散った桜は何処へいく ~失った愛に復活はあるのか~

mizuno sei

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9 与える愛と奪う愛

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 《真由香視点》

 病室の窓からは、ライトアップされたレインボーブリッジを遠くに見ることが出来た。
その窓の向こうの夕景を眺めながら、ベッドの上のまだ四十の半ばにはなっていない、やつれた顔の女性が独り言のようにつぶやいた。
「もう、母さんのことはいいから、自分と、優衣ちゃんのために時間を使いなさい」

 その女性とよく似た顔立ちの、娘とおぼしきまだ若い女性は、窓と反対側の椅子に座っていた。
「別に、何もすることなんてないから┅┅優衣もお母さんに会うのを楽しみにしてるし、お母さんが気にすることないわ」
 膝の上で眠っている二歳の我が子を見ながら、娘が言う。

 小さなすすり泣きが聞こえ始め、母親が背を向けて体を震わせていた。
「お母さん┅┅」
「┅┅ごめんね┅┅ううっ┅┅ごめんね、真由ちゃん┅┅う、うう┅┅」

 もう何度目だろうか。母親は、会うたびに娘に謝り、娘は謝る必要が無いことを母親に説明する。しかし、母親の後悔の念は晴れることはなかった。娘はその日も小さなため息をついて、病室を後にした。

 帰りの車が渋滞に掛かって、なかなか前に進まない。今の彼女の心のように┅┅。未来に夢を描いていた日は遠く去り、ただ、一人娘のために生きる日々。もちろん、それも一つの人生だとわかっている。だけど、その人生に迷いも無く一歩踏み出すためには、過去を清算する必要があった。

 今でも、彼女は自分の選択が最善だったと信じている。しかし、母親が今でも後悔にさいなまれ、自身も愛した人を裏切った自責の念は深まることはあっても、消える日は一生来ないことも事実だった。あの頃は、自分一人が不幸になっても、母親と愛する人を守れるならいいのだと、無理矢理自分を納得させていた。だが、今になって、少しずつ分かってきたことがある。それは、自分の悲しみは、周囲の愛する人にとっても悲しみなのだということ。

だから、真由香は努めて悲しくないように振る舞った。強く生きていこうと頑張った。しかし、真由香は自分が少しも前に進めていないことも知っていた。前に進むためには、やはり、もう一度、過去にけじめをつけなければならなかった、彼に会って┅┅。

 彼女は自分への戒めを破り、過去の思い出の中に沈んでゆく。彼女が紫門真由香ではなく、小野真由香だったころへ┅┅。

 それは、四年前、彼女が鹿島優士郎と付き合い始めて一年半が過ぎた、一月の寒い日だった。家に帰ると、パートに出ているはずの母親がいて、男の来客と話をしていた。客の男は眼鏡をかけ、にこやかな表情で真由香に挨拶したが、彼女はなんとなく嫌な感じを受けた。真由香はその日もいつものようにバイトに出かけたので、その後のことは何も知らなかった。
 その夜、真由香は母親から、都心に近い場所にスナックを開くという話を聞かされた。スナックのオーナーが田舎に引き上げるので、後を引き継いでくれる人を探していたそうだ。とにかく場所が良く、値段も格安で、月々売り上げの十五パーセントを賃貸料として払ってくれればよいという好条件だった。甘い話には罠がある、のは世の常だ。しかし、病弱な自分のために苦労をさせている娘に、何とか楽しい青春時代を過ごさせてやりたいという思いが、その警戒心を踏み越えさせた。

 やがて、一ヶ月も待たず、恐れていた事態が襲いかかってきた。今考えると、それは周到に計画されたものだったのだろう。元のオーナーは実は多額の借金があり、真由香の母親とのオーナー契約が成立したら、借金は後のオーナーが引き継ぐという契約を借金先と交わしていたのだ。後で、母が契約書を詳しく見てみると、実に巧妙な言葉でそのことだと匂わせる文言が確かに入っていた。

 借金先というのが、誰あろう紫龍がオーナーの民間金融会社だった。最初の取り立てにやって来たのは、いかにもその筋の人とわかる黒スーツにサングラスの男だった。その男にさんざん脅されながらも、母親と偶然学校が休みで、デートに出かけようとしていた真由香は、自分たちには金が無いこと、詐欺まがいの手口なので警察に相談しようと思っていることなどを繰り返し訴えて、なんとか追い返した。その三日後、二人の元へ別の男が現れた。それが紫龍との初めての出会いだった。

 紫龍は優しかった。今思えば、最初から真由香が狙いだったのだろう。最初の取り立てに来た男から、真由香の美貌について聞き、興味を持ったに違いない。
 彼は、母親と真由香の訴えを親身になって聞き、同情を示した。そして、条件を一つだけ受け入れてくれたら、借金はすべて帳消しにすると言った。その条件とは、向こう三年間、真由香が紫龍が望むときに、望む方法で慰めるというものだった。

 母親は最初、娘を売ることなどできないと強く拒んだ。しかし、真由香は逆に母親をこう言って説得した。
「大丈夫よ、お母さん。三年間どんな目に合っても、心はあの人以外には渡さない。あの人もきっと分かってくれるから」
 それで、とうとう説得に負けて、母親は泣く泣く娘が紫龍の慰め物になることを承諾したのだった。
 
 以来、一週間に一日の割合で、紫龍は真由香と過ごすようになった。真由香といるときの紫龍は、甘えん坊の子供のようだった。そして、自分が在日韓国人として、いかに差別に苦しみ、つらい子供時代を過ごしたかを語って聞かせた。
 もともと子供好きで、愛情深い性質の真由香は、次第に紫龍に心を許し、惹かれていった。やがて、紫龍は時折、強引に真由香の唇を奪うようになった。その頃、まだ優士郎にキスを許していなかった真由香は、後ろめたい気持ちに悩んだが、一番大切な心は守るという気持ちに支えられていた。

 しかし、真由香はやはり、以前のままの彼女ではなかった。その変化に、実は心が繊細な優士郎が気づかないはずはなかった。それでも、優士郎は変わりなく真由香と接し、たくさんの思い出と優しさと愛情をくれた。あの日までは┅┅。

「ママ┅┅おうちにはまだ着かないの?」
 娘の声が、ふいに真由香を現実に引き戻した。
「目が覚めちゃった?ふふ┅┅もうすぐ着くからね。おしっこは大丈夫?」
「うん、大丈夫┅┅」
 優衣はそう答えると、また母親の膝の上に頭をことりとのせて眠り始める。
 娘の髪をそっと撫でながら、真由香は再び切ない思い出の海に沈んでいく。
 
 あの日は、三月の初め、ひな祭りの次の日だった。
 優士郎から、公園で待っているというメッセージをもらって、居酒屋のバイト先から急ぎ足で公園に向かった。前日は優士郎の用事で一日会えなかったので、会えるのがうれしかった。実は、真由香はまだ気づいていなかったが、もうこのとき、彼女の胎内には紫龍との赤ちゃんが宿っていて、一ヶ月になろうとしていた。
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