公主のひめごと

濱田みかん

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第二章

異国の言葉

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「…ふぅ」

 小さく息を吐いて、九瑶は筆を置いた。
 もうすぐ正午。この時間、右金吾衛府は多くの人が訪れ、どこも騒がしい。
 ざわざわと賑やかな外の雰囲気とは反対に、九瑶の肩はずっしりと重かった。
 気が乗らなくとも、期日はやってくる。結果が出なくとも、何も変わらないし、終わりもしない。覚悟を決めて、机の上を片付ける。

「留置場、行ってきます」
「おぉ。頑張って~。今日は上手くいくといいね」
「…がんばります」

 同僚の言葉に苦笑いを返して、席を立つ。
 九瑶は内府を出ると、牢のある庁舎に向かった。
 気が重い。足も重い。
 これから聴取。今日は勾留期限の五日目。なかなか口を割ってくれない子供が相手だ。

「調書の陸です。入ります」

 一声かけて、部屋に入る。
 子供は今日も肩を下げ、無表情で座っている。
 勾留も今日で5日目。延長申請するか、無罪放免とするか。判断しなければならない。

「名前だけでも、教えてくれないかな」

 このまま黙秘が続くと、最悪の場合、拷問に回されるかもしれない。
 向かいの椅子に腰掛け、九瑶は彼の顔を覗く。

「黙ってても、良いことは無いよ。本当に」

 赤茶色の瞳は九瑶をくっきりと映すが、唇が動くことはない。
 説得もむなしく、やっぱり今日も、何も言ってくれない。もう、こっちが泣きたくなってくる。

 結局、何ひとつ分からないまま。
 服装から女子だとわかるが、痩せすぎて衣に着られている感が目立っている。
 あまり食べていないのだろう。やせ細った身体は骨ばんでいて、肌にも張りがない。
 髪に挿された簡素な紅玉の簪がやけに目立っている。

「疲れちゃったよね…」

 誰に言っているのだろうか。もう心の声は漏れ出るばかり。
 こんな小さな子が牢の中で五日間を過ごすなんて、どんな心境なんだろうか。
 身寄りがないのなら、このまま釈放しても、また同じことを繰り返すだろう。そう考えると、どう対処したらいいのか、悩んでしまう。

「帰りたい?」

 赤茶色の瞳は動かない。
 感情の載らない表情は寂しげにも、無気力にも見える。
 九瑶は手を伸ばして、彼女のほつれた髪を撫でた。ふわっとした茶色の巻き毛。西域の人種の血が濃いのだろう。

「!」

 突然、白い閃光がパンッと音を立てて、九瑶の視界を駆け抜けた。天井に煌めく幾千の光。砂漠を越えた風に舞う、まばゆい袖。きらきらと音を鳴らして降り注ぐ、つ国の韻律リズム―。
 あの日見た、同じ髪色をした娘の無邪気な笑顔が、脳裏に浮かんだ。

「あ…」

 九瑶は目を見開いて、子供の顔をまじまじと見た。視線の先の表情は相変わらず無言で、九瑶を上目遣いに見ている。

「ねぇ、あなた」

 九瑶は確信に近いものを持って、呼びかける。

『…私の、言葉、わかる?』

 先日、徐郭が口にした異国の言葉を、九瑶も真似して声に出した。
 数秒の沈黙の後、子供がこくんと首を縦に振った。

「そうなのね!」

 思わず叫んだ九瑶に、外に立っていた衛士が慌てて中に入って来た。

「九瑶、大丈夫っ⁉」
「はい。ちょっと、席外しますっ!」

 衛士に告げると、九瑶は全速力で内府に走った。


 ◇

 諸外国が朝貢に訪れるこの国には『通事舎人』という職がある。いわゆる通訳だ。
 この国は外国人であっても科挙に及第すれば官職を得ることが出来る。他国から移住する民も一定数おり、官公庁、特に実務機関には異国出身の人材が多数仕官していた。

安毅あんき殿っ」

 内府の一角。右金吾衛に二名いる通事舎人が職場としている部屋に、九瑶は駆けこんだ。

「陸殿、どうしました?」
「いきなりごめんなさい!」

 筆を持つ手を止めて振り向いた男の前に、九瑶は向かい合わせで座るとひと息でまくし立てた。

「あの、お約束いただいてないのですが、波語なら通じるらしい被疑者がいて、安毅殿は厥語だけでなく波語もお得意と聞いて。それで、ちょっとご足労いただけないかと」
「波語?卒語じゃなくて?」

 西域の人間を『胡人』と総称するが、彼らの言語、胡語も地域によってまちまち。その中でも交易商として国に通関を公認されている卒国の人々が使う卒語が、西域の共通言語だった。

「波語しか私、わからなくて。試しに『私の言葉、わかる?』って言ったら頷いたんです」
「あ、それは波語だね」

 大きな鷲鼻を指で二回ほどさすりながら、安毅は頭を縦に振った。そんな彼も、髪は茶色の巻き髪だ。

「…ごめん、我今週ぎっちりで、この後も皇城に狩り出される予定で。漢字と波語の対照教本あるから、とりあえずこれで、指さし会話してみてもらえるかな」

 彼は立ち上がり書架に向かうと、巻物の山から一本を取り出して九瑶に手渡した。

「右が波語なんだ。ここから主語、次に名詞って並んでる。これが発音ね、音写してるの」
「…少しだけ、わかります。前に会話だけちょっと習ったので」

 虫が踊るような形の線が、縦にいくつも並んでいる。昔少しだけ習った波語。20種類の文字があるという程度の知識しかないが、辛うじて文字の組み合わせは理解できそうだ。

「珍しいね、波語学習者って…。あ、明後日なら我、昼に空き時間あるから、また声かけて」
「ありがとうございます。これで一旦、頑張ってみます」
「うん、よろしくね」

 九瑤は安毅に礼を言うと、また爆速で牢に向って走った。

「お待たせっ!!」

 部屋に入ると机に飛びつくように、子供の顔を覗き込む。

『聞いて』

 興奮気味で口走る九瑤は、黙って見ている子供の前でバッと巻物を広げた。
 指で単語を探し、一つずつ声に出して読む。

『私の、名前、くよう』

 と言って、自分を差す。

 見ていた子供が子供はコクコクと頷いた。九瑤はにかっと笑った。


 ◇


「いたっ!徐郭っ!」

 九瑶は内府の庭で幼馴染みを見つけると、欄干を飛び越えて駆け寄った。

「おっと、どうした」
「お願い―っ、ちょっと付き合ってぇぇぇぇぇ」

 胸ぐらをつかみ、両手で彼の身体を前後に揺らす半泣きの九瑶に、徐郭は素知らぬ顔を向ける。

「なに?泣き真似しても無理だよ、今日は」
「いや、本泣きなのよ?泣くぐらいの事なのよ?」

 今日は九瑶も必死だ。
 冗談なんかではない。マジ泣きしても気づいてもらえないのは、日頃の行いのせいか。

「いや、我相手にでっかい目をうるうるさせても、今日は無理だって」
「そこをなんとか」
「いや、待ち合わせだから。一体何事よ」
「波語しゃべって欲しいの、我の代わりに」
「へ?」
「なかなか通じないの、我の発音だと」
「…」

 子供と意思の疎通を図ることは出来たが、肝心の聞き取りが全然出来ていない。
 〇×の質問でしか、対話が成り立たないのだ。
 三日の延長申請を出して、昨日今日と聴取しているが、事件にまつわる成果は無し。
 なにせ、相手は頷くだけで声を発しない。なので、名前もわからずじまいだ。
 九瑶は事情を一通り説明すると、また徐郭に詰め寄る。

「明日までなの、延長。子供なのに拷問は可哀想だよ。だから頼むよ」
「なるほどねぇ…」

 腕を組み、徐郭が考えるそぶりを見せた。九瑶は掴んだ衣を一時も離さず、じっと目で圧を送りつける。

「―明日、手伝うよ。聞きたい事、箇条書きにしておいて」
「わかった」

 九瑶は頷いたが、なんだかんだ言って、いつも優先して手伝ってくれる親友にあっさり振られて、少々不服ただ。

「…そんな、大事な用事なの?」
「聞きたい?」

 にやける徐郭の顔。
 まさか。

「え、女…?」

 戸惑いがちに発したその言葉に、徐郭の顔が花が開いたようにぱっと明るくなった。

「そう。これから初の『お約束』があるんだ」
「…」

 浮かれている。よく見ると地に足がついていない。完全にいつもの『恋愛盲目仕様モード』だ。

 あぁ…。またこの時期が来たか―。
 心の中で、九瑤は「やれやれ」と呟いた。

 あまり知られてないが、普段の彼は驚くほど冷静沈着なのに、恋愛となると途端にポンコツと化す。勝手に盛り上がり、一方的に妄想を膨らませ暴走した結果、撃沈するのがお決まりの経路。惚れやすい幼馴染みの滑稽な失恋を、何度も目撃しては共に酒をかっ喰らっうのを年に数回、繰り返して今日に至る。

「そ。よかったよ。とりあえず頑張れ、今回も」
「なに、その『勝手にしやがれ』的な態度」
「いやいや、続けばいいなぁって思ってるよ?」
「はんっ。今度は大丈夫っ」

 自信満々で親指を上げた徐郭に、早速不安しか湧かないのは経験から。
 またしても激しい思い込みを披露し、逃げられるのだろうか?ちょっとは過去から学んで欲しいところ。

「ん。自信、あるんだね…」
「うん、今回は向こうから声かけてきたから。九瑶も覚えてるでしょう?紅花酒店の玉英って子」
「…あ、あぁっ!」

 瞬き程度の間をおいて出た声は、奇妙にひっくり返ってしまった。あの日の踊り子か。
 九瑶は人懐っこい、赤茶色の弧を描いた笑顔を思い出した。

「西市でたまたま声かけられて。ちょっと盛り上がっちゃってさ、今日改めて会おうってことで」
「ほう」

 珍しく出足好調の模様。ここはそっと見守り係に徹しよう。優しい幼馴染みとして。

「もう、これは脈ありでしょう?」
「今度は続くといいね。がんばれ」
「うん、じゃ、我はもう行くから!」
「じゃ、明日待ってるよ」
「いい報告、待っててなぁ~」

 いや、そこじゃなんだけどな…。
 相変わらずの浮かれっぷりに失笑しならがらも、ブンブン手を振る彼を門まで見送ると、九瑶は自分も帰路に就いた。
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