9 / 47
9
しおりを挟む
「あ、池間君」
見つかってしまった。
彼女が手招きしたので、僕はいい匂いがする公園の中に入っていった。公園の裏手の家の庭に白いジャスミンが咲いている。
僕は軽く頭を下げてから灰野さんの隣に座った。
「お昼ご飯ですか」
「そう。正子さんお手製の焼肉おにぎり。いる?」
おにぎりの中に、焼肉のタレの匂いがぷんぷんする肉がたっぷり入っている。
「いえ、モーニングを食べてきたばかりなので」
「あぁ、今日、水曜か。池間君のお休みの日だ」
正子さんに聞いたのだろう。
「そうなんです。灰野さんは教室ですか?」
灰野さんは公民館の部屋を借りて、小中学生に絵を教えている。たまに青空教室もやって、写生なんかもしにいくらしい。
と、正子さんから聞いた。
「午後からね。行きたくないなぁ」
そう言って、空を見上げながら灰野さんはもぐもぐおにぎりを食べた。
「絵を教えるの、大変なんですか?」
「そういうわけじゃないんだけどね」
灰野さんは画家として生きている。
画家としての収入がもっと増えることが理想なんだろうけど、そううまくはいかない。年に一回は個展を開いているが、なかなか作品は売れない。
これも、正子さんから聞いた。
「いまって、インターネットでいろいろできるみたいですよね。作品の投稿サイトとか、自分の絵をグッズにして販売するとか。わからないけど、調べたら色々ありそうですよね」
そうだね、と灰野さんは言って、携帯マグに入っているなにかをごくごく飲んだ。
「そういうのでうまく稼げたらいいんだけど、なんか考えるだけで面倒でね。絵を描く以外のことができない私です」
「僕、なにか調べてみましょうか」
「ううん、大丈夫」
灰野さんはやっとおにぎりを一個食べ終えると、横に置いてある象のアップリケがついた黄色い巾着袋の中を覗いた。
男のこぶし大の大きなおにぎりがまだ二つ入っている。
「私を食べ盛りの野球少年とでも思ってるのかな」
彼女は小さくゲップをすると顔しかめて、慌てて巾着袋の口を絞った。
「いま、どういう作品描いてるんですか?」
「宇宙」
「宇宙、ですか」
「宇宙って、実際見たらどんな感じなんだろうね。私は怖い感じがするんだけど。見たら感動とかすんのかな、やっぱり」
「怖いですか?」
「怖いでしょ。空気ないんだから。池間君はロマン感じたりする? 宇宙、行きたい?」
「僕、車酔いするんで、乗り物はちょっと……」
「私も。それでかな。怖いの」
灰野さんの宇宙の絵ってどんなのだろう。
「あ、『旋律』でもらったんですけど、食べます? お腹いっぱいでしょうけど」
マークさんにもらったドーナツを、紙袋から取り出して差し出した。小ぶりのドーナツが五個入っている。
「正子さんたちとみんなでって」
「満腹でも甘いものは入るんだよな」
いただきますと灰野さんはドーナツを手にとって、嬉しそうに食べはじめた。
食べこぼしを狙って鳩たちが僕らのまわりで騒ぎだす。
空腹ではないが僕も一つ食べることにした。
灰野さんは今日も灰色の上下だ。
「灰野さんて、いつも灰色の服ですよね」
彼女は膝の上に落ちたドーナツの食べこぼしを手で払った。鳩たちがばさばさまた騒ぐ。
「そうね。前は黒着てたんだけど、『威圧感あるよ』って正子さんに注意されたから、灰色にしたの。白は汚れやすいから、その中間の色ね。今度は『作業服』って言われたけど、もうどうでもいいわ」
「名前からその色を選んでるんだと思ってました」
「それもあるわよ。まあ、もらいものの服なら黄色でも赤でも着るけどね。自分で選ぶとなると、なに買ったらいいかわかんないし」
灰野さんは小さく息を吐いた。
「池間君。私、ちょっと太ったと思わない?」
「そうですか。見た感じわからないですけど」
「三キロも太ったのよ。正子さんがあれもこれも食べろってお皿にてんこ盛りにするせいだと思う。このまえ、ご飯の量を少し減らして欲しいって頼んだらすごい剣幕で怒られたわ。私ももう五十を過ぎて、消化能力が落ちてきたから、量が多いのはきついのよ。そう説明してもだめ。最近ね、私、ご飯の時間がちょっと憂鬱なの。胃薬も欠かせないし」
「そんなにですか」
「そうよ。だから、池間君がちょっとうらやましい。あなた、いくら正子さんが誘ってもご飯にこないでしょ。偉いわよね。自分の意志をきっちり押し通して。見習いたいもんだわ」
ふぅ、と彼女はまた息を吐いた。
「ごめんね、引き止めて。休みだから用事もあるんでしょ」
「いえ、部屋に帰って昼寝するだけですから」
「それは立派な用事よ。私も昼寝したいもんだわ」
「教室が終わったらしてください」
「そうよね。生きるって大変。昼寝して絵だけ描いてたいわ」
僕はまたファミレスの閉店のことを思い出してしまった。
早く帰って寝よう。
*
見つかってしまった。
彼女が手招きしたので、僕はいい匂いがする公園の中に入っていった。公園の裏手の家の庭に白いジャスミンが咲いている。
僕は軽く頭を下げてから灰野さんの隣に座った。
「お昼ご飯ですか」
「そう。正子さんお手製の焼肉おにぎり。いる?」
おにぎりの中に、焼肉のタレの匂いがぷんぷんする肉がたっぷり入っている。
「いえ、モーニングを食べてきたばかりなので」
「あぁ、今日、水曜か。池間君のお休みの日だ」
正子さんに聞いたのだろう。
「そうなんです。灰野さんは教室ですか?」
灰野さんは公民館の部屋を借りて、小中学生に絵を教えている。たまに青空教室もやって、写生なんかもしにいくらしい。
と、正子さんから聞いた。
「午後からね。行きたくないなぁ」
そう言って、空を見上げながら灰野さんはもぐもぐおにぎりを食べた。
「絵を教えるの、大変なんですか?」
「そういうわけじゃないんだけどね」
灰野さんは画家として生きている。
画家としての収入がもっと増えることが理想なんだろうけど、そううまくはいかない。年に一回は個展を開いているが、なかなか作品は売れない。
これも、正子さんから聞いた。
「いまって、インターネットでいろいろできるみたいですよね。作品の投稿サイトとか、自分の絵をグッズにして販売するとか。わからないけど、調べたら色々ありそうですよね」
そうだね、と灰野さんは言って、携帯マグに入っているなにかをごくごく飲んだ。
「そういうのでうまく稼げたらいいんだけど、なんか考えるだけで面倒でね。絵を描く以外のことができない私です」
「僕、なにか調べてみましょうか」
「ううん、大丈夫」
灰野さんはやっとおにぎりを一個食べ終えると、横に置いてある象のアップリケがついた黄色い巾着袋の中を覗いた。
男のこぶし大の大きなおにぎりがまだ二つ入っている。
「私を食べ盛りの野球少年とでも思ってるのかな」
彼女は小さくゲップをすると顔しかめて、慌てて巾着袋の口を絞った。
「いま、どういう作品描いてるんですか?」
「宇宙」
「宇宙、ですか」
「宇宙って、実際見たらどんな感じなんだろうね。私は怖い感じがするんだけど。見たら感動とかすんのかな、やっぱり」
「怖いですか?」
「怖いでしょ。空気ないんだから。池間君はロマン感じたりする? 宇宙、行きたい?」
「僕、車酔いするんで、乗り物はちょっと……」
「私も。それでかな。怖いの」
灰野さんの宇宙の絵ってどんなのだろう。
「あ、『旋律』でもらったんですけど、食べます? お腹いっぱいでしょうけど」
マークさんにもらったドーナツを、紙袋から取り出して差し出した。小ぶりのドーナツが五個入っている。
「正子さんたちとみんなでって」
「満腹でも甘いものは入るんだよな」
いただきますと灰野さんはドーナツを手にとって、嬉しそうに食べはじめた。
食べこぼしを狙って鳩たちが僕らのまわりで騒ぎだす。
空腹ではないが僕も一つ食べることにした。
灰野さんは今日も灰色の上下だ。
「灰野さんて、いつも灰色の服ですよね」
彼女は膝の上に落ちたドーナツの食べこぼしを手で払った。鳩たちがばさばさまた騒ぐ。
「そうね。前は黒着てたんだけど、『威圧感あるよ』って正子さんに注意されたから、灰色にしたの。白は汚れやすいから、その中間の色ね。今度は『作業服』って言われたけど、もうどうでもいいわ」
「名前からその色を選んでるんだと思ってました」
「それもあるわよ。まあ、もらいものの服なら黄色でも赤でも着るけどね。自分で選ぶとなると、なに買ったらいいかわかんないし」
灰野さんは小さく息を吐いた。
「池間君。私、ちょっと太ったと思わない?」
「そうですか。見た感じわからないですけど」
「三キロも太ったのよ。正子さんがあれもこれも食べろってお皿にてんこ盛りにするせいだと思う。このまえ、ご飯の量を少し減らして欲しいって頼んだらすごい剣幕で怒られたわ。私ももう五十を過ぎて、消化能力が落ちてきたから、量が多いのはきついのよ。そう説明してもだめ。最近ね、私、ご飯の時間がちょっと憂鬱なの。胃薬も欠かせないし」
「そんなにですか」
「そうよ。だから、池間君がちょっとうらやましい。あなた、いくら正子さんが誘ってもご飯にこないでしょ。偉いわよね。自分の意志をきっちり押し通して。見習いたいもんだわ」
ふぅ、と彼女はまた息を吐いた。
「ごめんね、引き止めて。休みだから用事もあるんでしょ」
「いえ、部屋に帰って昼寝するだけですから」
「それは立派な用事よ。私も昼寝したいもんだわ」
「教室が終わったらしてください」
「そうよね。生きるって大変。昼寝して絵だけ描いてたいわ」
僕はまたファミレスの閉店のことを思い出してしまった。
早く帰って寝よう。
*
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness
碧井夢夏
ライト文芸
<第五回ライト文芸大賞 最終選考・奨励賞>
住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。
看板娘の利津(りつ)は毎日忙しくお店を手伝っている。
最近隣にできたコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」。
どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……?
神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく――?
定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと挫折の物語。
過激表現はありませんが、重めの過去が出ることがあります。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる