再会は桜の木の下にて

カヅキハルカ

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伍話

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 ピピピピピピ……。
 鳴り響く目覚まし時計の電子音に救われた形で目を覚ました秋良は、何の変哲もない白い天井の存在にほっとすると同時に、頭を抱えた。

「冗談だろ……」

 鮮明すぎた情事は、目覚めたからといって記憶の中から消えてはくれなかった。
 それどころか、熱くなったままの身体が、それを余計に思い出させる。
 秋良は今まで同性と付き合ったことなどなかったから、そういう行為を見たのも、そしてある意味体験させられたのも初めてで、衝撃は大きい。

 今までは自分自身の事だと何となくわかってはいるものの、客観的に見ていられたから、どこか他人事の様な気もしていた。
 だから、自分の事の様で自分の事ではないという理屈が成り立っていたのだが、今回の夢はいつの間にか殿の意識と完全に重なってしまっていて、逃げ場がなくなった。

 生々しい交わりは、秋良の想像を遙かに超えていて、なのに嫌悪を抱いたのかと問われれば、気持ち自体は殿のものだったのもあって、嫌だと思う所か心地良かったと言うしかない。
 何度も何度も、あの悲しい別れの日の夢を見させられるのも辛いが、だからといってあんな夢を見せられる方が、もっと困る。
 今後、いつもの夢に変わって今日の夢が延々繰り返されでもしたらと想像するだけで、行き場のない感情が渦巻く。

「シャワー、浴びてくるか……」

 自分の想像を打ち消す様に、ぶんぶんと首を横に降って、秋良は浴室へと動き出す。
 出勤初日だからと、少し早めに目覚ましを掛けていた自分を褒めたかった。
 時間を掛けて頭を冷やし、浴室から出て出勤準備が整う頃にはなんとか平静さを取り戻していく。
 忘れてしまうには強烈過ぎたが、ただの夢の事だと自分を言い含める程度には落ち着いた。

(ここんとこ、そういう相手がいなくて欲求不満だった所へ、無駄に好意を示してくる孝則に会ったから、あんな夢を見ちゃったんだ。そうに違いない)

 少し苦しい言い訳だと思わなくもなかったが、自分があんな関係を望んでいるはずがない。
 夢の中の二人の住む時代が今とは違う事から、少なくとも今の自分自身に起こった事ではないのだからと、なんとかそれで納得する。

 家を出て自転車圏内の勤務地へ向かう為に、買ったばかりの自転車にまたがった。
 社長職の秋良が自転車通勤というのもどうかと思ったが、わざわざ車を出してもらう程でもないし、何より秋良自身がそういった扱いをされるのが苦手だった。
 家族ぐるみで動く時は仕方ないと諦めるが、自分で出来る事は自分でしたい。

 それにほとんどの社員が自分より年上という環境だろうから、送り迎えしてもらうとしたら、それにあたる人員もそうだと考えるのが普通だ。
 自分の為だけではなく、使われる立場になる人材のストレス軽減の為にも、これ位の事は当然やってしかるべき行動の範囲内だと思う。

「ま、気分転換にもなるしな」

 最終的に、動く事で夢の内容を忘れる事にした秋良は、ぼそりと一人呟いてペダルを漕ぎ出した。
 都会と違って、交通量はそう多くない。
 自転車で通勤するには思いの外快適だと、家を出発してから数分でわかった。

 朝だからだろうか、特に排気ガスに汚染されていない空気があまりにも清々しくて、慣れない身体はいっそ苦しい位だ。
 心地良く走り出した秋良の通勤ルートは、意識せずあの桜の木がある丘の公園にハンドルを切っていた。
 目指していたわけでもなかったが、走りやすい道を辿るとこの道に繋がるらしい。

 ちらりと横目で桜のある丘を見上げるが、そこにもちろん孝則の姿はない。
 当たり前の事だと思うのに、なんとなくほっとした後、少し寂しい気持ちにもなる。
 そこに誰もいない事を確認して、やはり夢は夢なのだと、やっと晴れがましい気持ちでスピードを上げた秋良は、会社に着いた途端、今日の一番良かった時間は通勤の短い間だけだったと思い知る事になった。


「お待ちしておりました。江藤社長」
「……なんでお前が、ここに居るの?」

 駐輪場に自転車を止め、警備員のおじさんに軽く挨拶をしながら手ぐしで乱れた髪を整えつつ、初出勤独特の緊張を隠す様に気合いを入れる。
 まだ新しい五階建ての自社ビルの入り口に立った秋良に対して、礼儀正しく頭を下げて出迎えてくれたのは、きっちりとしたグレーのスーツにセンスのいいネクタイとビジネスシューズに身を包んだ、昨日出逢ったばかりの突拍子もない友人、椎名孝則その人だった。

 昨日の普段着よりも、スーツ姿の方が着慣れているのだろうか。
 今日のスタイルの方が、孝則には似合っている気がした。
 社会人経験の年数が違うとはいえ、スーツを着せられている感丸出しの秋良とは、正反対だ。

 あまりにも予想外の人間の出現に、少しは社長の威厳も出せるようにしないといけないかと気負って来た事もすっかり吹っ飛び、自分でもわかる位の間抜けな声が出た。

「本日付で、秘書室長に任命されました椎名孝則です。私が社長秘書を兼任致しますので、何なりとお申し付け下さい」
「え、いや、ちょっと……いろいろ飲み込めない」
「本日は初日でございますので、僭越ながらこちらでスケジューリングさせていただきました。社内および関係各所への挨拶を、お願い致します」

 「詳細は……」と、戸惑う秋良を置いてけぼりにしたまま、手元に持っていたファイルを広げようとした孝則の手を掴んで止める。
 そこでやっと孝則は言葉を止め、秋良の顔を見た。
 視線がぶつかった所で、孝則が最初から一度も秋良と視線を合わせていない事に気付く。
 また逸らそうとする視線を追いかけて、無理矢理覗き込むように顔を合わせて、再度確認する。

「孝則、だよな」
「……はい」
「お前、もしかして昨日から知ってた?」
「すみません。ですが、殿だと気付いたのは昨日お会いした時で、それは本当に偶然です。江藤社長とお名前が一緒だったので、上司になる方かもしれないとは思ったのですが……同姓同名という事もございますし、私も昨日は殿に再び出会えた事が嬉しくて、それ以上の事に気が回らなくて……」
「あー、わかった。いや、本当はあんまりわかってないけど、とりあえず落ち着け」

 責める様な口調で問いただすと、大きく頭を下げて謝罪しながら次々と言葉を付け足して行く。
 言い訳なのか説明なのかわからない位、孝則の文法はめちゃくちゃだった。
 それだけ、孝則の方からしても予想外の出会いだった事は理解したが、だからと言って今日のこの衝撃を、無しにしてやる事は出来ない。

 ましてや昨日から、訳もわからないままに振り回されっぱなしなのは秋良の方だ。
 どちらかと言うと、主導権は自分が握っておきたい性格の秋良からすれば、面白くない事態続きという事になっている。

「黙っていて、申し訳ありませんでした」
「いろいろ言いたい事はあるけど……。今は、仕事するよ」

 再び大きく頭を下げた孝則は、まるで飼い主に叱られてしゅんと耳をもたげる大きな犬の様で、ともすれば項垂れる尻尾さえ見えそうだ。
 秋良は怒るより先に苦笑が漏れてしまい、溜息一つ落しただけでその場を許し、下げられた孝則の頭にぽんっと手を置いて、今するべき事を優先させる事にした。
 なかなか自分も大人になったものだと、独りごちる。

「は、はい」
「話は、後でゆっくり聞かせてもらうから」
「……承知致しました」

 歩き始めた秋良の一歩後ろから、孝則が付いて来る。
 スケジュールの説明を聞きながら、仕事に関しては、任せるに足る人物だという判断を下した。
 短い時間だったが、先ほどの言い訳まがいのものとは打って変わって説明はわかりやすく、社長職に慣れていない秋良に配慮した、それでいて押さえどころは外さない卒のない量と内容になっていたからだ。

 孝則は昨日、三十一歳だと言っていた。
 その歳で室長という地位に任命され、社長秘書に就くという事は、それだけ周りからも評価されているのだろう。
 秋良の印象としては、ちょっと変な奴という所だったが、仕事面に関してはどうやらその印象は当てはまらない様で安心する。

 童顔という訳ではないが、老けて見られる事は滅多になく、ましてや経験が豊富なわけでもないから、どうしても年相応にしか見えない秋良と、その後ろに控える有能そうではあるものの、これまた社会人としてはまだまだ年若い部類に入る孝則のコンビは、社内外ともに舐めて見られる事を半ば覚悟していたのだが、秋良が思っていた以上に周りの反応は優しかったと評価して、差支えないと思う。

 社内の人間に関しては、会社という組織下にいる以上、例え面白く思っていなくても顔に出すものは少ない事はわかる。
 初日という事もあり、露骨な態度をとる社員はまずいないだろう。
 接点も、朝一番で要約すると「これからよろしく」という挨拶位しかなかったので、何日か過ぎてみないと本当のところはわからないが、それでも少なくはない人数の社員全員が歓迎ムードだったことには、少なからず驚いた。

 また、社外の関係各社の代表へ挨拶回りに行った時も、年若い社長を下に見る者は一人もおらず、そう見られたい訳では決してないが、思わず首を傾げてしまった。
 もちろん、ほぼ全社が自分より遙かに年上の代表者ばかりで、現時点では何一つ勝てている所がなかったと思う。
 やる気なら人一倍あると宣言できるようなタイプでもないし、皆が対等に接してくれる事が不思議だった。

 相手が皆大人だからだと言われればそれまでだが、秋良の経験上これだけの人数の人間に会えば、数人位は自分の感情に忠実な態度を示す人間がいるものだ。

(温和で懐の深い人間が多い土地柄なのかな? それにしても……)

 と思ったところで、父親の顔が浮かんだ。
 きっとあの過保護な父親が、先に息子をくれぐれもよろしくとかそういった圧力根回しを、先んじて行っていたに違いない。
 そう考えれば、色々と納得がいく。

(けど、この通達の徹底ぶりは恐れ入る)

 父親の事は嫌いではないが、こうして何もかも手を出してくる所は、少し苦手だった。
 信用されていないのが丸わかりで、それは自分がずっと何もしてこなかったからだという事は百も承知だ。
 それでも、やらせてみると決めたのならば、暫くの間は見守っていてくれてもいいのではないかと思うのも、甘えだろうか。

 外回りから帰社したのは、すでに今日一日の予定の終わりが見えてきた頃。
 この時間になってやっと入る事の出来た社長室の椅子に腰掛けた途端、深い溜息が出そうになる。
 何とか溜息が漏れるのを抑えて深呼吸した所で、正面に立っていた孝則から声がかかった。

「本日の予定は、これで終了です。お疲れ様でした」
「お疲れ」
「何か、お飲み物をお持ちしましょうか?」
「あぁ、じゃあ頼む」
「かしこまりました」

 一礼して出て行く孝則を見送って、秋良はやたら立派な椅子に背中を預けた。
 くるりと椅子ごと背後にある大きな窓を降り向くと、そこには秋良の住む町が一望できる景色が広がっている。
 夕焼けが全体を赤く染め、幻想的な世界を作り出していた。

「すっげぇ……」

 社長室が最上階にあるとはいえ、五階建てのビルだ。そんなに高いわけではない。
 けれど、周りにビルどころか高い建物がほとんどないこの町を見下ろすには、この高さで十分すぎるほどだった。
 きっと晴れた日の昼間だったなら、どこまでも遠く見渡せるに違いない。

 思わず疲れているのも忘れて立ち上がり、窓の傍に近寄る。
 廃れかけた心が洗われる様で、沈んで行く夕陽を真っ直ぐ見つめていると、控えめにドアがノックされた後、孝則がお茶を手に戻って来た。

「失礼します」
「さんきゅ」

 秋良の立つ窓際まで来てくれた孝則からお茶を受け取って礼を告げ、秋良は再び飽きもせず見入られる様に、窓の外に視線を移した。
 つられる様に孝則もその景色に視線を向け、小首を傾げる。

「何をしておいでですか?」
「すげーいい景色だな、と思ってさ」
「そうですね。殿も……」
「ん?」
「いえ、何でもありません。それでは、私は終業時間まで隣の秘書室におりますので」
「…………? わかった」

 何かを言いかけた孝則の言葉を拾えず、降り向いた秋良に孝則は言葉の続きではなく、業務連絡だけを残して一礼した。
 問いただす程気になる会話の流れでも無かったので素直に頷くと、孝則は少しだけほっとしたような表情を見せ、そのまま部屋から退出しようと踵を返す。

「あ、ちょっと待って」
「何か、ご不明な点でもございましたか?」
「いや、そうじゃなくて。お前、今夜空けておけよ」
「はい?」
「今朝の話、詳しく聞かせてもらう約束。忘れてないから」
「……はい」

 孝則の予定も聞かない一方的な誘いに嫌な顔もせず、秋良の言葉に従うのは当然の様に頷く孝則の姿に、秋良の方が虚をつかれた。
 昨日、対等に友人として接しろと告げたばかりなのに、この反応はどういうことだろうか。
 呼び出しにも似た誘いは、孝則にとっては率先して話したい内容ではないはずなのだから、少しは拒否や戸惑いの言葉や態度が出ると思っていた。

 もし秋良が孝則の立場だったら、例え自分の行動が引き起こした事態だとわかっていたとしても、確実に「いや、今日はちょっと予定が……」位の抵抗は、試みる。

(今は上司と部下という関係性だから、業務命令だと思って断れないだけか?)

 一瞬その考えが過ぎり、だが次の瞬間には孝則の性格からして、それは余り関係ないだろうと思い直した。
 一日や二日で分かり合える程、人の心情は簡単なものではないけれど、孝則の秋良に対する強固な従順っぷりは、ここで孝則が秋良の命を拒否する様な事はしないだろうと、断言出来てしまう。

 それでも何をどう怒られるのだろうと心配そうな顔をしている表情だけは隠せていなくて、不安そうなその姿に今朝のしょぼくれた犬のイメージが再び湧きあがり、思わず笑ってしまった。

「まぁ、そんなに固くなんなくていいよ。実はもう、あんまりに気にしてない」
「え……?」
「俺、あんまり引きずらない方だから。でも言い訳位は聞いてやるよ、ってこと」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ、また後でな」
「はい。……江藤社長」
「何?」
「今日のご対応、素晴らしかったです。正直、社長の年齢を聞いて不安視する者も、少なくなかったのですが……」
「だろうな」
「皆、社長のお言葉を聞いて、余計な杞憂だっと感じた様です。流石は……」
「気遣わなくて良いよ。どうせ親父の息が掛かってるのは、わかってるからさ」
「……? どういった意味でしょうか」
「とぼけんなって、俺だっていきなり全員に認められるなんて自惚れてないよ。過保護で身内びいきな父親が、息子を社長にしたはいいけど心配になって、とんでもない圧力かなんかかけながら、脅しに近い「よろしく」を連発したんだろ」
「そのような指示は、受けておりませんが……」
「じゃあ、お前には内緒で、とかさ」
「私は、社長付きの秘書です。江藤社長に関する事で、私に話が通らない事があるなどあり得ません」

 きっぱり言い切る孝則の態度に、本当にそうなのかもしれないと、少しだけ秋良の気持ちが揺れる。
 けれどそれは、すぐに自分自身で否定した。
 さすがに秋良にだって、自分の力量はわかっている。経験が足りない事も、志が足りない事も。

「だけど……」
「今日の貴方は、とても立派でしたよ。誰に勝るとも劣らない」
「……孝則」
「秋良が、何を気にしているのかはわかりませんが、少なくとも社内にそういった通達は出ていません。皆は自分の意思で、貴方を社長だと認めたんです。それだけは、信じてもらえませんか?」

 「秋良」と、友人としてそう呼んで、諭す様な言葉を告げる孝則の目は真っ直ぐで、とても嘘をついている様には見えなかった。
 孝則が、秋良の為を思って隠し事をする所は想像出来たが、こんな真剣な目で嘘をつく様には思えなかったから、きっとこの言葉は真実だと素直に信じる事が出来た。

「わかった。ごめん、ありがとう」
「もちろん私も、同じ気持ちです。ご自分では気付いていらっしゃらないかもしれませんが、貴方は上に立つ者としての資質は、十分だと感じます」
「……そうかな?」
「経験不足は、仕方のない事です。これから、努力して頂ければ問題ありません」
「皆を失望させない様、頑張るよ」
「期待しております。それでは」

 秋良に、信じてもらえた事を確信したのだろう。軽く頷いて一礼し、孝則は今度こそ部屋を退出した。
 残された秋良は、ぬるくなってしまったお茶を口に含みながら、窓の外へと視線を泳がす。
 そこには変わらず、町を赤く染めながら落ちて行く夕陽があって、卑屈になりかけていた秋良の心をそっと溶かした。

 褒め言葉は素直に受け取って、自信を付けながら今自分に足りていないものを補っていけばいい。
 自分が勝手に作り出してしまっていただけで、どこにも父親の影など見えないのだから。

「よし、やるか」

 うーんと思い切り背を伸ばして気合を入れ直し、秋良は机上に置かれていた引継書を開きながら、窓を背に席についた。
 終業時間までは、あと一時間ほど。
 今日出来る事はもうそう多くはないが、ただ腐って時間を過ごすよりはずっといい。
 せっかく、社内の人間が自分を認めようとしてくれているというのだ、期待には応えたかった。
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