40 / 47
40
しおりを挟む
喪に服しているのか、黒い上下に灰色の上着を羽織っていた。耳にはカワセさんからもらった真珠のイヤリングをつけている。
彼女はいつもの席に腰をおろすと、僕を手招きした。
「お店、なくなるんだってね」
アヤメさんから聞いたのだろう。僕は頷いて頭を下げた。
「すみません」
「お兄ちゃんが謝ることないわよ。でも寂しくなるわね。お兄ちゃんたちにももう会えなくなるなんて」
彼女はモーニングのメニュー表を見ると、巨大パンケーキを指差した。
「これにするわ」
「絵とメッセージのどちらにしますか?」
いらない、というように彼女は首を横に振った。
注文を伝えに厨房に向かうと、途中で柳子が待っていた。
「トキコさん、来たてくれたんだね。注文は?」
「巨大パンケーキ」
「じゃあ私、メッセージ書く」
「なにも描いて欲しくないみたいだよ」
「大丈夫。私にまかせて」
彼女は伝票を受け取ると、厨房に入っていった。
フロアに戻ると、トキコさんはぼうっと窓の外を眺めていた。周囲の賑わいはまるで耳に入って来ないようだ。
僕がオーダーやテーブルの片づけで忙しくしていると、柳子が出来上がったパンケーキをトキコさんの元に運んでいった。
それに気づいた僕は慌てて自分の仕事を片付けて、彼女のあとを追いかけた。トキコさんのパンケーキになにを描いたのか、やっぱり気になる。
「これ……」
トキコさんは目の前のパンケーキを見て、困惑の表情を浮かべている。
僕もパンケーキを見た。
(一緒に働きませんか?)
どういうこと?
トキコさんも怪訝そうな顔で柳子を見た。
「トキコさん、もしよかったら、一緒にここで働きませんか?」
柳子がそう言うと、トキコさんも僕も、えっと声を漏らした。
「働くって……私が?」
「はい。店長には話を通してあります。あと数週間ならいいそうです。朝の一時間だけ、簡単な仕事をしてみませんか?」
ぽかんとしていたトキコさんは、柳子が本気で言っているとわかると、目を瞬きはじめた。
「私にできると思う?」
「それはやってみないとわかりませんけど、私が全力でフォローします」
「僕もフォローします」
思わず僕も脇から口を挟むと、トキコさんは柳子と僕の顔を見くらべた。
「ちょっと考えさせて」
彼女は驚いた表情のまま言った。
*
翌日にはトキコさんから店長に、働きたいとの連絡があった。
二日後の朝には、トキコさんは茶色い制服を着て、朝のファミレスのフロアに立っていた。
顔は少々こわばっていたけれど、そこに悲しみの影はなかった。
初日は簡単な食器の片づけだけ。数日たつと、料理を運んだり、ドリンクの補充などもしたりするようになった。
一時間の予定だったが、トキコさんがもう少し働きたいと言うので、七時から九時の二時間働くことになった。
「長年、ここのひとの仕事ぶりを見てたから、知らないうちに覚えちゃってたみたい」
トキコさんが言う通り、仕事の流れはなんとなくわかっているようだった。少し耳が遠いので、注文をとる時だけは僕らと交代する。それ以外の場面ではトキコさんは有能な店員だった。
「どうしちゃったのよ、もぅ。なんで働いてんの?」
店にやって来たアヤメさんは、店員として働くトキコさんを見て仰天した。
トキコさんはちょっと得意そうで、そんな彼女を見たアヤメさんはかなり羨ましそうな顔をしていた。
他の常連客たちも、少し前まで同じ客として来ていたトキコさんが働きはじめたことに、驚きを隠せないようだった。カワセさんがいなくなり、閉店が決まったことで沈んでいた彼らも、溌溂と働くトキコさんの姿を見て、少しだけ元気を取り戻したようにも見えた。
そうして、とうとう十月の最後の週に入った。
僕は駅前の系列店のカレー屋で働くことが正式に決まった。来月から一週間の研修に入る。
大さんも同じ店で働くことが決まったが、柳子と美帆さんは隣町のファミレスに行くことになった。おそらく僕と大さんの希望勤務時間が短く、柳子と美帆さんは長めだったからだと思う。
僕は柳子と一緒に働けるものと思っていたので、かなりがっかりした。
柳子と同じ職場で働くのもあと数日か、と思いながら珍しく夕飯にカレーを作っていた時のことだ。
家の外の廊下から話し声が聞こえてきた。
柳子のところに正子さんか剣太郎君が来たんだろうぐらいに思っていたが、剣のある声のやりとりに僕は動きを止めた。
そっと鍋の火を止めて耳をすますと、柳子の声が聞こえてきた。
「もう帰ってよ」
「ちゃんと話を聞きなさい!」
「だから何度も説明したでしょ」
「大学にだけは行きなさい。こんなアパートで暮らしてファミレスの仕事? この先どうするつもりなのよ。あてつけもいい加減にしなさい!」
どうやら柳子の母親が来たようだ。
「このままじゃ、あなたのためにならないって言ってるのよ!」
「お母さんは自分の思い通りにしたいだけでしょ。もういい加減にして!」
「待ちなさい、柳子!」
ばたばたと駆けていく足音。それをカツカツと固い靴音が追いかけていく。
やがて静かになると、僕は鍋の火をつけた。
柳子、大丈夫だろうか。
カレーが完成すると、僕は柳子の部屋に様子を見に行った。さっきの騒動から三十分はたっている。
ドアをノックしてみたが、返事はなかった。まだ帰ってきていないみたいだ。
どこに行ったんだろう?
まさかまた母親から逃げ出して、ここに帰ってこないなんてことはないよね?
外は暮れかけてきている。
パーカーを羽織ると、僕は家を飛び出した。
彼女はいつもの席に腰をおろすと、僕を手招きした。
「お店、なくなるんだってね」
アヤメさんから聞いたのだろう。僕は頷いて頭を下げた。
「すみません」
「お兄ちゃんが謝ることないわよ。でも寂しくなるわね。お兄ちゃんたちにももう会えなくなるなんて」
彼女はモーニングのメニュー表を見ると、巨大パンケーキを指差した。
「これにするわ」
「絵とメッセージのどちらにしますか?」
いらない、というように彼女は首を横に振った。
注文を伝えに厨房に向かうと、途中で柳子が待っていた。
「トキコさん、来たてくれたんだね。注文は?」
「巨大パンケーキ」
「じゃあ私、メッセージ書く」
「なにも描いて欲しくないみたいだよ」
「大丈夫。私にまかせて」
彼女は伝票を受け取ると、厨房に入っていった。
フロアに戻ると、トキコさんはぼうっと窓の外を眺めていた。周囲の賑わいはまるで耳に入って来ないようだ。
僕がオーダーやテーブルの片づけで忙しくしていると、柳子が出来上がったパンケーキをトキコさんの元に運んでいった。
それに気づいた僕は慌てて自分の仕事を片付けて、彼女のあとを追いかけた。トキコさんのパンケーキになにを描いたのか、やっぱり気になる。
「これ……」
トキコさんは目の前のパンケーキを見て、困惑の表情を浮かべている。
僕もパンケーキを見た。
(一緒に働きませんか?)
どういうこと?
トキコさんも怪訝そうな顔で柳子を見た。
「トキコさん、もしよかったら、一緒にここで働きませんか?」
柳子がそう言うと、トキコさんも僕も、えっと声を漏らした。
「働くって……私が?」
「はい。店長には話を通してあります。あと数週間ならいいそうです。朝の一時間だけ、簡単な仕事をしてみませんか?」
ぽかんとしていたトキコさんは、柳子が本気で言っているとわかると、目を瞬きはじめた。
「私にできると思う?」
「それはやってみないとわかりませんけど、私が全力でフォローします」
「僕もフォローします」
思わず僕も脇から口を挟むと、トキコさんは柳子と僕の顔を見くらべた。
「ちょっと考えさせて」
彼女は驚いた表情のまま言った。
*
翌日にはトキコさんから店長に、働きたいとの連絡があった。
二日後の朝には、トキコさんは茶色い制服を着て、朝のファミレスのフロアに立っていた。
顔は少々こわばっていたけれど、そこに悲しみの影はなかった。
初日は簡単な食器の片づけだけ。数日たつと、料理を運んだり、ドリンクの補充などもしたりするようになった。
一時間の予定だったが、トキコさんがもう少し働きたいと言うので、七時から九時の二時間働くことになった。
「長年、ここのひとの仕事ぶりを見てたから、知らないうちに覚えちゃってたみたい」
トキコさんが言う通り、仕事の流れはなんとなくわかっているようだった。少し耳が遠いので、注文をとる時だけは僕らと交代する。それ以外の場面ではトキコさんは有能な店員だった。
「どうしちゃったのよ、もぅ。なんで働いてんの?」
店にやって来たアヤメさんは、店員として働くトキコさんを見て仰天した。
トキコさんはちょっと得意そうで、そんな彼女を見たアヤメさんはかなり羨ましそうな顔をしていた。
他の常連客たちも、少し前まで同じ客として来ていたトキコさんが働きはじめたことに、驚きを隠せないようだった。カワセさんがいなくなり、閉店が決まったことで沈んでいた彼らも、溌溂と働くトキコさんの姿を見て、少しだけ元気を取り戻したようにも見えた。
そうして、とうとう十月の最後の週に入った。
僕は駅前の系列店のカレー屋で働くことが正式に決まった。来月から一週間の研修に入る。
大さんも同じ店で働くことが決まったが、柳子と美帆さんは隣町のファミレスに行くことになった。おそらく僕と大さんの希望勤務時間が短く、柳子と美帆さんは長めだったからだと思う。
僕は柳子と一緒に働けるものと思っていたので、かなりがっかりした。
柳子と同じ職場で働くのもあと数日か、と思いながら珍しく夕飯にカレーを作っていた時のことだ。
家の外の廊下から話し声が聞こえてきた。
柳子のところに正子さんか剣太郎君が来たんだろうぐらいに思っていたが、剣のある声のやりとりに僕は動きを止めた。
そっと鍋の火を止めて耳をすますと、柳子の声が聞こえてきた。
「もう帰ってよ」
「ちゃんと話を聞きなさい!」
「だから何度も説明したでしょ」
「大学にだけは行きなさい。こんなアパートで暮らしてファミレスの仕事? この先どうするつもりなのよ。あてつけもいい加減にしなさい!」
どうやら柳子の母親が来たようだ。
「このままじゃ、あなたのためにならないって言ってるのよ!」
「お母さんは自分の思い通りにしたいだけでしょ。もういい加減にして!」
「待ちなさい、柳子!」
ばたばたと駆けていく足音。それをカツカツと固い靴音が追いかけていく。
やがて静かになると、僕は鍋の火をつけた。
柳子、大丈夫だろうか。
カレーが完成すると、僕は柳子の部屋に様子を見に行った。さっきの騒動から三十分はたっている。
ドアをノックしてみたが、返事はなかった。まだ帰ってきていないみたいだ。
どこに行ったんだろう?
まさかまた母親から逃げ出して、ここに帰ってこないなんてことはないよね?
外は暮れかけてきている。
パーカーを羽織ると、僕は家を飛び出した。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる