公主のひめごと

濱田みかん

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第二章

男の過去

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「紫水さま、夕餉はいかがいたしましょう」

 家人の声に机から顔を上げると、辺りは青色に染まり始めていた。もう宵の口日没。そんな時間か。

「当分終わりそうもないから、つまむものだけお願いできる?」
「かしこまりました」

 恭しく頭を下げると、家人は母屋に戻っていった。
 まだまだ時間がかかりそう。のんびり食事をとる余裕は無い。

 庭の池を見渡す四阿で卓子に積み上げた沢山の書物に埋もれながら、紫水は文字を読み漁っては、ひたすら書き写すを繰り返していた。
 想定問答集には、相手の回答も予想しながらいくつもの展開を用意しなければならない。想定外も含めて、聞くべきことは山ほどある。
 少しでも多くの情報を得るために、縄は大きめを準備する。鬼教官・荀判事の教えだ。

 しばらくすると、盆を手に家人が戻って来た。「こちらに置いておきます」と、隅にあった椅子を紫水の斜め横に移動し、その上に盆を載せ、綺麗に盛り付けられた夕餉の皿と茶を並べた。

「ありがとう」

 紫水が振り返って礼をいうと、彼女は深々と頭を下げて四阿を出て行った。帰り際に燭台に灯りを入れ、虫よけの香を焚くのも忘れなかった。

「いい香り…」

 梨花模様の施された香炉から細く立ち上る、鼻から抜ける柑橘類に似た香りが夜の風に流れていく。空に雲はない。今夜も星が綺麗に見えそうだ。
 紫水は野菜の漬物を一つ摘まむと、口に放り込んだ。こりこりと音を立てる塩気の程よい瓜の水分が口に広がって喉に落ちた。

 四阿から眺める宵の庭は昼間と違って、とても趣きがある。徐々に色を深くする青色の世界。静寂を纏った景色を見ているだけで、騒がしかった心もゆるりとした平穏を取り戻していく。

「もうちょっと、がんばるか」

 九瑶は茶を口に含むと、また筆を取った。

 ずいぶんと集中していたらしい。
 肩にかけられた衣に顔を上げた時には、辺りはすっかり暗くなっていた。

「風邪をひいてしまいますよ。春の夜は冷える」

 肩を撫でた斉潁の声に、紫水は自分が無心だったことに気づく。

「あ…、ありがとうございます」
「茶も冷えて―、あ、ほとんど手を付けないままですね」

 盆の上の野菜に目を止めると、一切れつまんだ。

「夢中で、つい」
「少し休憩にしましょう」

 紫水の座る長椅子を跨ぐと、横から足に挟む体勢で腰を下ろした。

「鶏団子、好きでしょう」

 斉潁は脇に置かれた皿を卓子に移すと、楊枝に刺された鶏団子を紫水の口元に差し出した。大人しく口を開く。一口大の団子は甘辛の味付けで、冷めていても美味しかった。

「波語、ですか?」

 むしゃむしゃしている口元を手で隠しながら、紫水は答える。

「はい。勾留期限が近い子供がいて」
「あぁ、なるほど」

 書き写された文にさっと目を通した斉潁は、事情を察したらしい。
 相変わらず状況理解が早い。聞かれそうなことを先に説明する。

「通事舎人が忙しくて、時間とれなくて」
「そんなに?」
「うち、年中バタバタで、通事は引っ張りだこなんです」

 商業の中心地・西市を筆頭に、右京では商売関連の騒ぎや揉め事が後を絶たない。商人には外国人も多いので、必然的に外国語で対応する機会が増える。衛士の中にも片言なら話せる人間が何人かいる。だが、詳細の聴取となると、やはり通事舎人の助けが必要だ。

「―大理寺ウチの通事、貸し出しますよ」
「えっ?」
「波語の担当なら、明日の昼にでも行かせますよ」
「…いいんですか、そんな事して。職権乱用じゃ」
「私が頼めば彼らは喜んで行きますよ」
「なにその自信」
「日頃の行い、です」
「あ~、やっぱり偽善者だ」

 虫を見るような目をした紫水に、斉穎は思いっきり声を上げて笑った。

「ははははは―。いいですね、その顔」
「喜んで頂けて、まったく光栄、なんかじゃないです」

 不機嫌を隠さない紫水の頬を、斉穎は指でプニッとつまんだ。

「もうそろそろ、心を開いてくれてもいいのでは?」
「嫌ですよ」
「意固地だなぁ。そこがまた燃えるのですが」

 なんだか尋常じゃない発言をしている。やはりこの男、気狂いキチガイだ。

「あれ、良い人ぶっても、本質はやっぱり力でねじ伏せたい人種ですか」
「そこは正直興味無いですね。権力闘争も好きじゃないですし」

 すまし顔をする斉穎に、紫水は食って掛かる。

「じゃあ、なんで出世しようとするんですか」
「結果論ですよ」

 手付かずだったの皿の上の果実をひとつ口にして、斉穎は微笑む。

「最初は親より高い官位を、というくらいの気持ちでしたよ―。私は嫡子なので、家名再興の為に必死になって勉強してました。国士学官僚育成所でも絶対に状元主席をとってやろうと、寝る間も惜しまず机に向かっていました。…生まれついて優秀で良家出身の人間相手に、後ろ盾を持たない自分が唯一対抗できるのは、努力だけだって」

 斉家は前王朝以来、祭礼を司る家として一定の知名度はあった。しかし、それでもこの宮廷で生きていくには、足りないのだろう。世知辛い世の中だ。
 それにしても、この男も意外と努力の人らしい。紫水も官吏の端くれ。出来る人ほど誰よりも努力している事くらい、本当は分かっている。

 初めて聞く彼の経歴。黙って耳を傾ける紫水の口に、斉穎は果実を摘まんで入れた。
 棗の蜜漬け。甘酸っぱさがじゅわっと口内に広がった。

「僅かな点差で次席にどうにか勝って及第して、左春坊東宮に配属となってからも、日々必死でしたよ。更に優秀な人物が山のようにいる環境を目の当たりにした衝撃は大きかった。…茫然としましたよ。自分のような人間が、本当にここで生き残れるのかってね。―だって、魏国老みたいな人を相手に仕事するんですから」
「それは…しんどい」

 くっと眉をひそめた紫水に「ふふっ」と笑って、斉穎は自分もまたひとつ、果物を口に放り込んだ。

「良い勉強になりましたよ…、今思えば、ですが。あれほど手の掛かる上司は中々いないのでね。どんな無茶振りにも対応できる筋力をやしなえたのは、紛れもなく彼のお蔭です。しばらくののち、大理寺に異動して。ここの仕事は他部署も関わるので物凄く煩雑なんですが、それが逆に目新しくてね。脇目も振らず熱中していたら、どんどん新しい案件に携わる機会が増えていって―。ひとつ壁を越えると、自然と見聞が広がるんです。すると、もっと広い視野で世を見たくなる。でも今より更に上の立場でないと、景色は変わらない。もっと見たい一心で、量をこなして成果を積み上げる。その繰り返し。そうしているうちに、段々と仕事自体も楽しくなって―。気づいたら同期連中でも先陣を切って、官位も上がって勅任官官僚となって」

 見上げる顔は智謀の徒とは思えぬ、清々しい表情。決して驕り高ぶる訳でもなく、格好つける訳でもなく、彼の率直な感想のように聞こえた。

「そしたら、ちょっと欲も出てきた」

 ふっと皮肉めいた笑いをこぼすと、斉穎は目尻を下げた。

「―今なら、かつて東宮の庭で出会った真っ黒に日焼けしたあの少女を手に入れる権利が持てるんじゃないかと」
「それは…」
「紫水という公主だと、魏国老に聞きました。その時は信じられませんでしたけど」
「悪うございましたね」

 口を尖らせた紫水の頭を撫でて、斉穎は続ける。

「欲しい物を欲しいと言えるのは、力を得たから。確かにそう。今は出世するのも悪くない、と思いますよ」

 自分で自分の進む道を決める力。紫水が求めて止まないもの。
 彼はそれを手にした。
 恐らく、紫水の考えるよりも、もっと多くの努力を重ねて。

「貴女は私にとってご褒美なんですよ、必死に這い上がってきた事への」
「なんか、大袈裟じゃないですか?」
「私が今この地位にいるのは、単に運が良かっただけなんですよ。私は強い人間でも賢い人間でもない。毎日ただひとつの目的の為に、必死に喰らいつて、髪を振り乱して走ってる」
「…目的?」
「今は、内緒です」
「なにそれ」
「時が来たら、分かりますよ」

 悪戯っぽく笑ったが、その顔に少しの陰が映ったのを紫水は見逃さなかった。日々の仕事で培った観察眼に狂いはない。彼の隠した目的、こんなに聞き捨てらならない物はない。

「言えないこと、なんですか?」

 踏み込んだ紫水に目を細めた斉穎は、手を伸ばすと頬に手のひらを充てがい、ふにっと挟むと鼻先が触れそうなほど近くに顔を寄せた。

「気に、なります?」

そう言う顔は悪巧みをする子供そのもの。からかおうと目が言っている。

「えぇ。私も一応、聴取してるので、嫌な匂いには敏感です」
「匂い、ですか」
「良からぬものを、見ました。貴方の顔に。何を、企んでるんです?」
「…貴女を正体なく乱して、私に溺れさせる事、ですよ」
「嘘だ」

 はぐらかされるのは腹立たしい。ここで追及の手を休めるほど紫水もお人好しではない。

「何か、隠さないといけない程の事なんですね?」

 紫水は漆黒を注いだ瞳を見据えるが、穏やかに微笑む男はもう何も漏らさない。

「えぇ―。貴女にも、です」

 穏やかだが、強い意志を響かせた言葉。笑っているような、それでいて憐れんでいるような、どちらとも言えない顔が紫水を静かに見下ろしている。

「もしかして、誰かを、狙っているんですか―?」

 紫水の言葉に目を細めた彼の横顔を、燭台の灯がジッと音を立てゆらぎ、赤く照らした。
 端正な面立ちにのる薄い唇は、不気味に微笑んだまま。

「潁様の手に入らない物は、多くないはず」

 気鋭の若手官僚として名を馳せ、公主を娶った男の将来は明るい。後は上手く立ち回るだけで、それなりの地位を維持できるはず。
 それでもこの男が仮面を被り続けるというなら、目的は地位と名声の他にあるとしか考えられない。
 自分と同じように、何か、取り戻したいものが彼にも―。

「誰かを、憎んでいるのですか?」

 奪われたからこそ、取り返そうとする。紫水はその気持ちがよくわかる。
 怒りと憎しみを燃料にして、臥薪嘗胆、執念の炎を燃やし続ける。そうやって、戻らない日を埋める何かを追い続け、恨み続けている。

「…そうかも、知れませんね」

 ぽつりと呟いて、斉潁は紫水の頭に顎を乗せた。否定しているようにも聞こえる声。紫水は身体をひねって彼に向くと、その深い色の瞳をしかと見上げて言う。

「この縁談も、その為の手段なんですか?」

 問うた自分の心臓が凍えるように縮んだ。冬の水のようなキンと突く痛みが胸に広がり、心の奥が冷えていく。彼の腕から伝わる温度との差が、今はなんだか無性に虚しい。

「そう取られても、文句は言えませんね」

 否定しない彼。紫水の息が胸元につかえて、心臓が不規則に大きく波打った。なんでこんなに動悸が激しくなるのか、自分でもよくわからない。

「もし、我がそれを訴えたら…?」
「誰も信じないでしょうね。私の方が社会的地位が高いし、簡単に握りつぶせる」
「む…」
「私を悪く言う人間はそういませんよ?知ってるでしょう?」

 朗らかに言う彼は、背中に余裕の風を吹かせている。所詮勝ち目のない相手。紫水は口でしか対抗できない事実に、鼻を鳴らして吠えるしかない。

「この偽善者め」
「そうとも言いますね」
「認めたし。他人が気づいかないのが腹立たしいわ」
「いいんですよ。貴女だけは噛み付いてください。その方が楽しいですし」
「そうやって人を小馬鹿にして…」

 相手にもされてない自分。紫水は思いっきり口をへの字に曲げた。ぽんぽんと頭を叩く彼の余裕ぶりが、不満を余計に大きくする。

「で、通事舎人の件は、偽善者の手を借ります?」
「…そうです、ね。不本意ですが」

 背に腹は代えられない。そこはご厚意にあずかろう。綺麗事だけでは、仕事は進まない。現実と理想の折り合いをつけた選択。大人になったものだ。

「わかりました。じゃ、お礼を下さい」
「えっ!?お金取るの?給料日前なのに?」

 今月は飲みに行くことが多かったので、手残りがぎりぎりだ。正直、痛い。

「偽善者じゃなくて、高利貸しだったか!」
「金銭は求めません。接吻してくれたらいいですよ」
「はぁっ?」

 唐突な要求をニコニコと告げる偽善者に、紫水は目を丸くする。

「簡単でしょう?」
「簡単じゃないし!」
「減りませんよ」
「そういう問題じゃないの」
「もしや、自分からしたことがないとか?」
「余計なお世話ですっ!!!」

 どうしてそんな、自分から接吻するなんて、破廉恥な事を。考えただけで、顔から火が出そうだ。

「なんでしたら、ご教示しましょうか?」
「…いいよ、もうっ。すればいいんでしょっ」

 開き直った紫水は身体を斉穎に向けると、背伸びをして押し付けるように、ぷちゅっとひとつ接吻をした。

「…これでいいでしょっ」
「駄目です。短い」
「は…」
「もっと、こうして、ゆっくりと―」

 紫水の片頬に手を寄せると、斉穎はそのまま静かに唇を重ねた。上唇を挟んむと柔らかさを確かめるように、何度もついばむ。緩んだ紫水の唇の間に舌が伸びてきて、ちろちろと歯頸に触れる。そのくすぐったいような微妙な感覚に、背筋がぞくっと震える。
 いつもの奪い取るような激しさの代わりに、柔らかさをひたすら愛でるように動く、ただひたすら甘い飴を転がすような接吻。初々しい恋人達のような熱の籠もった接吻に、紫水は為す術もなく翻弄される。

 甘露を存分に味わった斉穎が唇を離した時には、紅く実った紫水の口元から唾液が細く糸を引いていた。

「今のがお手本です。次は貴女の番ですよ」
「って、なんで、こんなやらしいことできるの…」

 慣らされた身体は既に火照っている。触れられたら弾けそうな肌が衣の下で震えているのを、彼だけには見透かされたくない。

「そう考える貴女がいやらしいんですよ」
「ひゃっ」

 背中をつつっとなぞった指先に、紫水は大袈裟なまでに肩を震わせる。

「ほら、もう目が潤んでる」

 言い返されて顔を赤くした紫水を、弓なりに目を細めた彼が手を広げて待っている。

「早く済ませた方がいいでしょう?」

 悔しい。いつもこうやって、手のひら転がされて―。
 それでも差し出される手を取ってしまう自分が、何より一番悔しい。

「約束は、守って」
「もちろん。私は嘘はつきませんよ」
「絶対だからね」

 悔し紛れに念を押し、背筋を伸ばして居住まいを正す。
 大きく息を吸って、彼の首に腕をまわす。
 顔を上げ、目を閉じて、息を止める。

 その後は記憶に無い。
 次に目を開けた時には、こすれた唇がぷっくりと腫れていた。

「貴女の為なら、何でもしますから。ね」

 満面の笑みで囁く男の腕の中で、紫水は大きくため息をついた。
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