野良ドールのモーニング

森園ことり

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「いらっしゃいませ」

 挨拶をした美帆さんに軽く会釈をするのは、鳥打ち帽をかぶった白髪の男性。常連のカワセさんだ。白のポロシャツに黒のカーディガンとズボン。いつもシックにまとめている。

「こっち」

 待ちかねたようにトキコさんが手を振る。
 カワセさんも軽く手を上げて歩いてくると、彼女の向かい側の席に腰をおろした。

「どこか寄ってきたの?」

 たった十分ぐらい、いつもより来るのが遅かっただけで、トキコさんは気をもんだようだ。

「少し出るのが遅れたかな」

 カワセさんは微笑みを浮かべながら、黒の鳥打ち帽を脱いで隣の席におく。
 僕はトキコさんのモーニングを運んでいった。
 彼女がいつも頼むのはトーストとベーコンエッグの400円のモーニングだ。ドリンクバーとスープバーがついている。

「僕もこれ」

 カワセさんもいつも同じものを注文する。
 かしこまりましたと厨房に戻ると、美帆さんが僕のことを手招きした。

「最近、店長元気ないと思わない?」
「え、店長がですか?」

 この店の店長、笠松真嗣(かさまつしんじ)は同僚と滅多に話さない。
 三十五歳で新婚。バイク通勤。
 これぐらいの情報しか僕は知らない。
 お喋り好きな美帆さんがあの手この手でプライベートを探ろうと話しかけても、さらっと流されて相手にされない。

 僕なんかは最初から話しかけるのを諦めている。挨拶だけはしっかりしているけれど。
 店長はいつも無表情なので、元気がないかどうかなんて僕はまったく気づかなかった。

「なんか難しい顔でパソコン睨んでたから、なんかあったのかなぁって」

 パソコンというと、店の売り上げがかんばしくないとか、そういうことだろうか。
 僕がそう言うと、美帆さんは鼻で笑った。

「ここの売り上げがよくないのは、店長が来た当初から変わらず、よ。いまさらでしょ」

 あなたに訊いたのが間違いだった、みたいに美帆さんはフロアに向かった。カワセさんのモーニングを運びながら。
 僕もフロアに向かう。食べ終わった皿を回収していると、例の白ドレスの彼女と目があった。
 皿は全部きれいに空っぽ。グラスやマグカップも大量に並んでいる。

「ごちそうさま」

 彼女はにっこり笑った。
 満腹になったことだしお帰りだろうか。

「大丈夫ですか、気分のほうは」
「うん、大丈夫」
「ここの代金は僕が払っておくので気にしないでください」

 連れてきたのは僕だからね。うん。

「ありがと。ここの店長さん、いまいる?」

 え?

「店長……ですか。まだ出勤してないですが」
「何時に来るの?」
「今日は、たぶん九時です」
「そう。じゃ来たら、私のところに来るように言ってもらえる?」
「はあ……」

 なんで店長? なに話すんだ?
 まさか僕に助けられたことを店長に伝えるとか? でも店長、関係ないし。
 あるいはクレームとか。ただ飯食べてなんのクレームがあるんだよ。

 もしかして僕、とんでもないのを拾ってきてしまったんだろうか。考えてみれば、こんなドレス着て倒れてたなんて普通じゃないし。
 なんで職場に連れてきたんだ、僕は。あほか。

 ここはなんとか穏便に立ち去って欲しかったが、当の彼女はドリンクバーにゆるゆると歩いていく。
 まだ飲むんかい。
 ここで帰れとか言ったらたぶん揉めるだろうな。
 悪いけど、店長にまかせるしかないか。あとで冷たく絞られそうだけど、しかたない。

 肩を落として彼女がきれいに食べ終わった皿やグラスなどを下げる。
 厨房に向かう時、入口からピンク色のブラウスに白いスカートを穿いた女性が入ってきた。ブランド物の小さなトートバッグを手にかけている。肩につかないぐらいのふんわりした茶色い髪。年齢は六十代なかばぐらいだろうか。シワはあるがメイクをきちんとしているせいで、若く見える。
 最近、この店のモーニングを食べに来るようになったアヤメさんだ。

「おはようございまーす」

 アヤメさんはカワセさんの姿を見つけると、ちょこちょこ小走りで駆け寄った。トキコさんにもにっこり会釈する。

「ご一緒してもいいかしら?」
「だめ」

 ぴしゃり、とトキコさんが真顔で言うと、アヤメさんはきゃっきゃと笑う。そしてカワセさんの隣に座る。

「いじわるなんだから、トキコさんたら」
「いじわるばあさん呼ばわりなんて失礼ね」
「おばあさんなんて誰が言うもんですか。トキコさんは若い若い」

 アヤメさんが甲高く笑うたびにトキコさんの目が鋭く細くなっていく。
 カワセさんは席をたってドリンクバーへと向かった。

「お兄さーん、私、パンケーキのモーニングね。スクランブルエッグで」

 かしこまりました、と言う僕の視界のはしっこでトキコさんの頬がひきつった。一瞬目が合った僕をぎろりと睨みつける。怖い。八つ当たりはやめて。

 僕はそそくさと厨房へ戻った。
 注文を料理スタッフの馬嶋さんに伝える。
 カワセさんのモーニングを運んできた大さんが、にやにやしながら僕に囁く。

「トキコ様が荒ぶっておられる」

 トキコさんは僕が働く前からこの店に通ってる常連で、常連客の中でも一番の古顔だ。
 従業員でも五十五歳の料理スタッフ小鹿(おが)さん以外は、トキコさんよりあとにこの店に来たことになる。
 だからスタッフの間でもトキコさんは特別で、時に「トキコ様」として話題にのぼることもある。
 トキコさんがカワセさんに好意があることも、周知の事実だ。

 カワセさんが店に通うようになったのは二年ほど前。ちょうど僕が働きはじめた頃のことだった。
 そのまえのトキコさんは、店に来る他の客とは適当に会話するだけで、テーブルを共にすることはなかったらしい。

 ところが、風のようにある日突然現れた上品で清潔感のあるカワセさんをひと目でいたく気に入った。そして彼女のほうから彼のテーブルに押し掛けるようになった。
 いまでは毎日向かい合って食事をするのが当たり前のようになっている。

 そんな二人の前に現れたアヤメさんという年下の女性を、トキコさんが疎ましく思うのは仕方のないことだろう。
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