わたしたちはまだ、会っていない。

ゆらぎ

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第6章「再投稿はしない」

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第6章「再投稿はしない」

📘 Scene 6-1「澄乃、言葉が出てこない」

部屋の窓は、うすく曇っていた。
春先の雨が降っていたのかもしれないし、澄乃の視界が濡れていたのかもしれない。

机に肘をつき、スマホを目の前に置いたまま、彼女は動かなかった。
詩を書く時間──そのはずだった。だが、画面はずっと白紙のままだ。

「……なんで、だろう」

呟いた声が、自分のものとは思えなかった。
指先は何度も文字を打ちかけ、削除し、また打ちかけては消した。

「さみしい」と書こうとして、
それが誰かを傷つけるかもしれないと思った。

「ありがとう」と打って、
その軽さが誰かを拒絶しているように思えた。

「助けて」は、
彼女自身がまだそこにいないと思った。

画面に現れては消えていく言葉たちは、まるで自分の心を反復横跳びするようだった。
思いはある。感情はある。なのに、それが「言葉」という形になる寸前で、裂けてしまう。

「……言葉が、こわい」

自分が発した言葉が、誰かの胸を刺すかもしれない。
自分が選んだリズムが、誰かの過去を呼び起こしてしまうかもしれない。

詩とは、誰かの“痛み”を言語にすることだった。
それが、今の澄乃にはできなかった。

彼女はスマホを伏せた。
音のない部屋。机の上のノート。閉じかけたカーテン。

そして、そのまま一行だけ書いた。

「この言葉は、まだ跳べない」

その一文も、投稿はされなかった。
ただメモ帳の奥に、そっとしまわれた。

📘 Scene 6-2「慧、“誰にも見られない自分”に慣れてくる」

朝、スマホの通知は鳴らなかった。
LINEも、Instagramも、DMも、全部オフ。
慧はそれを「静か」と呼ぶようになった。

鏡の前で髪を整えながら、ふと思った。

──今日の顔、誰にも見られないんだな。

投稿しない毎日。
自撮りを撮らない毎日。
「おはよ~!」って言う代わりに、ただ学校へ向かう準備をするだけの日々。

最初は、落ち着かなかった。
“何者でもない”自分が、この世界に立っている感覚が、こわかった。
だけど、数日が過ぎた今──その無色透明に、少しずつ慣れてきた自分がいた。

カバンの中に入ったままのスマホ。
ロック画面には何も浮かばない。

慧は小さく、つぶやく。

「ねえ、SNSって、なんだったんだろう」

投稿。
いいね。
RT。
リアクション。
DM。
トレンド。
炎上。
盛れた写真。
タグ付け。
ストーリー。
24時間の存在証明。

「…あれが、わたしだったのかな?」

自分で聞いた問いに、答えは返ってこない。
ただ、通学路の風が頬を撫でるように過ぎていった。

画面の中で“存在していた”自分が、いなくなった今──
慧は“誰にも見られない自分”を、初めてちゃんと観察していた。

その透明感は、
思っていたよりも、苦しくなかった。

📘 Scene 6-3「駿、語らなかった“ごめん”」

伏見駿は、ずっと名前を名乗らないまま、生きてきた。
SNSでも、現実でも。
「名前って、重いな」と思ったのは、初めてDMを始めたときだ。

──教えてよ、なんて呼べばいいの?

その問いに、駿は答えなかった。
名前を出せば、境界が壊れる。
名前を出せば、正体が生まれる。
正体が生まれたら、期待される。
期待されたら、きっとまた裏切る。
だから、名乗らなかった。

ただのやりとり。
ただの文体。
ただの、会話。

名前のないDM欄は、心地よかった。
だが、ある日──

──名乗ってくれないなら、もういい。

たった一文だった。
アイコンは消えた。
履歴は残った。

駿は何も返せなかった。

「ごめん」とも、「ちがう」とも、「待って」とも。
言葉の海に沈んだまま、浮かばなかった。

それから駿は、ますます口数が減った。
現実でも、SNSでも。

今、画面の中にあるのは、別の誰かとのやりとり。
だが、文体はあの日の自分に似ている。
繰り返す句読点。
ためらいのある語尾。
「……」のあとにくる、静かな肯定。

駿は思う。

──名前を言えなかった過去が、いまの僕を作ったんだ。

そして、その“言わなかったごめん”が、
いまも、誰かの中で音を立てている気がする。

📘 Scene 6-4「凛太郎、“言葉の再生”を知る」

夜、凛太郎はベッドに寝転びながら、妹の裏アカをこっそり眺めていた。
自分の存在に気づかれないよう、通知もリストも使わず、検索だけで辿って。

澄乃の詩の中に、ふと既視感が走る。

──「君が見てくれないなら、僕の言葉は燃えカスになるだけなんだ」

その一節。
それは、かつて凛太郎が高校時代に投稿していた、自作の詩の一行だった。

ぞわりと、背筋が冷たくなる。
あの言葉は、もうこの世に存在しないはずだった。
アカウントごと削除し、バックアップすら残さなかったのに。

なのに、どうして──。

言葉は、消えない。
誰かが拾って、誰かの中でまた燃え上がる。

それが嬉しいのか、怖いのか、凛太郎にはわからなかった。
ただ、あのときの自分が“無駄じゃなかった”ような、
そんな風にも思えた。

「……誰かを、救いたかったんだよな、俺も」

誰かを、というより──
“誰かに救われたかった”のかもしれない。

消した言葉が、生き延びていた。

それは、再投稿ではなかった。
けれど、確かに“跳んだ”のだ。

凛太郎の心に、小さな火が灯る。

📘 Scene 6-5「“再投稿はしない”という決意」

深夜、澄乃は自室の机にひとり向かっていた。

明かりは落とし、スマホの光だけが頬を照らしている。
何度も開いては閉じた“投稿画面”が、目の前にある。

言葉は、ある。
綴ることもできた。

──けれど、どうしても「送信」を押せない。

スクリーンに打ち込んだのは、こんな短い一文だった。

「君に届いていたなら、それでよかった。もう再投稿はしない」

詩でもなかった。
物語でもなかった。

ただ、心から落ちたままの言葉だった。

だがその言葉を、“この世界”に向かって跳ばすことが怖かった。

誰かを壊してしまうかもしれない。
逆に、何も変わらずにただ既読もつかず消えていくのかもしれない。
どちらも、澄乃には耐えられなかった。

彼女は「送信」ではなく、「保存」を押した。
画面の下の「非公開メモ」フォルダに、それは吸い込まれた。

静かに、スマホを伏せる。
目を閉じる。

そのとき、たった一音──DMの通知が鳴った。

震える指でスマホを開くと、届いていたのはこうだった。

「“君に届いていたなら、それでよかった”──その言葉、今日もらいました。」

澄乃の息が止まった。

投稿していない。
誰にも見せていない。

けれど──届いていた。

画面越しに、確かに何かが跳躍した。

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