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陸話
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「……自転車、ですか」
「何だよ、一番合理的な移動方法だろ」
終業時間を告げるチャイムの音が鳴り、片付けをしなければならない程まだ書類も多くない、散らかり様のない秋良の机は一分もかからない内に処理を終えてしまう。
ずるずると社長である自分が社内に残っていては、他の社員達にしてみたら邪魔でしかないだろうと、脱いでいたスーツのジャケットを羽織って、さっさと社長室を出た。
隣にあるという秘書室に声を掛けてから帰ろうと顔を出し、中に居た孝則以下三人が立ち上がって挨拶しようとするのを、軽く手で制して「お先に」と声を掛ける。
孝則にだけ、軽く「下で待ってる」と合図をして秘書室を後にし、すれ違う社員達に「お疲れ様」と声を掛けながらビルを出た。
朝と変わらず、愛想の好い警備員のおじさんと軽く挨拶程度の会話を交わしながら駐輪場から出たタイミングで、駆け足気味に会社を出てきた孝則とかち合う。
そこで秋良の姿を見た孝則の一言目が、あまりにも訝しげで、自然と秋良の応答も拗ねた様な口調になってしまった。
「いえ、秋良の通勤手段に文句を付けたい訳ではないのですが……」
「なら、何?」
「お酒が入ると乗れなくなりますから、あまりご自宅から遠い店にご案内出来ないな、と」
「あぁ、そっか。孝則は電車?」
「はい。と言っても、二駅隣なだけですが」
「それなら、駅前がいいんじゃないか? 俺も駅からなら、歩いてもそう遠くない距離だからさ」
「ですが、夜道は危ないですし」
「お前ね、俺は女の子じゃないんだから平気だって。それに初日から部下を遅くまで連れ回す程、空気読めない上司じゃないよ」
「私と秋良は、友人では?」
「仕事とプライベートの切換え早ぇな、お前」
「……すみません」
「褒めてんの」
くく、と笑顔を漏らして「そうこなくちゃな」と親指を立てた秋良に、孝則もほっとしたような笑みを返す。
頑ななように見えて、意外と柔軟な思考も持ち合わせていたらしい。
これなら、良い友人関係を結ぶのに、そう時間はかからないかもしれない。
これは嬉しい誤算だ、などと結構失礼な感想を抱きながら、案内すべき店はどこだろうと考えているらしい孝則に「なぁ」と声を掛ける。
「あ、何系が食べたいなどリクエストはありますか? と言っても、この辺りはあまり店が多くないのですが……」
「いや、そうじゃなくて。俺んちはどうかなーと思って」
「は?」
「酒とつまみ買ってさ、遅くなったら泊って行けばいいよ」
独り暮らしにしては結構間取り広いから、狭くて眠れないって事はないはずだ。
それに春先のこの時期なら、雑魚寝しても風邪をひく様な事はないと思う。
「独り暮らしを始めたら、一度やってみたかったんだよな。友達家に呼んで、時間気にしないでいい家飲み」
「秋良様のご自宅に、私が……」
そう続けた秋良に、困ったような表情をした孝則の顔が飛び込んできた。
それに気付いて、秋良は自分の先走りに照れたように頭を掻く。
「流石に、泊りで飲みに誘うのは早いか」
「いえ、嬉しいです! ……ですが本当に、お邪魔してもよろしいのですか?」
学生時代ならともかく、社会人の友人関係の距離感としては、いきなり過ぎたかもしれない。
「悪い」と謝ろうとした所で、それを遮る様に前のめりで孝則が答え、そして咄嗟に出た自分の言葉に不安を覚えた様に、恐る恐るという風情で疑問を繋げる。
「ていうか、俺が誘ったんだけど? 来て欲しくない奴に対して、わざわざ自分から提案する程、お人好しじゃないつもり」
「は、はい」
「じゃあ、決まりな。コンビニまで案内頼む」
孝則が「でも……」と言い出す前に、秋良は自転車を押しながら歩き出す事で、それを阻止する。
これ以上の固辞は、逆に失礼になると感じとったのだろう。
孝則はそれ以上何も言わず、恐縮したような表情を改めて秋良の横に並んだ。
二人では消化しきれないのではないと思われる程の酒とつまみを買い込んで、ずっしりと重みを増した自転車を押しながら、他愛ない話をしながら帰路に着く途中で、あの桜の丘の横を通りがかる。
秋良としては遠回りなのではないかと思っていた道だったが、今朝走りやすい道だと思ったのは間違いではなくて、歩行者や自転車にとってはむしろこの道の方が信号も少ないし近道になると孝則が教えてくれた。
遠くに見える桜を愛おしそうに目を眇めて眺める孝則は、何かを思い出しているのかとても懐かしそうだ。
秋良も釣られるように視線を向けると、すっかり日が落ちて空に月と星をバックに佇む桜があるこの状況下に、今日の夢が一気に蘇り息を飲む。
そして、あんな夢を見たその日に、孝則を自分の家に招こうとしている自分の行動の考えなさに、若干落ち込む。
「……忘れてた」
「どうかしましたか」
「い、いや。何でもない」
「?」
物事を引きずらないのは、秋良の長所であり、短所でもある。
引きずらないのではなく、ただ忘れっぽいだけとも言うのかもしれないが……。
孝則を誘った事自体は全く後悔していないし、ゆっくり二人で飲めるこれからの時間は楽しみである事には変わらない。
けれど、あの生々しい夢の事を思い出してしまった以上、何事もなく振る舞う自信もなかった。
秋良は違うと思っていても、今隣にいる孝則は夢の中の孝則の生まれ変わりだと言い張っている以上、同一人物という認識なのだろう。
と言う事は孝則にとって秋良は殿であり、先日も勝手にそう思う事を許して欲しいと言う様な事を言っていた。
つまり、孝則が秋良に対して夢の中の様な事をしたいと思っている可能性は、ゼロじゃないのだ。
(せめて、プラトニックな恋人関係だったら良かったのに……)
とここまで考えて、自分の思考がずれている事に気がついた。
もし孝則が秋良に対して殿と同じ関係を望んで来たとしても、秋良がそれに答える義務はないはずで、秋良にとってはただの夢でしかない。
孝則に、心を合わせる必要もないのだ。
秋良は、今隣にいる孝則と友人になりたいのであって、恋人になりたい訳でも、過去の郷愁に襲われている訳でもないはずなのだから。
「あんまり生々しかったからか? ……毒されてるな、俺」
「秋良?」
「いや、ホントに何もないから。大丈夫」
「そうですか?」
「ちょっと、ぼーっとしてただけ。あ、見えてきた。俺んちあそこ」
秋良の態度の変化にまだ少し心配そうにしながらも、孝則は秋良の指示した方向を見てそこにあるマンションを見つけて頷いた。
「良い所ですね」
「過保護だからな」
「……良い親御さんだと思いますよ」
先ほど会社での褒め言葉を、素直に受取れなかった秋良の態度を見て、孝則は何かを感じ取ったのだろう。
孝則は、秋良の頑なな感情に同意する事も、かといって窘める事もなく、ただ秋良の事を想っているはずの親を自分がどう思ったかを告げるだけに止めた。
だから秋良も、それ以上ムキになったりせず、ただ素直に頷けた。
駐輪場に自転車を止めると同時に、籠に乗せてあった荷物を孝則が一人で持とうとしたので、秋良が奪い取る様に二分してそれぞれに分担する。
孝則は何か言いた気だったが、孝則が口を開くより先に入口に辿り着いたので、そのままセキュリティ完備の小さなエントランスで暗証番号を打ち込んで自動ドアを開けた。
正面にあるエレベータに乗り込んで、押したボタンは三階。
この辺りではマンションの需要より一戸建てを買う人の方が多いのだろう。
一人暮らしの多い学生街でもないし、ワンルームとファミリー向け、どちらと問わずマンション自体がそう多くない。
必然的に、マンションと言っても、高さは会社のビルと同じ五階建て辺りが相場だ。
秋良がこっちに引っ越すと決まった時、親は迷わず最上階の一番広い部屋を借りようとした。
社長という世間的な地位を考えれば、それは特段おかしなことでも無かったのだろうが、まだ自分で大金を稼いだ事もない秋良に取って、それは分相応とはとても思えなかった。
それに、この歳になって親の金で悠々自適の独り暮らしなど、どこの道楽息子だとも思う。
身内びいきの人事采配だけでも肩身が狭いのに、これ以上何もしてくれるなというのが本音だ。
成人男性の独り暮らしに、完璧なセキュリティーなど重要視する事ではないだろうと秋良は思っていたのだが、ここは母親がどうしても折れず、折衷案として親が見つけたマンションの中で、どうにか秋良が自分で家賃を払える部屋にした。
三階でエレベータを降り、そこから一番遠い角部屋まで進む。
鍵を開けて、ここまで付いて来たのにまだ若干遠慮がちの孝則を招き入れる。
「越してきたばっかりだから、まだそんな汚れてないと思う」
「お邪魔します」
「適当に座って」
「はい」
いわゆる独り暮らし用にしては間取り自体は広いが、それでもワンルームという体裁の部屋なので、寛ぐ場所はベッドの置かれた部屋になる。
朝起きた時の衝撃で混乱したまま何とか準備をして家を出たものの、ベッドを整えていないままだった。
座った孝則の視線の先でぐしゃりとちらかっている布団をそっと直し、テーブルを挟んで秋良はベッドを背に、孝則の正面に胡坐を掻く。
買って来た酒とつまみを無造作にテーブルに並べて、その内のビール一缶を開けて孝則に差し出すと、秋良の分のもう一缶は孝則が開けてくれた。
「さんきゅ」と受け取って、その缶を少しだけ掲げる。
「じゃあまずは、お疲れ」
「お疲れ様でした」
軽く缶をぶつけ合って乾杯をしたあと、孝則は開口一番に謝罪する。
同時に差し出されたのは、昨日貸したハンドタオルだ。
洗濯してあるのか、貸した時とは違って綺麗に畳まれている。
「黙っていて、本当に申し訳ありませんでした」
「いつから知ってたんだ? まさか昨日の出逢ったのまで、仕組まれていたって事はないよな?」
最初から疑わなくてはいけないのは、秋良としても不本意ではあるが、形式上そう続けると孝則は大きく首を横に振ってそれを全力で否定する。
確かに今朝、慌てて言い訳していた時も孝則は偶然だと言っていたから、それは本当だろう。
「お名前を伺った時、もしかしたら……とは思いました。ですが、社長のお写真を頂いていた訳でもなかったので、確信したのは今日秋良の顔を見た時です」
「それにしては、随分冷静な対応だったけど」
「仕事場では秋良は上司ですから、失礼な態度を取る訳にはいきません。仕事モードに切り替えるのに、必死でしたよ」
「ま、お前は仕事とプライベート、しっかり分けるタイプみたいだからな」
会社を出た途端、素の顔で友人だと言い切った時の自分を思い出したのか、孝則がほんのり頬を染める。
秋良ばかりが驚いたのではなかった事がわかり、少しだけ余裕を取り戻した。
元々宣言した通り、もうそんなに怒ったり拗ねたりするつもりもなかったから、この謝罪に対しての話題はここまでで打ち切る事にする。
暫くは他愛ない世間話や、秋良の知らない社内情報などを教えてもらったりと、まったりとした時間が過ぎ、楽しく酒は進んだ。
出逢ってまだ二日目だというのに、会話と会話の間に時たま流れる沈黙も苦痛ではなく、何の気負いもなく自然といられる存在になっているのは不思議な感じがした。
それだけ、秋良と孝則は相性が良いという事なのだろうか。二人で居るのが心地良い。
ふとした瞬間、孝則が秋良を通して遠い誰かの事を見ている様な気はしたが、昨日本人から勝手に殿として見る事は許して欲しいと聞いていたからだろう、そこまで気にもならなくなってきた。
孝則の言う事を、少しは真剣に聞いてみようかという気になってきた心境の変化が、影響しているかもしれない。
昨日は突然の出逢いすぎて、いろいろと頭が付いていけないままだったが、こうしてゆっくり話をしてみると、孝則に妄想癖があるとは思えなかったし、その言葉はいつでも真剣だったから、冗談で秋良を騙そうとしている等ということはないと確信出来た。
仕事も友人関係も卒なくこなし、相手を不快にさせる様なタイプではない。
まだ交友期間が短いから強い個性こそ引き出せはしないけれど、それでも真面目な奴だという事だけは、話す言葉の端々からわかったし、疑いようもなかった。
そんな孝則が、真剣に秋良をずっと探していたのだと言う。
だからかもしれない、酔いも手伝って、秋良が自分から夢の話を振ってみても良いと思ったのは。
「俺と会ったのが仕込みじゃないならさ、昨日は何であそこにいたんだ? お前の家は駅二つ向こうなんだろ、休みの日にわざわざ来る程、何かある様な公園でもないし」
「私は物心ついた頃から、休みの日には必ずあの場所へ行っていますから」
「物心って……そんな昔から、ずっと?」
「はい。殿との接点は、今となってはあの場所しか残っていません。今回の転生で、この土地に生まれた事は幸いでした」
その言葉を紡ぐ瞳は真摯すぎて、「どうしてそこまで」と口を挟む隙さえなかった。
孝則にとって、それだけ殿という存在は大きいのだろう。
そこまで心酔するような人物に会った事がない秋良には、理解しがたいことではあったけれど、それを否定する材料もない。
けれど、秋良が孝則にとっての殿になれるかどうかと問われれば、それは否定せざるを得ない。
一人の人間の全てを請け負えるほど、秋良は出来た人間ではなかったし、きっとこれから先もそうだと思う。
いくら孝則がそれを望んでいたとしても、簡単には受け入れてやることは出来ない。
自分の懐が浅い様な気がして、夢の中の殿との差が大きく開いていくばかりな気がした。
それが何だか悔しくて、比べられるのが嫌だと思っていたのに、自分自身こそが殿と自分を比べてしまっている事に気付く。
「……小さいな、俺」
「秋良?」
「正直、全部を信じてやることは出来ないかもしれないけど……。お前の事ちゃんと知りたいから、最後まで聞く。だから話して、お前と殿様の事」
昨日は、あまり突然の話に付いて行けなくて、途中でぶった切った自覚はあった。もしかしたら、もう何も話してはくれないかもしれない。
だが、この先長く友人として付き合っていく為には、ずっと気になるしこりを残しておくのも気持ちが悪い。
秋良の気持ちが、通じたのだろうか。
孝則は少しだけ戸惑いを含みながらも、大切な思い出を壊さない様に、そっと宝箱を開ける様に、話し始めた。
「私と殿が一緒にいられた時間は、そんなに多くはなかったんです……」
「何だよ、一番合理的な移動方法だろ」
終業時間を告げるチャイムの音が鳴り、片付けをしなければならない程まだ書類も多くない、散らかり様のない秋良の机は一分もかからない内に処理を終えてしまう。
ずるずると社長である自分が社内に残っていては、他の社員達にしてみたら邪魔でしかないだろうと、脱いでいたスーツのジャケットを羽織って、さっさと社長室を出た。
隣にあるという秘書室に声を掛けてから帰ろうと顔を出し、中に居た孝則以下三人が立ち上がって挨拶しようとするのを、軽く手で制して「お先に」と声を掛ける。
孝則にだけ、軽く「下で待ってる」と合図をして秘書室を後にし、すれ違う社員達に「お疲れ様」と声を掛けながらビルを出た。
朝と変わらず、愛想の好い警備員のおじさんと軽く挨拶程度の会話を交わしながら駐輪場から出たタイミングで、駆け足気味に会社を出てきた孝則とかち合う。
そこで秋良の姿を見た孝則の一言目が、あまりにも訝しげで、自然と秋良の応答も拗ねた様な口調になってしまった。
「いえ、秋良の通勤手段に文句を付けたい訳ではないのですが……」
「なら、何?」
「お酒が入ると乗れなくなりますから、あまりご自宅から遠い店にご案内出来ないな、と」
「あぁ、そっか。孝則は電車?」
「はい。と言っても、二駅隣なだけですが」
「それなら、駅前がいいんじゃないか? 俺も駅からなら、歩いてもそう遠くない距離だからさ」
「ですが、夜道は危ないですし」
「お前ね、俺は女の子じゃないんだから平気だって。それに初日から部下を遅くまで連れ回す程、空気読めない上司じゃないよ」
「私と秋良は、友人では?」
「仕事とプライベートの切換え早ぇな、お前」
「……すみません」
「褒めてんの」
くく、と笑顔を漏らして「そうこなくちゃな」と親指を立てた秋良に、孝則もほっとしたような笑みを返す。
頑ななように見えて、意外と柔軟な思考も持ち合わせていたらしい。
これなら、良い友人関係を結ぶのに、そう時間はかからないかもしれない。
これは嬉しい誤算だ、などと結構失礼な感想を抱きながら、案内すべき店はどこだろうと考えているらしい孝則に「なぁ」と声を掛ける。
「あ、何系が食べたいなどリクエストはありますか? と言っても、この辺りはあまり店が多くないのですが……」
「いや、そうじゃなくて。俺んちはどうかなーと思って」
「は?」
「酒とつまみ買ってさ、遅くなったら泊って行けばいいよ」
独り暮らしにしては結構間取り広いから、狭くて眠れないって事はないはずだ。
それに春先のこの時期なら、雑魚寝しても風邪をひく様な事はないと思う。
「独り暮らしを始めたら、一度やってみたかったんだよな。友達家に呼んで、時間気にしないでいい家飲み」
「秋良様のご自宅に、私が……」
そう続けた秋良に、困ったような表情をした孝則の顔が飛び込んできた。
それに気付いて、秋良は自分の先走りに照れたように頭を掻く。
「流石に、泊りで飲みに誘うのは早いか」
「いえ、嬉しいです! ……ですが本当に、お邪魔してもよろしいのですか?」
学生時代ならともかく、社会人の友人関係の距離感としては、いきなり過ぎたかもしれない。
「悪い」と謝ろうとした所で、それを遮る様に前のめりで孝則が答え、そして咄嗟に出た自分の言葉に不安を覚えた様に、恐る恐るという風情で疑問を繋げる。
「ていうか、俺が誘ったんだけど? 来て欲しくない奴に対して、わざわざ自分から提案する程、お人好しじゃないつもり」
「は、はい」
「じゃあ、決まりな。コンビニまで案内頼む」
孝則が「でも……」と言い出す前に、秋良は自転車を押しながら歩き出す事で、それを阻止する。
これ以上の固辞は、逆に失礼になると感じとったのだろう。
孝則はそれ以上何も言わず、恐縮したような表情を改めて秋良の横に並んだ。
二人では消化しきれないのではないと思われる程の酒とつまみを買い込んで、ずっしりと重みを増した自転車を押しながら、他愛ない話をしながら帰路に着く途中で、あの桜の丘の横を通りがかる。
秋良としては遠回りなのではないかと思っていた道だったが、今朝走りやすい道だと思ったのは間違いではなくて、歩行者や自転車にとってはむしろこの道の方が信号も少ないし近道になると孝則が教えてくれた。
遠くに見える桜を愛おしそうに目を眇めて眺める孝則は、何かを思い出しているのかとても懐かしそうだ。
秋良も釣られるように視線を向けると、すっかり日が落ちて空に月と星をバックに佇む桜があるこの状況下に、今日の夢が一気に蘇り息を飲む。
そして、あんな夢を見たその日に、孝則を自分の家に招こうとしている自分の行動の考えなさに、若干落ち込む。
「……忘れてた」
「どうかしましたか」
「い、いや。何でもない」
「?」
物事を引きずらないのは、秋良の長所であり、短所でもある。
引きずらないのではなく、ただ忘れっぽいだけとも言うのかもしれないが……。
孝則を誘った事自体は全く後悔していないし、ゆっくり二人で飲めるこれからの時間は楽しみである事には変わらない。
けれど、あの生々しい夢の事を思い出してしまった以上、何事もなく振る舞う自信もなかった。
秋良は違うと思っていても、今隣にいる孝則は夢の中の孝則の生まれ変わりだと言い張っている以上、同一人物という認識なのだろう。
と言う事は孝則にとって秋良は殿であり、先日も勝手にそう思う事を許して欲しいと言う様な事を言っていた。
つまり、孝則が秋良に対して夢の中の様な事をしたいと思っている可能性は、ゼロじゃないのだ。
(せめて、プラトニックな恋人関係だったら良かったのに……)
とここまで考えて、自分の思考がずれている事に気がついた。
もし孝則が秋良に対して殿と同じ関係を望んで来たとしても、秋良がそれに答える義務はないはずで、秋良にとってはただの夢でしかない。
孝則に、心を合わせる必要もないのだ。
秋良は、今隣にいる孝則と友人になりたいのであって、恋人になりたい訳でも、過去の郷愁に襲われている訳でもないはずなのだから。
「あんまり生々しかったからか? ……毒されてるな、俺」
「秋良?」
「いや、ホントに何もないから。大丈夫」
「そうですか?」
「ちょっと、ぼーっとしてただけ。あ、見えてきた。俺んちあそこ」
秋良の態度の変化にまだ少し心配そうにしながらも、孝則は秋良の指示した方向を見てそこにあるマンションを見つけて頷いた。
「良い所ですね」
「過保護だからな」
「……良い親御さんだと思いますよ」
先ほど会社での褒め言葉を、素直に受取れなかった秋良の態度を見て、孝則は何かを感じ取ったのだろう。
孝則は、秋良の頑なな感情に同意する事も、かといって窘める事もなく、ただ秋良の事を想っているはずの親を自分がどう思ったかを告げるだけに止めた。
だから秋良も、それ以上ムキになったりせず、ただ素直に頷けた。
駐輪場に自転車を止めると同時に、籠に乗せてあった荷物を孝則が一人で持とうとしたので、秋良が奪い取る様に二分してそれぞれに分担する。
孝則は何か言いた気だったが、孝則が口を開くより先に入口に辿り着いたので、そのままセキュリティ完備の小さなエントランスで暗証番号を打ち込んで自動ドアを開けた。
正面にあるエレベータに乗り込んで、押したボタンは三階。
この辺りではマンションの需要より一戸建てを買う人の方が多いのだろう。
一人暮らしの多い学生街でもないし、ワンルームとファミリー向け、どちらと問わずマンション自体がそう多くない。
必然的に、マンションと言っても、高さは会社のビルと同じ五階建て辺りが相場だ。
秋良がこっちに引っ越すと決まった時、親は迷わず最上階の一番広い部屋を借りようとした。
社長という世間的な地位を考えれば、それは特段おかしなことでも無かったのだろうが、まだ自分で大金を稼いだ事もない秋良に取って、それは分相応とはとても思えなかった。
それに、この歳になって親の金で悠々自適の独り暮らしなど、どこの道楽息子だとも思う。
身内びいきの人事采配だけでも肩身が狭いのに、これ以上何もしてくれるなというのが本音だ。
成人男性の独り暮らしに、完璧なセキュリティーなど重要視する事ではないだろうと秋良は思っていたのだが、ここは母親がどうしても折れず、折衷案として親が見つけたマンションの中で、どうにか秋良が自分で家賃を払える部屋にした。
三階でエレベータを降り、そこから一番遠い角部屋まで進む。
鍵を開けて、ここまで付いて来たのにまだ若干遠慮がちの孝則を招き入れる。
「越してきたばっかりだから、まだそんな汚れてないと思う」
「お邪魔します」
「適当に座って」
「はい」
いわゆる独り暮らし用にしては間取り自体は広いが、それでもワンルームという体裁の部屋なので、寛ぐ場所はベッドの置かれた部屋になる。
朝起きた時の衝撃で混乱したまま何とか準備をして家を出たものの、ベッドを整えていないままだった。
座った孝則の視線の先でぐしゃりとちらかっている布団をそっと直し、テーブルを挟んで秋良はベッドを背に、孝則の正面に胡坐を掻く。
買って来た酒とつまみを無造作にテーブルに並べて、その内のビール一缶を開けて孝則に差し出すと、秋良の分のもう一缶は孝則が開けてくれた。
「さんきゅ」と受け取って、その缶を少しだけ掲げる。
「じゃあまずは、お疲れ」
「お疲れ様でした」
軽く缶をぶつけ合って乾杯をしたあと、孝則は開口一番に謝罪する。
同時に差し出されたのは、昨日貸したハンドタオルだ。
洗濯してあるのか、貸した時とは違って綺麗に畳まれている。
「黙っていて、本当に申し訳ありませんでした」
「いつから知ってたんだ? まさか昨日の出逢ったのまで、仕組まれていたって事はないよな?」
最初から疑わなくてはいけないのは、秋良としても不本意ではあるが、形式上そう続けると孝則は大きく首を横に振ってそれを全力で否定する。
確かに今朝、慌てて言い訳していた時も孝則は偶然だと言っていたから、それは本当だろう。
「お名前を伺った時、もしかしたら……とは思いました。ですが、社長のお写真を頂いていた訳でもなかったので、確信したのは今日秋良の顔を見た時です」
「それにしては、随分冷静な対応だったけど」
「仕事場では秋良は上司ですから、失礼な態度を取る訳にはいきません。仕事モードに切り替えるのに、必死でしたよ」
「ま、お前は仕事とプライベート、しっかり分けるタイプみたいだからな」
会社を出た途端、素の顔で友人だと言い切った時の自分を思い出したのか、孝則がほんのり頬を染める。
秋良ばかりが驚いたのではなかった事がわかり、少しだけ余裕を取り戻した。
元々宣言した通り、もうそんなに怒ったり拗ねたりするつもりもなかったから、この謝罪に対しての話題はここまでで打ち切る事にする。
暫くは他愛ない世間話や、秋良の知らない社内情報などを教えてもらったりと、まったりとした時間が過ぎ、楽しく酒は進んだ。
出逢ってまだ二日目だというのに、会話と会話の間に時たま流れる沈黙も苦痛ではなく、何の気負いもなく自然といられる存在になっているのは不思議な感じがした。
それだけ、秋良と孝則は相性が良いという事なのだろうか。二人で居るのが心地良い。
ふとした瞬間、孝則が秋良を通して遠い誰かの事を見ている様な気はしたが、昨日本人から勝手に殿として見る事は許して欲しいと聞いていたからだろう、そこまで気にもならなくなってきた。
孝則の言う事を、少しは真剣に聞いてみようかという気になってきた心境の変化が、影響しているかもしれない。
昨日は突然の出逢いすぎて、いろいろと頭が付いていけないままだったが、こうしてゆっくり話をしてみると、孝則に妄想癖があるとは思えなかったし、その言葉はいつでも真剣だったから、冗談で秋良を騙そうとしている等ということはないと確信出来た。
仕事も友人関係も卒なくこなし、相手を不快にさせる様なタイプではない。
まだ交友期間が短いから強い個性こそ引き出せはしないけれど、それでも真面目な奴だという事だけは、話す言葉の端々からわかったし、疑いようもなかった。
そんな孝則が、真剣に秋良をずっと探していたのだと言う。
だからかもしれない、酔いも手伝って、秋良が自分から夢の話を振ってみても良いと思ったのは。
「俺と会ったのが仕込みじゃないならさ、昨日は何であそこにいたんだ? お前の家は駅二つ向こうなんだろ、休みの日にわざわざ来る程、何かある様な公園でもないし」
「私は物心ついた頃から、休みの日には必ずあの場所へ行っていますから」
「物心って……そんな昔から、ずっと?」
「はい。殿との接点は、今となってはあの場所しか残っていません。今回の転生で、この土地に生まれた事は幸いでした」
その言葉を紡ぐ瞳は真摯すぎて、「どうしてそこまで」と口を挟む隙さえなかった。
孝則にとって、それだけ殿という存在は大きいのだろう。
そこまで心酔するような人物に会った事がない秋良には、理解しがたいことではあったけれど、それを否定する材料もない。
けれど、秋良が孝則にとっての殿になれるかどうかと問われれば、それは否定せざるを得ない。
一人の人間の全てを請け負えるほど、秋良は出来た人間ではなかったし、きっとこれから先もそうだと思う。
いくら孝則がそれを望んでいたとしても、簡単には受け入れてやることは出来ない。
自分の懐が浅い様な気がして、夢の中の殿との差が大きく開いていくばかりな気がした。
それが何だか悔しくて、比べられるのが嫌だと思っていたのに、自分自身こそが殿と自分を比べてしまっている事に気付く。
「……小さいな、俺」
「秋良?」
「正直、全部を信じてやることは出来ないかもしれないけど……。お前の事ちゃんと知りたいから、最後まで聞く。だから話して、お前と殿様の事」
昨日は、あまり突然の話に付いて行けなくて、途中でぶった切った自覚はあった。もしかしたら、もう何も話してはくれないかもしれない。
だが、この先長く友人として付き合っていく為には、ずっと気になるしこりを残しておくのも気持ちが悪い。
秋良の気持ちが、通じたのだろうか。
孝則は少しだけ戸惑いを含みながらも、大切な思い出を壊さない様に、そっと宝箱を開ける様に、話し始めた。
「私と殿が一緒にいられた時間は、そんなに多くはなかったんです……」
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