺りを見て、誰もいないことに落胆しながら彼に視線を戻すと、その頭に狐の耳が生えていることに気付いて僕は愕然とした。尻尾もある。さっきまではなかった……と思う。
「これで信じたか」
「何の御用ですか?」
「お前の父親と約束したんだよ」
「何をですか?」
「お前を嫁としてもらい受けると」
 何を言っているんだこいつ。その目が据わっていて、僕は怖くなった。
「あいつがまだお前くらいの年齢の時」
 聞いてもないのに相手は話し始めた。
「俺があいつを気に入って嫁にもらいたいと言った。あいつは了承した」
 それまでの間に一体何があったのだろう、と思ったが、興味を持っていると思われるのも嫌で僕は黙っていた。なんとか逃げ出せないかと思ったけれど、向こうがしっかりと僕の手首を握っているものだから、難しい。
 猛烈に嫌だった。知らない奴に濃く、深い感情が向けられることほど不愉快なことはない。僕を嫁にもらい受けると言いながら、その目にある感情は明らかに「負」だ。
「でも、あいつは人間の嫁をめとったな」
 彼はぎろりと僕の顔を見た。
「お前、あの女にそっくりだな」
 今までの人生で何回も言われた。あなたはお母さん似だと。
「母さんが憎いって言うのか」
「憎いがあいつと約束した。妻は殺さないで欲しいと。その代わり、もうすぐ生まれる俺の息子が大きくなったら嫁にやるからと」
 何て勝手な約束を……僕は父親の無責任っぷりに頭がくらくらする思いだ。いや、待てよ……。
(最初、あなた女の子だと思われていて……)
 そうだ。だから最初「美幸」と書いて「みゆき」と名前を付けようとしていたそうなのだが、生まれたら男だったのだ。姓名判断で付けていたらしく、画数の問題でそのまま字だけ横流しして「よしゆき」にした……、と言う話を聞いたことがある。
(つまり、父さんは女の子が生まれると思ってたから……)
 それで性別を限定した約束をしたのか。何てことだ。父さんは慌てていたことだろう。狐には近づくなと言っていたのはそれか。

「俺はそれでもあいつが諦められなかった」
 狐は言った。
「なんとか俺と契れないかと、機会を待っていたんだ。でも、あいつは俺を置いて死んでしまった。約束は約束だ」
「父さんが置いていったのはあなただけじゃないです」
 反射的に、そんな言葉が口を突いて出る。彼は一瞬だけ驚いた顔になって、目を逸らした。
「そんな約束……父さんが好きなのに、別に似てもない僕と結婚する理由、ないでしょう」
「俺たちは約束に縛られる。人間は約束を破るかもしれないが、俺たちはそうもいかない」
 腕を強く引かれた。
「もうお前は俺のものだし、俺もお前のものになる」
 唇が強く押しつけられる。義務のような、儀式のような口付けで。
 彼は本当に、僕のことが好きでも何でもないのだと確信した。

 逃げることもできず、僕はただ烙印の様なそれを受け止めているしかなかった。
 空は憎たらしいほど晴れていて、もう雨が降る気配はない。
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