野良ドールのモーニング

森園ことり

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 翌日、昼前に起きて家を出ると、隣の正子さんちから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
 男の声が聞こえた気がして、庭から中を覗きこむと、ひょいと縁側に剣太郎君が現れた。

 にゃあにゃあと鳴き声が聞こえたかと思うと、剣太郎君が放った魚に白猫が飛びついて食べ始める。
 剣太郎君の声だったんだろうか。
 そのまま立ち去ろうとすると、彼がさっとこちらを見た。

「あ、りょーさん、こんにちはー」

 大声で挨拶するので、僕もこんにちはと返した。

「誰?」

 鋭い正子さんの声が中から飛んでくる。
 剣太郎君は家の中を振り返ってから、僕を手招きした。

「おばあちゃんが、お昼まだならどうぞってー」

 これから『旋律』でモーニングを食べに行くつもりだ。断りの言葉を口にしかけた時、正子さんがばっと縁側に現れた。僕をすぐに見つけてぶんぶんと乱暴に手招きする。
 こうなったら終わりだ。
 僕はおとなしく庭に入っていって、縁側でサンダルを脱いだ。

「冷やし中華食べるでしょ?」

 なんと夏らしい。冷やし中華はこの夏まだ食べてない。

「いただきます」

 クーラーがきいた和室に入っていくと、灰野さんと時蔵さんがずるずると麺をすすっていた。
 同時に顔を上げて僕を見ると、どうもというように会釈する。
 柳子がいないのが珍しい。

「麺、茹でるからちょっと待ってなさいよ。枝豆でも食べてて」

 台所から正子さんが叫ぶ。
 はいと小さく返事をしながら、灰野さんたちの向かい側に座った。
 山盛りの枝豆に手を伸ばし、もそもそと食べる。

「私、夏嫌い。私の七月と八月は誰か欲しい人にあげたい」

 灰野さんはそう言うと、ちらっと台所を振り返った。以前より少し痩せたようだ。顎まわりがすっきりしている。
 そう思った次の瞬間、彼女はテーブルの下からタッパを取り出した。素早く冷やし中華の麺を半分ほど中に入れると、すぐにまたテーブルの下に隠す。
 そういうことか。正子さんの目を盗んで食事の量を減らしているわけだ。

「夏はとりわけ胃が疲れるの」

 言い訳するように僕に囁く。いいんですよ、わかりますというように僕は頷いた。
 僕も柳子から桃色おにぎり攻撃をくらっているので、その気持ちは痛いほどわかる。

「僕が食べてあげましょうか」

 隣の時蔵さんがそう声をかけると、灰野さんはぶんと首を横に振った。

「お気遣いけっこう」

 苦笑しながら灰野さんを見つめる時蔵さん。
 そんな彼を僕はじろじろと見た。

 昨日、柳子の部屋に入っていった男は時蔵さんじゃないよな。だいたい髪の長さが違う。時蔵さんは少し長めだけど、昨日の男は短髪だった。それに、時蔵さんはいつもしゅっとしたクールな黒づくめで、スウェットの上下なんかで外を歩きそうにない。

「どうかしました?」

 僕の視線に気づいた彼が、不思議そうに訊ねた。

「いえ……今日は二人でお出かけですか?」

 日曜のお昼に二人並んで冷やし中華食べて、仲のよろしいことで。

「まさか。このあと絵を描くの。冬に個展することになったから」

 そう言って灰野さんはほっと息を吐いた。お皿がやっと空になったのだ。

「先生と僕と二人でね」

 嬉しそうな顔で時蔵さんが続ける。

「はい、冷やし中華。とうもろこし茹でたからみんな食べなさい」

 どん、と冷やし中華と熱々の山盛りとうもろこしの皿をテーブルに置く正子さん。
 灰野さんがわずかに身を引いた。
 正子さんは灰野さんの空の皿を持って、またすぐに台所に消える。
 僕は冷やし中華をずるずるすすりながら、とうもろこしに手を伸ばす時蔵さんを見た。

「灰野さんのお部屋で描いてるんですか?」
「うちは狭いから、一階の空いてる部屋をアトリエとして借りたの」
「コラボする作品もあるから、一緒に描ける場所が必要なんだよ」と時蔵さん。

 テーマは(森の中のおとぎばなし)。油彩を得意とする灰野さんが森を描き、時蔵さんがポップなイラストでおとぎ話の住人たちを描くらしい。

「なんでおとぎ話なんですか?」

 僕が訊ねると、とうもろこしを食べている時蔵さんのかわりに、灰野さんが「それはね」と口を開いた。

「誰でも知ってるお話だから。それに小さい頃にみんなおとぎ話を通過しているでしょ。絵を見れば、遠い記憶まで刺激されて、いい時間になると思うんだよね」

 あっという間にとうもろこしを一本食べた時蔵さんが、口のまわりをきれいに拭いて頷く。
 灰野さんは彼が食べたとうもろこしの芯を、自分の前にちゃっかり置いた。自分が食べました、みたいに。

「イラストにもしやすい世界観だし、先生の油彩画のすばらしさも伝わりやすい題材だと思って選んだ」

 時蔵さんはそう言いながらずっと灰野さんを見つめている。とてもわかりやすい人だ。わかってないのは灰野さんだけ。いや、わかっているのに知らんふりしているのか。

「売れっ子さんの力を借りて、当面の生活費を稼がせていただこうかと」

 灰野さんがそう言って笑うと、時蔵さんは自分が傷ついたような顔をした。

「そんな言い方、だめですよ先生。たとえ冗談でも」

 灰野さんは台所を気にしながら、粉の胃薬を飲んで笑う。

「生きるために生活費を稼ぐのは悪いことじゃないわよ。好きな絵で稼げたら最高じゃない」
「でも先生の絵はお金のためには描かれてない」
「そんなことないわよ。私の絵がお金を生んでくれたらとっても嬉しいわよ」

 時蔵さんが言葉を探すように唇をもごもごさせていると、どすどすと足音をたてて正子さんが戻ってきた。今度は西瓜を並べた大皿を持っている。

「冷やしといたからおいしいよ。今日、柳子はお出かけだからね」

 正子さんは僕に向かってそう言うと、灰野さんの前にあるとうもろこしの芯を拾い上げた。

「どこへですか?」
「買い物だって」

 買い物。
 出かけるふりして、家で昨日の黒髪短髪スウェットといるんじゃないか? それか、そいつと出かけたとか。
 どう考えても、ああいう感じの男はよくない。ヒモみたいな風体だったし。
 僕が冷やし中華を三分の一ほど残して箸をおくと、正子さんがじろりと見た。

「なに、夏バテ?」
「はい……」

 そういうことにしてください。食欲がないです。
 柳子が心配だ。

 道に倒れていたのを見つけたのは僕だ。まったくの他人だったのに、いまはこうして一緒に働いて、同じアパートで暮らしている。だから、僕にはなにか責任のようなものがある気がする。ここで変な男にひっかかって不幸になられたら気分が悪い。

 ピアノが上手で白いドレスも似合う。品もある。自分にふさわしい男性と付き合って欲しい。
 絶対にあの短髪スウェット上下はやめておいたほうがいい。

「夏バテならスタミナつけないとね。今晩は焼肉にするから食べにおいで」
「わかりました」

 夕飯を食べに来れば柳子に会えるだろう。あのスウェット男のことを見かけたと話せば、説明してくれるかもしれない。

「良君は夏休み、どっか行くの?」

 西瓜の種を箸でとりのぞきながら、時蔵さんが訊いてきた。

「特になにも。バイトぐらいですね」
「そうなんだ」

 時蔵さんはひとりで東北スケッチ旅行だったよな。
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