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続編

戦後編

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  その後 ~帝国の変革~ 1


 ベルナールの〝英雄〟と呼ぶにふさわしい活躍によって、戦争に終止符が打たれた頃、まだそのことを知らないルートたち民兵団は、帝国軍に占領された街を解放するための戦いを続けていた。
 1つ目のエイシュンの街を解放した後、2つ目のセイホウの街の近くに移動した民兵団は、森の中にキャンプを設営して、さっそく攻略のための作戦を話し合っていた。

「今回も、エイシュンの時と同じ、基本は小隊に分かれての潜入、城門の確保でいいだろう」
 ルートの言葉に、ジークとリーナ、20人の代表者たちは全員頷いた。

「ああ、そうだな。尋問した敵兵の話だと、ここも1個中隊約200人が守備にあたっているらしい。こっちも前回と同じ8小隊96人でいいんじゃないか?」
 ジークが指揮官としての考えを述べた。

「ええっと、いいか?」
 手を挙げたのは冒険者たちの代表の1人、コービス・ワイズだ。

「今回はもっと精鋭を選りすぐって、少なくした方がいいと思うんだ。というのは、前回、いくつかの小隊で、ついて来れないというか、経験が少ない者たちがかなり入っていて、作戦の進行が遅れたって聞いたからな」
 ワイズの言葉に、何人かのリーダーたちが同意の声を上げて頷いた。

「うん、分かった。じゃあ、そうしよう。今回は8人から10人の小隊を8つ作る。冒険者の代表者たちは、さっそく人選に入ってくれ。ジークとリーナでその確認をいいかい?
 後の代表者たちは作戦内容をグループに伝えて、いつでも城門から突入できる準備をしてくれ」
「「「「了解っ」」」」
話し合いは短時間で終わり、各自がそれぞれの役目に散っていく。

 街に籠城した敵を倒すのは難しい。なぜなら、街の住民が人質になっているからだ。まともに攻めても落とせないことはないが、街に火をつけられたり、住民を殺すと脅されたら、引き下がらざるを得ない。
 こういう時に役に立つのは、冒険者たちだ。ダンジョンや魔物の住処、盗賊団のアジトなどの攻略に慣れている彼らは、夜の闇に紛れて、城壁を越え、音もなく見張りの兵士たちを倒しながら、城門を開くことができる。敵の本隊が気づいたときには、すでに民兵団1000人が周囲を万全に包囲しているという具合だ。
 前のエイシュンの時は、この作戦が見事にはまって、敵の中隊をまるまる捕虜にし、こちらはケガ人が数名という、驚異的な成功を収めていた。

 ルートたちは交代で仮眠をとりながら、暗くなるのを待った。
 ところが、日が沈む前にユーリンから伝令の兵士がルートもとへやって来たのだった。

「なるほど……それで僕にユーリンへ来いということですね?」
 ルートの問いに、伝令の兵士が頷く。
「はっ。ガルニア候はブロワー殿に早く来て欲しいと」
「分かりました。急いで支度をして参りますと伝えてください」

 兵士が去ると、ルートはジークとリーナを呼んで事情を説明した。
「そうか、向こうも何か大きな作戦をやろうってことだな。しかたないな、こっちにもルートがいてくれないと、いろいろ困るんだが……」
 ジークの言葉に、リーナは真剣な顔で頷いた。
「うん、街を全部解放できたら、敵を挟み撃ちできる。それまで待ってくれればいいのに」

「うん、リーナの言う通りなんだよね。でも、もしかすると急がなければいけない事情があるのかもしれない。まあ、とにかく行ってみるよ」
 ルートの言葉に、2人はしぶしぶ頷いた。

 ところが、ルートが今後の作戦をジークたちに伝えている所へ、再びユーリンからの伝令が来たのだった。そしてその知らせは、全く思いがけないものだったのだ。

「「「ええええっ!!戦争が終わった?」」」
 ルートも、一緒にいたジークもリーナも同時に叫んだ。
 あまりのことに、3人はしばらく顔を見合って言葉を失っていたが、とにかく伝令の兵士から詳しい話を聞くことにした。

「あははは……さすが、ベルナール先生らしいや、すごいな」
 兵士から事の次第を聞いたルートは、楽し気に笑いだす。

 しかし、ジークとリーナは、ただただ呆れて頭を抱えていた。

「おいおい、冗談はよしてくれ……2万の敵軍の中へたった2人の兵士を連れて潜入だと?しかも、敵の大軍の目の前で大将を討ち取ったっていうのか?」

「は、はっ、そのように聞いております」
 ジークの問いに、伝令の兵士も困ったように小さな声で答えた。

「か、神の子が2人……同じ時代に、同じ国に……神様、何を考えているの」
 リーナが真剣な声でつぶやくと、それを聞いたルートが微笑みながら後ろからそっとリーナの肩を抱いた。
「僕は神の子なんかじゃないよ、リーナ。まあ、とにかくこれで戦争が終わるんだ。さあ、みんなに早く伝えに行こう」
 リーナはルートに顔を向けて頬を染めながら小さく頷いた。
「うん」

「そうだな。なんか、まだ信じられねえが、街への潜入は一応中止だって知らせないと」
 ジークがそう言って立ち上がり、ルートとリーナも寄り添いながら、野営地の中央へ向かった。


 そもそも帝国内で、アランがその権力を思うままに振るえたのは、彼の父ミゲールの圧政に長年苦しんできた民衆の支持があったからだった。
 アランが《魅了》の力で一気に帝位を奪い、軍を掌握すると、民衆は圧政から解放されたことを喜び、アランを「英雄」と称えた。

 しかし、民衆の生活が良くなることはなかった。逆に、世界征服という妄想に憑りつかれたアランが、周辺部族への武力征服と隣国トゥ―ランへの侵略戦争を始めると、補給物資の徴収という名のもとに、食料や生活品が軍によって持ち去られ、以前にも増して生活は苦しくなった。
 そして数日前、それに追い打ちを掛けるように、今度はアランの《魅了》から突然解放された王族や大臣たちが牢獄から出てきたとたん、臨時の税だと言って金品や食料をかき集め始めたのである。
 今や、帝国の民衆の不満は爆発する寸前まで高まっていた。

 遠征軍が帰って来たのは、そんな不穏な空気が全土を覆い始めたときだった。
「おお、帰って来たか。あははは……これで、民衆どもも逆らえまい」
 アランの父ミゲールは、《魅了》が解けたことで、恐ろしい息子が死んだことを悟った。これで、また思うままに権力が振るえると喜んだが、ここ数日、国内のあちこちで民衆の不穏な動きが見られるという報告を聞いて、恐怖を感じていた。軍が帰って来たのであれば、その心配もなくなるだろう、と考えた。
 ところが、文官が報告の続きを語った時、ミゲールの顔から血の気がサッと引いて青ざめた。

「な、何だと?グランデル王国の軍とトゥ―ラン国の軍も一緒だと?」
「は、はい。トゥ―ラン国の第3王子も同行している模様で……」

 いくら愚鈍な王でも、その意味は容易に理解できた。
「……わが軍は……降伏したというのか?」
 周囲にいる側近たちは、何も答えられずうつむいた。

「……認めぬ、認めぬぞ……こたびの戦は、あのバカが勝手に起こしたものだ。わしは何も知らん、知らんぞ」

「へ、陛下、さすがにそれは通用しません。ここは、できるだけ有利な条件で和平に応じるのが賢明かと……」
 臣下の助言にも、ミゲール・ドラトは青ざめた顔でぶるぶると体を震わせ、ぶつぶつと独り言をつぶやくばかりだった。



  その後 ~帝国の変革~ 2


 その日の朝、帝国軍約2万3千は首都ラニトの城門をくぐって、およそ2か月ぶりに帰って来た。率いるのは、北方軍司令官サルエル・アスターである。
 整然と長く続く兵士の行進は、やがて皇帝が住まう城までやって来た。

 普通なら、帰還した軍を迎えるために開け放たれているはずの城門が固く閉ざされ、衛兵が3人、門の前に立ちはだかっていた。

「我は帝国軍司令官サルエル・アスターである。皇帝陛下に帰還の報告に参った。速やかに開門せよ」
 将軍の命令にも、衛兵たちはバツが悪そうな顔で視線をそらし、動こうとしない。
 サルエルは、前もってこういう対応も予想はしていた。アランは、兄弟の王子たちはほとんど殺していたが、なぜか父のミゲールだけは殺さず地下牢に監禁していた。アランが死んだ今、《魅了》から解放されたミゲールが、皇帝に復帰しているのだろう。
 サルエルはミゲールから疎まれる存在だった。前皇帝からは全幅の信頼を寄せられていたサルエルだったが、ミゲールが帝位を継いで以降は、軍の教官という閑職に追いやられ、側近からは外されていた。

 ミゲールが今回の敗戦の責任を、アランと彼に付き従ったサルエル以下の士官たちにすべて背負わせるつもりなのだろう。

 サルエルがそう考えていると、突然城門が開き、見覚えのある士官服の男と10人ほどの近衛兵が出てきた。

「久しぶりだな、将軍。良く生きて帰れたものだ」
 士官服の男は、サルエルの前まで来ると皮肉たっぷりにそう言って、にやりと笑みを浮かべた。
「ビジャーブか……近衛兵を引き連れて何をしに来た?」
 サルエルはさげすむような目で男を見下ろしながら問いただした。

 その男ビジャーブ・アーマドは、かつてはサルエルの下で働く下士官だったが、ミゲールが帝位に就くと、甘言や策謀を用いてミゲールに取り入り、サルエルを閑職に追いやった実質上の黒幕だった。今は、近衛部隊の司令官に収まっていた。

「ふふふ……口の利き方には気をつけたまえ、将軍、いや、元将軍だな」
 ビジャーブは冷笑しながらそう言うと、ふところから1枚の書状を取り出して、サルエルに示しながら続けた。

「皇帝ミゲール・ドラト陛下の名のもとに、帝国軍司令官、下士官、並びに兵士たちに命ずる。ただ今この時をもって、帝国軍は、近衛軍司令官ビジャーブ・アーマドの指揮下に入る。以後はビジャーブ・アーマドの指令に従い行動すること。なお、サルエル・アスター以下各部隊の隊長は、この度のアラン・ドラトの反乱に加担した罪によりその身柄を拘束し、皇帝による裁断を受けるものとする。以上である」

 予想の範囲内とはいえ、帝国のあまりにも腐敗した内情に、サルエルは改めて深い落胆に沈み、ため息を吐いた。
 しかし、ここは帝国を変えるための大事な岐路でもある。サルエルはそう判断した。

「ヤヒム、お前はすぐに軍を率いて城外へ戻り、オランド殿のもとへ行け」
 サルエルの顔に強い決意を感じ取った腹心の副司令官は、小さく頷いた。
「はっ。閣下、どうかご無事で! 全軍、回れ右っ!街の外へ全速、前進っ!」

「はああっ?ま、待てええっ、待たぬかああっ! 皇帝陛下の命に背くつもりかああっ」
 ビジャーブ・アーマドは、慌てて軍を引き止めようとしたが無駄だった。
「ぬうううっ、貴様ああ、こんなことをしてただで済むと思うなよ」

「ああ、もちろんただで済むとは思ってはおらぬよ。陛下のご裁断を仰ぐつもりだ。だが、それはわし1人でよい。他の兵たちには何の罪もない」
 怒り狂うビジャーブに対して、老将軍は泰然とした態度で答えた。

「よし、では望み通り、反逆の罪で極刑に処されるがいい。この者を拘束し、地下牢へ連れて行けっ」
 ビジャーブはこの場ですぐにでもサルエルを殺したかったが、さすがにそこまでの勇気はなかった。もし、この場で殺そうと近衛兵10人をけしかけてもサルエルに敵うかどうか分からなかったし、逆にビジャーブ自身が返り討ちに合うかもしれないからだ。

 サリエルは馬から下りると、抵抗は一切せずロープで拘束され、城内に連れて行かれた。


 一方、サリエルに後を託されたヤヒムは、街の外の草原に野営地を設営していた王国・トゥ―ラン連合軍のもとへ、軍を率いて戻って来た。

「そうか……サリエル殿はお1人で責任を負われるおつもりか」
 ガルニア候はヤヒムの話を聞いてため息交じりにそう言った。

「はい。しかし、閣下が軍を城外へ出すように言われたのは、他にも理由があるかと……」
 ヤヒムの言葉に、その場にいたガルニア候、ベルナール、ウェイ王子、そしてルートも一斉にヤヒムに目を向けた。

「それはいったい……」
 ウェイ王子は強く興味を惹かれたようだった。

「それは、外からの力でこの国を完全に滅ぼしてほしいという……うう、う……」
 ヤヒムはそれだけ言うと、こらえきれずに声を詰まらせて涙を流し始めた。

 一同はしばらくの間、老将サルエルの命を賭した故国への思いに胸を打たれて瞑目した。

「つまり、現皇帝はこちらと話し合うつもりはないと、サルエル将軍は判断されたのですね?」
 ルートは、ヤヒムに確認した。
 ヤヒムは頷いて答えた。
「はい。側近のビジャーブに軍を引き渡すように命じたということは、皇帝には降伏の意志はなく、城門を閉ざして抵抗するつもりだったと思われます」

「なるほど……今度はユーリンの時と立場が逆になり、長期戦になれば、我々が補給が絶たれ、撤退せざるを得なくなると考えたわけか……まあ、間違っちゃいないがな」
 ベルナールがそう言うと、ルートは思わず小さな笑い声を上げた。
「じゃあ、今頃、皇帝は泣き叫んでいるわけですね? 頼みの軍がいなくなったんだから」
「うん、そうだろうな」
 ベルナールも楽し気に笑いながら頷いた。

「う~む……よく分からないのですが、なぜ皇帝は、サルエル殿から軍の実権を奪うような愚かな決定をしたのでしょうか?」
「ああ、それはですね……」
「ええっと、誠実な王子には少々分かりにくいでしょうが……」
 ウェイ王子の問いに、ルートとベルナールは顔を見合わせた後、すまなそうにヤヒムに目を向けた。
 
ヤヒムは、1つ咳ばらいをすると、憮然とした顔で王子に答えた。
「それは……皇帝が稀代の愚か者だからです」

「あ、な、なるほど……」
 皇帝の忠実な臣下であるはずの軍の副司令官に、そんな言葉を吐かせてしまったことに、ウェイ王子は気まずそうに小さくうなづいた。

「さて、皆さん。今考えるべきことは何か、意見を出し合いましょう。まずは僕の考えですが、2つあります。1つは、サルエル将軍をどうやって救い出すか。もう1つは、抜け道をどうやって見つけ出すか、ということです」
 ルートの言葉に、一同が怪訝な顔をした。

「ブロワー、1つ目は当然のことであるが、もう1つはどういうことだ? 何の抜け道だ?」
 ガルニア侯爵の言葉に、他の面々もうんうんと頷く。

 ルートはニヤリと笑いながら、人差し指を立てて探偵のような口調でこう言った。
「分かりませんか? もはや、打つ手のなくなった悪党が最後に考えることは何か?」

「あっ、そうか」
 ベルナールがすぐにひらめき、ガルニア候もはたと手を打った。
「確かにそうじゃ、逃げるしかないな」

「はい。それも、恐らく金銀宝石をできるだけ持って」
 ルートの言葉に、ウェイ王子とヤヒムも納得して頷いた。

「そんなことを許すわけにはいきません」
 ヤヒムは眉間にしわを寄せて怒りをあらわにしながらそう言った。



  その後 ~帝国の変革~ 3


 一方その頃、城の中ではまさにルートたちが想像した通り、いやそれ以上に醜いドラマが繰り広げられていた。
 ビジャーブの報告を聞いたミゲールは、しばらくの間怒りと絶望に喚き散らしたが、その後急に冷静になって、周囲の者たちに城から脱出する準備を命じ始めた。

「お、お待ちください、陛下。この国を捨てるとおっしゃるのですか?」
「ええい、うるさいっ。奴らはすぐにでもここへ攻めてくるのだぞ。そうしたら、わしらは全員捕まって殺されるのだ。黙ってそれを待つバカがどこにいるかっ」
 側近たちが引き止めるのも聞かず、ミゲールは逃げ出す準備を続けた。

「ビジャーブ、お前はここに残って、わしらが城を出た後、残った臆病者たちを殺せ。特にあの憎たらしいサリエルのじじいは苦しませて殺すのだ。よいな?」
 ミゲールは、ビジャーブを近くに呼んで密かにそう命じた。

 ビジャーブは嫌らしい笑いを浮かべて頭を下げた。
「かしこまりました。それで、陛下、新しい国をお造りになるときは、わたくしに軍の指揮をお任せ願いたいのですが」
「ああ、約束しよう。領地も与える。しっかり働け」
 ミゲールは心にもないことを口にして、去って行った。

「ひひひひ……お任せください、陛下」
 未来の栄華を夢想しながら、ビジャーブは丁寧に頭を下げた。


「うおおっ、やったぜ。そのナントカっていう王様を捕まえたら、本当にお宝をもらえるんですね?」
 歓声を上げる冒険者たちに、ウェイ王子はにこにこしながら頷いた。
「はい、できるだけお望みのお宝を用意いたしましょう」

 冒険者たちは一段と大きな歓声を上げて、手を突き上げた。

「はい、はい、静かに……じゃあ、これから街の周辺をくまなく捜索して、城からの抜け道を見つけてください。ただし、皆さんはミゲール王の顔を知らないので、グループに1人ずつ王の顔を知っている帝国の兵士の方に入ってもらいます。むやみに、住民の皆さんに迷惑を掛けないように注意してください、いいですか?」

 「「「「おうっ!」」」」

 ルートの言葉に、テンション最高潮の冒険者たちが一斉に返事をする。
 こういうミッションは、冒険者たちにはうってつけのクエストである。リーナとジークも、できればこのクエストに参加したくて、解散していく冒険者たちをうらやましそうに眺めていた。

「さあて、じゃあ、僕たちはもう1つのミッションを片付けようか」
 ルートの言葉に、ジークとリーナはは気を引き締め直して頷いた。


 その頃、人々があわただしく駆け回る城の中で、1人の近衛兵の若者が仲間の2人とともに、地下牢への階段を静かに下っていた。
 その地下牢では、今、1つの牢の前でビジャーブ・アーマドが勝ち誇った顔でいやらしい笑い声を上げていた。

「ひーひひひ……どんな気分ですかな、元将軍閣下? 今から、じっくりその体を剣で切り刻んで差し上げますよ。存分に泣いて、私の前で命乞いをしなさい。助けてやるかもしれませんよ。うひひひひ……」
 ビジャーブの脅しに、サリエルはふっと冷笑を浮かべてこう言った。
「下司が……世迷言を申すな。貴様に命乞いをするくらいなら、ブタに忠誠を誓う方がましじゃ。このサリエル・アスターを侮るなっ! 愚か者がっ!」

「ひいっ……く、くそが……お、おい、やれっ!」
 老将の圧倒的な迫力に、思わず腰を抜かしそうになりながら、ビジャーブは部下の近衛兵に命じた。
 近衛兵は苦し気な表情でしばしためらったが、上官の命令には逆らえず仕方なく牢のカギを開け、剣を引き抜いた。
「閣下、どうかお許しを」
 元部下の言葉に、サリエルは何も答えず静かに目を閉じた。

 と、その時だった。
「待てっ! 将軍に手を掛けることは許さぬ!」
 若い男の声が響き、3人の近衛兵が近づいて来た。

「だ、誰だっ……あ、き、貴様は……」
 ビジャーブは先頭の若い男の顔を見て、思わず後ずさりした。

「我、ユーニス・ドラト、国を捨てた皇帝一族に代わり、亡国の奸臣を成敗いたす」
 そう叫んだ若者は、実はアランのすぐ上の義兄、ユーニスだった。

 ユーニス・ドラトは、サリエルの妻の末の妹が、皇帝ミゲールに無理矢理側室にされて産んだ、サリエルにとっては甥にあたる第5皇子だった。
 ユーニスはその不幸な生い立ちから、早々と皇位継承権を放棄し、母の実家に下がってひっそりと暮らしていた。やがて成人した彼は、尊敬する大叔父サリエルを慕って軍人になる事を決意し、近衛騎士養成所に入った。才能にも恵まれたユーニスは、2年の後見事近衛騎士団に入隊を果たした。
 しかし、彼の素性を知るミゲールからは疎まれ、昇進することはなかった。それでも彼は気にせず、黙々と己を鍛錬することを怠らなかった。そして、今、この国の存亡の危機に際して、ついに立ち上がることを決意し、同じ思いを持つ2人の同志とともに、まず最初に地下牢に捕えられた偉大な将軍の救出に向かったのであった。


「あれ? 今、この先からすごい叫び声が聞こえたけど」
「うん、聞こえた」
「この先が、地下牢です。もしや……」
「急ごうぜ」
 ルート、リーナ、ジークは排水口から入り、地下の下水路を利用して地下牢へ向かっていた。水路に詳しい帝国の兵士に案内されて、複雑な迷路をもう2時間近く進んでいた。
 そして、ようやく城の地下に入った時、誰かの断末魔の声が聞こえてきたのである。

 ルートたちがその場に到着した時には、すでにすべてが終わっていた。牢の前には首から血を流して絶命したビジャーブの死体が転がり、武器を捨てて跪いた5人の近衛兵たちがいた。
「っ!何者だっ?」
 突然現れたルートたちに、ユーニスたちは剣を構えたが、サリエルがそれを制して前に進み出てきた。
「もしや、王国の手の者か?」
 サリエルの問いに、案内役をしてくれた兵士がさっと跪いて答えた。
「閣下、ご無事で何よりです。こちらは、閣下を救出するために来られた王国民兵団のルート・ブロワー殿、リーナ殿、ジーク・バハード殿です」

「おお、ルート・ブロワー、そなたがあの天才魔導士の……」
 サリエルは、ジークのことをルートと思い込み、目を輝かせて彼を見つめた。
「あ、いや、ルートはこいつです」
「えっ、な、なんと、まことか? このような少年が……」

 ルートは苦笑しながら、前に1歩出て丁寧に頭を下げた。
「初めまして、ルート・ブロワーです。将軍のことはベルナール先生から聞いておりました。ご無事で何よりでした」

「うむ、かたじけない。ああ、そうじゃ、紹介しておこう。これは、わしの甥で、この国の第5皇子ユーニス・ドラトじゃ。恐らく、この者がトゥ―ラン国との和平交渉の代表となるであろう」
「えっ? い、いや、将軍閣下、私はもう王族の身分などとうに捨てた者、ただ閣下のお命を救うために参っただけで……」

 慌てる若者を、サリエルも、そしてルートたちも微笑みながら好ましい思いで見つめた。


 その日の夕暮れ近く、帝都の街から少し離れた森の中で、皇帝ミゲールと30名ほどの従者一行は隠し通路から出てきたところを、待ち構えていた冒険者たちに捕えられた。案の定、宝箱を山積みにした荷車を従者たちに牽かせていた。

 彼らは再び城に連行され、地下牢に入れられた。ミゲールの狂ったような叫び声と取り巻きの者たちの嘆き悲しむ声が一晩中聞こえたという。

 そして、その翌日、晴れて帝国軍は再び帝都の街に入城した。後ろには王国軍とトゥ―ラン国軍が続いた。その延々と続く長い列はやがて城の中に入り、広大な広場を整然と埋め尽くした。
 その総勢4万3千の兵士たちが見守る中で、城の階段を下りてきたのは、サリエル将軍と近衛兵たちに付き添われた、第5皇子ユーニス・ドラトだった。

 ユーニスは、階段の下にいたトゥ―ラン国代表のウェイ王子の前まで来ると、片膝をついて頭を垂れ、王子に恭順の意を示した。ウェイ王子がそれに対して手を差し伸べてユーニスを立たせ、2人は短い言葉を交わした後、しっかりと握手を交わした。

 その瞬間、4万3千の兵士たちは一斉に天にも響く歓声を上げた。ここに、ラニト帝国による侵略戦争は終わり、帝国は降伏という形で講和会議に臨むことになった。

 通常であれば、帝国はトゥ―ラン国の貴族によって分割統治されるか、属国となって王の代わりの代官が支配するか、の2択になる所だが、ウェイ王子はこの会議の場で後の歴史にも残る提案をして帝国側を驚かせたのであった。



  その後 ~帝国の変革~ 4

「私は、帝国への支配も属国化も望んではおりません……」
 城内の会議場で講和会議が始まり、その冒頭ウェイ王子は、講和に臨むトゥ―ラン国の方針を静かに語り始めた。
 その第1声に、帝国の出席者の面々は驚きに目を見張った。

「……その代わり、もう2度とお互いの国を侵さないという『不戦の誓い』を交わすこと、そして、帝国に新しい制度の国を作ることを望みます」
 再びざわめき始めた帝国側に対して、王子は微笑みながらこう続けた。

「これについては、私に代わってグランデル王国のルート・ブロワー王立学校教授にご説明をお願いしたいと思います。教授、お願いします」

 ウェイ王子に指名されて、ルートは王子に頭を下げた後、おもむろに立ち上がった。

「それでは僭越ですが、ご説明させていただきます……」
 ルートはそう言うと、ジークとリーナに目配せした。2人は頷いて、何枚かの羊皮紙をつなぎ合わせた広い紙を、ルートが昨晩急いで作った木製の移動式掲示板に張り付けた。
 ルートは2人に礼を言った後、帝国の面々にその図面のようなものを指し示しながら説明を続けた。

「サリエル将軍閣下からお聞きしたのですが、この国はもともといくつもの小さな部族国家の集まりだったということですが、将軍、間違いありませんか?」
 ルートの問いに、サリエルはいかにも楽しげな顔で頷いた。
「はい、間違いありません。その小さな部族国家の1つだったのが現在の帝国です」

「ありがとうございます。では、この図をご覧ください」
 ルートは図面を指し示した。そこには、中心に1つの大きめの円とそれを囲むように小さな円が13個描かれ、それぞれに名前が付けられていた。

 ルートは続けた。
「これも将軍閣下にお聞きしたのですが、現在帝国内に住んでいるかつての部族国家の人たちは、およそ8部族、他にまだ辺境に隠れ住んでいる部族が3つ、獣人の赤犬族と青狼族がそれぞれ1部族ずつ、合わせて13の部族がこの国住んでいます。そして、異なる部族間ではまだ小さな対立が続き、人々の間でも反目し合う場面も多いと聞きました。ユーニス殿下、間違いありませんか?」

 突然指名を受けたユーニス王子は、戸惑いながらもしっかり頷いて答えた。
「はい、その通りです。恥ずかしながら、父ミゲールの代になって、その対立は一層激しくなったと認識しております」
 ルートは微笑みながら、ユーニスの誠実な答えに小さく頭を下げて称賛を贈った。

「ありがとうございます。さて、そこで提案ですが、そうした部族間の対立を解消し、なおかつ1つの国としてしっかりまとまるために、私はこの国に『君主制部族連合国家』への移行を進言いたします」

 そのルートの提案に、帝国側の出席者たちは驚きと疑問にざわざわし始めたが、すでにルートから構想を聞かされていたサリエルは、夢見る少年のような表情で何度も小さく頷いていた。

「初めてお聞きになるでしょうから、詳しくご説明いたします。先ず。この中心の円はここ帝都の街を中心とした君主、つまりユーニス殿下が治められる国です。ただし、君主といっても、これまでの皇帝のように、国全体に対する権力は持ちません。あくまでもこの帝都を中心とした小さな国を治めるだけです。ただ、国全体のまとまりを表す象徴、分かりやすい例えで言うと国を表す『国旗』の役割を、ユーニス殿下には担っていただきます。
 周囲の13個の小さな円は、各部族の国です。ただし、これらの国には『王』は存在しません。国を治めるのは、住民が投票で選んだ代表者たちです。これらの代表者たちが話し合って、まとめ役の〈頭首〉、財政を管理する〈財務官〉、軍事を扱う〈軍務官〉など、国を治めるための役割分担をします。そして、各国の〈頭首〉は、年に1回、必要なら何回か首都に集まって、ユーニス殿下の前で〈頭首会議〉を開き、国全体がうまく発展するよう話し合いを行います。ユーニス殿下は、その話し合いをじっと聞いていただくだけで構いません。ただし、話し合いがこじれて解決しそうにないときだけ、〈君主〉の権限で、裁定を下していただきます。
 以上が、私からの提案になります。何か、ご質問はありませんか?」

 ルートの問いかけに、さっそく帝国側の出席者の何人かが手を上げた。

「失礼します。この国の政務関係の仕事をしていたバハム・グートと申します。大変興味深いお話で、感銘を受けました。1つお聞きしたいのですが、各部族の国で代表者を選ぶのに、〈投票〉というお言葉を使われましたが、これはどのようなやり方でしょうか?」

「はい。これはまず代表者になりたいと希望する人たちが何人も出てきた場合、その人たちの中から、どの人に代表者になってもらいたいか、住民が多数決で選ぶというやり方です。
紙に名前を書いて箱に入れ、それを皆が監視する中で開きながら数えていってもいいし、広い場所に集まって、手を挙げて決めていってもいいと思います。ただし、裏で自分に投票するように脅したり、金品を贈って投票させたりしないように注意が必要です」

 1人目のバハムが納得して着席すると、次の男が立ち上がった。
「ハサム・ダージェナと申します。お話では、この国を元の部族国家の集まりに戻すというお考えだと理解したのですが、そうなると、かつての帝国のように、他の部族国家を力で征服しようとする部族が出てくる心配があると考えますが、いかがでしょうか?」

 ルートは深く頷いて、一同を見回した。
「はい、皆さんが一番心配されているのはそのことだと思います。これには対策がいくつかあります。例えば、部族国家には軍隊を持たせない、あるいは持っても最小限の兵力に制限するという方法です。でも、これは各部族からの反発や相互の不信感を招く恐れがあります。ではどうするか。これがこの国造りの一番のかなめなのですが、部族間の『相互理解』と『信頼』を築き上げていくこと、これに尽きると考えます。そして、それを成し遂げるためには『教育』が何より大切です。未来を担う子供たちに、平和の大切さ、争いの無意味さ、そしてこの国に対する『誇り』をしっかり教えるのです。ユーニス殿下がそのことをことあるごとに、国民に語り掛けることも重要です。すべての部族の子供たちが一緒に学べる学校をたくさん創ってください。そして、仲良く、協力して生きていくことの大切さを、しっかり教えてやってください。そうすれば、近い将来、この国は世界中のどこの国よりも尊敬される立派な国になると、私は信じています」

 ルートが語り終えたとき、会議場はしーんと静まり返っていた。その中で、サリエル将軍は涙を流しながら低い声で嗚咽し、ウェイ王子とユーニス王子も頬を伝う涙をしきりに拭っていた。
 静かな感動が会議場全体を包み、もう誰も質問をする者もいなかった。

 ユーニス王子がゆっくり立ち上がって、胸に右手を当て頭を下げた後、こう言った。
「我が国を代表して、トゥ―ラン国並びにグランデル王国の方々に申し上げます。我が国はウェイ殿下のご提案をすべて受け入れ、『不戦の誓い』の調印並びに『君主制部族連合国家』への移行をここに宣言いたします」

 出席者たちは一斉に割れんばかりの拍手をし、ウェイ王子はユーニス王子のもとへ歩み寄って固い握手を交わした。ここに、両国の講話は成立したのである。

 こののち、ラニト帝国は国名を『西方(ゲール)部族連合国』という名称に変えた。この世界で初めて、共通の法律と共通の君主をいただき、直接民主制を導入した連合国家が誕生したのである。
 ルートの理想は法典に反映され、国中に無償の公立学校が建設された。そして、高等教育機関として、ラニトの街に国立高等学園が建立され、その初代校長に、サルエル・アスターが就任した。
 彼は、グランデル王国の王立子女養成所をお手本とし、魔法学、騎士学、工芸学、神学の4つの学科に加え、国際政治経済学という新しい学科を設立した。広い視野を持ち、国の発展に貢献できる人材を育成したいという願いからだった。
 やがて、この学校の評判は世界中に伝わり、隣国のトゥ―ラン国をはじめ、世界中から留学生が集まる教育の一大殿堂として発展していった。同時に、各部族がそれぞれに誇りを持ち、差別も無く、協力し合って全体を発展させていくこの国の姿に、世界中が注目し、国造りの手本とするようになっていったのだった。



  閑話 ルート、ついにコーヒーを発見する 1


 それはまったく偶然の出会いだった。
 ルートがイガンの街を出て国境を越え、民兵団と合流するために国境沿いの道なき道を南へ進んでいたときのことだ。
 その日、ルートは魔物を探しながら森の中を歩いていた。やがて昼近くになる頃、谷間の斜面を切り開いた場所に2件の小さな家が並んで建っているのを見つけた。
 
(こんな場所に家? もしかすると山賊の隠れ家かもしれないな。もしそうだったら、行きがけの駄賃に討伐していくか)

 そんなことを考えながら、慎重に近づいて行ったが、近くに人の気配はなかった。さてはどこかに獲物を見つけて出かけているのか、とも考えたが、それにしてはのどか過ぎる風景だった。山の斜面を切り開いた小さな段々畑、家の近くの平地には粗末な木の柵で周囲が囲まれ、3匹の山羊と数羽の鶏がその中に一緒に飼われている。山賊だとしたら、少人数で木こりに毛が生えた程度の奴らだろう。

 ルートは思い切って片方の家に近づき、戸口の外から声を掛けてみた。
「すみませーん、どなたかいらっしゃいませんか?」
 しばらく待ったが、返事もなく、物音も聞こえない。

(っ! いや、誰かいる……それも複数だ)
 相手が警戒しているところを見ると、やはり山賊だったか。ルートはそう思って、いつでも魔法を発動できる準備をしながら、もう一度声を掛けた。

「すみませーん、旅の者ですが、良かったら食料を売ってはくださいませんか?」

「動くなっ! 動くと死ぬぞ」
 隣の家の陰から、そう叫んでボーガンを構えた男が現れた。

 ルートは両手を上げながら、男に笑顔を向けた。
「驚かせてすみません。でも、僕は怪しい者ではありません。旅の冒険者で……」

「旅の冒険者? そんなウソが通用するか。こんな山の中に冒険者が何をしに来たというんだ?」
 40過ぎくらいで、農夫のような恰好をした男は、今にもボーガンを放ちそうな様子でそう言った。

(ああ、まあ、そう思うよな。ボーガンくらいじゃ防御結界は破れないけど、ここは正直に言うべきかな)
 ルートはそう考えて、男に言った。
「ええっと、実はここが山賊の住処じゃないかって疑って、もし、そうなら、退治しようかなって思ったわけで……あなたは山賊じゃ、ないですよね?」

 男は呆れたような顔でボーガンを下ろすと、こう言った。
「ああ、山賊じゃない……まあ、確かに疑われてもしようがないが……い、いや、それにしても、お前のような子供が、1人で山賊退治など、頭がおかしいとしか思えん」
「あはは……まあ、そう思いますよね。でも、僕はこれでも強いんですよ。いろいろ説明するより証拠をお見せしますよ。そのボーガンを僕に撃ってみてください」

 ルートの言葉に、男はますます呆れて頭を振った。と、そこへ、隣の家からも少し年配の男と、その妻らしき女性が出てきた。
「シャリフ、もういい」
 年輩の男はそう言うと、ルートに目を向けた。
「食い物が欲しいのか? だが、見ての通り、ここには人に分けてやるほどの余裕はない。悪いが帰ってくれ」
 ルートはちょっと考えてから、男たちを見回した。
「あの、手を下ろしてもいいですか?」

「あ、ああ」
 シャリフと呼ばれた男はまだ警戒は解かずに頷いた。

 ルートはにこやかな顔で男たちに言った。
「食料のことはウソです。山賊なら、金を持っていれば狙ってくるだろうと思ったんです。
 実は、ここまで来る途中で、ホーンラビットやボアを何匹か倒しました。もし、必要なら、お譲りしましょうか?」

 男たちは驚いて顔を見合わせた。どうにも正体がつかめない少年だった。
「何が目的だ?」

「いや、別に下心なんかありませんよ。信用できないなら、ここに置いていきますから、好きなように処分してください」
 ルートはそう言うと、バッグの中から、ホーンラビット2羽、大きめの猪(ボア)を1頭取り出してその場に置くと、去って行こうとした。

「ま、待て……」
 年配の男はあわててルートを引き止めると、しばし考えてからこう言った。
「我々はわけがあってここに住んでいる。人には知られたくなくてな。外から来た人間は疑わざるを得ないんだ……中に入ってくれ、飲み物ぐらいは出せる」

「なるほど……では、少しだけ休ませてください」
 ルートは、彼らがこの地に隠れ住んでいる理由に興味を惹かれて、年配の男の後から家の中に入っていった。(本当はこんな所で無駄な時間を使わず、早く民兵団に合流すべきなのだが、ルートの好奇心の強さとおせっかいな性格が出てしまったのだ)

 家の中は、まさにぎりぎりの暮らしだと分かる簡素さだった。手作りのテーブルとイスが3つ、目立つ家具はそれだけだ。部屋の片隅に干し草が敷き詰められ、ブラックベアの毛皮がたたまれておいてある。恐らくそこが、ベッドの代わりなのだろう。

「まあ、座ってくれ。今、妻が飲み物を用意している。口に合うか分からないが」
「はい、すみません。ん、あれ? この匂い……」
 ルートは勧められるままに椅子に座ったが、その時、奥の炊事場の方から漂ってくる匂いに驚いた。
「どうかしたのか?」
「あ、はい、ええっと、お名前は?」
「ああ、名乗るのを忘れていたな。俺はナージェルだ」
「そうですか。あの、ナージェルさん、この匂いはもしかして、コーヒーですか?」

 ナージェルとシャリフは顔を見合わせて、首を傾げた。
「コーヒー? 初めて聞く名だが、今、妻のアーミナが淹れているのは『ビジャブ』という木の実の種を乾燥して砕いたものだ。それに湯を注いで茶の代わりにしているんだ」

ナージェルの説明に、ルートは目を輝かせて思わず立ち上がった。
「そのビジャブの実を見せてもらえませんか?」

「あ、ああ、それは構わんが……おい、アーミナ、ビジャブの種を持ってきてくれ」
 ナージェルが戸惑いながら声を掛けると、奥からおずおずした様子のまだ10代と思われる少女が袋を手に現れた。
 ずいぶん年の差が離れた奥さんなんだな、とルートが思っていると、ナージェルはその少女から袋を受け取りながら言った。
「シノンか……ああ、これは娘のシノンだ。シャリフの息子の嫁になっている」

(なるほど、そういうことか。さて、問題はビジャブだ。香りからすると間違いなくこれはコーヒーのはずなんだが……)
 ルートはシノンに挨拶した後、ドキドキしながらナージェルが袋の中身を取り出すのを見ていた。

「これが、ビジャブだ。外側の実は食べられるんだが、薄くて少ししかない。ほとんどがこの種でな。最初は捨てていたんだが……お、おい、どうした?」

 ナージェルが袋から1つかみ取り出した茶色い種を見て、ルートは感激のあまり両手の拳を胸の前で握りしめていた。

(あああ……コーヒーだ、やっぱりこの世界にもあったんだ。ついに出会えた……)



  閑話 ルート、ついにコーヒーを発見する 2


「ナージェルさん、このビジャブはこの国ではよく知られている木の実ですか?」
 ルートは興奮を抑えながら尋ねた。

「いや、俺が知る限り、この辺りでしか見かけないな。さっきも言ったが、食べる部分はほとんどないから、近くにあっても誰も見向きもしない。俺たちのような者以外はな……
俺たちも最初は実の外側だけ食べて、種は捨てていたんだ。ところが、ある日食べカスで貯まった種を燃やそうと、たき火にぶちまけたんだが、途中からやけに香ばしい匂いがし始めてな。炭になっていない豆を掻き出して、試しに水で炊きだしてみたんだ。そしたら、ちょっと苦いが、いい香りで、お茶の代わりになりそうだって思ってな……」

 ナージェルが活き活きと楽しげに語るのを、ルートはにんまりしながら聞いていた。そして、話が終わるとナージェルたちを見回してこう言った。
「皆さん、ビジャブは《黄金のなる木》です。ああ、いきなり言っても分かりませんよね。実は、僕は冒険者でもあり、商人でもあるんです。その商人である僕が断言します。ビジャブを商品にして売れば、幾らでも金貨が得られます。大金持ちになれるんです」

 ルートの言葉に、ナージェルもシャリフもシノンも、そしてビジャブのお茶を淹れて運んできたナージェルの妻アーミナも、理解できずにぽかんとした顔でお互いを見合った。

「ちょっと待て……頭が追いつかん。まず、お前が商人だって? その年でか?」

 ナージェルの問いにルートは頷くと、バッグの中から銀貨を一つかみ取り出して、テーブルに置いた。

「信じるも信じないも、あなた方次第ですが、もし信じてくれるなら、このビジャブの種をたくさん集めて乾燥させておいてください。近いうち、そうですね、あと一か月後に買い取りに来ます。これは、とりあえず前払いの代金です。後の代金は集まった種の量で決めたいと思います。いかがですか?」

 ナージェルたちはテーブルに置かれた銀貨の小さな山に驚き、声も無く呆然としていた。

「ほ、本当の話なのか? おい、シャリフ、どうする?」
「い、いや、どうするもこうするも、金をもらってもなあ、使いようがないだろう」
 シャリフの答えを聞いて、ルートはこの人たちがどんな理由でここに隠れ住んでいるのか、知りたいと思った。だが、ルートがその問いを口にする前に、ナージェルがため息を1つ吐いて話し始めた。

「実は、俺たちは6年前まで、帝都の近くの村で細々と農業をして暮らしていたんだ。だが、来る日も来る日も戦争ばかりでな……出来た作物はほとんど軍に持っていかれ、おまけに税金は取られるはで、どうにも生活ができなくなった。このままじゃ、借金奴隷になるしかないと思ってな、シャリフの家族と一緒に村を逃げ出したんだ。
俺たちみたいな者は国中にたくさんいる。だが、逃げ出して捕まれば、良くて男は犯罪奴隷として一生こき使われ、女は奴隷としてどこかに売られる。下手すれば皆殺しだ。だから、ほとんどの奴らは借金奴隷になる。 俺たちは、なんとか逃げ延びてここにたどり着いたが、そんなわけで、金をいくらもらっても、街には行けないんだよ」

 ナージェルの言葉を聞きながら、ルートは何度も頷いた。
「なるほど、分かりました……でも、皆さん、安心してください。あとひと月もかからないうちに、自由にどこへでも行けるようになりますよ」

「はあ? いったい、何を言ってるんだ?」
 ナージェルたちが信じられないのは仕方のないことだった。

ルートはあえて詳しい話はせずに、にこにこしながらただ一言答えた。
「〝信じる者は救われる〟ですよ」



 それから2年の月日が流れた。
 広く整備された道を、1台のトラック型の蒸気自動車が力強い音を響かせながら、坂道を登ってくる。

「やあ、こんにちは、ナージェルさん」
「ブロワーさん、お待ちしておりました」
 坂道の上には、同じ白い作業服を着た数人の人々が並んで帽子を取りながら、トラックを出迎えた。真ん中に立って丁寧に頭を下げたのは、背後に建っている大きな工場の所長であるナージェル・バスラ―である。

 トラックから下りてきたのは、この『タイムズコーヒーカンパニー』の若き会長と彼の義父であり副会長の男だった。

 今や、ビジャブコーヒーは、紅茶より少し高価な嗜好品として、上流階級を中心に世界中で愛飲され、需要に生産が全く追いつかない状態だった。というのも、ビジャブの木は非常に環境の影響を受けやすく、どこでも栽培して増やすということができなかったからだ。それでも、『タイムズ商会』の資金力と会長のルートの研究成果によって、現在、世界に3か所の生産地ができた。その中の最大の生産地が、かつてナージェルたちが隠れ住んでいた、この『フェイダル(ラニト方言で「霧の谷」の意)』だった。

 谷を挟んだ両側の山の斜面一帯に、きれいに整備されたビジャブ農園が広がり、ふもとの谷には、ここで働く人々の住宅や商店が立ち並んでいる。観光地としても人気が出始め、宿屋も何軒か建設が始まっていた。


「これが新しく発見されたビジャブの木の種で、これを焙煎して淹れたコーヒーです。どうぞ味見をしてみてください」

 この日、ルートとジークは、フェイダルで新品種のビジャブが見つかったとの報告を受けて、自らの目で確かめるべく訪れていたのだ。
 豆については、報告に来たシャリフの息子バルジが持ってきたサンプルを見ていたが、それはルートの知識にあったコーヒー豆とはかなり違った形状をしていた。一般のコーヒー豆より丸っこく、まるで大福もちのような形だ。しかも種の表面には小さな凹凸がある。

「あれ? でも……」
 ナージェルの娘シノンが、両手で差し出したカップを受け取った瞬間、ルートの鼻に華やかでしかもまろやかな甘い香りが漂ってきた。

「これ、何か入れたの? ハチミツとか」
「い、いいえ、何も。あの、ハチミツをお持ちいたしましょうか?」
 ルートの問いに、シノンは自分が失敗したのかと思って慌てた。

「いや、いいよ。へえ、これはすごいな」
 ルートはシノンに首を振って答えた後、鼻をカップに近づけて目を輝かせた。

「んん……おい、こいつはうめえぞ、ルート。今まで飲んだことがないコーヒーだ」
 ジークはさっそく一口飲んで、驚きの声を上げた。

 ルートも一口飲んで、しばらく口に含んだ後、ゆっくりと飲み込んだ。
「ああ、これはうまい……香りもいいし、コクもある。しかもさわやかな後味だ」
 うっとりとした顔でそう言った後、ルートはナージェルに手を差し出した。

「おめでとう、ナージェルさん。新しい名産品、しかも極上の名品の誕生です」
「あ、ありがとうございますっ」
 ナージェルは感激に震えながらルートの手を握り、その瞬間、周囲から一斉に拍手と歓声が上がった。

「今後は、この木を大切に育て増やしてください。盗まれないように、屋内で育てましょう。
専用の栽培施設はすぐに用意します」
「はい、お任せください」

 かつて、圧政に苦しんで逃げ出した2つの家族が、ひっそりと隠れ暮らした霧深き谷フェイダルは、こののち、最高級の『フェイダルコーヒー』の産地として名声を極め、世界中のセレブ達の憧れの的になるのである。





  王国の事変 1


 話は、ルートたちが西の大陸に向けて出発して10日後にさかのぼる。
 
「旦那様、失礼いたします。スレイン子爵がご到着にございます」
「おお、来たか。通せ」
「これで、全員揃いましたな」

 この日、ミハイル・グランデル公爵の館には、王都周辺から中小の7人の貴族たちが集まっていた。王の招集号令にも従わず、自分の領地に籠り、王城への出仕もしていない官僚貴族たちだった。そして、彼らはあの日、アラン・ドラトが王城に現れたとき、《魅了》を掛けられ、ルートによって解除された後、公爵とともに王城を去って行った者たちでもあった。

「皆の者、よく来てくれた。いよいよかねてから話していた計画を実行するときが来た。これは、グランデル王国が真の意味で〝高貴なる栄光〟を取り戻すための戦いである。帝国と友好的かつ強固な絆を結ぶためにも、現国王とその取り巻きを追放し、我らの手でこの国を手に入れるのだ」
 ミハイル公爵が、自分に酔いしれたように両手を広げて天を仰ぎながら叫んだ。

7人の貴族たちの中には、本音ではこの計画に賛同できない者たちもいたが、もう流れは止められなかった。彼らの目的は、軍によって力ずくで王を退位させ、新しい王を擁立すること、つまりクーデターであった。

「では、バードル伯爵、最終的な打ち合わせに入ろうぞ」
「はい」
 公爵の言葉に、バードル伯爵は頷いて、一同を見回しながら言った。

「諸君、現在王城には近衛部隊が約500名いるだけだ。ボースとリンドバルは領地に待機しているが、我らが一気に王城を占拠し、ミハイル殿下の王位継承を済ませれば、彼らとて反逆の汚名を着てまで殿下に逆らうことはできぬ。殿下の命で彼らの兵を国軍とすれば、それで終わりだ。たとえ、遠征軍が帰って来たとしても、十分に対抗できる兵力を手にすることができる。以上が、計画の大筋である。何か意義はあるか?」

 貴族たちはお互いを見合っていたが、その中でシャンペリエ子爵がおずおずと手を上げた。
「異議ではござらぬが、近衛軍500はかなりの難敵だと思います。広い戦場なら数で押し切ることもできましょうが、狭い王城の中では、彼らの方が有利ではないかと……」

「ふん、相変わらず弱気だな、シャンペリエ殿。数は何にも勝る力だ。たかが500の兵が、その4倍の兵力に抗することができようか」
 エリスの父親モートン子爵が、シャンペリエをあざ笑うようにそう言った。

「これは心外な。弱気と慎重は違いますぞ、モートン殿。地の利がある相手にむやみに突っ込んでいくだけでは、思わぬ不覚をとると言っておるのです」

こんなふうに、彼らの関係は決して一枚岩の良好なものとは言えない。彼らの多くが一番望んでいたのは、遠征軍が敗北すること。それによって、国王が責任を取って退位し、ミハイルが王位を継ぐことだった。しかし、現在の王位継承権第1位は、皇太子のマリウスである。王弟ミハイルは、長年マリウスの殺害を何としても果たしたいと願っていた。その絶好の機会が訪れたと彼は考えたのである。

 結局、有効な話し合いにはならず、ただ行動を起こす時間と手順を確認しただけで、夕食を共にした後、彼らはそれぞれの領地に帰っていった。

 翌日、王国歴1286年2月16日、未明から冷たい風が吹き、ちらちらと雪が舞い落ちる中、まだ薄暗い王都の道を四方から埋め尽くすように、2000人の兵士が王城へと向かっていた。

「と、止まれええっ、これは何事であるか?」
 王城の門を守る衛兵たちが、門の前に出てきて、先頭の馬に乗った3人の貴族に叫んだ。

「門を開けよ。私はミハイル・グランデルである。王に用事があって来たのだ」

「こ、公爵殿下、恐れながら、このような兵を引き連れての入城は許可することはできません。どうか、お引き取りを」
 守衛隊長の当然の言葉に、公爵も予定していたように、右手を上げた。すると、彼の背後から、5人の騎馬兵が走り出てきて、槍を構えながら衛兵たちに突っ込んでいった。

「うわああっ、ひ、退け、退けえっ」
 隊長以下の衛兵たちは、慌てて門を開いて中に逃げ込んでいった。

 5人の騎馬兵たちは馬から下りると、門をさらに大きく開いて、公爵以下後続の兵士たちを中に入れた。

「奴らが体制を整える前に、王と皇太子を捕らえるのだ。急げっ!」
 公爵、バードル伯爵、モートン子爵の3人を先頭に騎馬兵たちは一気に広場を横切り、石段を駆け上がって、城の内門の前までたどり着いた。そこから全員馬を下りて、まず、内門を10人ほどの兵士たちが、何度か体当たりをして打ち破った。

 ついに城内になだれ込んだ公爵たちは、勝手知った城の中を一直線に王族たちが暮らす、奥の後宮へ向かって走った。

 広い通路には、誰1人立ち塞がる者はいない。まさに無人の荒野をゆくようだった。最初のうち、彼らは、自分たちの作戦が功を奏し、近衛軍もまだ迎え撃つ準備が整わないのだと喜んでいた。
 ところが、後宮に入っても、侍女や召使いたちの姿も見えず、騒ぎの声さえ聞こえてこなかった。ここに至って、ようやく彼らは、何かおかしいと感じ始めた。

「殿下、これは明らかに変ですぞ。衛兵も近衛兵も出て来ぬとは」
「ぬう……とにかく、王の寝室まで行くぞ」
 モートン子爵にそう答えたものの、ミハイルも異常な静かさに不安が頭をもたげ始めていた。

 ミハイルは王族専用の抜け道も熟知している。だから、あらかじめ3人の貴族に命じて、3つの抜け道に部隊を配備させていた。もし、王たちが抜け道を使っていたら、とっくに捕まって連絡が来ているはずなのだ。
 それに、何よりおかしいのは、近衛兵たちがこの時間になっても1人も現れないことだった。

 案の定、王の寝室も妃や子供たちの寝室も、もぬけの殻だった。

「これは、いったいどういうことだ……」
 公爵と3人の貴族が呆然と立ちすくんでいると、城の外の方から何やら騒がしい声が聞こえてきた。
(っ!しまった……はめられたか)
「おい、戻るぞ、急げっ!」

「で、殿下、何がどうなっているのですか?」
 バードル伯爵が青ざめた顔で尋ねたが、ミハイルはそれに答えず、鬼のような形相で通路を小走りに進んでいく。
「あわわ……も、もう終わりだ」
 シャンペリエ子爵が泣きそうな声を上げる。
「うるさいっ、シャンペリエ、うろたえるな。こちらには2000の兵力があるのだ。相手は、近衛兵500、こちらが有利だ」
 モートン子爵が、自分の不安を打ち消すように叫んだ。

『城内の兵士、並びに首謀者たちに告ぐ。城の周囲は、完全に包囲した。もはや、お前たちは籠の中に閉じ込められた鳥と同じである。直ちに、武器を捨てて投降せよ。すでに、ラマルク、バンダール、セラーノの3名は投降した。直ちに投降すれば、首謀者以外の命は保障しよう。あくまでも抵抗するというなら、これから5分後に、大魔導士ルルーシュ・リーフベルによる攻城級魔法により、一瞬のうちに殲滅するであろう』

 拡声器によるオリアス王の声に、広場に整列していた反乱軍の兵士たちは、哀れなほどに動揺して騒ぎ始めた。



  王国の事変 2


「い、いやだ……いやだあああっ、死にたくない」
「俺もだ、死にたくないっ」
 ついに一部の兵士たちが叫んで、門の方へ走り出した。そのとたん、雪崩のように反乱軍の兵士たちはパニックに陥って逃げ出し始めた。
「おいっ、待てええっ! 命令に背く者は、死罪に……っ!」
「うるさいっ、もともと、これ自体が反逆じゃないかっ、間違いなんだよ」
 1人の兵士が、止めようとする隊長に剣を向けて罵倒を浴びせた。

 結局、士気もなく覚悟も持たない軍隊は窮地に立った時、もろくも崩れ去る。それが、今の反乱軍の姿だった。

 城門は開かれ、オリアス・グランデル王と皇太子のマリウスが、ボース辺境伯、リンドバル辺境伯、そして500人の近衛兵に守られて広場へ入って来た。王の前の荷馬車には拡声器が積まれ、その横に黒いローブに黒い帽子を被り、大きなダイヤモンドがはめ込まれた杖を持った幼い少女の姿をしたハイエルフの大魔導士が立っていた。


「あ、あれは、ボースにリンドバル……なぜ、奴らがこんなに早く来ることができたんだ?」
 ベランダに出てきたミハイルと3人の貴族たちは、苦々しい顔で広場を見下ろした。
「……すべてこちらの動きはお見通しだったというわけか……ぬううっ、兄上……」

 ミハイルは、子供の頃から何においても兄に勝てなかった。そのコンプレックスが、いつしか憎悪に変わり、いつの日か兄を自分の前で跪かせたいという情念の炎を燃やし続けてきたのだ。
 狭い貴族社会という環境、わがままは何でも通る王族という地位が、いかに心の歪な人間を育てるかという典型がミハイルだった。

「ミハイルよ、おぬしは相変わらず馬鹿じゃのう」
 リーフベル先生が、拡声器を使わず、ベランダのミハイルに向かって言った。

「う、うるさいっ、クソばばあっ!いつもいつも、私を小馬鹿にしおって」
「うははは……まだ、そんな口をきく元気はあるか。もう、あきらめて早く下りて来い。それに、ジョアン、エリック、ロベール、おぬしらもじゃ。いつまで、ミハイルの腰ぎんちゃくを続けるつもりじゃ、子供たちに恥ずかしくないのか?」

 かつての恩師に叱責された3人の貴族たちは、何も言い返せず険しい顔でうつむく。

「おぬしら、なぜ、自分たちの計画が事前に知られていたか、聞きたいであろう?
 まあ、遠征前の話し合いの中で、たぶんおぬしらが何らかの行動に出るであろうという予測はあった。だから、ボースとリンドバルには、1000人ずつの兵を残して王都に留まってもらい、部下に残りの兵を率いさせて、領地に返した。両方の兵士たちは昨日まで、わしの学園で、訓練地の整備をしてもらいながら待機させておったのじゃ。
 じゃが、いつ、どのような手段でおぬしらが行動に出るか、それは分からなかった。それが分かったのは、この者たちのお陰じゃ」
 リーフベル先生はそう言うと、後方にいる誰かに手招きした。

 兵士たちの間から出てきたのは、6人の王立学校の生徒たちだった。

「な、ジャ、ジャン……」
「フェリス、お、お前……」
 バードル、シャンペリエの2人は、現れた生徒たちを見て言葉を失った。

 リーフベル先生は、子供たちに拡声器を使って話すように促した。まず、最初に拡声器の前に立ったのは、バードル子爵の次男ジャンだった。

「父上、もうこのような真似はやめて、潔く降伏してください。5日前、父上と母上が言い争いをしていたのを偶然に聞いて、この計画を知りました。僕は、すぐに父上にこの計画をやめてもらうようにお願いしようと母上に相談しました。しかし、母上は父上が聞いてくれないだろうし、へたすれば怒って僕をバードル家から追放するかもしれないとおっしゃいました。でも、僕は、どうしても父上がなさろうとしていることは間違っていると思いました。そして、悩んだ末に、リーフベル所長に相談したのです」

 ジャンの後を受けるように、シャンペリエ子爵の末娘で2年生のフェリスが、拡声器の前に立った。
「お父様、フェリスです。私はリーフベル先生からお話を聞いて、この計画のことを知りました。そして、ジャンたちが計画を阻止しようと立ち上がったことを知りました。お父様、私はお父様が帝国との戦いから逃げて、領地に閉じこもっているのを知って、とても恥ずかしくて、友達に顔向けができませんでした。そのうえに、こんな愚かなことに加わっておられたなんて。もうこれ以上、シャンペリエの家名に泥を塗るのはやめてください」

 フェリスの後、残りの3人の子供たちもそれぞれの思いを拡声器の前で吐露した。

「どうじゃ? 次の世代を担っていく子供たちは、立派に育っておるぞ。おぬしたちが、このようなやり方で世の中を変えようとせんでも、子供たちが次の世の中を良い方向へ変えていってくれるはずじゃ。おぬしらの仕事は、子供たちに恥ずかしくない世の中を引き継ぐことではないかのう、違うか?」
 リーフベル先生の言葉に、ミハイル以外の貴族たちはがっくりと膝をついてうなだれた。

「……モートン、バードル、シャンペリエ、お前たちは投降しろ」
「で、殿下、私は最後まで殿下とともに……」
 モートン子爵の言葉に、ミハイルは微笑みを浮かべながらこう言った。

「もうよい……そなたは娘のエリスを奪われて、自暴自棄になっておるのだ。わしも、エリスを失ってから、何もかもが憎く思えて、この国を壊してしまいたいと思った。そんなわしの思いに、そなたたちを巻き込んでしまった……許せ……」

「殿下……」
「殿下、ここは我々とともに投降を」

 臣下たちの言葉に、ミハイルは首を振って、兄の王を見つめながら言った。
「いや、わしはここに残る。オリアスと最後に2人だけで話したいことがあるのでな」


 城の内門から、衛兵たちに囲まれて、3人の貴族たちがうなだれた姿で出てきた。
 こうして、ミハイル公爵を首謀者とする反乱事件は、1人の血を見ることも無く終息した。いや、1人だけ、自らの剣で王の間を赤い血で染め、命を絶った者がいた。ミハイル・グランデルであった。
 彼は、臣下の貴族たちを投降させた後、王の間に入り、玉座の前で首を切った。最後に兄と2人だけで話したいというのは、口からのでまかせだった。彼は兄と理解し合おうという気持ちなどとうの昔に失くしていた。そんな兄への最期の抵抗が、玉座の前での自害だった。兄がいつも座る場所の床に、自分の血を沁み込ませる、自分の恨みをずっと忘れさせないために……。

 オリアス王は弟の遺体を目にすると、一瞬ぐらりと体を揺らした後、人払いをした。1人だけになった兄は、血で汚れるのも構わず、弟の体をかき抱いて、世にも悲し気な叫び声を上げた後、長い間泣き続けた。「玉座の間」から聞こえてくる悲しげな声は、まるで亡霊の恨みの声のようだったという。



  めぐり来る春 1


 ルートたち遠征軍は、ひと月半ぶりに王国の土を踏んだ。ラークスの港まで運んでくれたバルジア海王国の船団に別れを告げ、民兵団も王国軍とともに王都へ向けて勝利の凱旋行進に加わった。知らせを聞いた街や村の人々が続々と街道沿いに出てきて、称賛や拍手を送った。

 凱旋軍はやがて王都に着いた。すでに知らせは届いており、人々は街路の両側を埋め尽くしていた。その拍手と歓声の中を、行軍は最終目的地である王城広場へと進んでいった。


「英雄たちの凱旋を心から祝福し、全国民に代わり、感謝の言葉を述べる、よくぞ、帝国の野望を打ち砕き、世界の平和を守ってくれた。王国の英雄たちに、神の祝福よ在れ……」
 国王オリアス・グランデルの声は、拡声器を通して王都の街にも流れ、人々は歓呼の叫びをもってそれに応えた。

 広場では出発の時と同様に、今回は祝勝の宴が開かれ、兵士たちと民兵団が入り乱れて、戦友同士の盃を交わし合い、無事に故国へ帰れたことを喜び合った。

 一方、主だった指揮官たちは王城内の広間に招待された。大きなテーブルを囲んで、王族や留守を守っていた貴族たちが座り、その中にルートたちも混じって座った。
「此度の遠征、まことにご苦労であった。そして、見事に帝国に勝利してくれたこと、改めて感謝する。今宵は、ささやかだが祝宴の席を設けた。皆、心ゆくまで疲れを癒してほしい」
 オリアス王の言葉に、一同は一斉に頭を下げて謝意を表明する。
 ルートも頭を下げながら、王がどことなくやつれて一気に年を取ったような感じを抱いた。
 その後、指揮官を代表して、ガルニア侯爵が今回の戦争全般について王へ報告した。
「……以上が、この度の戦争における戦況と被害のあらましでございます」

「うむ、戦死者がこれほど少ないというのは驚嘆に値する。まことに見事な戦略であったな。オランド司令官、そなたの活躍は特筆すべきものだ。いずれ、報償の場を設けて国中に知らせるとしよう」
 王の言葉に、ベルナールは深く頭を下げた後、こう言った。
「ははっ、身に余るお言葉、光栄の至りにございます。しかしながら、今回の戦は、私がいなかったとしても、わが軍の勝利は間違いなかったと確信しております」

「ほお、その理由を聞かせてくれるか?」
 王の問いにベルナールは頷いて、ルートにちらりと目を向けてからこう答えた。

「はい。1つは、わが軍の兵士の士気、規律が帝国軍に数段優っていたこと、そしてもう1つは、民兵団の驚異的な戦果、それを指揮したルート・ブロワー殿の天才的な戦術と技量があったことです」

 ベルナールの言葉に、ルートは慌てて否定しようとしたが、王も周囲の貴族たちも、そしてリーフベル先生も、納得顔で何度も頷いていたので、何も言い出せなくなった。

「うむ……今更だが、ルートよ。お前には何度もこの国の窮地を救ってもらって、感謝の言葉もない。だが、どうせ周りがいくら褒めても、お前は褒美を受け取ってはくれぬのであろうな?」
 王が小さなため息を吐いて、困り顔でそう言うと、ルートは下を向いて少し考えてから、顔を上げて王に言った。

「陛下……もし、私に褒美をくださると仰せなら、質問とお願いが1つずつありますので、聞いていただけますか?」

 ルートが珍しく要望を口にしたので、王は喜んで頷いた。
「おお、良いとも、何でも言うてみよ」

「ありがとうございます。実はここに参ります前、ポルージャ子爵から、ひと月前の事件のことをお聞きしました。公爵殿下のご逝去については、心よりお悔やみ申し上げます……予想していたこととはいえ、混乱もなく鎮圧されたと聞いて、胸をなでおろしました。それで、質問ですが、この件に加担した貴族の方々の処罰はどうなるのでしょうか?」

 ルートの問いに、王は目を閉じてしばらくじっと考えてから目を開いた。
「その件については、この後詳しく報告しようと思っておった。それで、ルートよ、なぜ貴族たちの処罰を気にするのだ?」

「はい、それは、私の教え子たちの将来に関わることだからです」
 
 王はルートの答えを聞いて、やはりそうかといった顔で頷いた。
「やかり、そうであったか。わしもそのことがあって、いまだに裁断を下せずにいたのだ。法に従うなら、反逆の罪は死罪。爵位をはく奪、領地召し上げの上、一族はすべて犯罪奴隷に堕とすということになっておる。だが、今回の反乱を前もって知らせてくれたのは、彼らの子供たち、王立学園の生徒たちであった……」

 王は困り果てたようにそう言ってため息を吐いた。
 他の人々も、法と人情の板挟みになって、答えを出せる者はいない。皆、深刻な表情でうつむいていた。

「ルートよ、おぬし、何か考えがあるのではないか?」
 リーフベル先生が、ルートを見つめながらにやりと口元を微笑ませた。

 ルートは頷いて、真剣な目で王を見つめながら言った。
「はい。陛下、今度はお願いのほうです。私に褒美をくださる代わりに、バードル、モートン、シャンペリエ、ラマルク、バンダール、セラーノ、この6人の処罰に猶予をいただけませんか?」

 ルートの言葉に、王ばかりかそこに集まったすべての人間が、驚きに目を丸くした。

「猶予とな……どういう考えか、聞かせてもらえるか?」
 王の問いに、ルートは頷いてゆっくりと立ち上がった。
「法を曲げることは、国の根本を揺るがすことになり、それは出来ません。ただ、法は処罰のためだけにあるのではありません。今回、反乱を起こした先ほどの貴族の方々への処罰は当然のことです。一方、反乱を事前に伝えた彼らの子供たちは、法にのっとって報償を与えられて当然である、そう考えてよろしいですね、陛下?」

「うむ、その通りじゃ」

 ルートは頭を下げてから、こう続けた。
「つまり、このまま法を執行すれば、親は処刑され、その子供たちは褒美を与えられることになります。確かに、過去にはそういう事例もあったでしょう。ただ、今回の場合、子供たち、私の教え子たちは、決して褒美は受け取らないでしょう。もちろん、反抗するという意味ではありません。彼らは、親の罪を重く受け止め、奴隷に堕ちることを選ぶと、私は考えています……」

 その場にいるすべての者が、小さなうめき声を上げ、ある者はこぶしを握りしめ、ある者は歯を食いしばり、王妃とマリウス皇太子は思わず顔を覆って涙を流した。
 ベルナールとリーフベルは、ルートが言ったことが確かだと思ったので、それぞれの胸に1つの決意をもってルートの後の言葉を待った。



  めぐり来る春 2


 ルートは言葉を続けた。
「……私は彼らを救ってやりたい。でも、それを褒美にと言っても彼らは承知しない。それならば、彼らに自分の力で褒美を勝ち獲るチャンスを与えたいのです。
 陛下、この国の南東部、サラディン王国、ハウネスト聖教国、両国と国境を接する広大な未開拓地は、現在、誰の領地でもないと理解していますが、それでよろしいですか?」

 オリアス王はルートが言いたいことを理解して、驚きながら頷いた。
「あ、ああ、その通りだが、ルートよ、まさか……」

「はい、6人の生徒たちには、その未開の地の開拓をやってもらいます」

「ブロワー、そんな無茶なことを……彼らはまだ子供だぞ、できるはずがない」
 ガルニア侯爵がルートの考えに反対の声を上げた。大方の者たちは侯爵と同じ感想を持った。

 ルートはガルニア候に頷いてからこう続けた。
「はい、彼らだけでは無理です。でも、その未開拓地が、将来王国で有数の豊かな土地になるとしたら、進んで開拓に参加する人たちがいるのではないでしょうか。もちろん、私も最初の段階で彼らを手伝いたいと考えています」

 一同は、相変わらず自分たちの想像の斜め上を行く少年の提案に言葉を失ったが、それが決してただの妄言ではなく、確かな根拠の上に発せられた言葉だと知っていた。

「うははは……なるほどのう、そうきたか。つまり、子供たちが力を合わせて未開の地を開拓し、そこを分け合って自分の領地にする、それが今回の反乱を阻止した手柄に対する褒美であり、未開の地を開拓し、王国に新たな領土をもたらす功績として、彼らに親たちを引き取ることを許すという褒美を与える、というわけじゃな?」

 リーフベル先生の言葉に、ルートはにっこり笑って頷いた。
「その通りです。陛下、いかがでしょう、これが私にいただける褒美ということで?」

王はまだあっけにとられたような顔でルートを見ていたが、やがて苦笑しながら額に手をやった。
「あはは……まったく、お前という奴は……なぜ、そんな考えを思いつけるのだ?
ふむ、それで処罰に猶予をくれというわけか。よかろう、そなたの願い、聞き入れようぞ」

 王の答えに、ルートは拳を握りしめて小さく頷き、出席者たちは驚きの声を上げた。

「見事な考えだ、ブロワー先生っ! 及ばずながら、私もお手伝いさせてもらうよ」
 ベルナールは感激したようにそう言うと、ルートのもとへ歩み寄り手を差し出した。
「ありがとうございます、ベルナール先生」
 ルートもその手をしっかりと握った。

「待て待て、もっと詳しい話を聞かねば、とうてい安心できん……」
 ガルニア侯爵が2人を諫めて言った。
「ブロワー、開拓と簡単に言うが、あの《グリムベル》地方は三方を山に囲まれ、夏は高温多湿、冬は多量の雪が降る厳しい気候ゆえに、過去の歴史にも何度も開拓事業が失敗した記録が残っておる。それに、大型小型、多種多様な魔物も確認されておるのだ。甘い考えでは、子供たちがすぐに命を落とすことになるぞ」

「はい、確かにおっしゃる通り、甘い考えでできることではありません。それで、さっきお話にあった険しい山や森をいきなり開拓するのではなく、海に向かって開けた南の平原の方から開拓を進めてはどうかと思います。それには船が必要ですし、港も急いで作らねばなりません。それと、とりあえず彼らが住むための砦と住居ですね。このあたりを、私が手伝ってやろうと考えています」

 ルートの答えに、ガルニア候も他の出席者たちも次第に興奮し、目を輝かせてざわざわと互いに意見を交わし始めた。

「ルート、船の手配にあてはあるのか?」
 ポルージャ子爵の問いに、ルートはにこやかに頷いた。

「はい。実はバルジアの海軍司令官ヒースタン将軍と親しくなりまして、船が必要な時はいつでも声を掛けてくれと言っていただきました。1000人くらいの輸送はお願いできるかなと思います」

ルートの答えに、オリアス王は楽し気な声で笑いだした。
「あははは……なんと、あの頑固者のヒースタンまで篭絡しおったか、まったく大した奴だな、お前は……船なら、遠慮せず我が国の船を使え。いつでも使えるよう、指示は出しておこう」

 ルートは深く頭を下げて、王に感謝した。

「ブロワー、おぬし、先ほど開拓地を王国有数の豊かな土地にすると言っておったが、何か考えがあるのか?」
 今度はコルテス子爵が興味津々の表情で問いかけた。
 
それに対して、ルートは待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑って答えた。
「よくぞ聞いてくださいました、コルテス子爵。実は、昨年私は念願だったあるものを発見しまして……リンドバル辺境伯はご存じですが、まだ製品化するための機械ができていないので公表しておりません……」
 ルートはそう言うと、椅子に掛けていたカバンの中から、皿に載った2個の塩おにぎりを取り出した。いつでも自分が食べられるようにストックしていたのだ。バッグの中は時間が経過しないので、おにぎりはまだほんのり温かかった。

「これは、《コルム》という小麦に似た穀物の種を蒸して、塩をまぶして丸めたものです。どなたか、味見をしてみませんか?」

 ルートの問いかけに、一同はお互いの顔を見合わせたが、リーフベル先生がすぐに手を上げた。
「わしが味見しよう。どれどれ……うほほぉ、まだ温かいのう……あむ……」

 一同はじっと先生の反応を見つめている。

 リーフベル先生は、最初難しい表情でもぐもぐと口を動かしていたが、突然、とろけそうな笑顔になって叫んだ。
「うっほおおおっ! 美味いっ! なんじゃ、この美味さは……あむあむ……」

「おおっ、そんなに美味いのか? では、わしも……」
 オリアス王が、子供のように目を輝かせながら、リーフベル先生のもとへ行って、残っているもう1個のおにぎりを手に取り、しばらく眺めた後1口かぶりついた。
「んんん……美味いっ……ただ、塩で味付けされているだけなのに、なんという豊かな味わいじゃ。これは、やめられん……あむあむ……」

 リーフベル先生とオリアス王が仲良く並んで、幸せそうな顔でおにぎりを頬張る様子に、他の出席者たちも思わずごくりと垂涎を飲み込んだ。

「いかがですか?この《コルム》は現在、リンドバル様の領地で、青狼族の人たちに作ってもらう段階に入っています。今年の秋の終わりには、まだ少しですが、皆様のもとへもお届けできると思います。この《コルム》を開拓地で大量に生産できるようになれば、きっと売れるのではないかと……」

 ルートの言葉に、名残惜し気に指をしゃぶっていたリーフベル先生が大きく頷いた。
「うむ、間違いない。これは、飛ぶように売れるぞ。おぬしのことじゃ、これを使った料理も、すでに考えているのであろう?」

 ルートは頷いて、またしてもいたずら小僧のような笑みを浮かべた。
「はい、いろいろと。さて、実は、開拓地で生産したい物は《コルム》だけではありません」
 ルートはそう言うと、また、バッグの中から何かを取り出した。

 今度は2個のティーカップとティーポットだった。一同が身を乗り出すようにして一心に見守る中で、ルートはポットの中の液体をカップに注ぎ始めた。それは、紅茶より少し濃い色の液体だった。

「ん? 何か、良い匂いがするぞ」
「ああ、何とも香ばしい香りじゃ……」
 すぐに周囲の人々が、湯気とともに立ち上る香りを感じて、うっとりとした表情になった。

 もう、今度は自分が味見をしようと、一同が待ち構える中で、ルートは2つのカップを持って、王妃とマリウスのもとへ持っていった。

「まずは、王妃様、皇太子殿下、どうぞお試しになってください」

「まあ、よろしいのですか? では、遠慮なく……」
「ありがとう、ブロワー先生。いただきます」
 2人は嬉しそうに目を輝かせて、上品なしぐさでカップを口に運んだ。



   めぐり来る春 3


「まあ、いい香り……お茶とは全く違いますね。ではいただきます」
 王妃と皇太子は香りに満足してから、一口すすった。
「おお……これは……心地よいほろ苦さ、微かな甘みがあって……心を癒してくれるな」
 皇太子マリウスがそう言って満足そうな笑みを浮かべた
「ええ、本当に……ブロワー教授、これは何という名前ですか?」

 王妃の問いにルートはにこやかに答えた。
「はい、これは西の大陸で見つけた『ビジャブ』という木の実の種を乾燥して火で少し炙り、細かく砕いて水で煮だしたものです。《カフェイン》という成分が含まれていて、一時的な疲労回復の効果があります。私はこれを『コーヒー』と名付けようと思っています」

「コーヒー……なにか不思議な響きですね。でも、この飲み物にはピッタリな気がします」

「お、おい、ルート、わしにはないのか?」
 オリアス王が要求を口にすると、すぐにガルニア候やリーフベル、その他の出席者たちも手を上げて自分たちも飲みたいと所望した。

「ああ、すみません、種はあるのですが、これは先ほど言ったように開拓地に植えようと思っているので……」
 ルートが申し訳なさそうに答えると、ガルニア候が反駁した。
「種などとは言わず、西の大陸から苗木を持ってくればよいではないか。その方が早く収穫できるだろう?」

「い、いや、とても貴重な木ですから、それは……」
 ルートはそう言いかけてから、ふと思いついた。
(そうか、種に魔法を掛けて成長を早めればいいんじゃないか? うん、今度試してみよう)

「分かりました。準備に少し時間がかかりますので少々お待ちください」
 ルートはそう言うと、バッグの中から人数分の赤い実と手作りの道具類をテーブルの上に出した。結局、実の皮をむき、出てきた白い種から水分を抜き取り、小さな石鍋で焙煎し、細かく砕くという一連の作業を魔法で済ませ、専用ポットに入れて水を注ぎ、携帯魔石コンロで煮だすという作業を、人々の矢継ぎ早の質問に答えながら30分ほどかけてようやくやり終えた。
 すでに、煮出している途中から、コーヒーの香りが部屋全体に広がり、人々の期待をいやがうえにもかきたてたが、実際に飲んでみて、彼らはそれがやがて紅茶を凌駕する人気商品になる事を確信したのだった。

 こうして、代表者たちへの慰労の宴は、ルートによる新商品のプレゼンテーションの場になってしまった感があった。しかし、これが一同の「開拓への不安」をかなり取り除いたのも事実だった。ポルージャ、リンドバル、コルテスの開拓予定地に近い領主たちは、さっそく開拓の経験者たちからなる開拓団を組織して協力することをルートに約束した。もちろん、将来開拓地から生産される《コルム》や《コーヒー》の優先的な仕入れと販売権を得るのが目当てでもあった。
だが、そうなると、他の貴族たちも黙ってはいられない。そうした貴族同士の争いを見越したガルニア候は、先手を打って王に提言した。

「陛下、この開拓事業、ブロワーへの褒美と反乱を知らせた子女たちの救済を目的とするにしても、名目上はやはり国家事業とすべきかと考えます。そうすれば、相応の予算も組めますので、ブロワーの経済的な負担も軽減するでしょう。そして、将来開拓地から生産された産物は、ブロワーの《タイムズ商会》が一括管理し、各領地の代表商人に平等に卸して販売させる形にすれば、領主から不満が出ることもないかと考えます」

 オリアス王は、侯爵の意見に大きく頷いて、一同に宣言した。
「侯爵の意見はもっともである。よって、ここに此度の『グリムベル地方開拓』は国家による事業とし、その責任者にルート・ブロワーを任命する。なお、この事業によって得られた土地は、バードル、モートン、シャンペリエ、ラマルク、バンダール、セラーノの子女たちが平等に分け合い、それぞれの領地とすることを認める。爵位については、彼らの親たちの爵位は取り上げ、領地も没収した上で、新たに子女たちの功績に見合った新爵位を後日授与する。そして、領地が確定したあかつきには、現在王城の地下牢に拘留中の父親、自宅謹慎中の親族を各領地に引き取る権利を与えるものとする。これで、異議はないか、ルート?」

 ルートは、王に体を向けて深く頭を下げた。
「はい、異議はございません。私のわがままを聞いていただいた上に、過分なご配慮をいただき、感謝に堪えません。必ず、この国のためになるよう最善を尽くすことをお約束します」


 翌日、久々に王立子女養成所の門をくぐったルートは、さっそく放課後ジャン・バードル以下の生徒たちを自分の研究室に呼んで、王の言葉を伝えた。
 アラン・ドラトによって心に深い傷を負ったエリス・モートンは、自宅に引き籠っていたが、ベルナールがモートンの屋敷を訪れ、ルートに代わって王の言葉を伝えた。すると、彼女は一晩悩んだ末に、学園に登校してジャンたちとともにルートの研究室に顔を見せたのだった。

「……以上が、国王陛下から下された今回の事件に対する処罰と、反乱を事前に知らせてくれた君たちへのご褒美の内容だよ」

 聞き終えた生徒たちは、決意を秘めた良い表情でルートを見つめ、しっかりと頷いた。その直後、ジャンがいきなり立ち上がって、ルートに深々と頭を下げながら言った。
「ブロワー先生、ずっと先生に謝りたいと思っていましたが、勇気がなくて今までできませんでした。これまでの先生に対する失礼な言動、どうかお許しください。
 僕は、最初のホームルームの時間から、ずっと先生がおっしゃったことを考え続けてきました。そして、この半年間いろいろな経験や同級生たちとの交流を通して、分かったことがたくさんありました。ただ、その1つ1つを認め、今までの自分の考え方を変えていくのは、苦しかったし、勇気が必要でした。
 でも、今回父の行動を見て、先生がおっしゃっていた「貴族として果たすべき役割」を、行動で示すのは今しかないと思いました。結果的に父を裏切ることになりましたが、後悔はしていません。僕は、必ず、陛下に、そして先生に与えていただいたこのチャンスを生かして見せます。たとえ石にかじりついてでも、必ず……」

 いつしか、ジャンの頬を涙が流れ落ちていた。そして、じっと聞いていたルートの頬にも一筋の涙が流れ落ちていった。

「ジャン、よく頑張ったね……偉いぞ……」
「先生……ううっ」

「僕が一番偉いと思う人間は、失敗から学び、反省して自分を変えられる人間だ。そういう人間はどこまでも成長し、向上していく。ジャン、僕は君を1人の人間として尊敬する」
 ルートは立ち上がってそう言うと、ジャンに向かって手を差し出した。ジャンはその手を両手でしっかりと握りしめた。
「先生、ありがとうございます」

「ジャン、私も頑張るわ。グリムベルをどこにも負けない素晴らしい土地にしましょう」
「僕も負けない。一緒に頑張ろう」
「僕もやるぞ」
「私も頑張る」
 生徒たちが次々と立ち上がって、ルートとジャンの手の上に自分の手を重ねていった。
 
 残った1人、エリス・モートンはずっとうつむいていたが、やがて顔を上げてルートを見つめた。その頬にはやはり涙の跡が光っていた。

「ブロワー先生、ようやく分かりました……いいえ、本当はもうずっと前から分かっていたんです。でも、私の愚かなプライドが、世間知らずの狭い考えが、それを認めなかった。でも、今、ジャン・バードルの言葉を聞いて、私も自分の愚かさを認める勇気をもらいました。
……身も心も、あの忌まわしい男によって、ズタズタにされましたが……まだ、私には残っているものがある……エリス・モートンという人間はまだここにいる。無駄な虚飾をすべて取り払った、一番大切な、いとしい自分がいる。
 この当たり前の、でも、何より大切なことに気づくように、神は今回の辛い試練を与えて下さった……そう思えるようになりました。先生、私もこれからここにいる皆と一緒に頑張ります。自分に誇れるエリス・モートンになるために……」

 ルートはこみ上げる涙をこらえながら、何も言わずエリスを優しく抱きしめた。
「せ、先生……」
 エリスは戸惑って、頬を赤くしたが、やがて新たな涙を流しながら、ルートの肩に頭を乗せて嬉しそうに微笑むのだった。

 こうして、ルートを団長とする『グリムベル開拓団』は、まだ寒さの残る3月12日、ラークスの港から出発していった。ここから南に向かい、サラディン王国の周囲を回って、海側からグリムベルに入るのである。

 試練を乗り越えてたくましくなった6人の生徒たちは、大勢の見送りの人々に輝く笑顔で手を振り、更なる試練の待つ未開の地へと旅立っていった。
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