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その日は九時を過ぎてから家に帰った。
早く帰ればきっと柳子が夕飯を誘いに来る。
大学の授業を終えるとそのまま図書室で勉強をして、牛丼を食べて帰宅した。
部屋に来られたら嫌だなと思ったけど、その夜は柳子はやってこなかった。
水曜日は大学の授業も休み。
寝坊して十時ごろ起きると、近所の喫茶店に向かおうと部屋を出た。
すると、ドアを開けたところになにか置いてある。
おにぎりのようだ。
メモ用紙がそのわきに置いてあった。
『おはよう りゅうこ』
柳子か。
ラップにつつまれたそれは桃色で覆われている。桜でんぶのようだ。
形は……桃? いや、ハート、か。
お礼のつもりだろうか、もろもろの。
柳子の部屋を見る。もうとっくに仕事に出てるよな。
その場で一口食べてみた。中にはシャケが入っている。
桜でんぶのおにぎりなんてはじめて食べた。なんか甘い……。
残りも食べながら喫茶店に向かう。
目当ての店『旋律(せんりつ)』はいつ行っても誰もいない穴場だ。
というのも外観がひどいので客が寄りつかない。汚れたレンガ風の壁にはツタがからまり、その下に発泡スチロールの鉢植えがびっしり置かれている。植えてある植物はとうに枯れており、空き缶などのゴミが投げ込まれている。
この店をやっている夫婦は正子さんの知り合いだ。
「あそこのコーヒー豆、いいやつ使ってんのよ」
正子さんにそう言われて、物は試しと一度行ってみてはまった。
確かにコーヒーはおいしかったが、それ以上に居心地がよかった。
悲惨な外観とは正反対で、店内は清潔に保たれていた。もしかすると、店内の掃除で力を使い果たして外まで手がまわらないのかもしれない。
床もテーブルもカウンターもぴかぴかで、店内には(禁煙)の貼り紙もしてある。
コーヒーカップは夫婦がひいきにしている作家の一品ものらしく、どれも味わいがある。
「コーヒーとクラシックが好き」
そんなご夫婦は商売にはまるでやる気を出さない。ずっとカウンターに座って、クラシックを聴きながらコーヒーを飲み、読書に耽っている。
それでも、正子さんの紹介で来た僕にはよくしてくれた。
ゆっくりしていってねと、コーヒー一杯で何時間いても嫌な顔をしない。たまにもらいもののクッキーとか果物とかもくれる。
年齢は内緒らしいが、見た目は六十前後だ。アンとマークとお互い呼び合っている。本名は知らない。
「こんにちは」
店に入っていくと、モーツァルトの軽やかな曲が聴こえてきた。別に僕はクラシックに詳しくないけど、マークさんがモーツァルトが好きなので覚えてしまった。ちなみにアンさんはベートーヴェンがお気に入りだ。
「いらっしゃぁい」
カウンターで本を開いていたアンさんが振り返った。
「モーニングお願いできますか」
「いいわよ。今日はなんだか肌寒いわね。雨でも降るのかしら」
「夕方から降るらしいですよ。空模様がおかしいですよね」
「こういう日は体が重くって。年ねぇ」
「マークさんは?」
「食パンが切れそうだからって買いにいったところ」
この店のモーニングはピザトーストとゆで卵、それに飲み物がついてくる。僕はもちろんコーヒーを注文する。
「ここのパン、すごくおいしいですよね」
カウンターの中に入ってパンを厚切りに切っているアンさんが、赤い口紅を塗った唇をにいっと横に引き伸ばすようにして笑った。
「パンにはこだわってるのよ。まずいのは食べたくないし、出したくないからね」
「チーズもすごくおいしいです」
「そんなこと言われたら、チーズ増量しちゃうじゃない」
古いが大きいオーブンに、ハムとトマト、たっぷりのチーズをのせた食パンを入れる。
今日もがらがらの店内を見て、ファミレスの閉店の話を思い出した。
「このお店、すごく忙しそうには見えないですけど、やっていけてるんですよね」
失礼な言い方になってしまったけど、アンさんはコーヒーをサイフォンで淹れながら微笑んだ。
「そうね。ここ、うちのものだし、決まった常連さんが毎日来てくれるからなんとかね」
夫婦はお店の二階に住んでいる。
「近所のお年寄りがご飯を食べに来るのよ。料理作るのって準備や後片付けが大変じゃない。お弁当届けてもらうのも味気ないらしいわ。ここなら温かいもの食べられて、お喋りもできるし、いいみたいね」
言い方は悪いけど、いまにも潰れそうなこういう店でも、うちのファミレスよりはずっと需要があるということだ。
ファミレスが閉店する話をしたくなったけど、我慢した。たぶんまだ内緒の話だろうから。
お喋りをしながら熱々のピザトーストを食べていると、夫のマークさんが戻ってきた。
食パン以外にもどっさり買ってきて、二人は自分たちのためにコーヒーを淹れて、おいしそうなアンズのデニッシュを食べはじめた。僕はブルーベリーのマフィンのおすそわけをもらった。
二人が読書をはじめると、僕もコーヒーを飲みながら漫画日記を描いた。
ピアノを弾く柳子、ファミレスで働く柳子、閉店を言い渡される僕。
お昼頃に喫茶店を出た。チーズ増量の厚切りピザトーストとマフィンを食べたのでお腹いっぱいだ。
家に帰って昼寝でもしよう。
近くの小さな公園の前を通りかかった時、赤いベンチに座って鳩たちに囲まれている灰野さんを見つけた。
なにしてんだ、と見ると、おにぎりを黙々と食べている。
早く帰ればきっと柳子が夕飯を誘いに来る。
大学の授業を終えるとそのまま図書室で勉強をして、牛丼を食べて帰宅した。
部屋に来られたら嫌だなと思ったけど、その夜は柳子はやってこなかった。
水曜日は大学の授業も休み。
寝坊して十時ごろ起きると、近所の喫茶店に向かおうと部屋を出た。
すると、ドアを開けたところになにか置いてある。
おにぎりのようだ。
メモ用紙がそのわきに置いてあった。
『おはよう りゅうこ』
柳子か。
ラップにつつまれたそれは桃色で覆われている。桜でんぶのようだ。
形は……桃? いや、ハート、か。
お礼のつもりだろうか、もろもろの。
柳子の部屋を見る。もうとっくに仕事に出てるよな。
その場で一口食べてみた。中にはシャケが入っている。
桜でんぶのおにぎりなんてはじめて食べた。なんか甘い……。
残りも食べながら喫茶店に向かう。
目当ての店『旋律(せんりつ)』はいつ行っても誰もいない穴場だ。
というのも外観がひどいので客が寄りつかない。汚れたレンガ風の壁にはツタがからまり、その下に発泡スチロールの鉢植えがびっしり置かれている。植えてある植物はとうに枯れており、空き缶などのゴミが投げ込まれている。
この店をやっている夫婦は正子さんの知り合いだ。
「あそこのコーヒー豆、いいやつ使ってんのよ」
正子さんにそう言われて、物は試しと一度行ってみてはまった。
確かにコーヒーはおいしかったが、それ以上に居心地がよかった。
悲惨な外観とは正反対で、店内は清潔に保たれていた。もしかすると、店内の掃除で力を使い果たして外まで手がまわらないのかもしれない。
床もテーブルもカウンターもぴかぴかで、店内には(禁煙)の貼り紙もしてある。
コーヒーカップは夫婦がひいきにしている作家の一品ものらしく、どれも味わいがある。
「コーヒーとクラシックが好き」
そんなご夫婦は商売にはまるでやる気を出さない。ずっとカウンターに座って、クラシックを聴きながらコーヒーを飲み、読書に耽っている。
それでも、正子さんの紹介で来た僕にはよくしてくれた。
ゆっくりしていってねと、コーヒー一杯で何時間いても嫌な顔をしない。たまにもらいもののクッキーとか果物とかもくれる。
年齢は内緒らしいが、見た目は六十前後だ。アンとマークとお互い呼び合っている。本名は知らない。
「こんにちは」
店に入っていくと、モーツァルトの軽やかな曲が聴こえてきた。別に僕はクラシックに詳しくないけど、マークさんがモーツァルトが好きなので覚えてしまった。ちなみにアンさんはベートーヴェンがお気に入りだ。
「いらっしゃぁい」
カウンターで本を開いていたアンさんが振り返った。
「モーニングお願いできますか」
「いいわよ。今日はなんだか肌寒いわね。雨でも降るのかしら」
「夕方から降るらしいですよ。空模様がおかしいですよね」
「こういう日は体が重くって。年ねぇ」
「マークさんは?」
「食パンが切れそうだからって買いにいったところ」
この店のモーニングはピザトーストとゆで卵、それに飲み物がついてくる。僕はもちろんコーヒーを注文する。
「ここのパン、すごくおいしいですよね」
カウンターの中に入ってパンを厚切りに切っているアンさんが、赤い口紅を塗った唇をにいっと横に引き伸ばすようにして笑った。
「パンにはこだわってるのよ。まずいのは食べたくないし、出したくないからね」
「チーズもすごくおいしいです」
「そんなこと言われたら、チーズ増量しちゃうじゃない」
古いが大きいオーブンに、ハムとトマト、たっぷりのチーズをのせた食パンを入れる。
今日もがらがらの店内を見て、ファミレスの閉店の話を思い出した。
「このお店、すごく忙しそうには見えないですけど、やっていけてるんですよね」
失礼な言い方になってしまったけど、アンさんはコーヒーをサイフォンで淹れながら微笑んだ。
「そうね。ここ、うちのものだし、決まった常連さんが毎日来てくれるからなんとかね」
夫婦はお店の二階に住んでいる。
「近所のお年寄りがご飯を食べに来るのよ。料理作るのって準備や後片付けが大変じゃない。お弁当届けてもらうのも味気ないらしいわ。ここなら温かいもの食べられて、お喋りもできるし、いいみたいね」
言い方は悪いけど、いまにも潰れそうなこういう店でも、うちのファミレスよりはずっと需要があるということだ。
ファミレスが閉店する話をしたくなったけど、我慢した。たぶんまだ内緒の話だろうから。
お喋りをしながら熱々のピザトーストを食べていると、夫のマークさんが戻ってきた。
食パン以外にもどっさり買ってきて、二人は自分たちのためにコーヒーを淹れて、おいしそうなアンズのデニッシュを食べはじめた。僕はブルーベリーのマフィンのおすそわけをもらった。
二人が読書をはじめると、僕もコーヒーを飲みながら漫画日記を描いた。
ピアノを弾く柳子、ファミレスで働く柳子、閉店を言い渡される僕。
お昼頃に喫茶店を出た。チーズ増量の厚切りピザトーストとマフィンを食べたのでお腹いっぱいだ。
家に帰って昼寝でもしよう。
近くの小さな公園の前を通りかかった時、赤いベンチに座って鳩たちに囲まれている灰野さんを見つけた。
なにしてんだ、と見ると、おにぎりを黙々と食べている。
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