野良ドールのモーニング

森園ことり

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 授業が終わるとソッコー、大学を出て家に帰った。
 巧は連絡しろと言ってたけど、そんなのはスルー。バイトで疲れてたとかあとでいくらでも言い訳はできる。
 彼は細かいことを気にしないから大丈夫だ。

 でも樹奈は気にするだろう。
 たぶん今はお互い気まずいけど、一ヶ月もすれば少しはこの羞恥心もましになるはずだ。それまで、顔を合わせる頻度を減らして耐えるしかない。

 そうだ。バイトを増やしてもいいかも。どうせ店長は人出が足りなくて困ってるんだから、もっとシフトを入れてくれと言ったら喜んでくれるだろう。
 白ドレスを雇うぐらいだから、たぶん断られないはずだ。そうだ、そうしよう。

 自転車でアパートに着くと、ほっとした。
 なんか疲れた。まだ日は落ちてないけど、軽く夕飯食べて寝ちゃいたいぐらいだ。

 僕が暮らすアパートは坂の上にある。エアコン、トイレ、お風呂がついてて三万円。
 安い家賃なのに、借り手が僕を入れて二人しかいないのは、隣の家に住む大家さんが口うるさいからだ。
 大家の正子(まさこ)さんは高校生のお孫さんと二人暮らしをしている。
 部屋でギターを弾いたり、友達を呼んで騒いだりした住人たちは、正子さんの小言に耐え切れずに去っていった。

 一階に住む灰野葉(はいのよう)さんは、美大出の女性の画家さんだ。五十代らしいが詳しい年齢は知らない。一年中灰色の上下を着ている。
 学生相手に絵を教えているらしいが、よく正子さんの家にご飯を食べに行っている。夕飯時になると、彼女が彼の部屋の前で「カレーできたわよー」「ハンバーグ食べるー?」とか叫ぶのが聞こえてくる。
 僕が住む時も、「絵を描くのが趣味で」と母がふと漏らしたら、正子さんの表情がやわらかくなったそうだ。

 大家さんはどうやら、芸術家がお好きらしい。というか、信頼しているのかもしれない。
 亡くなった旦那さんが昔絵を描いていた、と聞いたことがある。息子さんも作曲家だったとか。息子さんは離婚後に息子の剣太郎(けんたろう)君を引き取って、正子さんの家に戻ってきた。そんな彼も十年前に車の事故で他界している。

 アパートの階段を上がりかけた時、正子さんの家からピアノの音が聞こえてきた。
 空耳か、と思ったがやはりピアノの音だ。しかも、本格的な曲を弾いている。名前はわからないが、僕でも知っているような曲だ。
 テレビやラジオの音ではない。生音の響きがちゃんする。

 僕は正子さんの家に近づくと、縁側をそっと見た。そこはいつも戸が開いている。やはりそこからピアノが聞こえてくる。
 正子さんの家にピアノがあるかどうかはわからないけど、あっても不思議ではない。
 ピアノの音に導かれるように、僕は門扉を開けて庭に入っていった。

「正子さん、こんばんは」

 一応声をかける。ピアノのメロディがその言葉を打ち消す。クライマックスに向けて高まっていく音色に、周囲の空気がびりびりいう。僕は庭に佇んで、その美しくすさまじい響きに打たれていた。
 学生の頃、学校の課外授業でコンサートを聴きに行った時のことを思い出す。稀有な才能の持ち主たちが舞台上から僕をめためたに圧倒した時のことを。
 気づくと音はやんでいて、縁側に立った正子さんが僕を見ていた。

「あんた、そこでなにしてんの」

 僕ははっとした。

「す、すみません。ピアノの音が聞こえたもので」

 正子さんはなあんだというように笑った。

「そりゃびっくりするわよね」

 そう言って正子さんが振り返ると、部屋の中から白ドレスの彼女が歩いてきた。

「え?」

 彼女は白ドレスのままだ。僕を見ても驚かず、「おこんばんは」と手を振っている。

「知り合いなんだってね。彼女も二階に住むことになったからよろしくね」
「に、二階に? なんで?」
「なんでじゃないわよ。そういうことに決まったの」

 そう言うと、正子さんはぴしゃりと縁側の戸を閉めてしまった。
 な、なんで? どうしてそんなことに?
 大家さんは気難しい人で、気に入らない人は絶対に住まわせない。なのになんで突然現れた彼女をアパートに迎え入れたんだろう。

「な、なんなんだよ」

 今日何度目かの言葉を、僕は口の中でもごもご呟いた。




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